越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?(5)
越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?──2000年代日本現代アート論
彦坂尚嘉 /木村静2009年08月15日号
6:2000年代のアートのスペクタクル化
2000年代は、こうして北川フラムと村上隆という2人の偉大なカリスマによっ
て、日本美術がローカリゼーションとグローバリゼーションの両方でスペクタ
ル化した時代でした。
従来の銀座の貸し画廊を歩き回る画廊巡りや、美術館や博物館をひとりでコ
ツコツと歩いていた貧乏臭い美術愛好家を、あざ笑い、時代遅れにする、
圧倒的なアート現象の社会的スペクタクル化が2000年代にはかられたのです。
しかし、このことは、アートシーンで
独自に起きたものではなくて、後期資本主義社会が生み出すスペクタクル化と
いう疎外現象のアート版に過ぎないのです。
ギ・ドゥボールが『スペクタクルの社会』(1967)で指摘したことは、多く
の人々が受動的な観客の位置に押し込められた世界に、後期資本主義社会がな
ったということです。映画の観客のようにただ世界を眺めることしか残されて
いないという状態におかれたことをスペクタクル化と言い、これが資本主義の
究極の統治形態だと言うのです。
情報化社会化が生み出す根拠無き疑似イベント性の危険性については、ダニ
エル・ブアースティンが『幻影の時代』という本で、もっと早い1964年に指摘
していた事でした。私は、このダニエル・ブアースティンの著作を高校生で読
んで、非常に大きな影響を受けた世代です。
2000年代の背後には1995年からのアメリカで起きたインターネットバブルと、
2002年からのサブプライムローン・バブルという二つの過剰消費があったので
あって、ドゥボールやブアースティンが警告していた社会のスペクトル化や幻影化
は、極限まで増幅され、ロバート・シラーが指摘したように『根拠なき熱狂』でし
かないバブルの波が2002年から2007年10月まで盛り上がり、そしてこの盛り上がり
は,波が海岸で崩れて行くように、崩壊したのです。このアメリカの過剰消費が作
り出すスペクタクル化の波に乗る形で新幹線の乗客までもが増大しただけでな
くて、アートシーンも巨大化してスペクタクルになり、観客は傍観者としてな
がめるだけになったのです。
いや、それは芸術そのもの質としては長谷川祐子の主張した「アートとデザ
インの遺伝子を組み替える」事態となって、アートという名の元に、芸術性の
ひとかけらも無いデザインワークが、アートの幻影としてもてはやされる時代
になったのです。ひとかけらも無いというのは、言い過ぎの部分がありますが、
《近代》の純粋芸術は古くなり、衰弱したのです。それに変わって、疑似アー
トが跋扈し、芸術は、ただの幻影になってしまったのです。
しかし、高度消費社会の中で、資本主義そのものに対する根源的な否定意識
も広がって来ています。そもそも資本主義そのものが《近代》が生み出したも
のであって、《近代》が衰弱して脱-近代化している時に、なぜに脱-資本主義
の動きが起きないのでしょうか?そして、なぜ私たちは、すべての事に対して
消費者として受身でなければいけないのか?消費そのものに対する反撃は、ま
す、なるべくお金を使わないようにする事です。こうした節約主義が若い人々
の中に、うねりとして始まっています。ニューヨークでは、ホームレスでもな
い人々が、ゴミとして捨てられる食品をゴミ箱から拾って食べるまでされてい
ると、ネットで読みました。自動車も持つ事を拒否する若者の増加は、新しい
未来を感じさせます。高級乗用車を買うのではなくて、安いレンタカーやシェ
ア・カーの利用が広がってきています。こうした高度消費社会と後期資本主義、
そしてマスコミュニケーションの幻影操作に対する反撃の動きが、次第に社会
の底流に広がっていきます。
アートという自由と信じられていたものが、勝手にデザイン化に転化され、
一部の新興成金により誤読され、誤読に誤読が重ねられ、幻影の時代の中で、
「根拠なき熱狂」の嵐が吹き荒れ、美術市場は異様に高騰し、現代アートの
裸の王様化が進んでいったのが2000年代であったのです。村上隆の作品も
しかり、現代美術としてもてはやされる作品は精巧なデザインや下品さまで
も上手に取り込み、さも高尚であるかのように私たちを取り巻いて、幻影と、
誤読の罠をしかけてきているように感じます。
こうした村上隆的なキャラクター・アートという新・偶像崇拝美術に対す
る嫌悪と反撃であるかのように振る舞う形で、越後妻有トリエンナーレの北
川フラムの里山に対する思いは展開していったのですが、しかし同時に農舞
台やキョロロ、そしてキナーレという幻影の巨大建築が建設されていきました。
まず、松代に建設された農舞台です。
アートと里山を同時に楽しめるフィールドミュージアムという掛け声で建設
されたものです。
設計者MVRDV(エムブイアールディーブイ)というオランダのロッテルダム
を拠点とする建築家集団で、1991年に設立されたものです。名前の由来は事務
所設立時のメンバー三人の頭文字からとったものであるのです。彼らは、
レム・コールハースの主宰する建築設計事
務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)の出身です。
レム・コールハースは、1944年生まれのオランダの建築家。代表的な作品は、
シアトル中央図書館(2004年)、カーサ・ダ・ムジカ(ポルトガル、ポルト、
2004)などですが、私はこの両方を見にいっています。彦坂尚嘉責任の芸術
分析では《第21次元 愛欲領域》の建築で、これは実は《第2次元・技術領域》
の倒錯領域なのです。現在、中国中央電視台本部ビル(中国、北京、2004
着工)が建設中ですが、コールハースは批判的に検討さられるべき建築家で
あると思います。
手塚貴晴設計のキョロロです。
里山と自然と文化の魅力と不思議を楽しく展示する科学館というコンセプトで
建てられました。手塚貴晴(てづかたかはる)は、1964年生まれの建築家。東京都
市大学准教授。ふじようちえん(立川市)で、2008年の日本建築学会賞を受賞して
います。
今回の越後妻有では、廃屋を改造してイタリアンレストランにする仕事をして
います。(作品番号229)。
3つめが原広司設計のキナーレです。
着物の歴史館や和グッズを販売する和装工芸館が設けられているほか、風呂と
休憩室が揃った温泉「明石の湯」があります。原広司は1936年生まれの建築家。
東京大学名誉教授。2001年京都駅ビルで、ブルネイ賞建築部門激励賞。
越後妻有トリエンナーレの総合ディレクターである北川フラムと、建築家・原
広司は姻戚関係があります。北川フラム氏の人脈の大きさと厚さが、この越後妻
有トリエンナーレを巨大なものにしているわけですが、同時にその次元は、こう
した巨大建築を建設するという、《近代》特有の開発主義の性格を持っているの
です。美術館関係者からは北川フラムが、アートゼネコンと陰口をたたかれたの
は、単なる豪腕のアートディレクターに対する嫉妬やねたみだけとは言えないも
のがあります。実際に立川の再開発や、京都駅ビル建設等々に、深く関わって来
ている実力のあるアート・ディレクターなのです。
越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》は、過疎化と少子化で衰弱化した
地方とはいえ、田中角栄による列島改造計画の徹底化した、過剰にまで発達し
た道路とトンネル建設による道路網の完成した地域で行なわれています。この
山岳地形の改造が完成した時に、人々の期待した幸せの幻影は消えて、若い人
々はこの地を離れて都会に出ていってしまったのです。そして越後妻有の地は
衰退したのです。
そこで政治スケジュールに入って来たのが平成の大合併でした。越後妻有ト
リエンナーレの根本には、6市町村の合併と言う《平成の大合併》の政治目的
が潜在していたのであります。
日本の近代史は3回の《大合併》、つまり市町村合併の歴史です。まず明治
維新による1988年の《明治の大合併》です。この市町村合併によって、約7万
あった伝統的な村世界は解体され約15,000(5分の1)にされました。
2度目が、敗戦による変革で、1953年から61年にかけて《昭和の大合併》が
実施され、市町村数は約3500にまで統合されました。江戸時代の末期の20分
の1にまでなったのです。そして《平成の大合併》では、市町村の数は1760ま
で減って、江戸時代の40分の1になったのです。
こうした小さな村の解体は正しかったのか?中国の老子は、人間の幸せは人
生は、小さな村の中にあると看破して、小国寡民を説きました。これはひとつ
の真理なのです。フランスでは「フランスの最も美しい村」という協会があり
ます。1982年に設立されたもので、その目的は質の良い遺産を多く持つ田舎の
小さな村の観光を促進することにあります。協会ではブランドの信頼性と正当
性を高めるために厳しい選考基準を設けています。その基準というのは、人口
が2000人を超えないこと、そして最低2つの遺産・遺跡(景観、芸術、科学、
歴史の面で)があり土地利用計画で保護のための政策が行われていることなど
が、あります。したがって従って景観を破壊するような建物や設備は制限され
るのです。このフランスの基準を機械的に当てはめろとは言いませんが、農舞
台にしても、キョロロにしても、キナーレにしても、越後妻有の景観と調和し
た建築であったのか? という調和を巡る議論は必要であったはずであります。
しかしフランスとは正反対に、日本では小さな村は併合されて行き、住民の
伝統的な生活世界は解体され、自動車が無ければ生活が出来ない広大な《大地》
を形成するアメリカ化が進んで行ったのです。越後妻有における《大地の芸
術祭》の「大地」は、アメリカナイズされた「大地」であり、この《大地》
には、もはやかつての7万個の《日本の村》は無いのです。だからこそ、
小さな山村は淘汰されて、過疎化と少子化は進み、住民の個数は減り、
多くの地域が廃村に至る道を歩んでいるのです。こうした近代化に
よる改造の極限の地域に、現代美術を移植することが、
越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》でした。
北川フラムは1946年生まれで、私と同じ年齢です。私と北川フラムの根底に
は、ロバート・スミッソン、マイケル・ハイザー・ウォルター・デ・マリア、
そしてクリストといったアーティストに熱狂した経験があります。つまり1960
年代末のアースワーク、あるいはアース・アート、ランド・アートと呼ばれた
芸術です。それらの流れはサイトスペシフィック・アートなどと呼ばれた美術
まで拡張されます。北川フラムの感性
の中には、こうしたモダンアート最後の巨大化した美術に熱狂した感性が潜在
していて、平成の大合併という里山のアメリカ化と、北川フラムの芸術観が共
振を起こして、アメリカ型のアアースワークの日本語への翻訳と言うローカリ
ゼーションの形式が、北川フラムのアートディレクションの根底を成したよう
に、私には見えます。
つまり里山の小さな世界を、巨大空間にスペクタクル化することが北川フラ
ムの仕事であった可能性が、越後妻有トリエンナーレにはあるのです。実際、
越後妻有トリエンナーレの作品は、スペクタクル・アートであるものが多い。
こうして2000年代の10年間のアートのスペクタクル化の幻影を押し進めた
立役者として、北川フラムと村上隆という巨人が出現したのでした。
画像:http://blog.so-net.ne.jp/_pages/user/auth/article/index?blog_name=hikosaka2&id=14458939
彦坂尚嘉の《言語判定法》での分析で見る限り、村上隆は《第13次元・喜劇
領域》、そして北川は《第6次元 自然領域》と、生きている次元そのものは違い
ますが、二人とも社会性の高いデザ
イン的エンターテイメント的な人格です。そして《シリアス人間》で、しかも
「真実の人」であるという共通性があります。アートのスペクタクル化が、
実はアートのデザイン化であり、幻影化であり、それがアートの社会性の増大
であったことと、この2人のカリスマの人格構造は一致していたのです。
2000年代というのは、こうして村上隆の時代であると共に、北川フラムの越
後妻有トリエンナーレの時代であったのです。二人の背後には1995年からのア
メリカ社会の過剰消費の世界中への波及による「根拠なき熱狂」があり、そし
てグローバリゼーションの中の自虐的で不快な「セルフ・オリエンタリズム」
があり、さらに「日本の《大地》のアメリカゼーション」があったのです。
私自身は美術家として、この越後妻有トリエンナーレに第1回から全ての回
に参加し、FloorEventシリーズを4回展開してきただけに、北川フラムによる
10年間の魔術的な夢を感慨深く振り返らざるをえません。FloorEvent/フロア
イベントというのは、自らが立つ床そのものを直視するというコンセプトの
作品だからです。日本の《大地》がアメリカ化したという事実を直視しなけ
ればならなかったのです。そしてそのことは老子の説いた「小国寡民」性を
失った事であり、日本人が幸せに生きる道を喪失したことを意味したのです。
21世紀の日本人は不幸なのです。
この不幸さを超えるには、どうしたら良いのか? たぶん唯一残されているの
は、新しい関係、つまり伝統的な血縁関係や、地縁関係、そして学閥関係や、
会社企業共同体ではない新しい関係によって、小さな《島》を作る事でしょう。
しかもそれが、インタネット関係であって、かつての様な固い関係で
はなくて、流動性のより高い、気体分子状態という緩い関係の中で、形成して
行く事のあると、私は考えています。
越後妻有の衰退を救う道も、携帯電話をどんな山奥でも使えるようにすることと、
インタネット網を完備する事です。この事を抜きには、都会からの移住者も
呼び込む事は出来ません。
終章 目玉作品問題と、「ばさら」を超えて
越後妻有トリエンナーレの目玉作品というと、今回のカタログの表紙は草間
彌生であり、扉はアブラモヴィッチの夢の家であり、次はボルタンスキーです。
これらの問題点を論じることは、いろいろな角度から可能ですが、まずボルタ
ンスキーの作品を例にして考えておきたいと思います。
撮影;木村静
ボルタンスキー作品に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析。
《想像界》の眼で《第8次元 宗教領域》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《第8次元 宗教領域》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《第8次元 宗教領域》のデザイン的エンターテイメント。
《想像界》の表現であって、《象徴界》《現実界》は無い浅い作品。
液体美術であって、気体/固体/絶対零度の3様態は持っていない浅い作品。
《気晴らしアート》であって、《シリアス・アート》性は無い。
《ローアート》であって、《ハイアート》性は無い。
シニフィアンの美術であって、シニフィエ性は無い。
《イラスト的空間》。【B級美術】。
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越後妻有という里山での芸術祭において重要視したいのは「いかに場所と調
和しているか」という観点です。「フランスの最も美しい村」という協会とほ
ぼ同一の視点です。里山には自然があり、そこに移り住んだ人がいて、その人
たちの生活空間があります。つまり、この場所には元々ストーリーがあり、そ
こでの芸術表現活動においては、そのストーリーを前提として考えなければい
けない。都会の自室や、お金で借り切った東京のギャラリーなど、一種の私的
化された空間での表現よりもはるかに難易度が高い事と言えます。その点で、
クリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマンによる「最後の教室」には、
異論を唱えずにいられません。廃校になり、子供たちがいなくなった小学校に
はもの悲しいものもありますし、廃校を再利用するプロジェクト自体は素晴ら
しいと思います。ガイドブックには美しい写真が掲載され、評価も高いようで
すが、しかし実際は蒸し暑く、干草の匂いがする真っ暗な体育館から、真っ暗
な廊下を歩き、壁にかけられた額縁の中も黒い。廊下のくぼみには古着と思わ
れる服がただ山のように積み重ねられている、2階には棺と思わせる直方体に
【続きは下記をクリックして下さい】
白い布がかけてある、とにかく空恐ろしい場所になっていました。ちょうど、
校舎を出たところで20代位の女性が二人、立ち話をしていました。「自分の
学校がこんなふうにされちゃったら、嫌だな」。これにはまったく同感しま
した。かつて子供たちが走り回っていた体育館、廊下、教室、この場所には
ストーリーがあります。確かに、過疎化は外側から見ると悲劇のように思わが、建物に、土地に残っているということです。そういう意味で調和する、
という視点は大切にしてもらいたいことであったのです。おそらくこうしたオーソドックスな調和への視点を逆転させる事で、この
芸術という名前は成立していると、作家が信じているように見えるものが
多いということです。
不調和にするひとつの方法が、ボルタンスキーに見られる廃墟性や、崩壊性
の強調です。廃墟や崩壊が、人を惹きつけるのは確かなのですが、しかし
【崩壊=芸術】であると定義は出来ないのです。もしも出来るのであれば原爆
で破壊された直後の広島や長崎は芸術であるということになるし、9・11の
テロで崩壊したツインタワーとそこでの多くの死者の山は芸術であると言う事
になってしまうのです。
さて、もう一つ不調和を生み出す価値観は、「ばさら」です。この「ばさら」
についての説明は長くなるので、まず、廃墟性や崩壊性についてみてみま
しょう。
今回の目玉作家の塩田千晴の作品です。塩田千晴の作品は、彦坂尚嘉責任の
芸術分析では《第16次元》であって、それは《崩壊領域》の芸術作品であった
のです。
《第16次元 崩壊領域》については塩田千晴に関する下記の【YouTube画像】
で聞いてください。
塩田千晴に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析。
《想像界》の眼で《第16次元》の《真性の芸術》。《象徴界》の眼で《第16次元》の《真性の芸術》。《現実界》の眼で《第16次元》の《真性の芸術》。《想像界》の表現であって、《象徴界》《現実界》は無い。気体美術であって、液体/固体/絶対零度の3様態は持っていない。《シリアス・アート》であって、《気晴らしアート》性は無い。《ローアート》であって、《ハイアート》性は無い。シニフィアンの美術であって、シニフィエ性は無い。《原始空間》。【B級美術】。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
さて、次に、「ばさら」について語りますが、その前に不調和性について、
少し考えます。
不調和性というのは、芸術であることを根拠づけるものなのか?
彦坂尚嘉責任の芸術分析からみると、越後妻有トリエンナーレの目玉の作品のほとんど全部はデザイン的エンターテイメント作品であって、《真性の芸術》として評価す
ることができません。長谷川裕子が言うように「アートとデザインの遺伝子を
組み替える」ことが実際に行なわれていて、これらの目玉作品の社会的デザイ
ン性が高い事は充分に認めますが、《真性の芸術》性は欠けているのです。
つまり「フランスの最も美しい村」という協会が提示している調和性の視点
から見ると越後妻有の自然や生活世界に不調和であっても、その問題の多くは
デザイン的エンターテイメント作品の問題であり、そして不調和の多くの原因
が「芸術の名において」(ティエリード・デューヴ)つくられる、《真性の芸
術》の芸術性のひとかけらも無い、疑似イベント的な幻影アートであるデザイ
ン的エンターテイメント作品の特徴なのではないでしょうか。このことを代表
する草間彌生の作品を芸術分析してみます。
彦坂尚嘉責任の芸術分析。
《想像界》の眼で《第21次元・愛欲領域》のデザイン的エンターテイメント 。
《象徴界》の眼で《第21次元・愛欲領域》のデザイン的エンターテイメント 。
《現実界》の眼で《第21次元・愛欲領域》のデザイン的エンターテイメント 。
《想像界》の作品で、《象徴界》《現実界》は持っていない浅い表現
液体美術で、個体と気体、さらに絶対零度性は無い浅い美術。
《気晴らしアート》であって、《シリアス・アート》ではない。
《ローアート》であって、《ハイアート》ではない。
シニフィアンの美術であって、シニフィエ性はない。
《原始立体》。[B級美術]。
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草間彌生の毒々しい花に象徴されることですが、下品でけばけばしく不調和であることが、まるで現代芸術であることの証明であるかのようになっているのです。
それは芸術論的には、日本の中にある「ばさら」の系譜を、芸術であると錯
誤する事から起きています。
これについて詳しく論じたのは上林澄雄の「日本反文化の伝統」(エナジー叢
書、1973年)です。この本は、日本社会に歴史的に存在する流行性集団舞踏狂
の流行を分析したものでした。上林澄雄は、大きな権力移動が起きる前に、
民衆の中に狂舞が繰り返し発生してきたことを発見し、その分析を通して、
日本の文明構造の二元的な亀裂を明らかにしています。
日本文化には、《文明》対《原始世界》という重要な対立構造が潜在して
いるのです。外国から高度の人工的な新文明が日本に入ってきて、それを輸入
し喜んで学び、支配者たちはこの《輸入文明》、例えば仏教やあるいは西洋文
化を背景にして民衆を支配するのですが、支配される民衆の中には、文明以前
の、狩猟採集文化、つまり無文字段階の野蛮な文化が脈々と流れていて、上級
の文字をもった《輸入文明》=リテラシーに対して、常に反抗的な姿勢がある
というのです。しかし問題が複雑なのは、反抗的な姿勢が屈折していることで
す。反抗自体が識字性をもつ《輸入文明》に触発され、反発しつつ、にもかか
わらず模倣し、なぞりつつ解体し、伝統的な無文字の野蛮文化の身体的な等身
大の生活世界のボキャブラリーの中に還元し、あざ笑うことに表現を見出して
いくという、複雑な摂取と解体の流れがあり、「ばさら」とか「かぶく」とか
言われる美意識となります。
「ばさら」「かぶく」という言葉を、辞書でひいてみると次のようにありま
す。
「ばさら[婆裟羅]室町時代の流行語。(1)遠慮なくふるまうこと。乱暴。
(2)はでに飾り立てて、いばること。だて。(3)しどけなく乱れること」
「かぶく[傾く](1)頭がかたむく。かしぐ。(2)派手で異様なふるまい・
みなりをする」(『日本語大辞典』講談社1989)
つまり日本の中には乱暴で、派手に飾り立てて、しどけなく乱れる表現の系
譜があるのですが、これが室町時代に「ばさら」とか「かぶく」というような
言葉で姿をあらわし、それはしかし不自然なものであり、異様で、派手で、エ
キセントリックで、《異端の系譜》の源流とも言うべきものになるのです。
これを戦後日本美術に当てはめて、分かりやすく言えば、それは敗戦後の岡
本太郎によって唱えられた縄文主義であり、対極主義であり、あのどぎつい派
手な色合いの絵画であり、岡本太郎の「芸術は爆発だ」と力んでみせる歌舞伎
の見栄を切るようなパフォーマンスなのです。
この岡本太郎が反抗していたのは、実は日本の古典や近代化された日本画で
はなくて、ピカソに代表されるヨーロッパの前衛美術であり、ピカソと岡本太
郎の間にある反発と反抗の関係こそが、「日本の前衛」の構造なのです。ピカ
ソと岡本太郎は原始美術を、アフリカの黒人彫刻や、中期縄文の火炎式土器な
どに見いだして、同じように原始美術を肯定して、そこから大きなインスピレ
ーションを受けて絵画を描いていています。しかしピカソの絵画、たとえば
「アヴィニヨンの娘たち」は、モダンアートであって、しかも《オプティカル
・イルージョン》の絵画であるのです。それに対して岡本太郎の絵画は、
《ペンキ絵》であって、モダンアートではなくて、むしろ色つきの劇画という
べき原始美術なのです。ジャック・ラカンの用語を使えば、ピカソの「アヴィ
ニヨンの娘たち」は《象徴界》の芸術ですが、岡本太郎の作品は《現実界》の
作品と言えます。
敗戦後の日本の現代美術の中には、こうしたピカソをはじめとする欧米美術
に刺激されつつ、これに反発して、より過激に反抗の身振りをする〈日本反文
化の伝統〉を引き継ぐ《現実界》の《ペンキ絵》の美術が異常繁殖していきま
す。戦前の日本画や洋画には、こうした「ばさら」は見られないので、1945年
の大日本帝国の敗戦と、深く関わった原始的なものへの退化現象と言えると、
私は思います。
こうした岡本太郎的な下品な色彩が、草間彌生の毒々しい花にも引き継がれ
ているのです。彦坂尚嘉の私見では、これは芸術ではなくて、「ばさら」なの
です。
さて、ここで北川フラムのローカリゼーションの運動との関連が見えて来ま
す。
北川フラムは、越後妻有の大地の上で、何をやろうとして、草間彌生の毒毒
しい花を、その象徴として飾ったのか?
北川フラム自体が目指したものが、「芸術」ではなくて、「ばさら」であっ
たのではないのか?
「ばさら」は、日本文化のなかにある《文明》対《原始世界》という、対立構造に根ざしているのです。そして越後妻有の里山に潜在しているものは、当然のように無文字
的な野蛮な原始的な自給自足の生活世界であったのです。私が入ったのは田麦
という山村です。ですのでこの山村について語る事で、日本のこの二元構造を
説明したいと思います。この山村というのは、離島とともに、日本のもっとも
遅れた地域とされていました。かつて1950年代の日本共産党は、毛沢東の中国
革命を真似して、「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな方針「日本共産党
の当面の要求」を採択して、この山村からの武装革命を目指して、武力闘争を
開始しました。これに連動して映画監督や草月流の家元になる前の勅使河原宏
や、同じく映画監督になる土本典昭、そして画家の山下菊二などが参加しまし
た。ここでの殺人事件をテーマに山下菊二の名作『あけぼの村物語』(1953年)
が描かれたのです。こういう歴史的な興味もあって、私は日本の一番遅れた地域
である山村での聞き取り調査をしました。分かった事は、東京オリンピックの
あった1964年まで、山村には原始的とも言える自給自足経済が、ほぼ完全に
残っていて、食料や衣料、住居などを自分自身で生産または製作して生活し
ていたのです。必要な食料は自分で畑や田んぼを耕し穀物や野菜、果物を育
て収穫して食すという生活スタイルです。衣料や住居も自分で作り生活すると
いう傾向も、強くあったのです。多くのものは藁でつくり、草蛙(わらじ)を
なって履き、田んぼまで草蛙で歩いて行って、裸足で田んぼに入っていたので
す。着るものも藁でつくった蓑が重要なものであったのです。ところが東京オ
リンピックが開催されると、村に自動車が来て、それから急速に村の生活が変
わって行きます。まず女性が自動車の免許を取って、町まで毎日働きに出るよ
うになります。村にはトラクターなどの農業機械が入ってきて、そうすると本
家を中心に共同作業をしていた農村の秩序は一挙に崩れて、各自が借金をして
トラクターを一軒一台買うようになり、原始共産主義的な相互扶助の仕組みが
崩壊して行ったのです。
これら農民の話は、訛が強いのですが、文字を書き起こそうとすると、地元の
若い人でも、かなり困難でることが分かりました。方言というのは、文字に対応
性の無い音が多くて、つまり無文字段階の日本語の伝統が生きていたのでした。
何を言いたいかというと、里山というのは、無文字段階、つまり文明以前の原
始的な伝統が生きているのであって、それが日本の「ばさら」を成立させる構造
なのです。
そうすると、この越後妻有の里山の大地に、現代美術をローカリゼーションし
た北川フラムの行為は、「芸術」をめざしたものではなくて、「ばさら」であっ
たのではないのか?
越後妻有はあくまでも日本の田舎であって、越後妻有トリエンナーレは、現代
美術を、この日本の現実に還元していくという、そういうローカリゼーションの
美術展であったのです。それは同時に、現代美術の前提価値そのものを解体して
いくという脱-構築運動であって、そのデコンストラクション性を評価する視点
で見ていかないと、北川フラムというアートディレクターに対する正統な理解は
できないと、私は書きました。このローカリゼーションの仕事というのは、
上林澄雄の「日本反文化の伝統」が指摘している、「ばさら」と、重なるものが
あります。つまり外国から高度のアーティストをつれてきて作品を作らせる。
それは2000年の第1回が際立って激しく、当初の総予算のかなりの量がここ
につぎ込まれました。こうして新文明ともいうべき現代アートが越後妻有の
大地の上にパーマネントコレクションとしてつくられて、そうした輸入芸術を
喜んで学ぶのですが民衆の中には、強い反発が生まれました。特に第1回での
冷たさは凄いものでありました。私は5泊6日で見て回りましたが、この住民
の無視の冷ややかさは、肌身に感じました。文明以前の、狩猟採集文化、つま
り無文字段階の野蛮な文化が脈々と流れている越後妻有の地で、《輸入芸術》
=リテラシーに対して、反抗的な姿勢が生まれるのは、に日本の「ばさら」
の構造では、伝統的なものであったのです。。しかし問題は複雑に屈折して、
反抗的な姿勢が屈折して、この大地の芸術祭を受け入れる方向に反転して、
反抗自体が識字性をもつ《輸入芸術》に触発され、反発しつつ、にもかかわら
ず模倣し、なぞりつつ解体し、伝統的な無文字の野蛮文化の身体的な等身大の
生活世界のボキャブラリーの中に還元し、自分たちに分かる手芸や工芸のレベル
に落とす事で喜ぶと言う可能性に表現を見出していくという、複雑な摂取と解体
の流れが越後妻有トリエンナーレの、この4回の過程に見て取れるのです。
越後妻有トリエンナーレで、北川フラムがディレクターとしてやっている仕事
は、欧米生まれの現代美術を日本語に翻訳し、さらに日本の田舎の現実に適応で
きるように、アートの質を修正したり、アートの個人性を消して社会性を強調し
たデザインワークに変質させたり、アートの高度な質を低くしたり、アートの
仕様や様式の変更をしたり、アートの価値観や目的の変更を仕掛けているという、
アート・ローカリゼーションの実践なのでしたが、この行為は、実は日本の伝統
では「ばさら」と呼ばれた,プロセスであったのです。
それゆえに、従来の芸術至上主義や、純粋芸術という価値観や、個人主義制作
を解体して、伝統的な身の丈の、無文字文化とさえ言える素朴な原始的な手芸や
工芸を愛して愛でる感性と、その制作態度に組み直す作業になります。住民参加
の制作による作品の展開は、この近代個人主義的制作の、「ばさら」的な解体再
編運動であったのです。それは《現代美術》というものを、日本の田舎という
生活世界に解体して原始化していくという、最終的な和物化/和風化運動であった
のです。こうして現代美術の「現地語化」という「ばさら」の仕事をしたのが
北川フラムであって、それゆえにこそ、越後妻有トリエンナーレの象徴となる
作品は、草間彌生のド派手で悪趣味な毒々しい「ばさら」の花になったのでは
ないでしょうか。
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敗戦後の日本の現代美術の根底には、この「ばさら」性があるので、とりたて
て北川フラムだけの問題ではありません。しかしこのことから、実は日本の現代
美術が砂上の楼閣であって、制度的にも継続が出来てこなかった秘密が分かるの
です。
むかし東京版画ビエンナーレという国際展を、東京国立近代美術館は主催して
いましたが、これはいつのまにか無くなりました。毎日新聞主催の東京ビエンナ
ーレも消えました。NICAFというアートフェアも崩壊しました。横浜トリエンナ
ーレも、不甲斐ない展開で、もうすぐ終了すると言う感じです。これら日本の
美術制度が基弱であるのは、土台が文明ではなくて、土台が「ばさら」の成立
する原始の野蛮世界だからです。言い換えると、日本の基盤が、文明ではなく
て、自然であると言う事です。
文明というのはエジプト文明に代表されるように、5000年間も変わらな
いという不変性があるのですが、自然というのは複雑系でありまして、変化し
続けるのです。それは賽の河原のようであって、変化し続ける故に、継続がで
きず、積み上げた石はすぐに崩れるのです。
ここに、ヨーロッパの文化がもつ、たとえばベニスビネンナーレが100年
続くと言う継続性と、東京版画ビエンナーレがいつの間にか消えるという事の
差を生み出す構造があります。
そう言う意味では、越後妻有トリエンナーレの基盤が「ばさら」であり、
北川フラムが「ばさら」であるのなら、越後妻有トリエンナーレは、日本のいつ
ものパターンで、消えてなくなるでありましょう。そう予測できるのです。私は、
しかし継続を望んでいます。つまりこの予測は、あくまでも現在の不安定性を
乗り越えるために言っているのです。そこで出てくると言いは、
次の様なものです。 日本の中に文明がないのか? あるのです。
上林澄雄の「日本反文化の伝統」が指摘したように、日本は2重構造なのです。
「ばさら」という野蛮もあるのですが、同時に文明も存在しているのです。
ただ言えることは、越後妻有トリエンナーレは文明の系譜ではなくて「ばさら」
という自然で野蛮な系譜であったらしいという事です。それは、越後妻有トリ
エンナーレだけでなくて、日本の現代美術や現代アートの、大半に言える事の
ように思います。
たぶん、このことを乗り越える事は不可能なのです。まず、この不可能性を
認める事が重要な事だと思います。不可能だという事を知った上で、それを乗
り越えて継続するシステムを構築する事です。
渾身の評論,驚きを持って読ませていただきました.
徹底した現場実証で作品と直に向き合う姿勢は
ほとんど鬼気迫るものがあります.
第一回から参加し,作家との交流蓄積も桁違いなはずなのに,
内部の円環にいささかも流されず,
本質的な流れをよりマクロな状況と重ねて
アートのスペクタクル化,ローカライゼーション,等など
言葉や概念を提起していただき沢山の考えるヒントを頂いた気分です.
越後妻有の売りである3大建築群にしても
例えばレム・コールハース系MVRDV設計の農舞台には
写真から観ても戦艦のような外観に密かな不快感を感じてきました
(現地で確認したいと思った動機がネガティブで
自分でもいささかこの不純さが嫌になるのですが).
道路行政との関連など思いもよらず目からうろこです.
ただ一つ,最後のコンテキストに少々ひっかかりました.
現代アートの中の野蛮性については全く同感ですが,
妻有の原始的自給自足社会との共振を
”ばさら”や”かぶく”の概念で批判されたところです.
これには自分の個人的体験が影響しているのかもしれません.
僕は彦坂さんより7歳ほど歳上ですから
戦後から高度成長期に至るまでも体験の範囲です.
母の実家,牧丘は今でこそ巨峰の里ですが,
当時はまさに陸の孤島でした.
道路はぬかるみのまま,風呂は五右衛門風呂,
トイレは汲み取り式,裏の家など猟師でした.
その実家の蔵にはいろいろな蔵書があり,
きれいなカラー印刷の園芸や世界史の本など夢中で読んだ記憶があります.
叔父は独学でラジオ工学の勉強を積んで,回路設計などお手の物でした.
テレビが登場する前で,少年時代の僕もその影響で
真空管ラジオの組み立てに熱中しました.
叔父は自分で言うのも変ですが僕が会った最も知的な一人だと思います.
こうしたセンチメンタルな理由が有って,妻有のような場所を
野蛮な文化圏と断言することに抵抗があるのかもしれません.
本当はもう少し別の可能性も無いのでしょうか?
by symplexus (2009-08-18 22:54)