家族あるいは人間関係(マトリックス追加改稿1加筆3) [生きる方法]
家族あるいは人間関係
1
家族や人間関係は崩壊しつつあるように見えます。
従来の血縁関係が分解して来ているように見える状態があるのです。
一番ひどいのは遺産相続時に於ける、兄弟の鬼のような形相の争いと言われます。
そう言う経験をした人と話すと、鬼というものが、人間の遺産相続という欲の中で育って出現する様が推察されます。人間の欲望の解放が、20世紀に進んで来たのは事実ですが、その欲やエゴイズム故の争いが、骨肉の争いとなって噴出するのです。
つまりかつてのアボリジニーのような120規模の血縁集団に回帰できない故に、むしろ母親や父親から離脱して行く方が、精神的には自由で健康な成長が出来ると言う時代なのです。
血縁家族のこうした解体性は、むしろ肯定的に評価しつつ、緩い血縁性を維持する事が重要なのです
2
単身世帯と言う、一人暮らしが増えているのです。
「日本の世帯数の将来推計」によれば、ほぼ3軒に1軒が単身世帯です。
東京の世帯の中で、51%は一人暮らしであると言います。しかしその数字は具体的には、ネット検索では見つけられませんでした。
東京都総務局の「住民基本台帳による東京都の世帯と人口」によれば、2004年の「区部における1世帯当たりの平均人員」が2を超えているのは、2.25で最高の足立区をはじめとする10区だけで、千代田・中央・港の都心3区を含む13区ではすべて1台なのだそうです。
ということは即ち、東京の過半の区では、最も多い世帯が単身世帯であるということになるというのです。(下図)
一人暮らしというのは、大昔には不可能であって、新しい今日の人間の獲得した可能性とも言えるものです。
大昔の自然採取段階の野蛮と言われた無文字段階では、アボリジニーのような集団は120人くらいで移動し続けていたのであって、この血縁集団からは、離れ猿のような離脱か、婚姻による共同体からの放出以外には不可能であったわけで、今日の一人暮らしは、全人類史的には、非常に今日的な新しい可能性の領域なのです。
原始時代の集団の基本は血縁集団であって、それは大家族の基本構造を示していました。
それに対して情報化社会の基本は、一人暮らしなのであって、それが個人の基本構造を現しているのです。
現在の一人暮らしとは反対である原始時代のアボリジニーを見てみると、それは一つの言語集団ではなくて、言語として知られているのは750にも上るものであって、つまりアボリジニーというのは、彦坂尚嘉の推論では、厳密な意味では120人くらいの群れごとに言語があって、つまりそういう血縁集団ごとの言語という少数言語の乱立が、実は血縁集団というものを作り出していたと考えられます。
3
現在の血縁集団の崩壊という事態の進展が、人間の幸せの喪失となっているのです。
しかし同時に、新しい開放的な人間関係の創出でもあるのです。
つまり幸せに生きるという事であれば、自然採取時の原始共産性こそが人間の幸せを生み出すシステムであったのです。
「幸せになりたい」という欲望を実現させたければ、古い原始共産性に戻る事が、その答えなのですが、しかし現実には戻り得ないのです。
もどったような幻想を生み出すのは、一つは新興宗教やヤマギシ会のような集団ですが、私がお薦めできる性格のものではありません。
ヤマギシ会というのは、日本生まれの共産主義運動です。農業・牧畜業を基盤とした理想社会を作ろうとするミューン団体ですが、基本にあるのは「「無所有一体」の生活を信条とするため、参画するには一切の財産を会に供出する誓約が求められる」という原始共産主義に回帰する運動です。1953年(昭和28年)、故・山岸巳代蔵(1901~61)の提唱する理念の社会活動実践母体「山岸会」として発足して、現在も継続しています。
アボリジニーに象徴される、原始共産主義的な社会と言うのは、人間にとって失われた理想生活であり、エデンの園であったのです。
そこではしかし、文字は無かったのです。
書き言葉が出現すると、人間の集団は定住するようになると同時に、
戦争する事を開始して、大きな共同体を形成するようになります。
戦争というのは、定住して農業をするようになると始まるのです。
それは遺跡で確認されている学問的な事実です。
つまりアボリジニーに見られる様な言語の小集団性は、人間が農業を開始して定住をすると、書き言葉が出現して、
そうすると農業をしながら、巨大集団の形成にむかって古代帝国を作り出していったのです。
つまり書き言葉の出現と言う識字=リテラシーの出現を介して、
原始共産主義とも言える自然採取の小集団は解体されて行くのであって、つまりリテラシーの出現が、人間の諸関係を変革して行くのです。
このことは今日の情報リテラシーでも同様であって、コンピューター・リテラシーの出現によって、従来の近代国家の閉鎖性は相対化され、言語もまた国民国家の言語としての日本語が相対化されて、英語の世界語化に還元されて行くのです。
つまり風が吹けば桶屋が儲かる式の話で言えば、今日の家族の解体と、英語の世界言語化は、関係性があるのです。
4
情報化社会の中には、実は人間疎外の4重化という非常に不幸な構造があって、そのことの重荷において現代という時代の新しさがあるのであって、
その重荷をになう事での新しい、いきいきとした人間関係の構築性も同時にある事を見て行かないと、駄目なのです。
人間の定住化が、地縁関係を作ったように、人間は産業革命を経ると、《近代》学校制度を作り学閥関係を生み出しました。
《近代》資本主義を生み出して、会社という終身雇用年功序列という共同体を生み出したのです。
情報革命は、こうした血縁/地縁/学閥・会社閥といった古い3段階の人間関係を相対化して、つながりを緩くする事で、情報関係とも言うべき、新しい第4の人間関係を作り出しているのです。
この第4のネット関係こそが、新しい時代の推進力となる人間関係なのです。
- 原始社会の第一人間関係である血縁関係。
- 農業革命をへて作りだされた第2人間関係である地縁関係。
- 産業革命をへて生み出された第3人間関係である学閥/会社閥関係。
- そして情報革命をへて創出された第4の人間関係である携帯ネット関係。
現在起きている事は、古い血縁関係や、地縁関係、そして学閥/会社閥関係が、新しい情報関係によって、相対化され、解体され、再編されてきている事です。
このことの開放性と可能性を見て行かないと、新しい美術によるコミュニケーションも、新しい美術の創造性も、そして新しい美術の市場性も理解できない事になるのです。
たとえば私の古い付き合いのディーラーは、蓄積してきた顧客との関係の無意味化にぶち当たっています。アート・ディーラーというのは、コレクターに作品を売るとともに、価格が高くなった時に、その作品をコレクターから出さして、転売するという行為の繰り返しで、利鞘を稼いでいた商売でした。
しかし現在の顧客は、コレクションしている作品を売る場合、画商を通して売るのではなくて、オークションに出して売ることを選択するようになったからです。
オークションというのは、実は情報だけで成立している美術市場であって、従来の画商と顧客の画廊と言う会社を介しての会社閥的な人間関係は相対化されてしまって、お客は従来の人間関係を無視して、オークションに直に出すのです。
こうしてコンピューター・リテラシーという一つの識字が成立すると、根こそぎの崩壊が出現するという事を冷静に見て行かないと、識字=リテラシーというものが、文明や文化を作っていると言う問題の本質を見失います。
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こうした新しい事態に対して、反動も当然のように起きます。
この反動を本質として見誤ると、認識者としてはマズいのです。
つまり古い閉じた人間関係に戻って、安心したいという反動の欲望も起きるのです。
人間の精神は、しかしこの反動にむかうものなのです。
反動性においてしか、思考の原点が確認できないのです。それもまた生理であって、この生理を相対化する冷たい認識者の眼を持たないと、今日のサントーム的な視点を獲得できません。
だから、今日の和物のブームにしろ、古い地方への回帰にしろ、農業への回帰にしろ、そのことが悪いのではありませんが、それをサポートするネット環境の整備が無いと、すぐに行き詰まり、崩壊するのです。
地方に、何処にいてもつながる携帯電話網の整備は重要ですし、何処でもインタネットがつながる整備が重要なのです。
こういうものが無い形で、単に古いものに回帰しても、行き詰まって破綻するのです。
つまり進歩があれば、退化があるという、こういう二重性自体を,対象化し、この両者を同時表示して行く《つなぎ=サントーム》が必要なのです。