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何かを信じるのか?/糸崎公朗論として(加筆1改稿2校正1) [生きる方法]

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糸崎公朗氏の顔の《言語判定法》による分析
《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント的な人格
《現実界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の人格》

《想像界》と《現実界》の人格
液体人間
《気晴らし人間》と《シリアス人間》の同時表示
《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。
『真実の人』

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加筆改稿部分は、字を紺色にしてあります。

以下は、糸崎公朗さんからいただいたコメントです。
「宗教」とか、「神」の問題、そして「信仰」の問題を書いて下さって
います。

私自身は、歴史的に《近代》以前の問題として、
こうした「神」や「宗教」を語るのは良いですが、
あくまでもレイヤーをかけて、考えます。
つまり神や宗教を生に、現在の問題としては、一応語らないという立場です。

つまり《近代》においては、
「神」という名前は出さないというルールがあったという風に、理解します。
神と言う言葉を使うと、話を誤解する人が多くいるのです。

こういう言い方も正確ではありませんが、
正確に言おうとすると、人間の精神は階層があるのであって、
《近代》においては、分かりやすく言えば《物理科学》が最上部構造をつくっていたのであって、
そこでは「神」という名前は出さないと言うことになっていたのです。

そのことは《近代》においいては宗教者がいなかったと言って居るわけではなくて、
《近代》における宗教領域は、社会の最上部構造ではなかったということであって、
その下層の次元としては、宗教はあったのだということです。

言い換えると、それまでの宗教の支配していた階層の上に、
もう一層、別の次元をつくって、
そこを社会と歴史を動かす最上部構造にしたのです。
ですから、伝統的な教会は、バチカンのローマ法王も含めて、
そのまま存続しつつ、相対的に低い位置になったのです。


下層の次元の問題としての近代宗教の問題は、
天理教や大本教、
そして今の創価学会や、幸福の科学、オウム真理教など、
それらが無視できない社会問題や、人間の真理や精神の問題としてあるのは、事実です。

が、しかし、これら近代の新興宗教と、
かつての《近代》以前の世界宗教は違うのであって、
私が興味があるのは、
むしろ初期の文明の初めにあった初期の世界宗教なのです。

つまり自分の人格と言うか、個体の中には、初期文明に対応する古い階層があって、
その古い人格層の中では、世界宗教は生きていると考えます。

ラカンの用語を借りて言えば《象徴界》の領域がそうであって、
これは《近代》では、実は物理科学が作り出した《現実界》に対して、
下の階層性を持っている精神領域となります。

つまりラカンは言っていませんが、
彦坂尚嘉的には、《近代》においては、個人の人格も階層化されていて、
最上部構造が物理科学主義の精神界が生み出した《現実界》であって、
その下に前近代の《象徴界》の精神があって、
さらに下に原始時代の《想像界》の精神が抑圧されてあった。

この彦坂尚嘉が「絶対零度」と言っている原始領域は、
私の肉体の中にはあって、それは人格としても精神としても残って、
最深部の層をつくっていて、そこでは呪術の《想像界》世界は生きていたのです。

つまりこれらの各階層の上にはレイヤーがかかっているのです。
つまり人格は、人類的に生成されてきて、多重構造をしているのです。

そして現在の情報革命によって、人間精神は、
更なる上部構造を作り出していて、
4階層目が増築されたのです。
この4階層目の次元を増築している人々と、
それを拒否している人々がいるのです。
この第4層目の精神領域が、ラカンの晩年の思想である《サントーム》です。



さて、糸崎公朗さんの議論を読んでいただいてから、話を進めたいと思います。

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興味深いお話ですが、ぼくはまさに携帯電話を持っておりません。

そしてこれは彦坂さんがアーミッシュを引き合いに出されたように、ぼく自身も「宗教」の問題として捉えてます。
「技術の進歩」が「暴力」だと言うのはもっともなことで、つまり「神なき時代」の現代において「技術の進歩」こそが「神」であるわけです。
「技術の進歩」とは、それを良き事として信奉する「宗教」だからこそ、狂信的で暴力的になるのではないかと思います。
そして、携帯電話を持つ人と持たない人では「宗教」が違うとすれば、「世界認識」や「空間認識」も異なり、一緒に仕事をすることに支障があるだろう事も理解できます。

 

『「技術の進歩」が「暴力」だと言うのはもっともなことで 』というのは、糸崎公朗さんの誤読でありまして、私が言っているのは識字(リテラシー)というのが、暴力だと言っているのです。

つまり字を覚えるという事自体が、暴力であって、覚えない人々を差別し、淘汰して行くのです。

『「神なき時代」の現代において「技術の進歩」こそが「神」であるわけです』という糸崎公朗さんの言い方は、
もちろん私に理解は出来ますが、
こういうレトリックの水準としての「神」という言い方の次元で、「神」を問題にするのは、通俗的であると考えます。

ぼくは、人間にとっては「全てが宗教である」と捉えており、だからこそ自分が信じるべき「宗教」を、なるべく自分で選ぶようにしています。
これは、以前このブログのコメント欄で「全てはゲームである」と言ったのと同じ事です。

 

「全てが宗教である」という言い方は、レトリックとしては成立します。
しかし「全てが宗教である」、あるいは「全てがゲームである」という言い方は、なんでも言えるのです。

「全てが芸術である」とか、「全ては金である」とも言います。

私は、こういう単純化に還元する思考には興味がありません。低俗な理論であると思うのです。

出来るだけ厳密に考えたいし、全人類史の中で、文節化して考えたいのです。

つまり、少なくとも「宗教であるものと、宗教ではないものがある」と言いたいのです。
こういう言い方の方が、正確で、高級であると考えます。

「全てがゲームであるのではなくて、ゲームにすぎないものと、まったくゲームではないものがある」と考えるのです。

「芸術と、芸術ではないものがある」のであり、「金の問題である事と、金では解決できないものがある」という風に、2分割して考えたいのです。

糸崎公朗さんの様に、1に還元するやり方は、《近代》特有の還元主義のやり方で、古い手法であって、古い手法の、さらなる通俗化にすぎません。

この古い手法そのものを、2の方法で、否定したいと思うのです。

このことに現れているように、糸崎公朗さんの思想や方法は、基本的に古い《近代》の内側にいます。

そして、全てが宗教であるのは、すでに述べたように前近代の時代なのであって、
一人の人間の精神領域においては《象徴界》の領域が宗教領域であるといえます。
この次元だけで言えば、全てが宗教になるのです。


「技術の進歩」とか「携帯電話は便利」と言った言説は、「宗教」であり「ゲーム」であって、ぼくはそれに参加することにとりあえず懐疑的な態度を取ります。

 

現在、世界の構造として、完成して来ている情報革命の次元は、
「宗教」や「ゲーム」といったものではなくて、
人類の第4番目の新しいステージであります。

これを認識できない人は、基本的には不適応者であって、淘汰されて行きます。

実は日本社会の80%の人々は、この革命を理解しないので、新しいリテラリーの元では文盲の扱いを受けて、日本という社会が野蛮な後進国化してきていて、一挙に淘汰され沈没して行くのです。

日本のGDPは急速に悪化し、日本社会は、経済においても、人口においても縮小して行って、アジアの中の野蛮人の後進国になるのでしょう。

そうした日本衰退の選択をしている日本の多数の野蛮人の1人が、糸崎公朗さんであると、私には見えます。

だから糸崎公朗さんは、古びて、滅びて行く野蛮なものに深い愛情を注ぎ込んであられる。

ある種の廃墟アーティストでおられるのです。それは未来の後進国日本の野蛮/衰退の世界を先取りなさっている芸術です。

この情報革命によって切り開かれた情報文明の階層である第4階層には、
宗教もなければ、ゲームも無いのです。
ここは複雑系の領域であって、動いている原理が違うのです。
ここにおいては「何かを信じるということ」は、無いのです。
刻々と予想を超える展開で動く複雑系の世界では、少なくとも中期予報は成立できないので、常に予想できない状況を前提に生きて行かなければ也ません。つまり信じられるものは、この第4階層においては、存在しないのです。

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糸崎公朗のフォトモの芸術分析

《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》

《想像界》の表現であって、《象徴界》《現実界》が欠損している。
液体表現であって、絶対零度、固体、気体の様態を持っていない。

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術
《原始立体》『ペンキ絵』【B級美術】

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もちろん、ぼくも人間ですから、あらゆる「宗教」や「ゲーム」から逃れることはできず、だから自分にとって相応しいものを自らセレクトするのです。

 

糸崎公朗さんはセレクトできているつもりですが、人間はもともと極度の受動性の中で生きているのです。自分では両親は選べませんし、生まれる国も、自分ではセレクトできません。生まれる時代もまた、セレクトできないのです。

つまり人間には、自分の意思で選択できる重要な項目は、実は無いのです。人間の基本は、このような受動性であって、自分の運命を愛すると言う《運命愛》においてしか作動できない機械なのです。
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ぼくが携帯電話を持たないのは、言ってみれば中島義道さんに宗教的に師事しているのです。
欲望もまた、自分の欲望であるように見えながら、他人の欲望のコピーでしかないという事を、ジラールや、ラカンは指摘します。

実際に糸崎公朗さんの「非人称芸術」という主張は、グループ位の1960年大後半の同名の展覧会と主張のコピーにすぎません。

さらにご本人も明確にしているように赤瀬川源平の「トマソン」の模倣としての活動です。

ホトモにしても、このような立体絵は、伝統的に存在するものであって、模倣の連鎖でしかありません。

さらに中島義道さんの人生論を模倣なさっておられる。
彦坂尚嘉の私見からすると、中島義道氏の精神は、《現実界》のものであって、聖書や仏典と比較する視点で言うと、真性の宗教ではありません。こういうものに引きつけられることは、カント学者としての意味を除いては、私にはありません。ですから糸崎公朗さんが中島氏を評価している事は知っていますが、私の場合には、カントに関する著作以外の中島義道氏の著作には、興味が無いのです。ご本人も言っていますが「狂人3歩手前」の思想なのです。その特徴は、《現実界》の精神だけで、全てを見て了解し対処しようとする、単精神主義の異様な明快な世界です。哲学者には、この様な単精神の人が何人もいるので、中島氏が人格欠損者というわけではなくて、哲学という領域が人間の精神のトータリティを欠く所で活動している欠損領域の特権性で成立しているのです。

基本として糸崎公朗さんの精神活動は、人間の模倣衝動の運動の中での作動であって、模倣機械としての人間の生理を強く示しています。
つまり糸崎公朗さんによっては、何もセレクトはされていないのです。
模倣そのものの衝動すらが、糸崎公朗さんには自覚がないように見えます。

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糸崎公朗の昆虫写真の芸術分析

《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》

《想像界》の表現であって、《象徴界》《現実界》が欠損している。
液体表現であって、絶対零度、固体、気体の様態を持っていない。

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術
《原始写真》『ペンキ絵的写真』【B級美術】



糸崎公朗さんが好きな昆虫のように、人間は昆虫であって、そして昆虫が生物機械であるように、人間は模倣機械なのです。

どこにもセレクトする主体は存在していないし、そもそも非人称である糸崎公朗さん自身が、非人称であるが故に、存在していないのです。

糸崎公朗さんのこうした模倣性を、私は非難しているのではないのです。

こうした模倣の連鎖こそが人間の制作の基本であって、それが彦坂尚嘉が言う「ローアート」というものなのです。

《ローアート》は、模倣の連鎖としての民衆芸術のことなのです。

つまり糸崎公朗さんは、民衆芸術家というものと、私は考えます。

ただ、真に宗教的な師の教えは非常に難解で、不出来な在家信者のぼくにはなかなか理解できず、それで試行錯誤しているのです。しかしその反対に、大衆を扇動する宗教の教えは明快で分かりやすく、だから「大きな力」となり「暴力的」になるのだと思います。

 

さて、ここで糸崎公朗さんが「真に宗教的な師の教えは非常に難解で」と、書いておられる事について書きますが、少し遠回りをして語ります。

自然採取段階の野蛮である原始時代の人間は、
書き言葉を持っていなかったのです。

書き文字の無い段階でも、糸崎公朗さん的に「すべてが宗教である」とするのならば、原始時代にも宗教がある事になりますが、私はそうは考えません。


オーストリアのアボリジニーは、5万年まえから12万年まえにオーストラリアに上陸したと考えられるそうですが、もちろんこれは文明以前です。

エジプトが中央集権的な国家になるのが紀元前3000年前ですから、文明以前のアボリジニーのような原始時代は、ずいぶんと長かったのです。

この長い原始時代には文字はなかったのです。
定住もしていなかったのです。

この原始時代を、無文字時代の呪術の時代であると考えます。そして偶像を崇拝するアニミズムを呪術として考えるのですが、この時代の人間の精神が、ラカンの用語を借りれば、《想像界》だけの時代であったと考えます。

つまり人間の精神は、最初、《想像界》だけであったのです。

つまり《想像界》というのは、人間精神の野蛮の領域であって、無文字文化であり、そして偶像崇拝の領域なのです。

この後に、《象徴界》が出現します。

つまり《象徴界》が出現するには、書き文字の発明が必要であったのであって、書き文字が出現することで、人間は記録を作り出すほかに、法律を作り出します。

「神」というのは、この書き文字として出現するのであって、それ以前の呪術とは違うのです。

つまり聖書に「はじめに言葉ありき」と書かれているように、そしてモーゼが十戒を神からもらうように、神というのは、書き言葉の出現であって、書き言葉が出現する事で生まれる人間の《象徴界》の領域が、世界宗教です。

そこでは偶像が禁止されていますが、それは《想像界》の禁止なのです。

つまり神は言葉であって、イメージとして見える様な《想像界》の領域のものでは、最初はなかったのです。

つまり彦坂尚嘉の私見では、《象徴界》の言語として神が出現するのであって、彦坂的にはそれ以外は、擬似的な偽の宗教性として排除するのです。ですから聖書や、仏典、そして老子や荘子、孔子などの諸子百家、コーランなどの聖典を読む事が、基本であるのです。

さて、《象徴界》の言語領域を否定して、《不立文字》を主張した中国の禅宗が出現します。これは《現実界》の出現であって、宗教ではないのです。宗教を否定した《現実界》の出現が、禅宗です。日本では、禅宗がまるで宗教を代表しているかのようにも思われていますが、彦坂尚嘉の私見では、禅宗は宗教を否定した《反宗教》なのです。この禅宗は、《現実界》という人間の精神領域を最上部層に切り開いた故に凄いのですが、これは物理科学が数式をもって言語を否定して《現実界》を切り開いたのと、連動して行くのです。繰り返しますが、禅宗は宗教ではなくて、ある意味では早産の物理科学精神であったのです。


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キリスト教は、実は厳密に教義としては、偶像崇拝を禁止しています。
しかし人間には、文明しても野蛮性は人間的自然の基盤として残っていて、
この偶像崇拝の禁止がゆるんでしまって、宗教美術が作られて行きます。

同様のことは仏教にも見られて、もともとは仏像を造る事は禁止されていました。
仏像が出現するのは、ブッタが死んで300年以上がたってからです。
原始的な偶像崇拝の欲望がにじみ出て来て仏像や仏画が描かれるようになるのです。

私見によれば、ベンヤミンの言う礼拝的価値というのは、この呪術としての《想像界》の領域を含んでいるのであって、つまり、いろいろなものがごちゃ混ぜになっていった後の状態を言っているのです。

宗教の厳密な意味としての神への礼拝は、
偶像崇拝の完全な否定と排除としてあるのだと考えます。
つまり、それは言語領域に限定されるものと、彦坂尚嘉は考えます。
ぼくとしては、「進歩・退化」の対立軸もひとつの「宗教」に根差していて、それが「ヒューマニズム」だと思うのです。

フーコーが「人間は死んだ」といっているのは、ヒューマニズムの理性的な人間というのは、《近代》の妄想にすぎなくて、そういうヒューマニズムとしての人間は死んだという事を言っているのです。

たぶん糸崎公朗さんは、この《人間の死》ということを理解なさっていないのです。

そもそも糸崎公朗さんは《近代》の終焉そのものを理解なされない、古いタイプの人間であるように、私には見えます。
進歩が「人間の可能性」に根差しているのだとすれば、進歩にも「人体の限界」や「地球環境の限界」と言うものがあり、だから「退歩」を目指す人がいるのではないかと思います。
退化を目指す人間がいるのは、確かです。しかし宇宙が膨張し続けているとすれば、退化が目指すべきは、ビックバンの起きる前の状態という事にまります。
ただ、赤瀬川原平さんが「脳内リゾート」と言ったように、人体内にはまだ知られざる未開拓地があるかも知れず、だから「進歩」の方が優勢なのかも知れません。
人間も、自然も、宇宙も盲目的であって、それ以上のものではありません。宇宙を創造した神は、盲目であったのです。だから盲目的に膨張するし、進歩するし、変化するのです。そのことをコントロールする事は出来ないのです。
「携帯電話」や「パソコン」の需要は過去には予測できませんでしたから、それは新たに開拓された「人体内の土地」だと言うことができます。

これとは別に、ぼくは「アンチヒューマニズム」と言うあり方の「宗教」も模索しており、それは「進歩・退歩」と言う対立軸の「脱構築」ではないかと思うのです。
そして、「芸術」というものには「ヒューマニズム」と「アンチヒューマニズム」の相反した要素が含まれていると思うのです。
すでに申しあげたように、人間は死んでいるので、第4階層の次元を生きているのは人間ではなくて、ゾンビの様なものです。倒錯した死体なのです。だから糸崎公朗さんの言う「ヒューマニズム」と「アンチヒューマニズム」という枠組みそのものが、情報文明の次元では、すでに、生産的な意味は終わって、削除されたのです。
ありていに言うと、芸術は「人間理性の証」であると同時に、芸術そのものが「神」なのですが、これについてはまだ考え中です。
「人間理性」などというものが、情報文明の中では無いのです。
すでに神は、人類の4つのステージでは、第2番目のそれであって、
そこでは今も生きてはいますが、現在のトップの第4ステージでは死んでいます
そして『芸術そのものが「神」』であるなどという考えは、間違いです。
神は自然をデザインしたのであって、神はデザイナーにすぎません。
宇宙も自然もデザインであって、神もまたデザイナーなのです。
以上、ぼくが言う「宗教」はあくまで「例え」であり、中島義道さんも「宗教者」ではなく「哲学者」ですので、そこはお間違えの無いようお願いします。by 糸崎 (2009-07-25 21:17)  
上記は、良く分かっているつもりです。
改めて感じる事は、糸崎公朗さんは、古いという事です。
まったく違う時代になってしまっているのです。
新しい時代になって、すでに20年以上が過ぎているのです。
ですから糸崎公朗さんが新しくなるという事はあり得ませんから、
レトロの良さを発揮している現在のままで行かれる事を、支持するものであります。
古いから、糸崎公朗さんは面白く、そして分かりやすく、人々が骨董をめでるように、愛しているのです。


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コメント 6

糸崎

突然取り上げられて驚いていますが、ぼくのことを真面目に論じてくれる方は他におりませんで、感謝してます。
ゆっくり考えてからまた返信するつもりですが、とりあえず以下の点について確認させてください。

>実際に糸崎公朗さんの「非人称芸術」という主張は、グループ位の1960年大後半の同名の展覧会と主張のコピーにすぎません。

以前彦坂さんに指摘されたので、あらためて「違う」と言うことを以下の記事で表明したのですが、こちらはご覧いただけましたでしょうか?
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-8dc7.html
まぁ、大同小異だと言われればそれまでなのですが・・・

と言うか、この記事はぼくの「ブログ3」を読まれた上で書いているのか、それともこれまでのぼくと彦坂さんとの会話と、彦坂さんのブログの返信の記述のみを頼りに書かれているのか、おしえていただけますでしょうか?
もちろん、ここは彦坂さんのブログなので、ぼくの返信のみに基づいて記事を作成するのはアリだと思いますが、ぼくの最近のブログにどれだけ目を通されているかだけ、教えていただければと思います。
by 糸崎 (2009-08-03 16:37) 

糸崎

さて、改めてこのような形で批判していただいて、改めて思いましたのは、まず「議論」することの難しさです。
議論が難しいのは、自分と相手が見かけが同じ「言葉」を使いながら、「意味内容」が違っている場合があり、言葉がすれ違いになり議論が成り立たなくなることです。
専門用語を使うと、同じシニフィアン(意味するもの)を使いながら、互いにシニフィエ(意味されるもの)が異なる場合があります。
ですから議論をする場合には、そのことを自覚しながらお互いに「言葉のすり合わせ」をする必要があります。
この場で言うと、例えば「神」という言葉についてぼくと彦坂さんでは意味がちがっていますので、このすり合わせをしないと議論は成立しないでしょう(これについては後述します)。

それと、改めて実感したのは「書き言葉」特有の暴力性です。
端的に言いますと、彦坂さんによるこのぼくへの批判は、自分にとっては「到底受け入れ難い」人間像が含まれています。
ですからぼくはここで「釈明」を試みようとしてるのですが、しかしこのブログのデザイン上の問題として、「コメント」をクリックしないとぼくの「反論」を読むことができません。
なので、彦坂さんの「糸崎論」を読んだだけで、ぼくの釈明を読まずに「糸崎はこんな奴だ」と思ってしまう人も少なからずおられる可能性があり、これが「書き言葉」の物質性由来の「暴力性」です。
ただ、ぼくは携帯電話の利便性を否定し、この場のようなネット上で議論することを「選択」(これについても後述)したので、そのようなリスクは自分で引き受けなければなりません。

もちろん、「話し言葉」で議論しても特有のリスクから逃れることはできないのですが、そもそも「芸術家」は黙って作品だけ作っていさえすれば、議論にまつわるリスクを負うことも無いのです。
しかしぼくは余計なことを考え、余計なことをしゃべり、他人のブログに余計なことを書き込んだりするから、余計なリスクも負ってしまうのです。
もちろん、これは自分が望んだことであり、つまりぼくは「議論がしたい」と望んでいるわけですから、そこで発生するリスクは自分で引き受けなければなりません。
これは自分の前提としての「覚悟」を表明したまでのことです。



今「前提」という言葉が出ましたが、お互いの「言葉のすり合わせ」をする前に、その前提として、ぼくと彦坂さんの「立場の違い」を明らかにしたいと思います。
それは端的に言うと「レベルの違い」ということなのですが、これは互いの作品のレベルのことではありません(このことはカッコに入れて触れずにおきます)。
そうではなく、お互いがベースとしている「思想」のレベルのことで、これはぼくのほうが圧倒的にレベルが低いことを自覚せざるを得ません。
ぼくも彦坂さんも、「現代思想」をベースに自らの芸術論を構築してると思うのですが、残念ながらぼくのほうが圧倒的にレベルが低いことを認めざるを得ません。

早い話、ぼくは頭が悪いので現代思想の「原著」や「専門書」を読むことができず、もっぱら「入門書」しか読めないのです。
しかも、基本的に読書が苦手で量をこなすことができず、しかも「勉強」を始めた時期も遅いので、その意味でレベルが低いのです。
このことは自分の「前提」として、ブログにも繰り返し書いています。
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-bd0e.html



そのようなレベルの低い自分は、レヴィ=ストロースが示した「ブリコラージュ(断片化した既成概念の切り貼り)」で思考しており、それはつまり「野生の思考」です。
簡単に言うと「入門書だけでテキトーに考える」なのですが、現代思想は「機能主義」なので「結果がでればそれで良し」であり、目的が「芸術」であればそれは可能であると解釈してます。
この前提についても、自分のブログで何度か記事にしました。
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/33-b64c.html

ぼくの「現代思想」の知識はほとんど「入門書」で得られたものなので、それが「通俗的」だと言われればその通りなのかもしれません。
しかし、「聞きかじり」や「なんとなく思っていること」のみに依拠してるわけではないので、その意味での「通俗的」とは区別してもらえるのではないかと思います(大同小異と言われればそれまでですが)。
これは自分を卑下しているわけではなく、議論の上でお互いの「レベルの違い」を把握していたほうが、「言葉のすり合わせ」がしやすいと思ったまでのことです。



以上の前提を踏まえ、まずは比較的瑣末な部分から釈明させていただこうと思います。

>『「技術の進歩」が「暴力」だと言うのはもっともなことで 』というのは、糸崎公朗さんの誤読でありまして、私が言っているのは識字(リテラシー)というのが、暴力だと言っているのです。
>つまり字を覚えるという事自体が、暴力であって、覚えない人々を差別し、淘汰して行くのです。

これがぼくの誤読だと言うのは、彦坂さんの誤読であって、ぼくの説明不足でもあります。
ぼくはいちおうソシュールの言語学と、レヴィ=ストロースの構造主義をベースにしてるつもりですので、彦坂さんがおっしゃる文脈も十分理解できます。

>>もちろん、ぼくも人間ですから、あらゆる「宗教」や「ゲーム」から逃れることはできず、だから自分にとって相応しいものを自らセレクトするのです。

>糸崎公朗さんはセレクトできているつもりですが、人間はもともと極度の受動性の中で生きているのです。自分では両親は選べませんし、生まれる国も、自分ではセレクトできません。生まれる時代もまた、セレクトできないのです。
>つまり人間には、自分の意思で選択できる重要な項目は、実は無いのです。人間の基本は、このような受動性であって、自分の運命を愛すると言う《運命愛》においてしか作動できない機械なのです。

>欲望もまた、自分の欲望であるように見えながら、他人の欲望のコピーでしかないという事を、ジラールや、ラカンは指摘します。

>基本としてこれらは、人間の模倣衝動の運動の中での作動であって、模倣機械としての人間の生理しか示していません。
>つまり糸崎公朗さんによっては、何もセレクトはされていないのです。
>模倣そのものの衝動すらが、糸崎公朗さんには自覚がないように見えます。

>糸崎公朗さんが好きな昆虫のように、人間は昆虫であって、そして昆虫が生物機械であるように、人間は模倣機械なのです。

>どこにもセレクトする主体は存在していないし、そもそも非人称である糸崎公朗さん自身が、非人称であるが故に、存在していないのです。

この一連の指摘も彦坂さんの誤解であって、つまりぼくとしては「分かってる」つもりのことです。
というか、これくらいのことが分かっていなくては、そもそも「現代思想」の何を学んだのか?ということになってしまいます(たとえ俗的理解だったとしても)。

ぼくが言う「選択の自由」は、ロラン=バルトの「エクリチュールは選択の段階でのみ自由がある」と言うことや、「ポストモダンでは多様な選択肢が示されている」と言うような言説に依拠しています。
「人間は「言語の奴隷」であり、自分で考えているつもりでも実は既成の言葉をコピペしてるのだ」と言うことは「構造主義」を学んだつもりの自分としては分かっているつもりです。
「選択の自由がある」というのもまさに言いようであって、「選択においても自由はない」と考えても同じことです。
要は、「自分が信じていること(当たり前と思っていること)は絶対ではなく、他の選択肢を採用する可能性もあった」と言うことを自覚することだと思います。
「人間には機械としての側面がある」と言うことを自覚するための方法論は複数あって、時には反対のことを言いながら同じことを指す場合もあるのだと思います。
ですので、ぼくは「模倣の衝動」も十分自覚してるつもりであり、模倣を自覚的に方法論として採用しているつもりです(このテキストもそのつもりで書いています)。

>>ぼくは、人間にとっては「全てが宗教である」と捉えており、だからこそ自分が信じるべき「宗教」を、なるべく自分で選ぶようにしています。
>>これは、以前このブログのコメント欄で「全てはゲームである」と言ったのと同じ事です。

>「全てが宗教である」という言い方は、レトリックとしては成立します。
>しかし「全てが宗教である」、あるいは「全てがゲームである」という言い方は、なんでも言えるのです。
>「全てが芸術である」とか、「全ては金である」とも言います。
>私は、こういう単純化に還元する思考には興味がありません。低俗な理論であると思うのです。
>出来るだけ厳密に考えたいし、全人類史の中で、文節化して考えたいのです。
>つまり、少なくとも「宗教であるものと、宗教ではないものがある」と言いたいのです。
>こういう言い方の方が、正確で、高級であると考えます。
>「全てがゲームであるのではなくて、ゲームにすぎないものと、まったくゲームではないものがある」と考えるのです。
>「芸術と、芸術ではないものがある」のであり、「金の問題である事と、金では解決できないものがある」という風に、2分割して考えたいのです。
>糸崎公朗さんの様に、1に還元するやり方は、《近代》特有の還元主義のやり方で、古い手法であって、古い手法の、さらなる通俗化にすぎません。
>この古い手法そのものを、2の方法で、否定したいと思うのです。

ぼくが「1に還元するやり方」を採用しているのは、あくまでも「方法論」としてです。
それは「全ては言語である」というソシュールの言語論や、「全ては構造である」という構造主義の影響であり、「考える道具」として自分にしっくりくるのです。

ぼくが「全ては言語である」と言う場合は、「全ては言語である」と仮定しながら物事を考えてゆくと、そのうち「言語に当てはまらないもの」が浮き出て見えるだろうと目論んでいるのです。
それは「全てはゲームである」という場合も同じで、そう言いながらも「ゲームにすぎないものと、まったくゲームではないものがある」と考えている点では彦坂さんと同じであり、だたアプローチ(方法論)が異なるだけだと思います。
つまり「全ては○○である」という言い方は、全てを○○という網で捉えようとすることなのですが、そこから必ず「漏れ」があることを前提に「網」を使うのです。
また、ぼくは「全てはゲームである」と「全ては宗教である」を同時に言いますが、この場合「ゲーム=宗教」とは考えていません。
「全ては○○である」に代入する「ゲーム」や「宗教」や「芸術」や「金」は、いわば種類の違う網なのです。
そしてどんな種類の「網」を使っても、必ず「漏れ」が出てしまうのが、言葉を使う人間にとっての<世界>だと捉えています。
つまりぼくは<世界>を単純なものだとは思ってはおらず、単純化するのは<世界>の複雑さを認識するための「方法論」です。
言い方を変えれば、世界を分節化するために、「分節化しない」という方法論を採用してるのです。
これは、現代思想の方法論としては常套手段の一つであり、彦坂さんの認識ともそれほど齟齬をきたすものではないと思います。

>糸崎公朗さんが好きな昆虫のように、人間は昆虫であって、そして昆虫が生物機械であるように、人間は模倣機械なのです。

そもそもこれが「1に還元するやり方」であり、これは議論をする上での「方法論」として使わざるを得ないのだと思います(彦坂さんの文中には他にも同じ方法論による記述があります)。
もちろんあくまで「方法論」のひとつに過ぎませんから、「真に受ける」と議論がややこしくなります。

ついでながら、ぼくは「人間は昆虫と同じく、機械としての側面がある」ことは十分意識しており、だから人と虫が一緒に写った写真を撮るわけです。
また、これについてブログに「行動プログラム論」として書いています。
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-5ac0.html

>フーコーが「人間は死んだ」といっているのは、ヒューマニズムの理性的な人間というのは、《近代》の妄想にすぎなくて、そういうヒューマニズムとしての人間は死んだという事を言っているのです。
>たぶん糸崎公朗さんは、この《人間の死》ということを理解なさっていないのです。

これもごく基本的なことであって、こんなことが分からない人は「現代思想」を語る資格はないのだと思います。
というか、ぼくはむしろ知識が足りないせいで「近代の妄想としてのヒューマニズム」以外のヒューマニズムを知らなかったりします。

>そもそも糸崎公朗さんは《近代》の終焉そのものを理解なされない、古いタイプの人間であるように、私には見えます。

これについてもブログで何度か取り上げて書きましたが、確かに自分はつい最近まで「近代の終焉」を理解できないでいました。
しかし最近はそのことを理解しようと努力し、自分が「時代遅れ」であることを自覚するようになりました。
つまり「近代の終焉」という時代の中で自分をどう位置付けるのか模索しているのであり、その意味で「近代の終焉」は理解しているつもりなのです。
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-49ac.html

以上、基本的で、それゆえに重大な「齟齬」のあったことを指摘し、それについて釈明させていただきました。
このような事態になったのも、ひとえにぼくが「宗教」について書いたことが原因かと思います。
そしてぼくのいう「宗教」と、彦坂さんがおっしゃる「宗教」では意味が大きく違います。
これはさらに根源的な問題であり、自分にとっても重要な問題です。
「宗教」については後述すると最初に書きましたが、ちょっとお時間をいただいて改めて投稿いたします。
by 糸崎 (2009-08-04 00:34) 

ヒコ

糸崎様
ご丁寧な、反論をいただきまして、ありがとうございます。立派な反論で、改めて、すばらしい方だと思います。なかなか出来る事ではありません。
まず、最初にご質問にお答えすれば、糸崎さんのブログを精読はしていません。時々眺める程度です。失礼なのですが、文章はすばらしいものだと思うのですが、私の興味からずれているのですね。

それと西尾康之さんを巡る絵画論で、私は糸崎さんと真面目に議論する興味は無くなっているのです。ご本人もおっしゃるように信仰の人で、ご自分が信じるものの中で生きておられて、他人の専門家としての意見は聴かないのです。そういう他人を排除するタイプの方のものを読む興味は無いのです。全てが、糸崎さんの信仰の問題に過ぎません。他人の信仰を私が読む興味は無いのです。

ですから、私の言説は、あくまでも私のブログに書いて下さったものだけですし、あくまでも他人の眼差しとしてです。
by ヒコ (2009-08-04 01:01) 

ヒコ

糸崎様
非人称の問題ですが、拝読しましたが、私の側の意見はあまり変わりません。非人称主義にも、いろいろがあるというのは言えても、その違いは小さいと思います。ただ私の方から糸崎さんとグループ位の違いを指摘すると、位の作品は《第6次元》ですが、糸崎さんの作品には《超次元》性があるので、それは大きく違う事です。

議論の難しさについては、すでに述べたように絵画論で不可能という認識を、私は持っていました。

それと「書き言葉の暴力性」ですが、これは識字そのものの暴力性につながるものであって、確かに暴力的で人を傷つけるのです。それは確かなのです。私の書いた事が、糸崎公朗さんには容認できないものを大量に含んでいるだろう事は、理解できます。しかし糸崎さんは携帯電話も容認しないし、実は私の言葉以外のものも、たくさん容認はしていないように思います。つまり暴力性は、私の言語にだけあるのではなくて、糸崎公朗さんの外部にはたくさんあるのではないでしょうか。
by ヒコ (2009-08-04 05:32) 

糸崎

すみません、仕事があったのといろいろ考えていたので返信が遅れました。

さて、先の返信でぼくは「言葉のすり合わせ」と言うことを書いたのですが、どうもそういう次元の問題ではないようなので、ちょっと考え方を変えてみました。
それは、彦坂さんの批判に対して、自分が釈明したり、誤解を解こうとしたり、間違いを指摘する方向で考えないと言うことです。
つまり、彦坂さんの批判は「正しく」そして「当たっている」のであり、それが分からない自分のほうが「間違っている」という前提で考えてみたのです。
その結果、やはり彦坂さんの批判はぼくの特徴を的確に捉えているのであり、ぼくは「自分のことが分かっていなかった」ということが判明しました。
というわけで、以下書かせていただきます。

>それと西尾康之さんを巡る絵画論で、私は糸崎さんと真面目に議論する興味は無くなっているのです。ご本人もおっしゃるように信仰の人で、ご自分が信じるものの中で生きておられて、他人の専門家としての意見は聴かないのです。そういう他人を排除するタイプの方のものを読む興味は無いのです。全てが、糸崎さんの信仰の問題に過ぎません。他人の信仰を私が読む興味は無いのです。

まずありていな反論として書かせていただくと、ぼくは決して「他人の専門家としての意見は聴かない」つもりもなく、「他人を排除するタイプ」と言い切られることも心外です。
確かに彦坂さんの絵画論は、ぼくにとってはすぐ理解できるものではないですが、だからと言って拒否してるわけではなく、あくまで「判断保留」の中立的立場なのです。

しかし、ぼくの「他人を排除するタイプ」というのが「構造上の問題」だとすれば、ぼくがいくら「そんなつもりは無い」と言ったとしても、それは実体を伴わないまさに「つもり」にしかなりません。
つまり、彦坂さんはこの記事でぼくの知らないタイプの「構造」を示してくれたのに、先の反論ではそれが見えていなかったわけで、それは人の意見を「聴いてない」のと同じです。

彦坂さんはぼくのことを「想像界」の人間であると指摘しましたが、それはその通りで、ぼくが「宗教」と書いていたのは、彦坂さんのおっしゃる「呪術」であり「アニミズム」であることを、ぼく自身は自覚していました。
問題は、彦坂さんのおっしゃる「想像界」に相当する「以外の」概念を、ぼくが「知らなかった」ということです。
それは「象徴界」と「現実界」は、「想像界」の上層に位置すると言うことで、つまり上層から下層を見渡すことはできても、下層から上層を見ることは難しい、ということです。

「想像界」の中で生きるぼくは、その上層の「象徴界」や「現実感」を見せられられても、結局は理解できずに「見えない」状態でいたのです。
そのように考えながら思い返すと、いろいろな事柄の辻褄が合うような気がします。

例えば、ぼくにとって現代芸術は「分からない作品」だらけなのですが、それは「想像界」の芸術は分かるけど、「象徴界」「現実界」の芸術は分からない、ということではないかと思います。
そして、彦坂さんの芸術は「想像界」のものではないのでぼくには理解不可能であり、それは「判断保留」という問題ではないのです。
ぼくの「全ては芸術である」とか「全てはゲームである」という思考の方法論も、全ては「想像界」からの視点であり、彦坂さんから見ればそれは「下層の理論」でしかないわけです。

ぼくは自分自身の「無知・無能」をなるべく知ろうと意識してるつもりでしたが、「想像界」以外の階層を知らなければ、自分の置かれている立場を客観的に把握することはできないでしょう。
しかし、ぼくは少なくとも彦坂さんの指摘によって、「象徴界」と「現実界」の内容はともかく、そのような上部階層が「ある」ということだけは分かったつもりで
これだけで、自分が「いかに思い上がっていたか」が分かるのであり、その思い上がりに対して、彦坂さんはサジを投げるようなことを書かれたのではないかと思います。

>基本として糸崎公朗さんの精神活動は、人間の模倣衝動の運動の中での作動であって、模倣機械としての人間の生理を強く示しています。
>つまり糸崎公朗さんによっては、何もセレクトはされていないのです。
>模倣そのものの衝動すらが、糸崎公朗さんには自覚がないように見えます。

これについて、ぼくは先の返信で反論しましたが、それが事実上「取り合ってもらえない」ということであれば、この指摘は「正しい」と思い直すしかありません。
少なくともぼくは「象徴界」と「現実界」を知らないのであって、それらのものの見方をセレクトすることができません。
また、自分自身は「模倣そのものの衝動」を自覚してるつもりでも、「象徴界」と「現実界」を知らなければ、その視点から自分の状況を眺めることはできません。

>非人称の問題ですが、拝読しましたが、私の側の意見はあまり変わりません。非人称主義にも、いろいろがあるというのは言えても、その違いは小さいと思います。

この指摘は当初反発してましたが、今は分かるような気がします。
つまり「非人称」という概念は「理性」の否定ですから、それは「象徴界」と「現実界」を知らない「想像界」のみの視点です。
この点で、ぼくとグループ<位>は、「大同小異」と言えるかもしれません。

>ただ私の方から糸崎さんとグループ位の違いを指摘すると、位の作品は《第6次元》ですが、糸崎さんの作品には《超次元》性があるので、それは大きく違う事です。

そうなると、正直これがちょっと分からなくなります。
ぼくは信仰の《第8次元》で物事を判断してるので、《超次元》性は恐らく感知することができず、ぼくは自分の作品のよさが分からない、ということなのでしょうか?
自分としては、まさに「想像界」で作品製作しており、「非人称芸術」とは路上のさまざまなものの「これが何であるか」という既成概念を捨象することで成立しますから、言い換えると「象徴界」の意図的否定のつもりです。
しかし、実際はぼくの「つもり」とは関係なく、ぼくの作品は《超次元》として成立してるのでしょうか?
だとすれば、ぼくの作品はどんな理由で成立してるんでしょうか?
ぼくは自分の作品のレベルを「理論」でコントロールしてるつもりでしたが、ぼくのばあいは理論と作品が関係ないとなると、今後は作品レベルが落ちる可能性もあるわけで、その意味では不安です。
by 糸崎 (2009-08-06 23:50) 

ヒコ

糸崎様
糸崎さんの柔軟性と、あくまでも発言を続ける態度は、現論人としての根本を示していて、たいしたものであると思います。たいへんに、すぐれていらして、この正直さとねばりが、良い作品を作られている基本であると思いました。
by ヒコ (2009-08-07 09:54) 

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