《自然》という原理と歯医者 [アート論]
すでに時間をかけて治療した歯であったのですが、
ぐらぐらしていて、歯医者からは抜かないと、
隣の歯もやられると脅かされていたのです。
友人の一人が入れ歯だらけなのに、
私自身は入れ歯は一本も無い状態なので、
ましなのですが、
それでも抜かなければならなくて、
麻酔をして、ガスのマスクをさらにしてという、
大騒ぎでしたが、
抜くのはあっという間の簡単さでした。
抜いてみて分かったのは、歯の奥に割れ目が入っていたのです。
何かを噛んだ時に歯が割れたのだろうという事です。
そのためにグラグラしていたのです。
さて、その作業の中で、
歯医者が、私に根掘り葉掘りと、色々な事を聞くのです。
そして次のように言いました。
歯に絵を描きたいのですよね。
浜崎あゆみなんかに、トゥース・ペインティングをやってもら
えると、
みんな注目して歯医者に来て、歯にペインティングをしてくれ
るかもしれない。
自分は、このアイディアをずっと考えてきた。
技術的にも材料的にもできる。
それに剥がせるのだから問題はない。
なのに実現ができない。
ここからが、歯医者の言う事が面白のですが、
自分の仕事には《自然》性が基準として要求される。
《自然》さだけが重要で、独創性が発揮できない。
だから、彦坂さんのように、独創性が追求できるアーティストが
うらやましい、と言うのです。
つまりこの歯医者が言うように、社会的な仕事のひとつの基準は、
《自然》性なのです。
歯医者まで来る道筋に建っている普通の古い日本の民家は《自然》性を
基準に建てられています。
私たちの生活の大半は、この《自然》性を基準として作られているのです。
《自然》性というのは、歯医者の歯の治療から、入れ歯の制作に
及ぶだけではなくて、住宅の建築、それもハウスメーカの
プラモデルのようなニセモノ感のあふれる住宅にまで言えるのです。
つまり人工物をつくるとき《自然》が基準で作られていて、
人工的自然というものが、私たちを取り巻いているのです。
この《自然》という基準を普遍的基準であると言う考えがあることを
知らないと、例えば公共の公園の設計の凡庸さが理解できないでしょう。
友人に大学で造園を学んで、造園会社に勤めて、こうした公園を
設計したことのある人がいます。
彼の話を聞いても、とにかく、独創的な事ができない。
出来るだけ凡庸な公園を作る事が求められている。
それは歯医者がいうところの《自然》を基準としたものが、
普遍であると考えられているからです。
つまり《自然》を基準にする事と、凡庸を普遍の基準と考える
考え方は、重なっているように思えます。
歯医者の待合室には、自然の映像を流しているビデオがあります。
群で飛ぶ鳥たちとか、
クラゲの泳いでいるビデオ映像です。
私なんかは、実はディズニーのこうした自然画像で育った世代です。
代表的なのはディズニーの実写映画「砂漠は生きている」です。
そこには自然の驚異と神秘が満ちあふれてあったのです。
ナイアガラ瀑布から、グランドキャニオン、
そして大宇宙の映像を見て楽しむにしても、
それらはどこまで言っても《第6次元 自然領域》でしかないのです。
驚異に満ちた多様性であっても、それは《第6次元》という
ひとつの次元でしかないのです。
大自然や、大宇宙もまた、単に《第6次元 自然領域》でしか
ないのです。
このことを信じられない人はたくさんいると思いますが、
歯医者が嘆いたように、
浜崎あゆみの歯に、ペインティングをするという事は、
《自然》ではなくて、こうした異様な行為の中には、
《自然》を基準としない別の基準が存在するのです。
《自然》という基準ではない別の基準が、実際にあると言う事を
認めてくれない人が多いのを知っていますが、
これもまた、仕方がない事なのです。
。