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《超1流》の美術を集める皇居美術館(3) [アート論]

4 大きな美術=建築美術

 彦坂・さて、そもそも絵画や彫刻には大中小があります。 

 しかも単なる大きさの違いではなくて、大中小によって絵画と彫刻の起源が違うのです。

坂上・大きさによって、美術の起源が違うのですか?

彦坂・大きな絵画といのは壁画などの建築についている《建築絵画》です。そして大きな彫刻というのは、ハーバード・リードの『彫刻とは何か』によると、ピラミッドや、アンコールワットといった大きなモニュメンタルな建造物になります。

坂上・じゃ、小さな美術って、何ですか?

彦坂・小さな彫刻というのは、ハーバードリードによるとアミュレット、日本語で言うと「護符」です。具体的には土偶とか、江戸時代の根付けとか、今日のフィギュアとか、ストラップです。つまり、単に小さいというよりも、縮減効果といいますが積極的に小さくしてあるです。小さくする事で愛玩性を生み出している。

 小さな絵画というのも、同じように縮減効果による愛玩芸術なのですが、メディウム的には本の美術です。西洋だと手描きの聖書に挿絵がはいっている写本です。日本だと絵巻物ですね。他にはミニアチュール、こういうもののなかに有るイラストレーション的な絵画が、小さな美術です。そして版画も、出自的には本の美術です。それから写真というのも、実はリトグラフの開発のなかからニセフォール・ニエプスが写真を開発したのでって、写真は実は本の美術であって、小さな美術の起源に含まれるのです。実際、本に収録されている写真というのは、現実背界を小さく縮減しているのですね。

 、

坂上・ふーむ、彦坂さんの意見は、ずいぶんと常識とは違いますね。

彦坂・でも常識っていうけれども、きちんと考えていないでしょう。むしろ私の言うように、小さな美術=本の美術として、イラストレーションや、版画、写真、いっしょの起源にある縮減効果をつかった愛玩芸術であると、その基本を考える方が、まとまりが良いとおもうのですが。

坂上・わかりました。とにかく、まず、大きな美術ですね。それは絵画だと建築絵画だと言うのですね。

彦坂・まず、建築絵画ですが。ヨーロッパですとジョット・ディ・ボンドーネのヴェネツィアにあるパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂とか、アッシジのサン・フランチェスコ大聖堂の壁画が《建築絵画》であって、「大きな絵画」です。

坂上・ジョットも《超一流》なのですか?

彦坂・ジョットは《第一次元 社会的理性領域》であって、《一流》の美術作品にすぎなくて、『帝国美術館』には収蔵されたくて排除されるのです。画家の中の画家という評価の高いベラスケスも、《一流》でしかないので排除されます。こういう排除は常識を超えたもので、《超一流》という基準で美術史を切断すると、違う顔をもって美術が現れてくるのです。日本美術でも、例えば尾形光琳は《一流》ですので、皇居美術館には収蔵されないのです。光琳の好きな方は多いので怒るでしょうが、そこを排除することが重要です。《一流》と《超一流》は、確然と原理が違うのです。《一流》は社会的な理性を基盤にしていますが、《超一流》というのは、その社会的な世俗の常識の外に出て、純粋に芸術史の原理に立っているのです。

坂上・光琳が排除されるというは,とんでもない考えですね。

彦坂・光琳と宗達を比較すれば、圧倒的に宗達が《超一流》ですぐれているのです。この宗達の有名な作品の多くが、大きな建築絵画、つまり障壁画なのです。

 《大きな絵画》の基本構造は建築が持っている構築的工学的な構造に強く対応している絵画なのです。つまり構図が建築的に厳密であるし、絵画空間の組み立ても建築性があるものが多いのです。そしてもうひとつ、これら建築絵画は、鑑賞芸術というものではない作品が多いのです。たとえばラファエロバチカン宮殿に『アテナイの学堂』などの壁画を描いていますが、これらは建築絵画であって、建築の装飾画ではありますが、鑑賞芸術の絵画ではないのです。同様の事は、日本の建築絵画である障壁画にも言えるものです。俵屋宗達、狩野永徳や狩野山楽の障壁画の多くは、建築美術であって、鑑賞芸術ではないのです。

坂上・大きな美術というのは、鑑賞芸術ではないのですか。では、何なのですか?

彦坂・大きな美術は、驚愕芸術というべきものだと思います。

坂上・驚愕芸術ですか。

彦坂・建築を見るというのは、私は好きですが、建築を見る眼差しというのは、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザのような中規模サイズの絵画を鑑賞ということとは違うのですね。それを鑑賞ではなくて驚愕であると言いたいですね。「驚愕」という言葉を別の言葉に代えれば「スペクタクル」というものです。スペクタクルの語源はラテン語の"Spectaculum"で、その意味は「実際に見て壮観な」ということです。

 ラテン語の「見る」を表すspecereから、英語のSecterという言葉ができて、これが「妖怪」「思わず目をみはる、目が飛び出る」という意味であるので、私は「驚愕」という単語にしたのです。

 映画ですとスペクタクルというのは、ハリウッド映画がつくった「べン・ハー」「風とともに去りぬ」「クレオパトラ」等々の七〇ミリ映画がその代表でした。壮観な眺めの映画で、驚くような絢爛豪華なセットや衣装の史劇です。すさまじい数のエキストラが動員され、派手な天変地異や戦争のシーン、驚嘆の特撮映像等をくししたものが「スペクタクル」というもので、こうした視覚を、鑑賞芸術とは区別して、《驚愕芸術》と言います。

 こうした《驚愕芸術》の視覚は建築絵画にも言えて、建築絵画、つまり大きな絵画は、実は鑑賞芸術ではないのです。ベネチアのドゥッカーレ宮殿にティントレットの「天国」という絵画がありますが、大きさが七メートル×二十二メートルというもので世界最大の油彩画と言われるものです。パノラマであり、スペクタクルです。こういう絵画を見るとき、その眼差しは、鑑賞というものではないのです。《驚愕》を見る眼差しであると私は言いたいのです。

坂上・大きな絵画というものとしてポロックのドリッピング絵画がありますが、あれはどうですか?

彦坂・ポロックも、大きな絵画は鑑賞芸術ではないのですよ。《驚愕芸術》です。

坂上・え、本当ですかね?

彦坂・そうです。ポロックのドリッピングの大作は、《鑑賞芸術》ではなくて《驚愕芸術》です。《驚愕》という視覚で作品を作るというのは、それ以後の現代美術/現代アートには、つきまとってくるのです。たとえば会田誠の作品です。女性を犬にして手を切り取ったり、大きなミキサーに大量の女性を入れて殺しているイラストッレーションの作品が、何故に現代アートとして誤認されて評価されるかと言えば、《驚愕》という視覚が、《鑑賞》という視覚と同位であると言う誤解に因るものなのです。しかしこの《驚愕芸術》という視覚は、もともと建築美術の中に古くからあって、ストーンヘンジの環状列石にまでさかのぼるものなのです。

 障壁画は字を見てもわかるとおり、そこにある襖は、実は移動壁です。建築に付属している移動壁なのです。屏風もまた移動壁が自立して立っているのですからあれは建築なのです。つまり屏風や襖というのは、移動壁面であって、壁画の一種類なのです。そういう事実がわからず、整理を付けないまま、西洋から入ってきたキャンバス絵画だけを絵画だと思うと、日本の本来からある障壁画というものが美術として不純のように見えることになってしまう現象がおきてしまいます。ヨーロッパの中にもたくさんの壁画がありますが、壁画はもちろん美術ですから、そういう《鑑賞芸術》ではない《驚愕芸術》としての広がりがりとして、日本の障壁画を意識しないと、日本美術の優秀性が見えにくくるのです。日本にはこうした移動壁画は、金箔地に群青・緑青・白緑そして朱や濃墨などを用いた濃彩色の障壁画である『金碧障壁画』や、反対の水墨を基調とした無彩色か淡彩の障壁画の、二種類の《超一流》の《建築絵画》が数多くあります。それら《超一流》の建築絵画=驚愕芸術を、皇居美術館に集めようというのです。

坂上・宗達の風神雷神図を、鑑賞芸術ではなくて、驚愕芸術であるとしてみるというのは、たしかに考えてみるべき視点かもしれませんね。

 狩野元信 四季花鳥図   京都 大仙院(京博、東博寄託) 重文

  狩野永徳 檜図 東京国立博物館  国宝

  狩野永徳  聚光院障壁画 

  狩野山雪 梅に山鳥図襖  京都 妙心寺  重文

  俵屋宗達 舞楽図  京都 醍醐寺   重文 十七世紀前半 紙本金地著色   

  俵屋宗達 風塵雷神図   京都 醍醐寺  重文

  俵屋宗達  松島図屏風  十七世紀前半 紙本金地著色

俵屋宗達  松図襖 重文  十七世紀前半 紙本金地著色

俵屋宗達  白象図杉戸 重文  十七世紀前半 板地著色

俵屋宗達  唐獅子図杉戸 重文  十七世紀前半 板地著色

俵屋宗達  雲龍図屏風 重文  十七世紀前半 紙本金地著色

狩野山雪 梅に雉子図襖  重文  紙本金地著色 1631年 

狩野山雪 梅に山鳥図襖  重文  紙本金地著色 1631

狩野山雪 老梅図襖  重文  紙本金地著色 1647年     

狩野山雪 籬に朝顔図襖   紙本金地著色  1631

狩野山雪 蘭亭曲水図屏風   紙本金地著色 重文  十七世紀前半

狩野山雪 竹に虎図襖   紙本金地著色  1631

狩野山雪 雪汀水禽図屏風 重文   紙本金地著色  十七世紀前半

 

久隅 守景  『夕顔棚納涼図屏風』  東京国立博物館  国宝  紙本墨画淡彩 十七世紀

久隅 守景  『鍋冠祭図挿絵貼屏風』 十七世紀前半 紙本着彩

久隅 守景  『四季耕作図屏風』 石川県立美術館重要文化財 十七世紀 紙本墨画淡彩

曾我蕭白 郡仙図屏風  1764

曾我蕭白 月夜山水図屏風  近江神宮  

曾我蕭白 四季山水図屏風 手銭記念館

曾我蕭白  商山四皓図屏風 重文 1765-71 紙本墨画 

曾我蕭白 桜閣山水図屏風 ボストン美術館

曾我蕭白

彦坂・さて、「大きな美術」は《建築絵画》の他に、最初にのべたように「大きな彫刻」があります。普通に言えば、それは鎌倉大仏のような大きな彫刻であります。これは、等身大の彫刻よりもはるかに大きいことで、これを見る事は《鑑賞芸術》という見方ではない《驚愕芸術》とも言うべきスペクタクルの視覚で成立しています。

 しかし、たとえば五重塔のような建築は、大きな彫刻であると、考えられるないでしょうか? 五重塔の大きさから《驚愕芸術》のスペクタクルの視覚で見るという性格をもっているのです。

 そもそも建築を鑑賞するという事自体が、この《驚愕芸術》の視覚性から見ているのであって、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザのような中規模の芸術をみる《鑑賞芸術》の視覚とは違うのです。同じ「鑑賞」という言葉を使うので、混乱を生みますが、中規模の《鑑賞芸術》の「鑑賞」ということと、大規模な《驚愕芸術》を見る「鑑賞」は、違うという事です。前者が《鑑賞》であって、後者の視覚制度は《驚愕》というスペクタクルなのです。この違いのために、多くの美術家は建築を鑑賞する事をしませんし、そしてまた建築家は、美術作品を鑑賞する事が苦手であったり、できない人が多いのです。つまり「タブロー」とか等身大の彫刻いう中規模の美術品の鑑賞と、大規模な建築や建築美術の鑑賞の間には、視覚の制度性に差異があるのです。この差異性を重視して彦坂尚嘉の私見を申しあげれば、実は《超一流》の建築というのは、「大きな彫刻」と同位であると考えられると思うのです。

 

坂上・本当ですかね? 建築は建築であって、彫刻ではないでしょう。

 

彦坂・だとするとピラミッドや、アンコールワットのような大きな構築物を、大きな彫刻であるとしたハーバードリードの彫刻論は間違っているということになります。しかしハーバードリードの彫刻論はすぐれています。私は大きな影響を受けました。だから私も、ピラミッドや、アンコールワットを建築であるとともに、大きな彫刻であるという同時表示物であると考えています。それは私の《言語判定法》を使っても、そのように判断されるからです。

 そのような《大きな彫刻》と《建築》の同時表現というのは、たとえば金閣寺のような建築にも言えるのです。彦坂尚嘉の私見で言えば、《超一流》の建築は、建築であるとともに《大きな彫刻》であって、実は《大きな美術》の起源においては、彫刻と建築は、同一であったと考えられるのです。その重要な起源としては巨石記念物があるのです。巨石記念物は世界中に分布していて、人類史の中で、重要な位置を占めています。それは単一の立石から、立石郡、環状列石、支石を数個並べ、その上に巨大な天井石を載せたドルメン(支石墓)、さらには巨石神殿まであります。こうした巨石記念物には、巨大彫刻の原形性とともに、巨大な建築の原形性が見られるのではないでしょうか。

 つまり巨大建築には、もともと、実は彫刻の性格があったのです。巨石記念物からピラミッド、日乾煉瓦を用いて数階層に組み上げて建てられた聖塔であるジグラト、ギリシア神殿、そしてアンコール・ワットとつながるような建築は、実は彫刻であって、これらを見る私たちの眼は、スペクタクルな《驚愕》の視覚制で成立していたのです。

 それは今日のフランク・オーウェン・ゲーリーやダニエル・リベスキンド、レム・コールハース、ザハ・ハディッド、コープ・ヒンメルブラウ、ベルナール・チュミピーター・アイゼンマンなどのデコンストラクションの建築にも言える事だと考えています。《大きな彫刻》と《建築》は同一性を持っているのです。

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立教大学大学院での授業 [告知]

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立教大学大学院での授業の情報です。

彦坂尚嘉が教えているのは、比較文明学の授業です。

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今週の金曜日から、池袋で、3コマ集中して授業をします。

授業時間と教室は、次の様です。

10:45〜12:15 文明工学演習2 9号館204
13:15〜14:45 文明工学演習3 4号館254
15:00〜16:30 文明工学演習4 4号館254

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4号館
 

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比較文明学

 立教大学大学院文学研究科「比較文明学専攻」は、従来の人文科学の枠を越えて、広く社会に開かれた新しいタイプの大学院です。


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 立教大学では、そうした文明学上の諸問題の中でも、とりわけ次の3つの課題、すなわち、

 

(1)境界の消滅に関わる問題

(2)人間の欲望に関わる問題

(3)多様な言語と文化の共存に関わる問題

 そうした重要課題に答えるために、これまでにない新しいコンセプトに基づく4つの研究領域(科目群)を設置しています。

 

(1)現代文明学領域

(2)文明工学領域

(3)言語多文化学領域

(4)文明表象学領域


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文明工学領域

文明工学領域(科目群)においては、文明社会の深層を規定する欲望と、文化装置、文化現象に関わる問題群を検討の対象とします。

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われわれ人間には欲望というものがあります。人間社会において欲望の過多は社会を破壊する危険をはらんでいますが、他方、欲望の抑圧と消滅は経済と文化の停滞を意味することになります。それは、われわれの欲望が、日常生活空間において、経済的かつ文化的な様相のもとに、個人と社会を動かすための不可欠のエネルギー源となっているからです。
その意味で近代文明の歴史は欲望の制御と刺激の歴史だったといえます。大衆化の段階を一度終えて新たな文明段階に入りつつある現在、人間の欲望の問題を私的なレベルの問題として扱うのではなく、文明社会の中心的な問題として扱うことが求められるようになってきました。

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文明工学領域(科目群)では、欲望が具体的に現われる場である<文化と経済>、<文化と政治>の問題について身体と消費の視角から通時的、共時的な分析を行うとともに、近代社会が作り上げてきたさまざまの文化装置や現象を取り上げ、その実相について具体的かつ詳細に検討することを目的としています。

 

 

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科目コード/科目名
JJ125/文明工学演習 2 
<文化形態論・芸術>
担当者
彦坂 尚嘉(ヒコサカ ナオヨシ)

学期/単位数
前期/2単位
備   考
■授業の目標

美術展のキューレーションの仕方を学ぶ。加えて,作品論・作家論・芸術論ふうの文章が充実して書けるように,これも現実のギャラリー活動の文章として訓練をします。

■授業の内容

キュレーションを理解するために,実際の美術展を実例に考えます。さらに,現実のギャラリー活動に参加しているかのように,キュレーションの作業の現場をまなびます。取り上げる作家は,日本の美術家で,山本藍子,田嶋奈保子,伊東直昭などですが,作家に授業にゲストで来てもらって,ポトフォーリオを見せてもらい,作品の説明を受け,質疑応答をします。作品への感想,考察を他の受講生と開陳交換します。

■成績評価方法・基準

平常点100%。現場での意見表明の充実度と活性度,そして最終レポートの出来栄えなどで総合して判断する。

■テキスト

彦坂尚嘉のブログの作家論。
http://hikosaka2.blog.so-net.ne.jp/

■参考文献

彦坂尚嘉著『彦坂尚嘉のエクリチュール』

■その他(HP等)

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JJ126/文明工学演習 3 
<表象文化論・静止画>
担当者
彦坂 尚嘉(ヒコサカ ナオヨシ)

学期/単位数
前期/2単位
備   考
■授業の目標

写真作品の制作を,具体的に現在の情報化社会のデジタルな芸術作品をつくる演習としてやります。加えて,デジタル時代の写真論・作家論・芸術論の文章が充実して書けるように,訓練をします。

■授業の内容

デジタルカメラや,あるいは携帯のカメラを使って,デジタル写真作品をつくりますが,そのクオリティの水準を芸術分析して,その複雑な構造への理解を深めます。その作品をインタネット上にアップして公開して行きます。さらに写真展を学内で行います。
取り上げる写真作家は,日本の写真家で,篠山紀信,荒木経惟,石内都,宮本隆司,杉本博司,森村泰昌,野島康三,メープルソープ,シンディ・シャーマン,ブレッソン,スティーグリッツなど。

■成績評価方法・基準

平常点100%。作品写真の数と質。意見表明の充実度と活性度。そしてレポートの出来栄えで総合して判断する。

■テキスト

スーザン・ソンタグ『写真論』(晶文社,1979)
彦坂尚嘉のブログの作家論。
http://hikosaka2.blog.so-net.ne.jp/

■参考文献

彦坂尚嘉著『彦坂尚嘉のエクリチュール』

■その他(HP等)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

JJ127/文明工学演習 4 
<表象文化論・動画>
担当者
彦坂 尚嘉(ヒコサカ ナオヨシ)
学期/単位数
前期/2単位
備   考
■授業の目標

欧米の映画と日本映画を比較:いくつかの作品,作者をとりあげ,受講者各自が考察と解釈を加え,文芸作品への反応の感度と深度を追及する。
もうひとつは具体的なヴィデオ制作を,デジタルカメラや携帯についている動画機能で短い物を制作する。

■授業の内容

具体的なヴィデオ作品の制作を,ヴィデオカメラや携帯の動画カメラを使ってつくります。【YouTube】上にアップして公開して行きます。加えて,映像論・作家論・芸術論の文章が充実して書けるように,訓練をします。
取り上げる映像作家は,黒澤明,大島渚,今村昌平,北野武,伊丹十三,スタンリー・キューブリック,コーエン兄弟,クエンティン・タランティーノ,ジム・ジャームッシュなど。

■成績評価方法・基準

平常点100%。映像作品の数と質。意見表明の充実度と活性度。そしてレポートの出来栄えで総合して判断する。

■テキスト

松本俊夫『映像の発見―アヴァンギャルドとドキュメンタリー』(清流出版)
彦坂尚嘉のブログの作家論。
http://hikosaka2.blog.so-net.ne.jp/

■参考文献

彦坂尚嘉著『彦坂尚嘉のエクリチュール』

■その他(HP等)




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美術は西欧のものか? [アート論]

知人から、次のような個人メールをいただきました。

アートフェア東京の出品作品の悪さを書いた私のブログへの、

反応です。


美術という概念は、あくまでも西洋のものです。

ですから美術という概念で日本という社会を

捉えると、どこまでも悪い場所でしかなく 

大衆と呼ばれる日本人がどこまでも美術については

無学な教養のない、価値のない人々ということに止まるのだと

考えるようになりました。


多くの美術家は、または美術関係者は、一体にご自分の出自をお忘れなのでしょうか? 

肌の黄色いでも欧米人だとお考えではないかと感じることが多々ございます。


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こういう反応を持たれるお気持ちは理解できます。

明治維新以降の日本の洋画を見ると、西洋美術の輸入の歴史のように

見えるからです。


私自身も、日本洋画の末裔であります。

そういう存在に対して「多くの美術家は、または美術関係者は、

一体にご自分の出自をお忘れなのでしょうか?」という言葉を

投げかける気持ちは、良くわかります。


たとえば萬鉄五郎という洋画家がいます。

萬は、フォーヴィズムや、キューヴィズムの早い輸入で有名になった

画家です。

日本美術の近代化の先駆者として評価が高いアーティストです。

私たちはその輸入という、西洋の美術に出自のある美術に、

不満や、怒りをもっているのでしょうか?


萬鉄五郎の回顧展が国立近代美術館で数年前に開催されていますが、

晩年に至るまで、萬鉄五郎の作品は『ペンキ絵』で、

絵画として、高みに向って成長していきません。

真面目に萬鉄五郎の作品を研究してみれば、

そこにあるのは駄目さであって、輝かしい芸術家の姿は無いのです。

むしろ歳を減るごとに駄目なものへと退化して

いきます。

この辺は岡本太郎の晩年の仕事の劣化のひどさと似ています。


しかも、萬鉄五郎においては、

西欧から輸入したはずのフォーヴィズムも、

キュービズムも追求されていいなくて、

油絵で、南画という東洋画を描くという、ドジな伝統主義に回帰

していくのです。


つまり若い時は、西洋美術を輸入して始まっても、

それを真摯に追求していくという事は日本のアーティストには、

まったくと言って良いほどに見られない事で、

日本の伝統的な美術の風土に回帰して、ローカルなアートとして、

大衆の理解できる表現へと回帰していく事なのです。


一番ひどいもののひとつは今井俊満の晩年の花鳥風月や、

さらに後の政治的な絵画です。


一見、アンフォルメルから始まったように見える作品展開ですが、

あるのはいつも《6流》の愚劣な美術の連鎖であって、

人類の作り出す芸術の高みへのあこがれを欠いた低さだけです。


低いものだけの世界は、今井俊満に限らず、

岡本太郎であろうと、会田誠であろうと、森村泰昌であろうと、

日本の近代/現代美術につきまとうものです。


「美術という概念は、あくまでも西洋のもの」ということは、

本当のことなのでしょうか?


北沢憲昭の『眼の神殿』や、柄谷行人の『日本近代文学の起源』に

書かれている、近代以前に日本には○○は無かった、というパターンの

指摘は、実は虚偽であり、迷信に過ぎないのです。


つまり美術は、概念以前に存在するのです。

恐竜と言う言葉や概念がなくても、恐竜は巨大化して歩き回って

いたのであって、日本には美術は、恐竜のように存在していたのです。


エジプトにも、美術や芸術という言葉も概念もありませんでしたが、

しかし言葉以前に、美術や芸術は存在したのです。

それはビックバンの起きた宇宙の始元には、ビックバンと言う概念も

言葉もなかったのに、ビックバンが存在したように、

エジプトには、美術や芸術は存在したのです。

これはニューヨーク近代美術館のルービンという有名学芸員が、

主張している事です。


私の著作でも指摘している事ですが、柄谷行人の執筆には、

事実誤認がひどい多さで存在しています。

それは北沢憲昭の著作にも言える事であって、

基本において間違いなのです。

日本には、明治維新以前から、遠近画法も存在したし、

美術も芸術も存在していたのです。


存在していないというのは、迷信なのです。

日本人に限りませんが、人間というのは迷信を信じて生きているに

過ぎないのです。

何も調べず、何も研究しないで、答えを見つけて、

盲目的に信じるのです。


たとえば「国家」という概念も西洋のものであり、

「自動車」とか、「カメラ」とか、「映像」という概念も、

西洋のものであると、日本人は信じています。。

そもそもが「概念」というものが、西洋のものであると信じています。


しかも日本列島に生息するニホンザルが進化して日本人になったと

いうわけではないので、

日本人という人種の起源が日本になくて、

アフリカで生まれた「ヒト/ホモサピエンス」が、

日本列島に住み着いただけなので、

日本人はいなくて、

アフリカ類人猿の一種がいるだけなのだと、日本人は信じています。


事実、国技と言われた相撲は実はエジプトに生まれたもので、

紀元前2000年前のピラミッドの中に、

相撲の48手の取り組みの図柄が、

描かれているのです。


尺八もエジプト生まれで、日本建築の基準であるルート2も、

エジプト生まれです。

つまり日本はエジプトであって、

「日本人はエジプト人である」と、日本人の多くは信じているのです。


もうひとつ重要なのは、書き文字です。

日本人は書き文字を発明しなかったので、

書き文字自身が中国から渡って来た外来文化です。

ですので日本の中には、

無文字文化が、実は今も息づいているのです。

つまり日本には文字は無くて、

日本文化の本質は文盲性なのです。


さらに仏教です。

仏教は中国経由で日本に入って来た外来の宗教ですので、

日本の根底にあるものではないのです。

伊勢神宮の外宮である度会(わたらい)神道が、

「神皇正統記」を産み落とし、さらに「大日本史」になり、

あるいは本居宣長になって、
仏教を排除した日本神道の流れが、最後には国家神道の台頭へと
結実します。

 

つまり、こういう事を言っている枠組み自身が、

国民国家としての日本という、

《近代》という枠組みの「日本」を基準にしています。


しかし明治以降の日本人が信じる「日本」は、

明治以前には無かったのです。


たとえば、今もそうですが、

「イタリア」というものは無いと言われます。

あるのは「ナポリ人」というような都市国家の人間と、

そして「ラティーノ」というラテン共同体の枠組みです。


同様の事はアメリカのスパニッシュの人びとにも言えて、

アメリカのラテン系テレビを見ていると、

国家としてのアメリカ合衆国は消えていて、

ラテン・インターナショナリズムの世界であって、

ニューヨークの次はコロンビアが写り、メキシコになり、

続いてドミニカ共和国のメレンゲの演奏になるのです。


人類そのものが、アフリカ類人猿に出自を持つという意味で、

実は「日本」を無くする事ができるのです。

一度は、「日本」を消してみる必要があるのです。


私自身は、全人類の歴史の中に自分自身を位置づけて考えます。

国民国家としての日本を、一度カッコに入れて消してみて、

考える立場です。


そして再度、近代以前の日本を再評価して、

全人類歴史の中に、「日本」を再度位置づけて見直す立場です。


東洋と西洋の区分をしても良いですが、

しかし過大にその差を意識するのは、

岡倉天心みたいで、今更と言う気がします。


つまり《近代》の西欧列強という、

帝国主義時代の枠組みで意味を持った「東洋」という言葉を、

今のグローバルな時代の中で言っても、古くさく感じるのです。


1980年代以降、世界は根本的に変わったのであり、

それを示すのは食事に代表される世界の変化です。

寿司は、もはや和食ではなくて、グローバル・フードなのです。


日本人は、コンピューターを作っていないし、

OSもすべて輸入品だといって、

それにこだわっている暇はないという思いがあります。


世界はグローバリズムの中で、食べる次元から、

根本的に変わったのであって、


「日本」とか、「西洋」とかいう言葉も、

もう一度、枠組みからの変化の中で洗い直す必要があるのです。


西洋美術は、実は1945年以降の歴史の中で、

芸術的には、極めて低いのです。


1945年以降のアメリカ美術の芸術的な高さを、

実は日本人の多くが見ていないし、見る機会も無かったし、

そしてそういう事実は知りたく無いと思っているのです。


さらには1975年以降の現代アートの多くは、

芸術的には終わってしまって、

アメリカ美術も劣化します。


少数の例外以外は、ひどいものになっているのです。

それは1991年以降、さらにひどくなって、

芸術は、地下にもぐり、

芸術や知性の劣化したひどい形骸文化が、情報化社会の、

初期20年を支配したのです。


それが、先日のアートフェア東京で完成したと言える

キッチュな美術状況です。


それはしかし、人間という存在の中では、

ある意味で普遍的な低さなのです。


人間の多くは低い存在なのです。

この人間の低さを見つめる事から、目をそらしてはいけないのです。


だからこそ、高みを見つめる必要があります。


現在もなお、実は今日の情報化文明に中には、

高度の知性と、高度な食事をつくるレストランと、

高度な演劇の舞台と、高度なコンサートホールは、

生き続けているのです。


同時にサイゼリアのようなレストランもあるのです。

アートフェア東京は、アート界のサイゼリアなのです。


さすがにサイゼリアには行かなくなりましたから、

いつか、アートフェア東京にも、行かなくなるでしょう。


結論を言えば、

今日の状況は、情報革命による変動が第一であって、

それを別の古い用語に結論として落とし込む事は、なるべく避けたいのです。


今の日本が悪いのは、

情報革命に背をむける人が多いことです。


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宮本 常一(最後に少し加筆1) [顔]

宮本 常一(みやもと つねいち、1907年 1981年)は、民俗学者です。

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写真も、ずいぶんと撮影している様です。


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左が宮本 常一です。

宮本 常一の顔

《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
固体人間
《シリアス人間》《ローアート的人間》

シニフィアン(記号表現)的人間。
真実の人

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

宮本 常一は、すぐれている人だと思いますが、
特徴的な事は、《言語判定法》で顔を見ると、
固体=前近代の体質の人です。

ですから、その民俗学が、前近代的なものへの興味によって成立して
いるらしいことは、必然ではあるのですが、
前近代から、近代へと、人類史的な飛躍を生じた事に対する理解が、
弱いように思えます。

人類の歴史は、根本的な飛躍を持っていて、
《近代》という飛躍は、すさまじい変貌を生み出します。
さらに、今日の電脳による情報化社会への飛躍もまた、
狂気とすら言えるような大きな飛躍であって、
こうした人類史の飛躍を真に理解するには、
宮本常一の人格は、多層性を欠いています。

だからこそ、逆に、民俗学者として傑出していると言えるように
思います。




タグ:宮本 常一
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お接待ボランティア募集/ギャラリーアルテ [告知]

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ギャラリーアルテ梅谷です


旧暦3月4日 4月17日は お大師参りのお接待が行われます。

瀬戸内海に浮かぶ丸亀市の本島を会場に行われる伝統的な行事です。

島内外からお遍路さんが訪れて島内にある33の寺やお堂を巡り、島の人たちがお茶やお菓子などでお遍路さんを接待します。


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高齢化しているため、笠島地区の方からお手伝いいただける方のご相談を受けました。 


お接待のお手伝いをサポートしてくださる方募集します。


16日から入って17日 5時くらいまでおもてなしのお接待ボランティア数名ほど緊急募集です。


ご参加いただけるかたは、アルテまでメールかお電話でご連絡ください。


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締め切り 4月14日まで


電話 0877−57−8255 または 0877−27−3607

    090−1855−8438


メール arte@mti.biglobe.ne.jp


開催場所 香川県丸亀市 本島町内一円


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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

梅谷幾代

gallery ARTE

〒763-0221香川県丸亀市本島町笠島305

0877−57−8255

arte@mti.biglobe.ne.jp

oyuki-umetani@kke.biglobe.ne.jp

URL: http://www.arte-g.com

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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建築系ラジオ公開収録「今度は声だけ? 建築系twitterオフ会」(校正1) [告知]

建築系ラジオ公開収録

「今度は声だけ? 建築系twitterオフ会」

 

<日時>

2010年4月18日(日)17:30-19:00

(15:00頃からオフ会を行いつつ、いくつか別の収録も行う予定です)


<会場>

ヨコハマアパートメント(ON Design設計)

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住所:横浜市西区西戸部町2-234

(アクセス方法は、下記を御覧下さい)

 

<テーマ>

「今度は声だけ? 建築系twitterオフ会」

 

<出演者>

ゲスト/平塚桂、石川翔平、栗生えりな

パートナー/彦坂尚嘉、山崎亮、北川啓介

コアメンバー/五十嵐太郎、南泰裕、倉方俊輔、松田達

司会=倉方俊輔

 

<スケジュール>

15:00頃-17:00 オフ会および個別コーナー公開収録予定

17:30-19:00 全体討議「今度は声だけ? 建築系twitterオフ会」

20:00- 横浜駅周辺にて懇親会

 

<参加申し込み>

参加無料、予約なしでどなたでも聴きに来れます。直接会場にお越し下さい。

(ただし、会場は居住者のいる集合住宅の一角ですので、居住者にはご配慮下さい)

 

<アクセス>

ヨコハマアパートメント アクセス

http://labs.mapion.co.jp/chizugaki/#/prev/93139/

・JR線「桜木町」駅89系統バス「一本松小学校」下車徒歩6〜7分

・京浜急行「戸部駅」より徒歩17〜8分(ゆるい勾配)

・相鉄線「西横浜駅」より徒歩17〜8分(上り坂あり)

 

・タクシーの場合

3駅からとも、5〜6分、1000円前後です。

- 横浜駅からは、「県営藤棚団地にむかい、願成寺の坂を上りきったところで左

折してもらい、坂を下った交差点にあるトランク屋さんの前で降りてください」

- 桜木町駅からは、「県営藤棚団地にむかい、水道道(すいどうみち)沿いの坂

を下った交差点にあるトランク屋さんの前で降りてください」

- 馬車道駅からも、桜木町駅からと同じルートです。

 

<問い合わせ先>

info@radio.tatsumatsuda.com

 


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お花見 [日記]

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締め切りも間に合わない忙しいのに、
今日はこれから、お花見です。



お花見は、もともとは嫌いで、見なかったのですが、
中年になってからするようになりました。

若い時は自然が大嫌いで、
今も好きではないのですが、
それでも、そういう好き嫌いを抑制するようになったと言えます。

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鎌倉の源氏山公園に、遅まきながら行きます。
すでに夜桜は、鎌倉山の桜をドライブでは見ています。

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ソメイヨシノを愛でるという文化は、
日本的な《第1次元 社会的理性領域》的な文化で、
しかも《非-実体性》のある鑑賞花で、その美意識は優れています。

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日本庭園とか、花見に見られる日本の自然鑑賞の美意識というのは、
あくまでも《一流》性に基盤を置く《非-実体》主義のものであって、
単なる《第6次元 自然領域》讃歌の野蛮主義とか、身の丈主義、
さらには癒し系とは、実は鑑賞構造の次元が違うのです。

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高級文化を、《第6次元 自然領域》に還元していくバサラは、
喜劇の根底を作っていて、私は喜劇が大好きなので、
そういう意味では、《第6次元 自然領域》を嫌いなのではないのです。
しかし、そういうものと、花見を成立させている文化の基本は
違うと言えます。
つまり花見そのものは《第1次元 社会的理性領域》のものですが、
しかし花見で、酒を飲んで騒ぐというのは、実はバサラ化したものです。
《第6次元 自然領域》から《第1次元 社会的理性領域》へ、
そして《第1次元 社会的理性領域》から《第6次元 自然領域》へ、
文化の基本は、この自然と文明の往還運動で成立しているのです。

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そこには抑圧と、解放という心理的なシステムが連動しています。
つまり自然を抑圧して文明が出来上がり、
文明の内部で、その《一流》の文明を、再度自然に還元する事で、
バサラ的な喜びを、解放として味わうのです。

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コメント欄を、しばらく休みます。 [告知]

『空想 皇居美術館』を朝日新聞出版から出すために、
記念展の準備も含めて、多忙で追われています。
それもあって、しばらくコメント欄を休止します。

今の時点で書いて下さっている方には、
なるべく、お返事は書きますが、
時間が無いので、失礼するかもしれません。
その時はお許しください。

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5万人突破/過去最高記録 [状況と歴史]

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入場者数が5万人を突破したという挨拶メールが転送されて来ました。

アートフェア東京2010の事務局からです。

(このブログの最後に全文を収録してあります。)


経済状態が悪いという日本の状況の中での、

5万人突破/過去最高記録というのは、

やはり凄い事です。



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時代がはっきりとアートフェアの時代になって、

アートシーンにおける大衆の反逆が、

作家だけでなく、観客動員においても定着したと言えます。


オルテガが言うところの「大衆の反逆」が、完全に成立した時代

こそが、一面から見た所の情報化社会であると言えるでしょう。


だからと言って、反面から見れば、精神的な貴族主義の人びとの

存在が大きくあるのも、実は確かな事であって、

その面を忘れると、時代を見誤ります。


しかし、そんな事は公には言わないで、

時代は完全に大衆の時代であると、言うべきでありましょう。


大衆の勝利万歳!


大衆芸術の勝利万歳!


こう描いた作品を作りたいものです。


こうした大衆主義の全面展開の一方で、

経済は悪化し、雇用状況は悪化し、そして失業者はあふれ、

日本のGDPは、墜落するように低下し、

財政破綻は、世界一で突出して来ているのです。




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こういう時代に、アートフェア東京2010に、過去最大の5万人に
およぶ入場者数があったことに、時代そのものの変動の大きさを
感じます。


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出品されてていた美術作品は、俗悪なものが多く、
美術館では見られない生の大衆の欲望の美術が出現していたのです。
美術だけではありませんが、
文化全体に、この異様なまでの大衆凡庸普遍主義が広がって来ます。
彦坂尚嘉が言う所の気体分子時代、
さらにはプラズマ化時代と言うのは、
つまり大衆俗悪凡庸普遍主義文化の時代なのです。

何故にそうなったのか?
この歴史的な経緯は、別のブログで書きますが、
伝統的な上部構造は反転して、
美術の下部構造である通俗性、デザイン性、そして装飾性が、
上部構造の位置に浮上してきたのです。
この事実を認めなければなりません。

かつての芸術の上部に位置した《原芸術》《芸術》《反芸術》は、
転落して、下部に追いやられ、忌避され、忘れられ、
無視されたのです。
《原芸術》《芸術》《反芸術》は、もはや隠れるしかないのです。

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地下に、隠れキリシタンのようにもぐって、暗黒領域に逃げる。
もはや、後戻りの出来ない変化が起きているのです。

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これは、人類の長年の夢であり、理想であり、理念であったのですが、
同時に実現してみれば、天国のように退屈で、凡庸で、そして腐って
いるのです。一切の希望は無い。文明の本質が気が狂ったのです。

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文明の発狂化したゆえにこそ、芸術は、サントームとして、
精霊のように、再出現するのです。
つまり、すべてを明け渡し、放棄することで、
再出現する道をとらなければなりません。

気が狂う事で、軽々と、時代の変化を乗り越えてみせるという、
サーカスをしなければなりません。

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自分自身の欲望とは、何なのか?
《原-人格》まで下りて、再度自己把握をする必要があります。
死への欲動!
狂気への欲動!

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冷静になって考えれば、別の道があって、
もっと正しい生活と、正しい美術と、正しい街や文化があるのです。

しかし、そうなのでしょうか?

 

私の回りの友人関係で言えば、

こうしたまともな生活や文化への希求をしている人に、

白濱雅也さんがいます。

糸崎公朗さんにも、こうした正しいまともさがあります。

さらには梅谷幾代さんや、玉田俊雄さんなどのギャラリストにも

まともなものへの願望があります。


建築家の友人では、新堀学さんや、南泰裕さんにも、

まともなものへの回帰への欲動があります。


こういう人たちの気持ちが間違っているとは思いませんが、

しかし・・・・・と、私は思います。


私自身には、余裕が無いのかもしれませんが、

どうしても、この敷居を飛び越す、棒高跳びのような跳躍への欲望が、

あります。

それが死への欲動であっても、ジャンプしてみたいのです。


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つまり、展示内容は、まったくひどい水準で、

通俗と凡庸、キッチュと退廃ではありましたが、

アートフェア東京2010の観客動員の勝利を、

私は肯定的に評価したいと思います。

これが日本文化と日本人の現在の現実なのです。


椹木野衣が言う所の「悪い日本」が出現しているのです。

これが現実なら、直視しましょう。軽々と!


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

出展者各位


拝啓


 平素は格別のご厚誼にあずかり、厚く御礼申し上げます。


 今年もアートフェア東京2010が、無事終了致しました。これもひとえに皆様のお力

添え、ご協力のお陰様と、心より感謝申し上げます。


 総来場者数はプレビュー日を含む4日間で50,075人となり、昨年の4万5千人を上

回り、5万人を突破するという過去最高の記録となりました。今年も国内外から多く

の方々にお越しいただき、アートフェアというイベントが日本でも認知されつつある

ことを実感いたしました。また、NHK、J-WAVEをはじめとする多数のメディアにも取

り上げられ、春のアートイベントとして定着したのではと思っております。この潮流

を発展させ、アートが産業として日本に根付くようこれからも尽力していきたい所存

でございま す。


 詳細は後日クロージングレポートにてご報告いたしますが、取り急ぎ、メールでの

御礼とさせていただきます。


 今後とも宜しくご支援、ご指導のほど、お願い申し上げます。


敬具



アートフェア東京実行委員会

代表 山下宗白

エグゼクティブ・ディレクター 辛美沙


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