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2000年代日本現代アート論 越後妻有トリエンナーレを巡って(1) [アート論]

開会式.jpg
開会式の記念写真、最前列下、中央の女性の右横にいるのが彦坂尚嘉  撮影:木村静

2000年代日本アート論 越後妻有トリエンナーレを巡って

彦坂尚嘉+木村 静 2009年8月15日号

彦坂尚嘉顔写真/佐々木薫撮影2.jpg
彦坂尚嘉(ひこさかなおよし)
1946年生まれ。ブロガーで『彦坂尚嘉の《第41次元》アート』の更新を継続中。
立教大学大学院特認教授。日本建築学会会員。日本ラカン協会幹事。


木村静2.jpg
木村静(きむらしずか)

1980年生まれ。フリーメディア活動家。フリーアナウンサー。

G8市民メディアセンター札幌実行委員会に参加。活動テーマは、

フリー・メディアによる新しい市民コミュニケーション網の構築。


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 2000年代日本アート論 

 越後妻有トリエンナーレを巡って 


 彦坂尚嘉+木村 静 2009年8月15日号       

 


 

北川フラム氏と彦坂尚嘉.jpg
彦坂尚嘉(左)と北川フラム(右)
第4回のオープニング式典会場で。
彦坂尚嘉と北川フラムは共に1946年生まれで、
1969年以来の40年間の交友関係がある。 
撮影:井上清仁

 


 2000年に始まった越後妻有トリエンナーレは、文字通り21世紀の初頭の10年間をかざる美術展でありました。それは新潟出身の天才アート・ディレクター北川フラムによって作り出された、広大で壮大な自然と芸術の大スペクタルであったのです。この大スペクタルは、越後妻有という地域に、現代アートを還元していくローカリゼーションとして組織されたのでした。

  1. 北川フラムのローカリゼーション  

 越後妻有はあくまでも日本の田舎であって、現代美術を、この日本の現実に還元して行くという、そういうローカリゼーションの美術展なのです。それは同時に、現代美術の前提価値そのものを解体して行くと言う脱-構築運動であって、そのデ・コンストラクション性を評価する視点で見て行かないと、北川フラムというアートディレクターに対する正統な理解はできません。 

 ローカリゼーション (localization) というのは、情報技術においては、コンピュータ・ソフトウェアを、現地語の環境に適合させることを言います。

 外国で開発されたソフトウェアを、日本で使用できるようにするためには、日本語に翻訳する必要があります。日本語化、だけではなくて、プログラムを修正したり、プログラムのコードの、修正をしたり、ソフトウェアの仕様変更までも、が必要となります。
 したがっていわゆる「翻訳する」というだけではなくて、最終的に日本の現実に適応できるものにしなければならないので、改造が必要です。こうした広義の翻訳やシステムの変更の行為をまとめて、ソフトウェアの「現地語化」、すなわち「ローカリゼーション」と言います。

 越後妻有トリエンナーレで、北川フラムがディレクターとしてやっている仕事は、現代美術を日本語に翻訳し、さらに日本の田舎の現実に適応できるように、アートの質を修正したり、アートの個人性を消して社会性を強調したデザインワークに変質させたり(実例・カバコフの作品) 、アートの高度な質を低くしたり、アートの仕様や様式の変更をしたり、アートの価値観や目的の変更を仕掛けていると言う、アート・ローカリゼーションの実践なのです。

 それは従来の芸術至上主義や、純粋芸術という価値観や、個人主義制作を解体して、組み直す作業になります。住民参加の制作による作品の展開は、この近代個人主義的制作の、解体再編運動であったのです。それは《現代美術》というものを、日本の田舎という生活世界に基礎づけて行くという、最終的な啓蒙運動であったのです。こうして現代美術の「現地語化」という仕事をしたのが北川フラムであって、その結果としていくつかの傑出したアートディレクション・アートが生まれました。

 代表的なのは2002 第二回大地の芸術祭プレイベント「天空散華・妻有に乱舞するチューリップ・中川幸夫『花狂』」です。あれは中川一人のアーティストとしての実力だけでは到底出来ない作品で、中川幸夫を素材にした北川フラムの仕掛けたアートディレクション・アートであったように、私には見えました。

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中川幸夫『花狂』2002年
中央にいる人物は舞踏家の大野一雄です。


北川フラム+中川幸夫+大野一雄の「花狂」
《言語判定法》による彦坂尚嘉責任の芸術分析
 
《超次元・超越領域》から《第41次元・崇高領域》までの
多次元的な《真性の芸術》
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現
 
《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示
 
シニフィアン(記号表現)の芸術、A級芸術】

 中川幸夫の初期構想が、いかなるプロセスで北川フラムによって変形されて拡大されていったかを論述すると長くなりますので省きますが、マス・メディアの利用の見事さまで含めて、北川の驚くべき執念と巧妙さを極めたものでした。

 2003年の代表作の1つとなった新田和成の「ホワイトプロジェクト」も、同様の印象を現場で見ていて感じたものでした。作家を素材にして展開するアートディレクション・アートの成立は、情報化社会時代の現代アートの基本性格にまでなってくる地平を示していました。


ホワイトプロジェクト.jpg
新田和成の「ホワイトプロジェクト」2003年


アートフロント+新田和成「ホワイトプロジェクト」
《言語判定法》による彦坂尚嘉責任の芸術分析
 
《超次元・超越領域》から《第41次元・崇高領域》までの
多次元的な《真性の芸術》
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現
 
《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示
 
シニフィアン(記号表現)の芸術、A級芸術】

 しかしアートフロン・ギャラリーの内部に取材して聞くと、1回目からの住民参加の制作そのものは、作家と住民の反応の自立的展開を無視できない動きであって、そのすべてを北川フラムのアートディレクションに帰するのは、事実経過としては無理があるように思いました。アートディレクション・アートの展開は、作家自身にもフィードバックされていって、相互増幅していったように思います。

 実例としては2003年の代表作家の一人であった彦坂尚嘉の場合には、本籍地変更を実行し、展示場所の田麦という山村に自らの本籍を移すという事をやっています。次の2006年の代表作家となった菊池歩の「こころの花」の制作が、現地への移住によって、その長期性の中で作られています。したがって、そのような作家の積極的な参加を引き起こすシステムを立ち上げ、作動させ得た北川フラムの豪腕は見事なものと評価するべきで、他の誰もマネの出来ない偉業であったと私は思います。

kokoronohana_k.jpg

 

菊池歩「こころの花」2006年


菊池歩「こころの花」
《言語判定法》による彦坂尚嘉責任の芸術分析
 
《第8次元 宗教領域》》のデザイン的エンターテイメント作品

《想像界》の美術、絶対零度の美術(=原始美術) 
 
《気晴らしアート》、《ローアート》
 
シニフィアン(記号表現)の芸術,【B級芸術】

 

 その結果作り出された「妻有アート」とも言うべき住民参加型の作品様式は、手の込んだ手芸、あるいは工芸 とも言える作りと、奇妙に類似したオールオーバー構造の作品となって固定化して来ます。芸術的には《第8次元 宗教領域》の原始美術に退廃転落し、高い評判にも関わらず、凡庸なものになります。

 前回2006年に評判になった日本大学芸術学部彫刻コース有志による「脱皮する家」も、廃屋の中に展開されたオールオーバーの木彫工芸といったおもむきのものでありました。

脱皮する家.jpg
日本大学芸術学部彫刻コース有志による「脱皮する家」 2006年
日本大学芸術学部彫刻「脱皮する家」
《言語判定法》による彦坂尚嘉責任の芸術分析
 
《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント作品

《想像界》の美術、絶対零度の美術(=原始美術) 
 
《気晴らしアート》、《ローアート》
 
シニフィアン(記号表現)の芸術,【B級芸術】

 れら大評判になった妻有様式の作品は、芸術的視点で見ると、現代美術が、「手芸」や「工芸」という《ローアート》にローカリゼーションされたとも言いえるものです。ポロック的なオールオーバーの構造の上に展開される「手芸」や「工芸」として、屋外や、廃屋の中に反復して、妻有様式がバリエーション化し、マンネリ化してきているのです。

 

 今回の出品作でも、杉浦久子+杉浦友哉+昭和女子大学杉浦ゼミの「雪ノウチ」という作品は、このような住民参加型の美しい手芸性を持った「妻有アート」の秀作でありました。

 たいへんにフェニミンな美しさのある《1流》の《ハイアート》作品ですが、デザイン作品であって、フロイトがいう《退化性》という私的歴史性をもった芸術作品ではありません。

 合法的表現であって、私的な表現性が見えなくて、社会的公的性だけで成立しているのです。そして、作品は実体的ですので、エンターテイメント作品です。

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                                                                                                                  撮影:木村静

杉浦久子+杉浦友哉+昭和女子大学杉浦ゼミの「雪ノウチ」
《言語判定法》による彦坂尚嘉責任の芸術分析
 
《第1次元 社会的理性領域》から《第6次元 自然領域》までの
多次元的なデザイン的エンターテイメント作品
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現
 
《シリアス・アート》《ハイアート》
 
シニフィアン(記号表現)/シニフィエ(記号内容)の同時表示
《透視立体》【A級美術】

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廉価版作品、入札ありました。 [気体分子ギャラリー]

saito chisato.jpeg

廉価版の作品に、入札いただきました。
5000円です。

越後妻有ツアーで、作業が遅れていますが、
作品には解説と芸術分析を付けます。

作品としては《超次元 名品領域》のものを選んで、
エディションは1ですので、
かなりのお買い得作品です。
入札、ありがとうございました。

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ツアー終了報告 [アート論]

越後妻有トリエンナーレツアーから、昨晩遅くに帰ってきました。

参加者は20名。

3泊4日の長期間旅行でしたが、

充実したツアーでした。

事故もなく無事に終了できて良かったです。

今回3泊4日の私のツアーがまわって見た中で、ひどい作品でがっかりした作家としては大杉哲也+伊藤友隆「みんなのこたつ」、小川次郎の新作「みらい」(作品番号25) でした。これについては、重要な問題があるようなので、後で論じます。

力作という新作は、山本想太郎の「家具ノニワ」(作品番号119/《第1次元》社会的理性領域)、我田引水で恐縮ですが彦坂尚嘉の「フロアイベント2009」(作品番号22/《超次元 名品領域》)でした。

佳作としては杉浦久子の「雪ノウチ」(作品番号47/《第6次元》の自然領域)、加治瑞穂「White hole」(作品番号19/《第6次元》の自然領域)、アンティエ・グメルス「内なる旅」(作品番号194/《第8次元》の信仰領域)、ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー「ストーム・ルーム」(作品番号28/《第8次元》の信仰領域)、

過去作品の傑作としては、リチャード・ウイルソン(作品番号122/《超次元 名品領域》)、アン・グラハム(作品番号138/《超次元 名品領域》)、ノイシュタット(作品番号181/《超次元 名品領域》)、オル・オギュイ(作品番号110/《超次元 名品領域》)、ベたほりつこ(作品番号61/《第1次元 社会的理性領域》)などでした。

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最初の宿泊場所の三省ハウスは、ネット環境があったのですが、

2泊目の銀河荘にも、3泊目の秋山郷にもネット環境は無くて、

ブログもメールチェックもッ出来ませんでした。

僻地であるのは確かですが、

地方の活性化の基本は、ネット整備なのですが、

それが出来ていないのです。

日本社会は、現在の情報革命の歴史的な意味を理解できていないのです。


新潟の地は、道路網は驚くほどに完備していて、大きなトンネルがたくさん造られていて、

この道路網が地域の地政学的な意味を変容させて、その結果として若者の都会への流出を

生み出し、さらに少子化が追い打ちをかけて、地方の衰退と崩壊を生みださいています。

そして同時にこの道路網の完備が、越後妻有トリエンナーレを成立させている基盤なのです。

現在の地方の衰弱を乗り切るためには、実はこの道路整備網の上に、

インタネット環境と携帯電話の通信網を整備して、

情報革命の参画する事が、もう一度人々を地方に呼び戻すための大きな設備投資たりえるものなのです。


越後妻有トリエンナーレを2000年代10年間で終わらせるのか、

それとも2010年代にバージョンアップして継続できるのかを分ける大きな認識点は、

この情報社会への視点なのです。

この当たり前の事が、実は当たり前に推進されていないところが、

日本が遅れて来ている重要な原因があるのです。

 

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今年2009年の越後妻有トリエンナーレは、第4回です。

2000年に始まったという、文字通りの21世紀の初頭の10年間をかざる美術展がこの大地の芸術祭でありました。

2000年代というのは、越後妻有トリエンナーレの時代であったのです。私自身は、この第一回から参加してきただけに、感慨深くこの10年を振り替えざるをえません。

この第4回という2000年代の最後の越後妻有トリエンナーレは、

総合ディレクターの北川フラム氏の天才とも見える大規模な企画力で、

広大な大地での美術展の成熟と完成を示していました。

全体を見ることが出来ないと言う過剰性は第一回からあったのですが、それは第4回では、総数370点となり、飽和点を示す段階までに達しています。もはや誰も全体を把握できないというものになっているのです。


さらに北川氏が推し進めてきた住民参加と、妻有様式ともいうべきオールオーバー構造の作品の多発も、頂点を迎えていました。作家名がちがっても、ほとんど同一構造の作品があって、マンネリ感をあたえるようになっています。その代表は、今回の目玉作家のアントニー・ゴームリー(作品番号23)と塩田千春(作品番号232)、松澤有子(作品番号17)が、廃屋に糸を引っ張った同一性の高い作品になっている事です。

かつては中心部は凡庸な作品が多くても、大自然のなか、はるか僻地で展示されている作品は力作が多かったと

いう印象は、過去のものになって、かなりの遠隔地まで歩いて凡庸な作品を見ると言う結果になっていることも、

今回は多くなっています。代表的なのは、美しいブナ林の中に白い椅子のブランコを置いたメルヘン作品の福屋粧子の作品でした。台風の豪雨の中、山道を40分も歩いて見たという私たちの体験の特異性もあったのですが、制作物として力作ではなかったのです。美しさは認めるにしても、観客という他人の苦痛は考えていない自己中心性がむき出しになっていて、ちょっと辛い作品でした。遠い作品は、やはり全力で作り込んだ力作を見たいのです。

 あまりに多数の作品があるので、誰も全部を見られないという状態ですが、今回、わたくし彦坂尚嘉は、アートスタディーズと建築系ラジオの合同ツアーを、参加者20名を得て、3泊4日で回ったのでした。広大な地域を20名で車4台で回ることは、複雑な行程表を必要として、それは一つのアーキテクチャーであるかのような構造物でありました。何しろ昼食一つをとっても20人規模になると、事前に予約を必要とするわけで、時刻通りにそのレストランに到着するように車を走らせることもやさしい事ではないからです。

そう言う意味でも、こうしたツアーの構築も含めて、全体のアーキテクチャー化を真剣に検討すべき段階になっています。


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