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何かを信じるのか?/糸崎公朗論として(加筆1改稿2校正1) [生きる方法]

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糸崎公朗氏の顔の《言語判定法》による分析
《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント的な人格
《現実界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の人格》

《想像界》と《現実界》の人格
液体人間
《気晴らし人間》と《シリアス人間》の同時表示
《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。
『真実の人』

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加筆改稿部分は、字を紺色にしてあります。

以下は、糸崎公朗さんからいただいたコメントです。
「宗教」とか、「神」の問題、そして「信仰」の問題を書いて下さって
います。

私自身は、歴史的に《近代》以前の問題として、
こうした「神」や「宗教」を語るのは良いですが、
あくまでもレイヤーをかけて、考えます。
つまり神や宗教を生に、現在の問題としては、一応語らないという立場です。

つまり《近代》においては、
「神」という名前は出さないというルールがあったという風に、理解します。
神と言う言葉を使うと、話を誤解する人が多くいるのです。

こういう言い方も正確ではありませんが、
正確に言おうとすると、人間の精神は階層があるのであって、
《近代》においては、分かりやすく言えば《物理科学》が最上部構造をつくっていたのであって、
そこでは「神」という名前は出さないと言うことになっていたのです。

そのことは《近代》においいては宗教者がいなかったと言って居るわけではなくて、
《近代》における宗教領域は、社会の最上部構造ではなかったということであって、
その下層の次元としては、宗教はあったのだということです。

言い換えると、それまでの宗教の支配していた階層の上に、
もう一層、別の次元をつくって、
そこを社会と歴史を動かす最上部構造にしたのです。
ですから、伝統的な教会は、バチカンのローマ法王も含めて、
そのまま存続しつつ、相対的に低い位置になったのです。


下層の次元の問題としての近代宗教の問題は、
天理教や大本教、
そして今の創価学会や、幸福の科学、オウム真理教など、
それらが無視できない社会問題や、人間の真理や精神の問題としてあるのは、事実です。

が、しかし、これら近代の新興宗教と、
かつての《近代》以前の世界宗教は違うのであって、
私が興味があるのは、
むしろ初期の文明の初めにあった初期の世界宗教なのです。

つまり自分の人格と言うか、個体の中には、初期文明に対応する古い階層があって、
その古い人格層の中では、世界宗教は生きていると考えます。

ラカンの用語を借りて言えば《象徴界》の領域がそうであって、
これは《近代》では、実は物理科学が作り出した《現実界》に対して、
下の階層性を持っている精神領域となります。

つまりラカンは言っていませんが、
彦坂尚嘉的には、《近代》においては、個人の人格も階層化されていて、
最上部構造が物理科学主義の精神界が生み出した《現実界》であって、
その下に前近代の《象徴界》の精神があって、
さらに下に原始時代の《想像界》の精神が抑圧されてあった。

この彦坂尚嘉が「絶対零度」と言っている原始領域は、
私の肉体の中にはあって、それは人格としても精神としても残って、
最深部の層をつくっていて、そこでは呪術の《想像界》世界は生きていたのです。

つまりこれらの各階層の上にはレイヤーがかかっているのです。
つまり人格は、人類的に生成されてきて、多重構造をしているのです。

そして現在の情報革命によって、人間精神は、
更なる上部構造を作り出していて、
4階層目が増築されたのです。
この4階層目の次元を増築している人々と、
それを拒否している人々がいるのです。
この第4層目の精神領域が、ラカンの晩年の思想である《サントーム》です。



さて、糸崎公朗さんの議論を読んでいただいてから、話を進めたいと思います。

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興味深いお話ですが、ぼくはまさに携帯電話を持っておりません。

そしてこれは彦坂さんがアーミッシュを引き合いに出されたように、ぼく自身も「宗教」の問題として捉えてます。
「技術の進歩」が「暴力」だと言うのはもっともなことで、つまり「神なき時代」の現代において「技術の進歩」こそが「神」であるわけです。
「技術の進歩」とは、それを良き事として信奉する「宗教」だからこそ、狂信的で暴力的になるのではないかと思います。
そして、携帯電話を持つ人と持たない人では「宗教」が違うとすれば、「世界認識」や「空間認識」も異なり、一緒に仕事をすることに支障があるだろう事も理解できます。

 

『「技術の進歩」が「暴力」だと言うのはもっともなことで 』というのは、糸崎公朗さんの誤読でありまして、私が言っているのは識字(リテラシー)というのが、暴力だと言っているのです。

つまり字を覚えるという事自体が、暴力であって、覚えない人々を差別し、淘汰して行くのです。

『「神なき時代」の現代において「技術の進歩」こそが「神」であるわけです』という糸崎公朗さんの言い方は、
もちろん私に理解は出来ますが、
こういうレトリックの水準としての「神」という言い方の次元で、「神」を問題にするのは、通俗的であると考えます。

ぼくは、人間にとっては「全てが宗教である」と捉えており、だからこそ自分が信じるべき「宗教」を、なるべく自分で選ぶようにしています。
これは、以前このブログのコメント欄で「全てはゲームである」と言ったのと同じ事です。

 

「全てが宗教である」という言い方は、レトリックとしては成立します。
しかし「全てが宗教である」、あるいは「全てがゲームである」という言い方は、なんでも言えるのです。

「全てが芸術である」とか、「全ては金である」とも言います。

私は、こういう単純化に還元する思考には興味がありません。低俗な理論であると思うのです。

出来るだけ厳密に考えたいし、全人類史の中で、文節化して考えたいのです。

つまり、少なくとも「宗教であるものと、宗教ではないものがある」と言いたいのです。
こういう言い方の方が、正確で、高級であると考えます。

「全てがゲームであるのではなくて、ゲームにすぎないものと、まったくゲームではないものがある」と考えるのです。

「芸術と、芸術ではないものがある」のであり、「金の問題である事と、金では解決できないものがある」という風に、2分割して考えたいのです。

糸崎公朗さんの様に、1に還元するやり方は、《近代》特有の還元主義のやり方で、古い手法であって、古い手法の、さらなる通俗化にすぎません。

この古い手法そのものを、2の方法で、否定したいと思うのです。

このことに現れているように、糸崎公朗さんの思想や方法は、基本的に古い《近代》の内側にいます。

そして、全てが宗教であるのは、すでに述べたように前近代の時代なのであって、
一人の人間の精神領域においては《象徴界》の領域が宗教領域であるといえます。
この次元だけで言えば、全てが宗教になるのです。


「技術の進歩」とか「携帯電話は便利」と言った言説は、「宗教」であり「ゲーム」であって、ぼくはそれに参加することにとりあえず懐疑的な態度を取ります。

 

現在、世界の構造として、完成して来ている情報革命の次元は、
「宗教」や「ゲーム」といったものではなくて、
人類の第4番目の新しいステージであります。

これを認識できない人は、基本的には不適応者であって、淘汰されて行きます。

実は日本社会の80%の人々は、この革命を理解しないので、新しいリテラリーの元では文盲の扱いを受けて、日本という社会が野蛮な後進国化してきていて、一挙に淘汰され沈没して行くのです。

日本のGDPは急速に悪化し、日本社会は、経済においても、人口においても縮小して行って、アジアの中の野蛮人の後進国になるのでしょう。

そうした日本衰退の選択をしている日本の多数の野蛮人の1人が、糸崎公朗さんであると、私には見えます。

だから糸崎公朗さんは、古びて、滅びて行く野蛮なものに深い愛情を注ぎ込んであられる。

ある種の廃墟アーティストでおられるのです。それは未来の後進国日本の野蛮/衰退の世界を先取りなさっている芸術です。

この情報革命によって切り開かれた情報文明の階層である第4階層には、
宗教もなければ、ゲームも無いのです。
ここは複雑系の領域であって、動いている原理が違うのです。
ここにおいては「何かを信じるということ」は、無いのです。
刻々と予想を超える展開で動く複雑系の世界では、少なくとも中期予報は成立できないので、常に予想できない状況を前提に生きて行かなければ也ません。つまり信じられるものは、この第4階層においては、存在しないのです。

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糸崎公朗のフォトモの芸術分析

《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》

《想像界》の表現であって、《象徴界》《現実界》が欠損している。
液体表現であって、絶対零度、固体、気体の様態を持っていない。

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術
《原始立体》『ペンキ絵』【B級美術】

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もちろん、ぼくも人間ですから、あらゆる「宗教」や「ゲーム」から逃れることはできず、だから自分にとって相応しいものを自らセレクトするのです。

 

糸崎公朗さんはセレクトできているつもりですが、人間はもともと極度の受動性の中で生きているのです。自分では両親は選べませんし、生まれる国も、自分ではセレクトできません。生まれる時代もまた、セレクトできないのです。

つまり人間には、自分の意思で選択できる重要な項目は、実は無いのです。人間の基本は、このような受動性であって、自分の運命を愛すると言う《運命愛》においてしか作動できない機械なのです。
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ぼくが携帯電話を持たないのは、言ってみれば中島義道さんに宗教的に師事しているのです。
欲望もまた、自分の欲望であるように見えながら、他人の欲望のコピーでしかないという事を、ジラールや、ラカンは指摘します。

実際に糸崎公朗さんの「非人称芸術」という主張は、グループ位の1960年大後半の同名の展覧会と主張のコピーにすぎません。

さらにご本人も明確にしているように赤瀬川源平の「トマソン」の模倣としての活動です。

ホトモにしても、このような立体絵は、伝統的に存在するものであって、模倣の連鎖でしかありません。

さらに中島義道さんの人生論を模倣なさっておられる。
彦坂尚嘉の私見からすると、中島義道氏の精神は、《現実界》のものであって、聖書や仏典と比較する視点で言うと、真性の宗教ではありません。こういうものに引きつけられることは、カント学者としての意味を除いては、私にはありません。ですから糸崎公朗さんが中島氏を評価している事は知っていますが、私の場合には、カントに関する著作以外の中島義道氏の著作には、興味が無いのです。ご本人も言っていますが「狂人3歩手前」の思想なのです。その特徴は、《現実界》の精神だけで、全てを見て了解し対処しようとする、単精神主義の異様な明快な世界です。哲学者には、この様な単精神の人が何人もいるので、中島氏が人格欠損者というわけではなくて、哲学という領域が人間の精神のトータリティを欠く所で活動している欠損領域の特権性で成立しているのです。

基本として糸崎公朗さんの精神活動は、人間の模倣衝動の運動の中での作動であって、模倣機械としての人間の生理を強く示しています。
つまり糸崎公朗さんによっては、何もセレクトはされていないのです。
模倣そのものの衝動すらが、糸崎公朗さんには自覚がないように見えます。

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糸崎公朗の昆虫写真の芸術分析

《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》

《想像界》の表現であって、《象徴界》《現実界》が欠損している。
液体表現であって、絶対零度、固体、気体の様態を持っていない。

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術
《原始写真》『ペンキ絵的写真』【B級美術】



糸崎公朗さんが好きな昆虫のように、人間は昆虫であって、そして昆虫が生物機械であるように、人間は模倣機械なのです。

どこにもセレクトする主体は存在していないし、そもそも非人称である糸崎公朗さん自身が、非人称であるが故に、存在していないのです。

糸崎公朗さんのこうした模倣性を、私は非難しているのではないのです。

こうした模倣の連鎖こそが人間の制作の基本であって、それが彦坂尚嘉が言う「ローアート」というものなのです。

《ローアート》は、模倣の連鎖としての民衆芸術のことなのです。

つまり糸崎公朗さんは、民衆芸術家というものと、私は考えます。

ただ、真に宗教的な師の教えは非常に難解で、不出来な在家信者のぼくにはなかなか理解できず、それで試行錯誤しているのです。しかしその反対に、大衆を扇動する宗教の教えは明快で分かりやすく、だから「大きな力」となり「暴力的」になるのだと思います。

 

さて、ここで糸崎公朗さんが「真に宗教的な師の教えは非常に難解で」と、書いておられる事について書きますが、少し遠回りをして語ります。

自然採取段階の野蛮である原始時代の人間は、
書き言葉を持っていなかったのです。

書き文字の無い段階でも、糸崎公朗さん的に「すべてが宗教である」とするのならば、原始時代にも宗教がある事になりますが、私はそうは考えません。


オーストリアのアボリジニーは、5万年まえから12万年まえにオーストラリアに上陸したと考えられるそうですが、もちろんこれは文明以前です。

エジプトが中央集権的な国家になるのが紀元前3000年前ですから、文明以前のアボリジニーのような原始時代は、ずいぶんと長かったのです。

この長い原始時代には文字はなかったのです。
定住もしていなかったのです。

この原始時代を、無文字時代の呪術の時代であると考えます。そして偶像を崇拝するアニミズムを呪術として考えるのですが、この時代の人間の精神が、ラカンの用語を借りれば、《想像界》だけの時代であったと考えます。

つまり人間の精神は、最初、《想像界》だけであったのです。

つまり《想像界》というのは、人間精神の野蛮の領域であって、無文字文化であり、そして偶像崇拝の領域なのです。

この後に、《象徴界》が出現します。

つまり《象徴界》が出現するには、書き文字の発明が必要であったのであって、書き文字が出現することで、人間は記録を作り出すほかに、法律を作り出します。

「神」というのは、この書き文字として出現するのであって、それ以前の呪術とは違うのです。

つまり聖書に「はじめに言葉ありき」と書かれているように、そしてモーゼが十戒を神からもらうように、神というのは、書き言葉の出現であって、書き言葉が出現する事で生まれる人間の《象徴界》の領域が、世界宗教です。

そこでは偶像が禁止されていますが、それは《想像界》の禁止なのです。

つまり神は言葉であって、イメージとして見える様な《想像界》の領域のものでは、最初はなかったのです。

つまり彦坂尚嘉の私見では、《象徴界》の言語として神が出現するのであって、彦坂的にはそれ以外は、擬似的な偽の宗教性として排除するのです。ですから聖書や、仏典、そして老子や荘子、孔子などの諸子百家、コーランなどの聖典を読む事が、基本であるのです。

さて、《象徴界》の言語領域を否定して、《不立文字》を主張した中国の禅宗が出現します。これは《現実界》の出現であって、宗教ではないのです。宗教を否定した《現実界》の出現が、禅宗です。日本では、禅宗がまるで宗教を代表しているかのようにも思われていますが、彦坂尚嘉の私見では、禅宗は宗教を否定した《反宗教》なのです。この禅宗は、《現実界》という人間の精神領域を最上部層に切り開いた故に凄いのですが、これは物理科学が数式をもって言語を否定して《現実界》を切り開いたのと、連動して行くのです。繰り返しますが、禅宗は宗教ではなくて、ある意味では早産の物理科学精神であったのです。


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