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サントームとしての情報化社会(改題2加筆2) [生きる方法]

最近、私の見に降り掛かった大きな問題は、
実は小沢一郎の顔の問題でした。

最近の私の芸術分析が細くくなってきていて、
小沢一郎が民主党党首を辞任して首相になれなくなった時点で、
小沢の顔を詳細に分析すると、
ある事に気がついたのです。

私の芸術分析は、
想像界、象徴界、現実界という人間精神を3界でできているとする
ジャック・ラカンの用語を下敷きして行っています。
しかしラカンの言っている事は、
かなりずれてきているので、それはご了承ください。

小沢の顔を、言語判定法で分析すると、
想像界と現実界は、超次元から41次元まであるのです。
つまり全領域に精神が展開していて完璧なのです。

ところが象徴界は、超次元から6次元までしかないのです。

これは不完全というよりは、昔の人の精神構造です。

たとえばバッハの音楽を聴くと、
超次元から6次元までしかありません。
バッハの時代に、第7次元から41次元までが
無かったというのではないのですが、
意識領域としては抑圧されていたのです。
その原因は、一つはキリスト教という宗教の問題でしょうが、
もう一つは、もっと大きな文明としての意識構造です。

同様のことが小沢の象徴界にあるのです。
ネットで見ると、小沢にまつわる批判は多くあって、
その真偽を確認することは私にはできませんが、
人相見的には、小沢は善人です。
善人であるからこそ、問題があるのです。

電車などに乗っていて、
普通の多くの成人、それも中高年の顔をすばやく分析してみると、
多くの人の象徴界は、6次元、7次元、8次元でできています。
つまり6次元というのは自然領域、
7次元はビジネス領域、
8次元は信仰領域です。

つまり普通の成人の多くは、
自然性と、金と、そしてある事を疑わないでいる事で、
生きているのです。

それに対して、小沢の象徴界は、
7次元、8次元を欠いていて、
普通の多くの人の気持ちを理解する事ができないのです。

小沢の金脈が問題にされながら、
何故に第7次元というビジネス領域が無いのかが問題ですが、
もしも小沢が7次元の意識領域を持っていたら、
もっと巧くビジネスをやっていて、
追究を受けるような事にはならなかったでしょう。

しかしこの象徴界が超次元から6次元までしかないというのは、
小沢の問題だけではなくて、
私の顔の問題でもある事だったのです。


そこで、サイコトリップを繰り返して、
人格改造を試みたのが、
ギャラリーARTEの時の顔写真の3回にわたる撮影でした。

彦坂理論では、芸術分析の超次元から41次元までの広がりというのは、
意識だけという事になっています。
ですから意識を広げることを意識すれば、変化はできるのです。

意識だけを変えれば良いのですから、
それは物質性や、お金、時間をあまりかけないで、
可能な事なのです。

普通の意味で使われる意識の広い、狭いということを、
正面から42段階の階層構造でとらえている作業なのです。

それで、一応急遽ですが、私の象徴界を、
超次元から41次元まで拡張すると、
身体にまでくる、大きな変化を被ったのです。

便秘が治ったようなもので、
自分が口から肛門まで一本の空洞のパイプとして、
通ってしまうのです。
そうすると、この空洞のパイプである事の
空虚さが、、身にしみるのです。

聴く音楽の趣味も、大幅にかわります。
エンターテイメント的な軽い音楽は、
子供だましのばかばかしいものとしてしか聴こえてこなくて、
話にならなくなるのです。

人間の生きていくときの目標の一つは、
実は人格のこうした拡張の問題であると思います。

芸術の趣味判断というのは、
つまりその人の人格が、いかなる成長を遂げているのか、
そのことを示します。

つまらない作品しか、美術でも音楽でも、文学でも理解できない人は、
精神的に幼稚で、単純で、狭い構造をしているのです。

つまり芸術の話をすれば、その人の精神の構造規模が、理解できるのです。

だから人は、自分を偉そうに見せるために、
高級そうな美術や、音楽や、文学や、哲学を、
理解したようなふりをするのですが、
しかし、本当に理解している人の精神は、
彦坂的に言えば、
超次元から41次元までの全領域にわたって、
空洞の空いている人という事になります。
それは顔に表れるのであって、その規模は偽装はできないのです。

さて、自分の精神改造をすると、
正直言って、かなりまいると言えます。
生活の仕方から、変える必要を生じているからです。

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人間の文明は、情報革命を経て、意識の領域の拡張に達しているのです。
先ほどバッハの音楽を言いましたが、
バッハの音楽と、シュトックハウゼンとか、リゲティの音楽は、
意識の広さが違うのです。
現代の音楽は、精神の倒錯領域を大量に含んでいるのです。

つまり意識を拡大するというのは、
一方で見れば破壊活動に似ているのですが、
しかしそうでは無くて、広範囲での意識そのものの
多様性を同時に立ち上げて、空無の中に、
真の意味構成を壮大に立ち上げる事なのです。

この総合的で高度で、多様多重の意味構成をなし得るのか?
おそらく芸術が、晩年のラカンの唱えたサントームという
第4の構造として出現してくるのは、
こうした高度な空無との対峙によるのです。

彦坂流に人類史を区分すれば次のようになります。

自然採取の原始時代・・・・想像界の時代(偶像崇拝の呪術の時代)
農業化社会・・・・・・・・象徴界の時代(世界宗教の時代)
産業化社会・・・・・・・・現実界の時代(物理科学の時代)
情報化社会・・・・・・・・サントームの時代(情報科学の時代)

こう考えると、
情報化社会は、決して原始的な想像界への回帰の時代ではないのです。

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