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初音ミク(加筆3校正1) [アート論]

文化の状況が、プラズマ化して、《炎上》状態になった例として、
初音ミクをつかった作品を例にあげておきます。

《炎上》は、『アートの格付け』としては《第21次元 愛欲領域》
なのです。




《想像界》の眼で《第21次元》だけの《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第21次元》だけの《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第21次元》だけの《真性の芸術》

《想像界》だけの表現
プラズマだけの表現

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の表現
理性脳だけの表現

《原芸術》は無い。
《芸術》は無い。
《反芸術》は無い。
《非芸術》は無い。
《無芸術》は無い。
《世間体のアート》は無い
《形骸》も無い
《炎上》である
《崩壊》では無い。

初音ミクというソフトの面白さは、
音楽を作曲し、歌手に歌わせるという、エリートにのみ許された
特権的な位置に、無名で無能な大衆が入って来て、
音楽のまがい物であるにしても、音楽らしきものを作れるという事です。
つまり大衆による音楽制作の拡大なのです。

初音ミクという音声ソフトで作られた音楽は、
すでに膨大にあります。
その中で面白いものは実は少ないのです。
その面白い完成度の高いものを2つ、ご紹介しているわけです。




文化の状況が、プラズマ化して、さらに《炎上》以上になると、
《崩壊》が出現します。
『アートの格付け』としては《第16次元》です。

これも初音ミクをつかった作品を例にあげておきます。


《想像界》の眼で《第16次元》だけの《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第16次元》だけの《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第16次元》だけの《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
プラズマだけの表現

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の表現
理性脳だけの表現

《原芸術》は無い。
《芸術》は無い。
《反芸術》は無い。
《非芸術》は無い。
《無芸術》は無い。
《世間体のアート》は無い
《形骸》も無い
《炎上》でも無い。
《崩壊》である。

タグ:初音ミク
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人を見るという事/コメント欄での応酬(加筆2) [告知]

コメント欄に、書いて下さる事は、ありがたいと思いますが、
しかし、人間の関係ですので、それは、あくまでも社交です。
つまりここは、文化的な社交の場なのです。

このブログは彦坂尚嘉の個人名で発信している私的な場です。
言い換えれば個人の開催する文化的な私邸なのです。

批判というのは、文化活動であって、
私が他人の作品を批判する時は、文化活動としてのルールは守って
いるのです。
すくなくともそれに関する努力を多大にしています。
まず、批判する人の作品や活動について、勉強しようとします。
そして批判の文章を、批評作品としての形式と厳密さをもって形成
しようとします。

しかも本名で、自分のブログで書いているのです。


批判も歓迎しますが、それもあくまでも言論のルールの内側であって、
それを超えた失礼な発言をする人は、申し訳ありませんが、
一切、相手にしません。
自分の名前や責任も明示しないで、しかも他人のブログで書く、
罵詈雑言や、誹謗中傷というのは、文化としての批判行為とは違うのです。
そういうことが理解できない人の失礼な発言は
削除します。


一度でもそういう発言をした人は、
信用をしません。

人間の関係というものを、きちんと踏まえて下さい。

この世界にはいろいろな人がいて、
全てを相手にする事は出来ません。

人間としての人格を示し得ない発言をした人を、相手にしないという
ことは、実は社会を形成する上での基本なのです。
こういう人格の人を相手にしても無意味だからです。

人間には平等な人権があるということは、
あくまでも法の次元であって、
具体的な社交の場には、通用しないのです。

具体的な場というのは、たとえば広告の電通ビルに入ろうとすれば、
セキュリティがかかっていて、入ることが出来ません。

同様のことは、このブログのコメント欄でも言えて、
社交のルールを無視した人は、相手にしないのです。

村上隆さんの芸術道場も、ひとり、ひどい荒らしの人がいて、
炎上して、閉じたというような事を、人づての風聞で聞いています。
事実は確認していませんが、そういう事態は覚悟して、
このブログをやっています。

つまり人間は実はかなりひどい人がいるのであって、
社交の基本ルールを無視して、攻撃してくる人が現実にいるのです。
人間には平等な権利があるなどと言う妄想は、
具体的なネット社会では当てはまらないという事です。
ひどい人は排除するというのは、
基本だと言う事です。
そして収拾がつかなくなればコメント欄を閉じるということです。
その覚悟でやっているというのは、理解して下さい。

私自身は、テオリアというメーリングリストも長くやりましたが、
攻撃が激しくなって、中止しています。
このブログのコメント欄も、攻撃をやめなければ、停止します。
停止して、私は他の領域にエネルギーを移動させます。

常に敵はいるのであって、
敵は敵であって、敵は友人ではないのです。


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祭りの後 [状況と歴史]


個人メールで私の作品について感想をいただきました。


彦坂様



○○です。



本日も貴重な機会をありがとうございました。



○○○は、適切なことであるのかどうか、昼まで悩んだのですが、

彦坂さんの実際の作品を見てもらいたいと思い、

あと、アートフェアなどに行くのもはじめてなので、ものは体験ということで、

一緒に行きました。


突然すみませんでした。

以後は、○○○というのは控えようと思います。

わたしが集中できないので。



○○は

「ヒコさんの作品は、実際に見るとかわいい」と言っていました。

(○○もブログを読んでいます、わたしほど熱心ではありませんが(笑))

わたしもはじめて見たとき、似たような感想を抱きました。

暖かみがあるし、人間味があるように感じるので。


今感想を聞き直しました。


「(会場で)いろいろ見てると、社会構造のしがらみを感じてげんなりしてくるけれど、

ヒコさんのは、その外側にあるものに見えた」だそうです。



ほんとにそうですね。

(それが褒めていることになるのかは分かりませんが)



あの会場の中で、わたしは吐き気を感じました。

あんなにたくさんあるのに、心が躍るような、

かすかでも元気をもらえるようなものが、ほとんどなかったですから。


でも、彦坂さんのからは、風というか、、そういうのを感じました。



ウッドペインティングの青いやつは、いつまででも見ていたい青でした。

あとは、阿修羅のが好きでした。

けれど、値段がアレなので。。。。(笑)



「ポスターでいいよ」とか「イラストじゃん」とか、「職人仕事じゃん」と

言いたくなるものがたくさんあって、ちょっと驚きました。

ああいうことになってるのですね。

現代アートの「売り物」を、あんなにたくさん見たことなかったのです。

欲望と人間関係がうずまいているようで、息苦しかったです。あの大きな空間が。


彦坂さんはああいう中で闘っていらしたんだなあ、と思いました。


でもきっと、昔は少し事情が違ったのかもしれませんね。


正直、大変だなあ、と思いました。


ああいう中で、気体分子ギャラリーをやるのは、大変だなあと思いました。


正直ですみません(笑)。


でも、逆にわたしは「温度」のある作品と、その作者さんたちに触れることができて、

幸せなんだな、と、すごく思いました。



普通の大きな美術展にばかり行っていた者の感想です。



皇居美術館のチラシもできてよかったですね。

紙が厚くて、がんばったな! と思いました(笑)。


出版が楽しみです。

早く読んでみたいです。




それでは、取り急ぎお礼と感想でした。


あと2日、体調気をつけてがんばってください。



追伸:本日、「○○○○」が届きました♪


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

感想をありがとうございました。


《近代》という時代は、

2つの世界が成立していて、

自由主義圏では、純粋芸術=前衛美術が成立し、

もうひとつ社会主義圏では、社会主義リアリズム=凡庸アートが

成立していたのです。


ところが1975年にアメリカがベトナム戦争に敗れると、

純粋美術は退潮して、。ニューウエーブという形で、

《想像界》の美術が復権して、不純主義の美術が台頭します。


さらに2001年にソヴィエトが崩壊すると、

社会主義リアリズムとしてあった凡庸アートが、

世界中に広がって行くのです。


今回のアートフェア東京2010は、

この不純主義と、凡庸アートでほとんどが占められていて、

スターリンがいたら、大喜びするような分かりやすい展示と

なりました。

《第6次元 自然領域》と《第8次元 信仰領域》が大半で、

その中にかすかに《第1次元 社会的理性領域》の作品が

あったという状態でした。


一般に《第8次元 信仰領域》のものが商業主義の中では増大する

傾向があるように思います。

それはレンタルビデオ屋でも感じる事です。


しかしだからこそ、今回のアートフェア東京でも、驚くほどの大衆が

やって来て、混雑の日々となりました。

この不景気に、買いもしない人びとは、何のために来ているので

しょうか。


実は、《近代》が終わった時に、ということは

1986年ぐらいからなのですが、

巨大建築が建ち始めた時期から、文化の大衆化が、

さらに進展したのです。

文学においても、映画においても、美術においても、

スポーツにおいても、

グローバリズムと、商業主義と、そして巨大化、大衆化が、

爆発するように展開して来ます。

その中で、プライマリーギャラリーが主導した時代は終わるのです。

それは同時に批評の終焉でありました。


オークションと、アートフェアが台頭して、芸術を、大衆が決定する

ような時代に変貌したのです。

その代表的なアーティストがジェフクーンズでした。

株屋上がりのアーティストで、イメージ戦略を意識し、

大衆の理解できるイメージを、高度で大規模な技術で成立させた

作品は、グリンバーグが否定したキッチュを再評価して使用した

新しい時代のアートであったのです。

このジェフクーンズを摸倣したのがダミアン・ハーストと村上隆で

した。

こうして新しい前衛美術と社会主義リアリズムの統合された現代アート

が成立すると、実は何でもありの状況になって、

純粋芸術はあっというまに退潮したのです。


アートフェア東京2010年にあった猥雑さは、

大衆美術の猥雑さと言えます。

しかし《近代》にあった純粋美術の前衛性を知っている者にとっては

この交代劇は、ある種の必然に見えるのです。


文化も政治も、大衆凡庸主義が占拠してくる時に、

これを避ける事に、あまり私は意味を感じないのです。

つまり大衆主義から見を引き離すにしろ、貴族主義に隠遁してみても、

あまり成果が上がらないように思います。

彦坂尚嘉がめざすものは、大衆主義から身を引き離しつつ、

この大衆主義=凡庸普遍主義=自然的態度との格闘を、

試みていく事です。

つまり貴族主義と大衆主義の統合化の模索です。

それはサントーム・アートと言えます。


新国立美術館や東京都現代美術館など、美術館の巨大化は、

美術作品の巨大化を要請するとともに、集客性を要求しているのです。

もはや大衆という観客の存在を、単純に切り捨てるだけでは、

芸術を成立させ得なくなったのです。



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安いですが6点売れました。 [日記]

お客さんの人数は、多くて、初日のVIP日で7、700人。
一般公開初日で12000人ですので、
アートフェア東京2010の全部では4万人は超えそうです。

今、銀座の貸し画廊で一週間で100名くらいということも、
普通にあって、
INAXのような集客性のあるところでも一週間で1000人くらい
と思われますので、4日で4万人は、さすがに大きい数字です。

私の作品も、安いものですが6点売れて、
出品料の足しにはなりませんが、それでも良かったと思っています。

買って下さった方々、
そして見に来て下さった方々に深く感謝いたします。

それと社交場としてもやはり優れています。
多くの人が来られるので、久しぶりにお目にかかってお話できるのは
良い事です。

今日はこれからライブドローイングですが、
どうなりますでしょうか。

そして搬出です。



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《超一流》の美術作品を集める皇居美術館(2) [アート論]

3 工芸を含む芸術の豊かさを

彦坂・私は中学生の時から美術館回りをして、東京国立博物館にお弁当を持って行って、とにかく訳の分からないままに国宝や重要文化財を目で暗記しようとしてきたのよね。

坂上・何故に目で暗記しようとしたですか?

彦坂・なぜかと言えば、東京国立博物館に行って国宝や重要文化財になっている名品をみても、何か茶色っぽい古くさいもので、中学生の私には良いものとして理解できなかったからね。

坂上・理解できない事を、何とか乗り越えよう思って、丸暗記したのですか?

彦坂・そう、とにかく国宝や重要文化財に指定されている良いとされる美術品は、眼で丸暗記しようと考えたのね。「暗記、暗記」とお題目を唱えて、目を開き、国宝を凝視して頭に刻み付けようとしたのです。

坂上・真面目ですね。

彦坂・大学生になると京都国立博物館や、奈良の大和文華館、奈良国立博物館に、新幹線に乗って繰り返し行くようになります。なぜにそういうことをしたかといえば、昔は一ドル三六〇円の固定相場性であって、日本人は貧乏で、私の家のような中流では外国に行って本物を見られないので、海外作家の目に対抗するには、自国の最高の美術品を見る事で、芸術の善し悪しを見分ける目を作ろうと思ったのです。日本のすぐれた名品というのは、何といっても奈良や京都などの関西に集中してあるのです。ですから私の美意識を育てたのは、京都や奈良であり、日本の国立博物館であり、国宝の評価システムという伝統美的な権威主義的なものなのです。

坂上・でも、彦坂さんて、国宝で、しかも国民的な人気の長谷川等伯の「松林図」を、《六流》の『ペンキ絵』であるって言って、飲み屋で喧嘩していたではありませんか(笑)。

彦坂・しかし長谷川等伯の「松林図」に夢中になる人は、下敷きにある牧谿という中国画家も知らないという教養の無い人が、大多数なのです。イメージとしては「松林図」は良さそうではありますが、きちんとした絵画としては、松ノ木も大地にきちんと根を張っていまいし、松ノ木と松ノ木の相互の関係性も空間も描けていない。つまり《真性の芸術》ではないのです。つまり日本の重要文化財を再度自省的に、自己批判的にまで参照し検証するところまで私は、成長して来て、今回の皇居美術館と言う空想美術館のプロジェクトを始めたのです。つまり彦坂尚嘉というのは、日本美術界の権威の中で育てられて、それを内側から食い破って出現して来た鬼っ子なのよね。

坂上・確かに、鬼っ子ですね。私なんかより年寄りのくせに、若いアーティストの展覧会を作ったり、そのくせに古美術も勉強し続けて、よくもそういう風に、情報化社会の先端の流行美術と、反対の古美術を同時に追いかけられますね。

彦坂・私は中学二年のときに、講談社の『世界美術全集』と『日本近代絵画全集』というものを買っています。はじめに気がついたのは、赤の色が国によって違うという事でした。たぶん、手に入る赤の顔料が違っていて。そういう中で違いが固定されて行ったのだろうと考えました。日本の赤はやや黄色みのある朱色が主流でした。イギリスの赤はそれに比べると青みがあって、赤紫に近い赤でした。つまり日の丸の赤と、ユニオン・ジャックの赤が、おなじ赤でも色相に差があるのです。美術を見る目は、あくまでも全人類史の中で見て行かないと、芸術の本質も、日本の固有性も見えては来ないのです。

坂上・日本美術しか見ないと公言する日本美術史の専門家とか、右翼を公言する文芸評論家もいますよね。

彦坂・実は私はそういう保守的で右翼的な人たちも嫌いではないのですが(笑)、しかし全人類史の美術を広範に見る中で日本美術を見ないと、自国の美術作品の赤の色すらが理解できないと考えます。
 皇居美術館建設という主張は、これでナショナリズムを鼓舞しようとしているわけではありません。むしろローカリズムです。グローバリゼーションが拡大していくときに発生するローカリゼーション、進歩があれば退化があるという原則がありますので、グローバリゼーションが進むならローカリゼーションもある。その両方のバランスを取らないと、自分たちの個人性というか個別性を失うわけです。ですから、海外にたくさん出て行って、大きな美術館でヨーロッパ美術のいいものを見る事はいいと思います。アメリカ美術の良いものを見るのもいいし、中国に行って本物を見るのもいいのですけれども、日本国内で日本美術の優れたものを見られる場所がないという現実の冷酷で貧しい事実を忘れてしまうと、単純なアイデンティティすらも取れなくなります。根無し草のニセモノの人間になって、ただのゴミのようにしか生きられなくなる。私たちはある種の日本という言語共同体の運命の中を生きているわけです。何も好き好んで日本人に生まれたわけでもありませんし、日本という島国に生まれたわけではないのだけれども、それはひとつの運命ですから、自分の運命性みたいなものとして、日本美術の《超一流》性をきちっと、自らの足元として見て自覚する必要があるわけです。
  その自覚性を欠いてしまうとただ外に出ていってグローバリゼーションの中で翻弄されてまあ消費されて消えてしまいます。そういう事に抵抗しようとすれば、皇居美術館を建設しようと言うローカリゼーションの動きというのも、それは保守反動的な思考かもしれないですけれども、しかし無意味な欲望では無いだろうと思うわけです。

坂上・情報社会特有のローカリゼーションというものを考えてみる必要があるわけですね。

彦坂・そういう意味での皇居美術館という事を主張しているのですよ。皇居美術館に日本美術の《超一流》の名品を集めて常設展示をして、誰でもいつでも見られるようにして、そういうかたちで美術館を整備して世界に日本美術を発信していく必要があるわけです。

坂上・日本は小さい国だけれども、小さいからこそ美術は《超一流》性で優れているという事ですね。小さいものが優れているという事は、今のITの時代だからこそ言える事ですね(笑)。

彦坂・日本の美術家については、すでに述べたように中学二年生の時に買った『日本近代絵画全集』に書かれている評伝と、村松梢風の『本朝画人伝』で私は勉強したのです。中学生段階で最初に買って、それから以降も結構読んでいるのですが、そうすると私が優れていると思う美術家は中国美術の大きな影響を受けているのですよね。私一番好きだった作家のうちの一人は、靉光と言う画家で、靉川光郎、本名が石川日郎です。大正天皇が崩御して昭和という時代になった一九二六年に二科に入選というかたちでデビューして、太平洋戦争中という最悪の時代に生きて、敗戦直後に上海でマラリアとアメーバー赤痢で死んだ靉光。私は高校生の時に靉光の絵画が大好きだったのです。広島出身の画家で、原爆で靉光の多くの資料な燃えてしまっています。しかし残された油彩画やデッサンに私は深い感動をお覚えたのです。
 で、もう一人は先ほど書いた墨の豚と言われた富岡鉄斎です。富岡鉄斎は、耳が少し不自由な画家ですが「万巻の書を読み、万里の道を往く」を座右の銘にして実践した偉大な画家です。
 ふたりとも中国美術の影響が強い作家です。靉光ですと宋元院体画というものに大きな影響を受けています。富岡鉄斎は中国元明時代の古書画を模写して学んだ小田海僊に教えを受けているので、元や明時代の中国絵画の影響を受けているのです。
 中国の場合、美術家には二種類あります。ひとつは士太夫といって高級官僚です。軍人と文官という普通の官僚の偉い人で、それらが文武両官で、彼らが支配者層ですが、絵を描くのです。自分たちが教養があって、偉いという事を見せつけるために、絵を描く。それが文人画といわれるものです。もう一方は、宮廷が存在しますから、当時は宮廷の美術装飾品をつくっていく画院というものが当時ありました。

坂上・画院というのは入るのに試験があって、試験に通った人が職業画家になっていったのですね。

彦坂・ヨーロッパの芸術家の場合には職業画家しかいないので、その辺が日本の常識とは違うのですよ。

坂上・日本では、画家になると言うと「好きなことが出来て良いですね」という風に趣味人と区別がつかないのですよね。

彦坂・文人画家の伝統があって、それを芸術家と信じているからです。実際には職業画家の系譜がもうひとつあって、職業人であって、労働として美術品を制作し、販売をして食べて来ているのです。「絵は賎技なり」という言葉がありますが、絵画を作る技術は画工のものであり、それは下級の卑しいもののやる事であったのです。家系的にも「庶子およびその子孫」と言われるもので、私生児で、社会的な正当性が無い者とその子孫が、美術家になって行ったのです。
 中国画家で一番有名な一人は、北宋の范寛で、范寛の山水画は超一流の絵画で、台湾の國立故宮博物院にもあって見る事ができます。

坂上・私も見に行っています。もっとも現存するのは「谿山行旅」という一枚だけですね。一作品しか残っていない作家! 一枚だけ見せられて、「どうだ、すごい画家だろう」と自慢されるのも、自慢される方は、なかなか納得のいかないものですよね。それだけすごい作家なら、もっと多くの作品を、多くの人びとが守ったはずだと思うのですけれども。

彦坂・中国は戦乱を何度も体験しているので、美術品や建築が燃えてしまっているのです。范寛は職業画家であるといわれます。范寛の絵画には多くの日本人が惹きつけられています。けれどもこういう超一流の絵画が中国には実はたいへんに少ないです。 
李成も《超一流》の風景画です。郭煕も超一流ですけども、大和文華館で、この二人が作った李郭派山水画の展覧会が開催されています。私も見にいっています。もっとも李成と郭煕は同時代人ではなくて百年ぐらいの時代差がありますので、「李郭派」というのは、日本で言えば琳派というようなものであって、《系譜的流派》なのです。

坂上・モダンアートが同時代的流派に焦点が会ったのに対して、前近代には《系譜的流派》があったのですね。

彦坂・こういう「李郭派」様式は確かに優れた超一流美術で、《超一流》の倒錯した《四十一流》性も併せ持っています。しかし同じ李郭派の中でも私が六流と判断する《第六次元 自然領域》の凡庸な絵画が結構な数あります。そしてこの時期の山水画以外には《超一流》《四十一流》の絵画が中国にはほとんどなく、多くは《一流》美術です。
 中国は政治性が非常に強い大国家で、《第一次元 社会的理性領域》というものが強いようで、美術作品も《一流》に抑制されていて、社会的理性領域を超える事がむずかしいようなのです。

坂上・日本だって《一流》は強いのではないですか。

彦坂・確かに日本も《一流》は強いのですが、中国はもっと《一流》が強いのです(笑)。もちろん《第6次元 自然領域》の凡作も多いですが、中国の絵画の名品の多くは《一流》美術にすぎません。もちろん《一流》が良いという価値観で言えば中国は大絵画がたくさんあります。しかし私のように、《一流》を超えて行って、社会的理性や常識の支持を超えた《超次元》に立って、表現として真に自立した《超一流》の絵画を優れているという価値判断に立つと、《一流》というのは社会的存在ですから、社会的規範に支えられ、社会に依存した《世間体の芸術》にすぎないものになるのです。

坂上・彦坂さんのような冷めた目で見ると、たいしたことはないのですか(笑)。彦坂・芸術の歴史である《原芸術》を原点として、社会の外に規範をとって、芸術として超出したものを見ようと思うと、中国美術にはそれが少なく、「あ、これはもしかすると日本が多いのかな」という気持ちになったわけです。芸術というのは、複雑な構造していて、しかも基準が二つあるのです。ひとつは芸術の起源から始まって、純粋に芸術の歴史を刷新して屹立してくる《原芸術》に依拠した《真性の芸術》です。もうひとつは、一般社会の中での芸術の評価を基準として成立してくる《世間体のアート》を基準とする芸術です。

坂上・《世間体のアート》って、リアルで面白い見方ですね。

彦坂・ヨーロッパでだいせいこうしたティツアーノとかミケランジェロというのは、《世間体のアート》で成立していて、《原芸術》性が無いのです。中国美術の歴史を見ると、元(十三〜十四世紀)までは《原芸術》を基準とするすぐれた作品がありますが、明(一三六八〜一六四四年)や、清(一六四四〜一九一二年)になると《世間体のアート》を基準にした美術に変化しています。つまり私のような眼からすると明や清の美術は評価できないのです。 

坂上・でも日本も《世間体のアート》は強いのではないですか?

彦坂・確かに《世間体のアート》は強いですね。それでも『源氏物語絵巻』は《原芸術》性をもつ《真性の芸術》なのです。しかも《超一流》なのです。

坂上・つまり《超一流》の絵画に焦点をあわせると、日本美術は中国美術を、量と種類で圧倒的に凌駕しているというのですね。

彦坂・中国美術はすぐれていて、日本美術は《二流》であるという、小さな時から教え込まれて来た日本人の劣等感は、どうも事実に反するのではないか?と考えるようになったのです。

坂上・でも、中国の青銅器や陶磁器、そして書になると、中国の美術品は凄いですよね。夏や殷の青銅器は、ほんとうに偉大な芸術です。

彦坂・確かにそうですね。日本には青銅器の《超一流》のものは無いように思いますが、しかし日本にも鉄器というか、日本刀は《超一流》《四十一流》の鑑賞芸術性を持ったものがたくさんあります。しかも日本刀は、刀身自体が芸術的価値を発揮しているものがあって、すぐれた日本刀には《原芸術》性があって、鑑賞芸術として《真性の芸術》なのです。

坂上・日本刀の美しさは、中国人も認めていますね。

彦坂・日本刀は、日本美術の傑出した美しさの代表なのです。ただすぐれている日本刀は時代的に限られていて、平安時代後期から、せいぜい室町時代の末くらいまでが《第四十一次元》です。江戸時代になると古刀は終わってしまって、新刀になって《第八次元》の《八流》になってしまって、ただの人切り包丁に成り下がってしまいます。
 私は中学生の時から東京国立博物館で古備前派の包平の大包平(おおかねひら )などの国宝の日本刀を見て来ているから、日本刀を鑑賞する事には違和感はまったくないのです。一応日本刀の先生が私にはいて、太田丈夫さんというマニアですが、彼に教えてもらっています。しかし今日の現代アートの作家たちは、ほとんど見向きもしないのです。

坂上・「日本刀は分からない」と、現代美術の人は言います。

彦坂・しかし分かるも分からないも、そもそも彼らは見ていないのです。良い刀を見て目で覚えれば、刀の善し悪しは、次第に分かるようになります。ですからすぐれた刀、この場合は《超一流》が反転倒錯した《四十一流》のものが名刀ですが、それを常設展示して、日本人にも、海外の人にも見て欲しいですね。

刀剣 太刀 銘備前国長船兼光作   14世紀
刀剣 太刀 銘国行(山城)   東京 藤沢家 国宝
刀剣 太刀 銘奉納八幡宮御宝殿北条左京大夫平氏綱   相州住綱広 作
刀剣 太刀 銘備前国長船住左衛門尉藤原朝臣則光
刀剣 大太刀 銘備前国長船兼
刀剣 太刀 銘宝寿
刀剣 大太刀 銘備州長船法光生年三十三
刀剣 太刀 銘来国光
刀剣 刀 金象嵌銘 城和泉守所持 正宗麿上 本阿(花押)   東京国立博物館
刀剣 太刀 筑州住左
刀剣 太刀 銘備前国包平作   東京国立博物館 国宝
刀剣 刀 銘奉納接州住吉大明神御宝前   大阪 住吉大社 重文
刀剣 太刀 銘一   静岡 矢部家(矢部利雄) 国宝
刀剣 短刀 銘山城国西陣住人埋忠明寿   東京 古河家 重文

坂上・刀剣の次いでに、鎧はどうなのですか?

彦坂・鎧って、きれいなものがたくさんあるのですが、ほとんどが《一流》なのですね。でもね例外もあって、一番すごいのは徳川家康の鎧が《超一流》なのですが、それはヨーロッパの甲冑を輸入して、改造した南蛮胴具足というものなのです。日光東照宮が持っています。もっともこうした南蛮胴具足というのは徳川家康だけでなくて、当時ははやっていた様です。

鎧 南蛮胴具足   栃木 日光東照宮 重文
鎧 仁王胴具足   東京国立博物館

坂上・徳川家康って、西洋鎧をきていたのですか! でも、これって芸術なのですか?

彦坂・芸術というものを鑑賞芸術に限定して、しかもモダンアートが追求した純粋芸術に限定すると、《原芸術》《芸術》《反芸術》の三種類の《ハイアート》しか、《真性の芸術》とは言えなくなります。
 しかし、《世間体のアート》、そして《非芸術》《無芸術》といった《ローアート》も芸術として認めれば、着物や鎧も芸術として鑑賞されるのです。
 実際、たとえばメトロポリタン美術間では服も西洋鎧も展示されています。同様の事は多の他の美術館でもいくらでも見られる事です。

坂上・着物はどうですか? 東京国立博物館には、着物も展示していますよね。

彦坂・橋本治さんの『ひらがな日本美術史』という連載が芸術新潮で十年間展開されて七冊の本になっています。その中に着物も入っているのですが、橋本さんが論じた着物というのは、能衣装なのです。能面や狂言面には《超一流》や《四十一流》のものがありますが、能衣装は全て《一流》しかありません。しかし着物の中には《超一流》のものもあるのですね。そのいくつかは布をつないで作ったパッチワークです。パッチワークというのは、コラージュですので、《一流》という社会的な常識を超える事がコラージュでできるのですね。

坂上・着物のパッチワークって、きれいですね!

着物 紺・緋羅紗袖替り陣羽織   山形 上杉神社 重文
着物 菊水文様小袖   国立歴史民俗博物館
着物 滝に受鉢菊文様小袖   国立歴史民俗博物館
着物 片身替鉄線扇面模様縫箔   東京国立博物館
着物 金銀欄椴子等縫合胴服   山形 上杉神社

坂上・能衣装の話が出たついでに、能面はどうですか。

彦坂・能面では、何と言っても秀吉が愛した「雪の小面」が美しいですが、他にも般若面や、翁面、そして狂言面に《超一流》があります。それと伎樂面にもすぐれた《超一流》の面があります。

面 小面 雪の小面   京都 金剛家
面 伎楽面 呉公   奈良 正倉院
面 伎楽面 冶道   東京国立博物館 重文

坂上・陶器は国宝が数点しか無いと聞きましたが。

彦坂・国宝指定されると、使えなくなるので、それもあって少ない様ですが、しかし前漢(紀元前206年 - 8年)から《超一流》の陶器のある中国に比べると、日本の陶器は《超次元》がすくなくて、ほとんどが《第一次元 社会的理性領域》ですね。 、それでも本阿弥光や長次郎の陶器は《超次元》で、日本の独自性があります。
陶磁器 色絵橘文大皿 鍋島   静岡 MOA美術館
陶磁器 本阿弥光悦 黒楽茶碗 銘「雨雲」   三井文庫 重文
陶磁器 本阿弥光悦 白楽茶碗 銘「不二山」   サンリツ服部美術館 国宝

  そういうわけで、《超一流》と、その倒錯領域の《四十一流》の日本美術を集めてみようと考えて、それらを皇居美術館に展示しようというアンドレ・マルロー的な空想の美術館を構想したのです。
 アンドレ・マルロー(1901〜1976年)というのは、フランスの作家で、政治家です。マルローは、印刷複製による画像によって、美術作品が場所や時代、そして大きさの違いを超えて、違う関連性を見せてくれる新しい知的な広がりを評価して『空想の美術館』と名づけたのです。
 皇居美術館というプロジェクトは、このマルローを引き継ぎつつ、皇居に巨大美術館を建築したとする空想が見せる広がりを提示したものです。そういうわけで《超一流》の日本美術館というのが『皇居美術館』です。ですから、日本美術全集として《超一流》の画像を集めて一冊の本にしようと構想したのですが、一冊が四万円もの本になるというので、出版企画としてはこの厳しい時代には無理で、とりあえず本書のような書籍になったのです。 
 その世界版で、世界の美術の中から《超一流》の名品を集めた美術館=美術全集が「帝国美術館」というものです。これも基本的な複製画像は集めているのですが、これも美術全集集として編纂して出版するのは、むずかしい情勢です。
 この両者は、美術の善し悪しを《超一流》を基準にして再度洗い直すと言う美術史批評的なコンセプチャルアート作品なのです。

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アートフェア東京2010の初日VIP内覧会 [日記]

4月1日は、ラカンの読書会で、立教大学でやりました。
非常に充実していて面白かったのですが、
その帰り、夜の11時半頃に藤沢市の日産レンタカー屋に行って、
2トンのアルミ・トラックを借りて、アトリエに帰りました。

それからまた制作で、結局朝の6時過ぎまでかかって、
ようやく滑り込みで間に合って、
トラックを運転して、有楽町の東京国際フォーラムへ滑り込みです。

一番の事故は、印刷屋の機械が不調で、チラシがこの日には届かなかった
ことです。
初日のにぎわいも大きかったので、
チラシは欲しかったのですが、
無くて残念でしたが、しかし逆に、今、糸崎公朗さんと、
それとオージュンの作品などが持っている大衆普遍主義について、
強烈に体感しました。

小山登美夫ギャラリーに代表される大衆普遍主義の美意識というのは、
強烈に時代の精神としてあって、
凡庸なものを普遍であると錯誤する確信の強さが、
今日においては突出しているのです。

これが崩れるのは、
日本の経済が破綻して、日本の預金が吹き飛んで、
ただの貧乏人に転落するまで続くでしょう。
金を握った大衆凡庸主義というのは、
その限りのものです。

しかし、それはただのアクタイをついたに過ぎない事であって、
哲学的な事実で言えば、この大衆の凡庸普遍主義こそが、
ソクラテスを殺した中心なのです。
フッサールが「自然的な態度」と呼んだ無反省な直接性の感覚と
精神が、今日の美術を強烈に成立させています。
その強さを体感できた事は、良かったと思います。

それは同時にソヴィエトのあった時の社会主義リアリズムの
美意識なのです。
これは日記として書いているので、論証の手間を飛ばして言えば、
社会主義リアリズムの根底にあった基盤は、
オルテガの大衆論が指し示した凡庸普遍主義なのです。
この社会主義リアリズムが、1991年以降は、
世界の全体を浸すようになった。

この問題も含めて、またブログで、出来るだけ丁寧に書ければと
思いました。

さて、とにかく作品は展示されましたが、
あまり、内輪の事情を書けませんが、
たとえばギャラリー手の杉山旭さんには不評で、
ウッドペインティングだけが良かったと言われました。

タマダプロジェクトの玉田俊雄さんにも、
どうやら不評で、沈黙だけでした。

ふるい人間関係が全て不評であったかというと、
そうでもなくて、
東京画廊の山本豊津さんには好評でありました。

美術評論家の峯村敏明さんにも、
あの会場で、まったく別の仕事であったと、
アートフェア東京2010の会場での異質性を指摘して下さいました。

まあ、実際孤独ではあります。

今回の制作をボランティアで助けてくださった、若いアーティスト
達に感謝します。山口俊郎さん、中川晋介さん、松下和歌子さん、
栃原比比奈さん、田嶋奈保子さん、ありがとうございました。

最後になりましたが、
ギャラリーARTEの梅谷幾代さんに、感謝します。
アートフェア東京2010への出品は経済的に、まず大変な
出費をようします。
特に、四国の本島という離島からの出品は、たいへんなのです。

作品は昨日1点は売れましたが、
とても、この経費が出るわけではありません。
今後の『空想 皇居美術館』の展開の中で見ていただくしか
ありませんが、日本経済の破綻状況の中で、
しかしアートフェア東京2010への出品をされたことは、
スピリチャルで、尊敬できるものであります。

これをバネに本島でのギャラリー活動にご協力できればと
思います。



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アートフェア東京2010への出品作品画像 [作品と展示]

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アートフェア東京2010に、ギャラリーARTEから、
彦坂尚嘉が出品します。
ライブドローイングも、最終日の4日の日曜日1時からやります。
ビデオも、再び加藤力さんに撮ってもらいます。

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彦坂尚嘉 皇居美術館シリーズ/写楽幻視
20号
油彩 アクリル キャンバス
価格:80万円

写楽をシュミレーショニズム化した作品。
もともと『空想 皇居美術館』という本を、
朝日新聞出版から出すにあたって、
新聞社の担当者からの要望で描いたもので、
その意味では、注文でつくったシリーズの作品のひとつです。

実物は、奇妙なバラバラに解体された感じがあって、
気に入っています。
鬼気迫る写楽です。


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彦坂尚嘉 皇居美術館シリーズ/阿修羅像幻視 
20号
油彩 アクリル キャンバス
価格:80万円

これも写楽と同様のシリーズ。
全部で4点制作予定の2枚です。
写楽とはちがって、彫刻を写真起こしして描いたもので、
これも異様なものですが、ありがたみのある作品になっています。

格付けをする暇がないのですが、
《超一流》から《41流》全て有る作品で、
しかも最近の制作の特徴である《原ー帝国》まで有る作品です。

価格的には80万円という高いものですが、制作する側としては、
低価格作品は、別の制作方法をとらないと、価格を下げることが、
できません。
ですから、あくまでも上流階級用の作品です。

それとアートフェアということもあって、
オークションシステムを使えません。
気体分子ギャラリーとしてネット中心の販売をするときは、
オークション・システムでやります。
その時は、出品する作品も、オークションで販売できるものを
開発する事を考えます。

アートフェアでは、プライマリープライス制度が生きていて、
オークションとは、価格の基準が違うのです。

つまり現在の社会には、違う価格システムがいくつも、現実にある
のであって、その事実を認めて下さる事が、重要です。

オークションの新しいシステムを、
気体分子ギャラリーでは考えていて、毎日オークションをする
という「毎日オークション」とか、
値段を次第に下げていく「逆オークション」など、
いろいろやってみようと思っています。
準備していますので、もう少し待って下さい。

というわけで今回は、低価格作品として、
次のような作品を用意しました。な


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彦坂尚嘉 皇居美術館シリーズ/北斎神奈川浦波幻視 
8号F
油性顔料系出力  顔料マーカー キャンバス(ポリエステル)  木製パネル
価格:4.5000円

こちらは、インクジェットの出力をしたキャンバスに、
マーカーでのドローイングをフューチャーした作品。

うまくいって、喜んでいます。
こういう作品を、実は何年にも渡って追求してきていて、
ようやく、うまく行くようになったものです。
自分でも良い作品だと思っています。

ぜひ、実物を見ていただければと思います。



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彦坂尚嘉 皇居美術館シリーズ/鳥獣戯画幻視 
8号F
油性顔料系出力  顔料マーカー キャンバス(ポリエステル) 木製パネル
価格:4.5000円




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彦坂尚嘉 皇居美術館シリーズ/金閣寺幻視 
8号F
油性顔料系出力  顔料マーカー キャンバス(ポリエステル)  木製パネル
価格:4.5000円

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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彦坂尚嘉 皇居美術館シリーズ/日本刀幻視
10号F
油性顔料系出力  顔料マーカー キャンバス(ポリエステル) 木製パネル
価格:5万円

8
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彦坂尚嘉 皇居美術館シリーズ/餓鬼草紙幻視
10号F
油性顔料系出力 顔料マーカー キャンバス(ポリエステル) 木製パネル
価格:5万円

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彦坂尚嘉 皇居美術館シリーズ/那智の瀧
10号F
油性顔料系出力 顔料マーカー キャンバス(ポリエステル) 木製パネル
価格:5万円

10
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彦坂尚嘉 皇居美術館シリーズ/雪村幻視
10号F
油性顔料系出力 顔料マーカー キャンバス(ポリエステル) 木製パネル
価格:5万円

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

て、2点、ウッドペインティングも出します。

これがなかなか良くできて、本人は元気になりました。

それが帝国を入れたせいなのですが、
詳しくは別の機会に書きます。
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彦坂尚嘉 ウッドペインティング/青緑の愛
約10号F
533×425×92㎜
価格:28万円

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彦坂尚嘉 ウッドペインティング/ダース・ベイダー
約28号
850×728×78㎜
価格:45万円



次回に、今日紹介できなかった、
別の作品も紹介いたします。

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