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アートフェア東京2010の初日VIP内覧会 [日記]

4月1日は、ラカンの読書会で、立教大学でやりました。
非常に充実していて面白かったのですが、
その帰り、夜の11時半頃に藤沢市の日産レンタカー屋に行って、
2トンのアルミ・トラックを借りて、アトリエに帰りました。

それからまた制作で、結局朝の6時過ぎまでかかって、
ようやく滑り込みで間に合って、
トラックを運転して、有楽町の東京国際フォーラムへ滑り込みです。

一番の事故は、印刷屋の機械が不調で、チラシがこの日には届かなかった
ことです。
初日のにぎわいも大きかったので、
チラシは欲しかったのですが、
無くて残念でしたが、しかし逆に、今、糸崎公朗さんと、
それとオージュンの作品などが持っている大衆普遍主義について、
強烈に体感しました。

小山登美夫ギャラリーに代表される大衆普遍主義の美意識というのは、
強烈に時代の精神としてあって、
凡庸なものを普遍であると錯誤する確信の強さが、
今日においては突出しているのです。

これが崩れるのは、
日本の経済が破綻して、日本の預金が吹き飛んで、
ただの貧乏人に転落するまで続くでしょう。
金を握った大衆凡庸主義というのは、
その限りのものです。

しかし、それはただのアクタイをついたに過ぎない事であって、
哲学的な事実で言えば、この大衆の凡庸普遍主義こそが、
ソクラテスを殺した中心なのです。
フッサールが「自然的な態度」と呼んだ無反省な直接性の感覚と
精神が、今日の美術を強烈に成立させています。
その強さを体感できた事は、良かったと思います。

それは同時にソヴィエトのあった時の社会主義リアリズムの
美意識なのです。
これは日記として書いているので、論証の手間を飛ばして言えば、
社会主義リアリズムの根底にあった基盤は、
オルテガの大衆論が指し示した凡庸普遍主義なのです。
この社会主義リアリズムが、1991年以降は、
世界の全体を浸すようになった。

この問題も含めて、またブログで、出来るだけ丁寧に書ければと
思いました。

さて、とにかく作品は展示されましたが、
あまり、内輪の事情を書けませんが、
たとえばギャラリー手の杉山旭さんには不評で、
ウッドペインティングだけが良かったと言われました。

タマダプロジェクトの玉田俊雄さんにも、
どうやら不評で、沈黙だけでした。

ふるい人間関係が全て不評であったかというと、
そうでもなくて、
東京画廊の山本豊津さんには好評でありました。

美術評論家の峯村敏明さんにも、
あの会場で、まったく別の仕事であったと、
アートフェア東京2010の会場での異質性を指摘して下さいました。

まあ、実際孤独ではあります。

今回の制作をボランティアで助けてくださった、若いアーティスト
達に感謝します。山口俊郎さん、中川晋介さん、松下和歌子さん、
栃原比比奈さん、田嶋奈保子さん、ありがとうございました。

最後になりましたが、
ギャラリーARTEの梅谷幾代さんに、感謝します。
アートフェア東京2010への出品は経済的に、まず大変な
出費をようします。
特に、四国の本島という離島からの出品は、たいへんなのです。

作品は昨日1点は売れましたが、
とても、この経費が出るわけではありません。
今後の『空想 皇居美術館』の展開の中で見ていただくしか
ありませんが、日本経済の破綻状況の中で、
しかしアートフェア東京2010への出品をされたことは、
スピリチャルで、尊敬できるものであります。

これをバネに本島でのギャラリー活動にご協力できればと
思います。



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ロンドン帰り

アートフェア東京のファーストチョイスに出かけましたが彦坂さんの展示は見逃してしまいました。その失礼を承知で言えば、あのような数を集めただけで哲学もヴィジョンもないような見本市に出展されるのはよしたほうがいいかと思います。批判されている大衆普遍主義とやらを助長するためにある催しなのです。その証拠に現在日本での重要な画廊はほとんど出展していませんよ。敵地にて敵の批判を展開しても実りはありません。

ただあのような活況がこの国が破たんするまでの短い時間の宴であることは同感です。意味のない催しです。六本木アートナイトも新しくできたアーツ千代田3331でも芸術は見当たりませんでした。瀬戸内でオープンする北川さんの千年王国もアートとは名ばかりの巨費をかけただけの空虚なイベントになると思います。寺山修司風にいえば芸術なんて、それを味わった人の夢の中にしか存在しないものになってしまったのかもしれませんね。
by ロンドン帰り (2010-04-03 03:57) 

ヒコ

ロンドン帰り様
コメントありがとうございます。
ご批判は理解できますが、それはやはりギャラリーARTEのブースを見てから言っていただきたかったです。出さない方が良いと言うご意見も分かりますが、その辺の決断というのは、微妙ですね。まず、出そうと思っても、現実には、出品していくこと自体が、作家としてはむずかしくて、選択権がほとんどありません。つまり、まず、自分の所属する画廊があって、その画廊が出品してくと言う決断をして、さらにその画廊がその作家を選ばないと、出品できないからです。
今日の美術家の中で、私の世代は、画廊を持っている作家自体が少なくなっていますし、しかも私の世代のギャラリーで私の世代の作家をアートフェアに出品できる画廊はほとんど無くなって来ています。
私の場合、自分は「コンテンポラリー・アーティスト」であるという措定として「現代美術家」という名称を捉えて、それにこだわり続けているので、「コンテンポラリー・アーティスト」であり続けようとしているのです。
「コンテンポラリー・アーティスト」であり続けようとしているという事自体が、不可能である事は知っていますが、自分の時代と言う母なる時代が終わった時に、その母なるものから出産される必要性があると考えるのです。
ですので、ロンドン帰りさんがおっしゃるように「芸術」という母なるものが終わったのなら、その母体の外に出産していく事こそが
重要なのです。
母なるものの外部に出産をし続ける運動が、《脱ー領土化》という運動です。私は《脱ー領土化》し続けるのです。
《脱ー領土化》を否定する運動を《領土化》と言います。私は《領土化》に意味を見いだしません。
最後に北川フラムさんの瀬戸内海の催しものですが、これには私は参加しません。ここには《脱ー領土化》の運動は無いからです。
by ヒコ (2010-04-03 11:27) 

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