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主体を立ち上げる事(加筆2校正1) [生きる方法]

先日私よりは20歳くらい若い友人、つまり40歳代の人と話していて、
「主体を立ち上げる」と言ったら、
その意味が分からないと言われました。

自然というのは、主体を立ち上げないと、美しく見えるのです。
しかし主体を立ちあげると、凡庸に見えるという話をしていた時の
反応が、「話が分からないという」という事だったのです。

自然を鑑賞する態度によって、
美しく見えたり、
凡庸に見えたりするのです。

この自然との向き合う人間の態度に、
主体の確立というのは、
関わっているのです。

自然性にゆだねれば、
主体は立ち上がりません。

分かりやすい例でいうと、
自然性にまかせていたら、
マラソンで、オリンピックで金メダルはとれません。

マラソンを走って金メダルを取るという事は
不自然な人工的な行為なのです。
この不自然さとして主体は立ち上がります。

最言葉が通じないという経験は、何度も味わいますが、
「主体を立ち上げる」ということも、
他人に説明することが、すこし難しい事です。
その難しさは、こうした自然/不自然に関わっているからです。

芸術論の中では、
ハイアートと、ローアートの区別を生む、
大きな要因が、この主体と自然性の問題です。

自然との関係でいうと、
自然と否定的に向き合うのがハイアートで、
自然を肯定的に愛するのがローアートです。

・・・・・・・・・・・・・・・
分かりやすい例を上げると、
本名で、文章を書いたり、書いた文章に責任を取るという態度が
主体を立ち上げるという事です。
本名で文章を書くというのは、実は反自然的なものなのです。

つまり、署名して原稿を書くという事が、
主体を立ち上げる事です。
文章を書くという識字性が、反自然なのです。
識字というのが、反自然で、文明の基盤を作っているのです。

しかし、
文章を署名入で書いていても、
それを本にするのを嫌がる人がいますが、
これも書いたものの責任をとって、主体として立つのを、
回避しようとしているからです。
自然性に回帰しようとしているのです。

つまり署名原稿を書いているからといって、
必ずしも責任は取っていないし、
主体は立ち上がっていないのです。

つまり主体というのは社会的歴史的な責任と密接に結びついています。
分かりやすく言えば、昔の武士のように、
責任をとって腹を切っていくということにおいて、
主体は立ち上がります。
切腹というのは、反自然な行為なのです。

千利休が腹を切っていった意味というのは、
一つの美意識や芸術観が、
社会的歴史的な責任を取る事で、
主体として立ち上がる事です。
ここにおいて、芸術はひとつの根拠を示したのです。
そしてこうした利休のハイアートは、反自然なのです。

日本芸術の本質的な根拠は、
この利休の切腹にあります。
だからこそ、三島由起夫もまた、
切腹を模倣したのです。

名前を伏せた匿名で書いたり、物事の責任を取る事を避けるのは、
主体を立ち上げないという事なのです。
主体を立ち上げなければ、腹を切らなくてすみます。
生き延びるためには、主体は立ち上げない方が良いのです。

つまり自然というのは匿名であって、無責任なのです。
実際、台風や地震にしても、無責任です。
その被害に対して、自然は責任をとりません。
自然は切腹をしないのです。

つまり責任をとるというのは人工性なのです。

つまり主体を立ち上げるというのは、切腹を意味するのです。

ですから、何があっても責任を取らない役人というのは、
主体がありません。

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哲学的には、主体というのは意識のことで、
感覚を通して、物事を知り、物事を見る事です。

物事を知ることや、見る事には、実は反自然であり、
署名性や、責任がつきまとうのです。

言い換えると、物事の善し悪しをはっきりとさせるためには、
主体を立ち上げて、責任を明示しないと、
はっきりとは見えないのです。
それは反自然な行為なのです。

物事を知ること、そして見る事というのは、
こうした歴史的社会的責任と密接に結びついていて、
ソクラテスやエックハルト、そして利休のように、
それは死に至る、極めて危険なものなのです。


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ハイアートというのは、
この責任をとる主体を立ち上げる事が、
表現の様式や内容にまで及ぶものです。
だからハイアートは、反自然なのです。

それに対して
ローアートというのは、
生き延びるためのものです。
表現の様式や内容が模倣の連鎖であって、
伝承の連続を基盤にしているものです。
実例としては民謡です。
それは自然の美しさに満ちています。

ハイアートの場合には、
伝承を切るところがあって、
切るという形で、個人の署名と責任を明示していきます。
つまり、この伝承性を切るという事が、
切腹につながる危険な人工的な行為なのです。
それは同時に主体として、物事をはっきりと見て、知る事なのです。
それが文明なのです。

事実を調査し、歴史的にも事実や資料を精密に調べ、
そしてよく考えて、その構造を抽出するといった
十分に根拠づけられた知識というのは、
主体を立ち上げる事においてのみ、可能なのですが、
実は、こうした文明的な作業は、危険な行為なのです。

なぜなら、社会の基盤というのは自然性にあって、
こうした十分に根拠づけられた知識の文明的人工性では、
動いていないからです。

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ハイアートに対して、ローアートには匿名性があって、
この匿名性や伝承性に、深い意味を見いだしている
心理があります。
それは集団や群れの中に溶け込む事で、
そこに伝わる自然性の意味の永続性に、
すべての根拠を置く心理があるからです。

匿名性の中で生きるというのは、
自然の中で生きる事であります。

実は、物事をはっきりと知るとか見るという事を、
しないということを事を意味します。
物事をはっきりと知るとか見るとかではなくて
集団が信じている迷信に、真理を感じるのです。

集団が信じる先入観や迷信、クリシェイな思想を繰り返し言って、
多くの人は満足しているものです。

このローアート的な、
集団の迷信世界こそが自然性であって、
実は社会の基盤であります。
80パーセントに人は、この中にいます。

ここでは、はっきりと知るとか、
明確に見るという事が、
できないのです。
調査する事もできなければ、学習することもできません。
無知無能なのです。
恐ろしく怠惰で、怯懦に満ちています。
この無知無能で、怠惰で、臆病な存在にこそ、
人間の深い本質と事実と真理が存在しているのです。
この人間の闇の深さこそが、
世界の本質なのです。
それが自然なのです。
自然は深い闇です。





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