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事実誤認と誤植の訂正/北斎とクールベ [空想皇居美術館]

北斎おしおくりはとうつせんのづ.jpg
葛飾北斎の「おしおくりはとうつうせんのづ」   集英社版『北斎美術館/全5巻』よりのスキャン画像

クールベの波2.jpg
ギュスターヴ・クールベ The Wave

葛飾北斎2ブログ.jpg
葛飾北斎の「おしおくりはとうつうせんのづ」 東京国立博物館のサイトよりのコピー画像

クールベの波5.jpg




『空想 皇居美術館』の美術史の問題で、重大な事実誤認をしていました。ご指摘をいただいたのは橋本麻里さんからです。

 一番大きなミスは、葛飾北斎とクールベの歴史的順番を間違えている事でした。葛飾北斎が、1760年年まれで、1849年に亡くなっていて、クールベは1819年生まれで1877年に亡くなっています。葛飾北斎の作品の正確な制作年は不明ですが、初期作品ですので大雑把に言っても18世紀後半ですから、クールベの生まれる前に作られた西洋版画を見ていることになります。つまりクールベの波ではなくて、別の西洋版画を見て、影響を受けていたのです。

橋本麻里さんのご指摘は、ごもっともなものなのです。

私の誤りを生んだのは、『北斎美術館全5巻』の中にある初期北斎の作品シリーズが、西洋銅画を見て、それを木版画で試みたという記述と、さらにその影響でつくった浪の初期木版画「おしおくりはとうつうせんのづ」が掲載されている記事です。

たぶん、それを非常に雑に私が読んで,クールベの波の複製銅版画が日本に入って来て、それを北斎が見たと、潜入観で早とちりして誤読したのだろうと思います。

これはヨーロッパでのジャポニズムが、彦坂が好きではなくて、基本学習が不十分であったので穴があいていたことが、そもそもの原因です。特に福本和夫氏の研究『福本和夫著作集 第五巻 葛飾北斎論』は傑出したもので、これを読んでいなかったのです。

しかも彦坂はジャポニズムにかぎらず正規の美術史に対してはかなりの無知無能で、多くの穴があります。彦坂は美術家として全人類の美術史を問題にしていて、日本美術だけでなく海外の美術に対しても非常に広範な領域を目配りして、《超1流》の作品を選択しているので、不正確な記述や思い違いや思い込みによる間違いの多いことは、自分自身でも予想していて、その責任をとる覚悟はしておりました。したがって今回のミスは、美術の専門家からみれば「彦坂は信頼のおけない」という証拠となるものでした。本人も日本美術史の個別専門家であるとは自称もしておりませんので、そのご批判は甘受せざるをえません。

 橋本麻里さんはブルータスの美術特集号『国宝』を一人で執筆なさった方です。

 実は橋本麻里さんには、この『空想 皇居美術館』の《超1流》の美術品を、日本美術史の中で論じる座談会の司会をお願いしていたのです。

私の初心としては、橋本麻里様にご参加を頂いて、美術史の専門家からのご批判も交えながらの記事を作りたかったのですが、それができずに出版せざるを得なかったのは、誠に残念でありました。

当初、日本美術史の専門家に入っていただいて鼎談を企画していたのです。

しかし、彦坂尚嘉が現代美術家でありながら、中学生の時から東京国立博物館に通っていて、眼で国宝/重要文化財を眼で暗記することをしていて、刀剣から陶磁器、仏像、建築、書まで広範な領域について《超1流》の美術品を探してく姿勢は狂気に満ちていて、大学時代は奈良、京都に新幹線でたびたび行って古美術を見て歩いていたので、こういう私に日本美術史の専門家の方は引いてしまったのです。

「対談しても話がもうまく噛み合わない、いい議論になりそうにもない」と相手にして下さらなかったのです。たしかに全領域の日本美術を見ていて、しかも欧米美術から現代美術/現代アートまでに目配りしている美術史の専門家は、いないのです。彦坂尚嘉は、美術オタクであって、オタクの狂気とゆがみがあるのです。しかし私自身は、学問を尊敬し、専門家の見解を謙虚に学ぶ態度であって、ゆがみに立て篭る様な姿勢は無いつもりです。

 こうして美術史の専門家の参加が実現できず、編集の高橋伸児さんからは「日程のこともありますから、鼎談は無しにしましょう」というメールが来たのです。それに対して彦坂尚嘉は、「日本美術史の専門家の不参加は残念ですが、ある程度は予想をしていました。”無し”というのは、明らかにマズいので、皇居美術館に収蔵するリストと一緒に、ある程度の文章が必要です。

橋本麻理さんとするということもありますが、橋本麻里さんもかなり引いておられるので、時間が押し詰まっていることもあって、親しくしている坂上しのぶ氏(ヤマザキマザック美術館学芸員)との対談ということでどうでしょうか? 原稿枚数20~30でまとめます」とお願いして、坂上氏の協力を得て『《超1流》の日本美術を集めた皇居美術館』という文章になりました。この文章では、今の所ミスは指摘されていません。

 ミスが出たのは、『皇居美術館所蔵作品 空想画集』の29枚の画像につけた解説文です。

 実はこの画像も当初、本物の日本古美術の写真を使う予定だったのですが、本の定価を下げるために彦坂尚嘉に制作依頼があって、急遽制作したものです。手描きのトレースと、コンピューターを使ってレイヤーに分けてのCG制作で、しかも2色刷りにする作業は、かなり加重な労働であったのです。ようやく画像29枚を制作した後に、190字ほどの解説文をつけることを編集部より要求されて、この対応でミスの問題が起きたのです。

もともと彦坂尚嘉の特徴は、広範な美術を見て歩いて来ている事であって、個別研究の専門家ではないので、ひとつひとつの解説は百科事典に頼らざるをえません。それをカバーするために、自分の記憶や思い込みを書くとミスが出ることになったのです。と言っても大きなミスは29件のうちの2つで、パーセント計算で言えば7%弱です。2つのうちのひとつは「聴秋閣」でした。橋本麻里さんからは、次のようなご指摘を受けています。

 

85ページ

また三渓園にある「聴秋閣」について、「原富太郎に与えられて」とありますが、これは原三溪が購入、移築したものです。前後の記述を見る限り、wikipedia「聴秋閣」の項のコピー&ペーストではないかと推測されます。

 

それに対して、私は次の様なメールを返しています。

 上記のご指摘は、その通りです。

私自身は、宮川淳から大きな影響を受けた世代で、特に宮川淳の『引用の織物』という文章から大きな影響を受けています。フーコーの『知の考古学』からも大きな影響を受けていて、一人の著者が文章を書いた時に他者の書いたものとの連続性を有ることの事実性がかならずあって、その事実の認識は重要だと考えます。

今回の2色刷りの作品図版もそうですが、引用で成立しています。いわゆるシミュレーショニズムです。

 私の基本は、すべてを他人の文章の引用で織物のように書く事を理想としています。ですがコピー&ペーストについての社会的批判も理解するもので、ご批判は甘受し、ご指摘のことは、再度勉強して適切な形で修正させていただきます。

 

そういうわけで、まずは、次の誤植と事実誤認を訂正致します。

下記のご指摘は、藤原えりみさんからいただいたものです。藤原えりみさんには、『空想皇居美術館』を全部読んでいただいての校正をいただき、まことに感謝いたしております。

 

p39上段

「デンドゥール神殿」の記述:紀元前15世紀→紀元前15年?

 

p105 北斎「神奈川沖波裏」の記述:

北斎とクールベの生没年および活動時期、ヨーロッパにおけるジャポニスムを

考えると、影響関係は逆。

 

p192上段

彦坂の発言:

ハイコンテスト→ハイコンテキスト/ローコンテスト→ローコンテキスト

 

●後書き:橋本麻里さんのお名前が誤植。


以上訂正して、お詫び申しあげます。

彦坂尚嘉/hiko@ja2.so-net.ne.jp

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
橋本麻里さんからのご指摘を早くに受けながら、この訂正記事が遅れてしまった事も、お詫び申しあげます。ひとつは『空想皇居美術館』という独立したブログを立ち上げようとして、それが出来ずに、時間を費やしてしまった事です。もうひとつは、ミスにこそ、深い問題が露呈しているので、自らのミスを掘り下げた『北斎の作品は《科学美術》であった』という小論を執筆してて、結局時間が流れ過ぎたので、その並記を諦めて、本日遅ればせながらアップした次第です。
数日後にこの小論もアップできればと思っています。
 


【続きはここをクリックして下さい】


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定価での入札がありました/合計13点。 [気体分子ギャラリー]

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私は誰? 2

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私は誰? 3


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事実誤認の訂正/北斎とクールベ+誤植 [空想皇居美術館]

世界の起源.jpg



この絵は、クールベの「世界の起源/The Origin of the World」という作品です。
見る人に不快感を与える面がある作品ですが、事実を事実として、直視している作品であって、エロティシズムはありますが、猥褻ではありません。

「猥褻」という言葉の定義は難しいし、人によって考えが違うでしょうが、彦坂尚嘉が「猥褻」という言葉を、この絵に投げかけると、こだま(木霊)が「猥褻ではない」と返ってくるのです。言葉を投げかけて判断するのが、《言語判定法》なのです。つまり画像をイメージだけで見るのではなくて、言語との関係で測定するのです。この場合、測定者の位置や、個人性はありますので、人によっては、同じ言語を使っても違う結果が出る可能性はあります。しかしそれは《イメージ判定法》でも同様の主観性はあるのです。《現実判定法》ともいうべき科学判定でも、観測者の主観の問題はあるというのが、現代自然物理学の常識なのです。ですから《現実判定法》だけが私的で主観的というものではありません。


この絵は精神分析医のジャック・ラカンが所有していた事のある絵で、現在はパリのオルセー美術館にあります。私は実物を見に行っています。絵のある部屋には椅子があって、私は座って、長々とこの絵を見ていましたが、不思議な絵画です。エロティックではありますが、しかし猥褻な絵画ではありません。
これは何なのだろうか?

彦坂尚嘉責任による世界の起源/The Origin of the Worldの芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
ただし《サントーム》は無い。

液体/固体/絶対零度の3様態をもつ多層的な表現。
ただし気体/プラズマの2様態は無い。
 
 
《シリアス・アート》であって、《気晴らしアート》性は無い。
《ハイアート》であって、《ローアート》性は無い。
シニフィアン(記号表現)の表現で、シニフィエ(記号内容)表現ではない。
理性脳の表現であって、原始脳的な表現性は無い。

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は有るが、
しかし《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》性が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《国家》である。

鑑賞構造が《対話》である。

呪術美術や宗教美術ではなくで、科学美術である。
ただし情報美術ではない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《言語判定法》での芸術分析をしてみて分かる事は、
何よりも液体美術であって、つまり近代絵画です。
そして宗教美術ではなくて、科学美術であるということです。

キリスト教美術というのがありましたし、仏教美術というのがあったのですが、キリスト教は美術ではないし、仏教も美術ではありません。つまり美術そのものは仏教やキリスト教ではないのですが、それが宗教と接合していた。そうした宗教美術の時代が終わって、今度は美術が科学という《近代》の上部構造と接合したのが、クールベの絵画であったのです。科学美術というものの魅力が、この女性の股間を見つめる眼差しになっているのです。

そこには《原芸術》《芸術》《反芸術》性はありますが、
芸術の下部構造である装飾性やデザイン性、
そして《世間体のアート》性がありません。

何よりも驚くのは《想像界》《現実界》には
《第41次元〜50次元》しかない表現である事です。
このことは山本藍子の絵画作品や、大木裕之の映画にも共通して
見られる構造なのです。
つまり《第41次元 戦争領域》の芸術なのです。

748px-Courbet,_Gustave_-_Woman_with_White_Stockings_-_c._1861.jpg

クールベというと、自然主義リアリズムの画家として教えられていますが、
しかしこのようなエロティックな絵画にある眼差しというものが、
猥褻ではないということにおいて、改めて問われるものを持っている
のです。
猥褻とエロティシズムの差とは何なのか?

彦坂尚嘉責任による白いストッキングの少女の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
ただし《サントーム》は無い。

液体/固体/絶対零度の3様態をもつ多層的な表現。
ただし気体/プラズマの2様態は無い。
 
 
《シリアス・アート》であって、《気晴らしアート》性は無い。
《ハイアート》であって、《ローアート》性は無い。
シニフィアン(記号表現)の表現で、シニフィエ(記号内容)表現ではない。
理性脳の表現であって、原始脳的な表現性は無い。

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は有るが、
しかし《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》性が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《国家》である。

鑑賞構造が《対話》である。

呪術美術や宗教美術ではなくで、科学美術である。
ただし情報美術ではない。

クールベのエロティシズムの絵画は《シリアス・アート》であって、
《気晴らしアート》ではないのです。
それ以上に重要なことは、すでに述べたように液体美術という
《近代》の美術であって、しかも科学美術である事です。

このことは、同じ様な少女の股を描いたバルテュスの作品と比較すると
明らかになります。

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Courbet+Sleep.jpg

閑話休題、葛飾北斎の作品に関して、彦坂尚嘉が基本的な間違いを
『空想皇居美術館』(朝日新聞出版)


この波はボリュウムのあるもので、しかも遠景との関係をふくめて見ると、
西洋遠近画法で描かれています。
西洋の透視画法を用いた「浮絵」の作品なのです。

北斎の出発は、実は西洋遠近画法を吸収した浮世絵版画の制作がデビュー作品
なのです。この作品も、初期の西洋の銅板画を見て、影響を受けた作品と
言われています。

北斎は司馬江漢らによって江戸に広まった洋風画に多大な感心を寄せる所から、
出発しているのです。



柄谷行人は、『』

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著作権の問題(加筆3校正2) [状況と歴史]

北斎おしおくりはとうつせんのづ.jpg
葛飾北斎の「おしおくりはとうつうせんのづ」   集英社版『北斎美術館/全5巻』よりのスキャン画像


葛飾北斎2ブログ.jpg
葛飾北斎の「おしおくりはとうつうせんのづ」 東京国立博物館のサイトよりのコピー画像

上の画像は、葛飾北斎の「おしおくりはとうつうせんのづ」という作品です。

このような日本の名画の画像を、
このようなブログで使用する場合の著作権の問題があります。

私の立場は、非商業的な学術的な使用は、
個人の使用権として合法であると考える立場をとっています。
そして画像を大きく使用することが、日本文化の啓蒙に取って有益で、
公共の利益に合致すると考えます。

私のブログに対する著作権違反を非難する方々の、お気持ちは理解
できますが、私は、私なりに自覚して使用しているのです。

非難そのものを封じる気持ちは私にはありませんが、
いわゆる炎上問題は、幾つもの他の例があって、
ここにおける悪意の存在は、普通の議論の応対では意味が無い事が
多くの事例で明らかになっています。

つまりこの著作権を巡る応酬は、具体的な著作権の所有者との対応は
致しますが、それ以外の方々との空論は意味が無いと考えます。

たとえばDVDなどで映画を見る場合にも
「営利目的の上映」を禁止する警告を出しているのであって、
私的非営利の上映は可能です。
つまりこのブログは有料サイトとではなくて、
非営利的な無料サイトで、私的はものですから、
人類史的な遺産である芸術作品の画像の非営利的な使用は、
すべての人間の権利であると考えています。

私のブログには、さまざまな画像が使用されているので、
したがって問題は複雑ではあります。
それは一概に古典美術の画像とは同一ではないので、
おのおのの画像ごとの判断が要求されます。

基本としては、ネット上に流通している画像を使って来ています。
つまり公開され社会化され、共有化、公共化された画像です。

ただし『空想皇居美術館』このブログで扱う場合、
美術全集の画像をスキャンして使う場合もあるので、
この場合には、出版社との著作権上のトラブルの発生が考えられます。
しかしこの危険を犯しても、私はこのブログで、
日本美術の《超一流》の作品画像を掲載して行くつもりです。
つまりここでも画像の私的使用であり、非営利的な無料サイトでの
使用は、日本文化の啓蒙普及にとって意味があるのであって、
公共の利益に合致していると考える立場です。

「他人が著作者の許諾なしに無断で出版、映画化、翻訳した場合には、
著作権を侵害することになる」のですが、ブログでの使用は「出版」とは
同一であるとは考えられないと言う立場を、彦坂尚嘉は取ります。
同様に「映画化」でも無いと考えます。
大きな相違点は、有料の販売では無いという事です。

もちろん私のように考えない考え方も有るので、私の主張が
認められない事態はあり得ます。

著作権について、知的所有権が変化するのは1975年のアメリカの
ベトナム戦争敗戦後の変化の中で、アメリカの戦略として組み上げら
てきます。
一方、アメリカのヒッピー文化の流れから、
文化そのものを共有しようとする非営利の流れが
パーソナルコンピューター、インタネットなどで果敢に展開されて、
著作権を巡る考えのぶつかり合いは複雑を極めます。

それはシミュレーショニズムの作品となって、これも多くの裁判
を伴いつつ、複雑なありようを示してきています。その複雑さは、
iPodの出現で、CDのコピー防止装置が無化したところにも見られます。

ふるくはアンディ・ウォーホルから、現在のジェフ・クーズなど
も著作権を巡る裁判を経験してきています。
日本でも木村恒久や、マッド・アマノなどの著作権裁判は
あって、私自身は、この複雑な状況を自覚しています。

このブログでも、著作権者からの抗議がある場合に、
画像をダウンさせて来ている実例はあります。
ひとつは時事通信社の画像であり、
他のものは作家の作品写真です。

時事通信社の韓国戦車の画像でしたが、抗議を受けて、
著作権者の意思を認めて、すぐに画像を削除して、
他の同様の戦車画像に取り替えました。

マキイマサルファインアーツでの白濱雅也さん企画のグループ展を
批評した時に、作家本人からの希望があって、画像をダウンさせています。

この作家の場合には、あまり有名な作家ではなかったので、
つまり私の批評そのものに、それほど大きな公的利益を生じないと
私が了解したのです。つまり有名なアーティストの場合には、
社会的公的な義務がありますが、無名の作家の場合には私人に
過ぎないと考える立場だからです。

著書を有する有名人を批評する事は、公共の利益になると彦坂尚嘉
は考えます。六法全書においても、名誉毀損と言論の自由は、
矛盾している領域である事が明示されていて、批評の自由が許されるのは
公共の利益性がある場合です。私なりに六法全書は読んでいます。
こうしたことを彦坂尚嘉は自覚していて、
名誉毀損にならないように、彦坂なりに注意して書いています。
だからといって、いつか地雷を踏むだろうと、覚悟はしています。

人相分析に関して怒る人の気持ちは理解できますが、
人間の顔には、その人の人格の構造が現れます。
社会的に影響の大きな人には、人格的にも責任があると、彦坂尚嘉
は考えるので、社会的に無名人の顔の分析については、
ブログに書いていないつもりです。

ですので、著作権を有する人物や、名誉を傷つけられたと判断なさる
当事者からの抗議には誠実に対応いたします。

また、必要があれば、裁判を受けて立つ覚悟です。
それは仮に負けたとしても、文化の非営利的な共有使用の拡大を
主張する事が、私の表現者/言論人としての使命だと考えるからです。
そしてまた、言論の自由と、批評の自由を、死ぬ覚悟で追求
します。

生前の山田幸司さんに関連するブログでも書いていますように、
言論の自由や、表現の自由を追求する事は、極めて危険な事です。
死ぬ覚悟が無いと、例えば『空想 皇居美術館』のような企画は、
10年間も追求できません。「右翼に刺されるぞ!」という脅しは何度
でも聞かされています。刺されてもなお、無意味に過ぎなくても、
私は芸術の探究を社会事象を介して続けるのです。それが一方で
時代遅れである事は知っているのですが・・・・。
まあ、宮本武蔵のようなものです。
最後は金峰山にある霊巌洞で孤独に死ぬのでしょうか?

まあ、もっと無惨に、惨めに
かっこ悪く死ぬでしょうね。
「人の不幸は密の味」ですから、彦坂尚嘉の死が、
彦坂を嫌いな多くの人々に喜びを与えられるのではないかと、
思っています。
これもまた、ニーチェが言う《贈与の徳》ではないでしょうか。

彦坂尚嘉/hiko@ja2.so-net.ne.jp


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事実誤認の訂正/北斎とクールベ+誤植 [空想皇居美術館]

世界の起源.jpg



この絵は、クールベの「世界の起源/The Origin of the World」という作品です。
見る人に不快感を与える面がある作品ですが、事実を事実として、直視している作品であって、エロティシズムはありますが、猥褻ではありません。

「猥褻」という言葉の定義は難しいし、人によって考えが違うでしょうが、彦坂尚嘉が「猥褻」という言葉を、この絵に投げかけると、こだまが「猥褻ではない」と返ってくるのです。言葉を投げかけて判断するのが、《言語判定法》なのです。つまり画像をイメージだけで見るのではなくて、言語との関係で測定するのです。この場合、測定者の位置や、個人性はありますので、人によっては、同じ言語を使っても違う結果が出る可能性はあります。しかしそれは《イメージ判定法》でも同様の主観性はあるのです。《現実判定法》ともいうべき科学判定でも、観測者の主観の問題はあるというのが、現代自然物理学の常識なのです。ですから《現実判定法》だけが私的で主観的というものではありません。


この絵は精神分析医のジャック・ラカンが所有していた事のある絵で、
現在はパリのオルセー美術館にあります。
私は実物を見に行っています。絵のある部屋には椅子があって、
私は座って、長々とこの絵を見ていましたが、不思議な絵画です。
エロティックではありますが、しかし猥褻な絵画ではありません。
これは何なのだろうか?

彦坂尚嘉責任による世界の起源/The Origin of the Worldの芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
ただし《サントーム》は無い。

液体/固体/絶対零度の3様態をもつ多層的な表現。
ただし気体/プラズマの2様態は無い。
 
 
《シリアス・アート》であって、《気晴らしアート》性は無い。
《ハイアート》であって、《ローアート》性は無い。
シニフィアン(記号表現)の表現で、シニフィエ(記号内容)表現ではない。
理性脳の表現であって、原始脳的な表現性は無い。

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は有るが、
しかし《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》性が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《国家》である。

鑑賞構造が《対話》である。

呪術美術や宗教美術ではなくで、科学美術である。
ただし情報美術ではない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《言語判定法》での芸術分析をしてみて分かる事は、
何よりも液体美術であって、つまり近代絵画です。
そして宗教美術ではなくて、科学美術であるということです。

キリスト教美術というのがありましたし、仏教美術というのがあったのですが、キリスト教は美術ではないし、仏教も美術ではありません。つまり美術そのものは仏教やキリスト教ではないのですが、それが宗教と接合していた。そうした宗教美術の時代が終わって、今度は美術が科学という《近代》の上部構造と接合したのが、クールベの絵画であったのです。科学美術というものの魅力が、この女性の股間を見つめる眼差しになっているのです。

そこには《原芸術》《芸術》《反芸術》性はありますが、
芸術の下部構造である装飾性やデザイン性、
そして《世間体のアート》性がありません。

何よりも驚くのは《想像界》《現実界》には
《第41次元〜50次元》しかない表現である事です。
このことは山本藍子の絵画作品や、大木裕之の映画にも共通して
見られる構造なのです。
つまり《第41次元 戦争領域》の芸術なのです。

748px-Courbet,_Gustave_-_Woman_with_White_Stockings_-_c._1861.jpg

クールベというと、自然主義リアリズムの画家として教えられていますが、
しかしこのようなエロティックな絵画にある眼差しというものが、
猥褻ではないということにおいて、改めて問われるものを持っている
のです。
猥褻とエロティシズムの差とは何なのか?

彦坂尚嘉責任による白いストッキングの少女の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
ただし《サントーム》は無い。

液体/固体/絶対零度の3様態をもつ多層的な表現。
ただし気体/プラズマの2様態は無い。
 
 
《シリアス・アート》であって、《気晴らしアート》性は無い。
《ハイアート》であって、《ローアート》性は無い。
シニフィアン(記号表現)の表現で、シニフィエ(記号内容)表現ではない。
理性脳の表現であって、原始脳的な表現性は無い。

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は有るが、
しかし《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》性が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《国家》である。

鑑賞構造が《対話》である。

呪術美術や宗教美術ではなくで、科学美術である。
ただし情報美術ではない。

クールベのエロティシズムの絵画は《シリアス・アート》であって、
《気晴らしアート》ではないのです。
それ以上に重要なことは、すでに述べたように液体美術という
《近代》の美術であって、しかも科学美術である事です。

このことは、同じ様な少女の股を描いたバルテュスの作品と比較すると
明らかになります。

Balthus1938.jpg

Courbet+Sleep.jpg

閑話休題、葛飾北斎の作品に関して、彦坂尚嘉が基本的な間違いを
『空想皇居美術館』(朝日新聞出版)


この波はボリュウムのあるもので、しかも遠景との関係をふくめて見ると、
西洋遠近画法で描かれています。
西洋の透視画法を用いた「浮絵」の作品なのです。

北斎の出発は、実は西洋遠近画法を吸収した浮世絵版画の制作がデビュー作品
なのです。この作品も、初期の西洋の銅板画を見て、影響を受けた作品と
言われています。

北斎は司馬江漢らによって江戸に広まった洋風画に多大な感心を寄せる所から、
出発しているのです。



柄谷行人は、『』

クールベの波2.jpg


クールベの波5.jpg

クールベの波7.jpg

クールベの波6.jpg

クールベの波5.jpg



クールベの波3.jpg


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2点入札がありました/私は誰?1&2 [気体分子ギャラリー]

私は誰?1.jpg

私は誰?1


定価 10、000円
現在の最高入札価格 8,000円

私は誰?2.jpg

私は誰? 2

2008年
日本画用キャンバスにアクリル、銀箔
257×182㎜

定価 10,000円
現在の最高入札価格 8,000円

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競りに入札がありました4/足あと

足あと2.jpg

足あと2

現在の最高入札価格 2700円

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定価で1点売れました/9点目です。 [気体分子ギャラリー]

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私は誰? 4

2008年
日本画用キャンバスにアクリル、銀箔
257×182㎜

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ポルノ画像の女性たち(推敲1) [美人論]

私の世代は、ポルノ解禁と大きく関わっている世代であります。

私がニューヨークのタイムズスクエアで、ポルノグラフィティを
見たのは1981年ですが、曖昧ではありますが、もっと早くに
見ていると思います。

ポルノを見た時の不思議な疑問は、自らの性器を露出させながら、
明るい顔を開いて笑っている女性の笑顔でした。
彼女たちは何を考えて笑っているのだろうか?

私自身がこのブログで、美人論や顔の分析を書いて、
多くの人の顰蹙(ひんしゅく)をかっている根底には、
人間のこのポルノ的な笑いへの疑問があります。

自分を反省して考える事も多くありますが、
私の付き合って来た親友や友人や、同僚や、美術家や、
美術関係者の人々の振る舞いに大くの疑問がありました。
彼らには人格はあるのだろうか?

人間の人格とは何なのだろうか?

人間と言う存在に対する深い疑問は、小さい時から
私のおおい尽くし、苦しめて来ました、

《言語判定法》に対する疑問は私は理解できますが、
私自身が、自分なりの《言語判定法》で、人間を追求してこざるを得な
えなかったのは、ポルノのモデルさんの笑い顔以来の、不思議さと、
その闇なのです。

人間の多くには、人格がありません。
下記に掲載する人物画像は、すべてポルノグラフィティのモデルの
顔ですが、彼女たちには、彦坂尚嘉の《言語判定法》では、
人格は無い事になります。

(ここには、画像が掲載される予定でしたが、現実には画像は掲載できませんでした。それはポルノモデルという、最下層の人生を生きる女性の画像の主体に対して礼儀を欠いているように思えるからです。そこで、日本の元首相の顔を、《言語判定法》のモデルに使わせていただきます。この飛躍は、彦坂的すぎて、読者にはあまりに理不尽であり、説得力に欠けるものです。しかし元最高権力者の人格の有無を疑うことは、批評性であります。最下層のポルノモデルを貶めるよりは、モラル的に許される事だからです。元最高権力者にも、人格が存在しないのなら、日本の多くの人に人格構造が存在しないのは、当然の事と了解が着く可能性があるからです。)

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《想像界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメントの人格
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメントの人格
《現実界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメントの人格
《想像界》の人格
気体人間
《気晴らし人間》
《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。

『平気でうそをつく人』

《近代国家》の大きさの人格。

《原人格》《人格》《反人格》《非人格》《無人格》《世間体人格》は無い。

《形骸》的人格である。

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【用語解説】

《言語判定法》 《イメージ判定法》は《想像界》的判定法であって、イメージの類縁性で判断するのに対して、言葉を投げかけて、対象からの反射で測定する方法が《言語判定法》です。《象徴界》的な判断と言えます。人間の判断法には、もうひとつ科学的な判定法=現実界的判定法がある。

鳩山由紀夫の顔の画像に向って、言葉を投げかけて、その反射を読み取っています。

人格的には《第8次元 信仰領域》の人であると出ます。

《第8次元 宗教領域》 対象の画像にむかって、1から順番に数字を投げかけて、格付けを探す方法です。こういう彦坂尚嘉の手法に対する批判や疑問はたくさん寄せられますが、しかし現実の物を手に取って、それが《1流》なのか、《2流》品であるのかという判断は実際に普通にされていることです。彦坂が、この《言語判定法》を習得したのは、1975年頃に六本木の印刷屋に勤めていて、そこで毎日印刷物の入札をやらされていた経験からです。物を値踏みするときに、《言語判定法》は有効な方法であって、現実の中で使われているのです。

こういう調子で用語解説を書いていくと、それだけで長くなってしまいます。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

鳩山由紀夫は、宇宙人と評されてきていますが、
多くの言葉を投げかけて浮き彫りになってくるのは、
人格的には、《形骸》という言葉に対応するものです。

つまり人間のすべてには、平等には人格は無いのではないのか?
いや、確かに人格と言うべきものはあるのだが、
それは《形骸的人格》とでも言うべきものではないのか?

これは危険な問いであります。

今日のインタネットの鬼畜系の世界を介して見えてくるものは、
人間は多様であって、人格に関しても、人格が《形骸》化しているとか、
人格が《崩壊》しているとか、人格が《炎上》している人々がいるということです。

生き馬の眼を抜く様な、悲惨な関係が人間社会であるのではないか?
という疑問です。









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展示風景とギャラリー改造計画 [気体分子ギャラリー]

だんだん気分がギャラリーのオヤジというものになって来ています。

昨晩、知り合いの業者の人が、作品を定価で3点買ってくれたので、
マキイマサルファインアーツで売れた4点と、競っている1点と
会わせてて8点売れた事になります。

私自身の基本的な立場は、あくまでも近代/現代の市場社会との連携を
取って行くという事であって、従来のギャラリーや美術評論家、
そして美術館や学芸員の方々、さらにアートディラーや業者の人との
連携を大切にしてきています。ですから方々との連携を歓迎します。

藍子展示風景ブログ用01.jpg

上の画像は展示風景です。
もう少し改造してきれいにしようという提案が、建築家の高橋堅さんから
されています。

先日のオープニングでは、高橋堅さん、若い作家の山口俊郎、中川晋介
と私の四人は、徹夜で飲んで議論をしていました。
その話の中に、このギャラリー空間の改造の話もあったのです。

高橋堅さんの提案は、白いペンキを上まで塗る事、そして床近くの幅木
も白く塗る事。
さらに床を黒く塗る事です。

藍子展示風景ブログ用05.jpg

上まで白く塗って、床を黒くするというのは、さすが高橋堅さんらしい
すばらしい提案です。
床を黒くするのは、展覧会会期中に出来るので、ぜひ、急いで実現
したいと思います。

床は、今回栃原比比奈さんと山本藍子さんが水拭きを3回やって
くれました。ここを油性の黒いペンキで塗ろうと思います。

藍子展示風景ブログ用03.jpg

今回の展示は、右に学生時代の古い日本画、左に最新作のプラズマ
状の絵画を交互に並べたものです。

藍子展示風景ブログ用02.jpg

右が、学生時代の西瓜の絵で、左が焼豚の絵です。
大阪の鶴橋から買って来て、描いたものです。
山本藍子さんは、絵を実物の豚を見ながら描いているというのです。
冷凍してあって、描いては、また冷凍することを繰り返すので、
最終的に豚は、食べないで、
ビニール袋に入れて捨てるのだそうです。

藍子展示風景ブログ用04.jpg

ギャラリーの改造は、この壁面をもう少し高くすることです。
高くすれば、写真の上の汚さが隠れるようになります。
この壁に使っているベニヤや角材は、以前にGEISAIに出品した時に、
8ブース立ち上げたのですが、その時の材料の流用です。

展示している作品は、右が学生時代の、パンツの見える自画像(日本画)
左が、今回の新作のアクリル画です。

藍子展示風景ブログ用06.jpg

このギャラリー空間は、天井高5メートル20センチありますので、
藤沢まで来て下されば、画像で見て下さっているのとは、別の、
感動をもって鑑賞してもらえるものです。

しかし私は、ブログやホームページで見てもらうだけで良いとおもって、
います。
何とか英語頁と中国の頁を立ち上げて、海外発信もして行きたい。
つまり情報を発信するだけで、美術展として成立すると考えます。

しかし情報を発信するためには、現実の場所もいるのです。

今回は、中川晋介さんがホームページ制作に果敢に取り組んでいた
だいて感謝しています。

現場の会場制作には栃原比比奈さんと田嶋奈保子さんがご苦労して
くれた、
山口俊郎さんも、自分の作品を制作しながら手伝ってくれました。

日本の経済が急降下でこの12年悪化して来ています。
若い美術家が、従来のような形では制作発表が出来なくなっている
中で、作家の運営するギャラリーによる、
産地直売型の作品販売の可能性を切り開きたいと思います。

ささやかな規模ですが『1円オークション』も今週中に
スタートさせますが、重要なことは、今日の市場の変化と
制作の現場を連携して、何よりもアーティストの制作の現場を
再編する事なのです。

若い作家、あるいは作家希望者で、気体分子ギャラリーへの参加者を
求めます。条件は、真面目に今日の芸術を追求、探究しようと
するアーティストであるという事だけです。

1975/1991年に《近代》が終わった行こうの状況の中で、
芸術はいかに格闘し、情報革命の耐えて、新しい芸術を切り開き
得るのか?

具体的場と、具体的な情報発信は、そう簡単ではありません。
一人では出来ない労働量と、ノウハウの知識集積と、その学習が
必要です。

情報化社会のアートというのは、しかも同時にフリーアート
であると言う事です。ドクメンタやベニスビエンナーレなどの
国際展は、絵画ではなくてフリーアート(インスタレーションや、
画像インスタレーション、メディアアート)です。
美術市場の変化への適応と、フリーアート状況への適応という
この二重性に耐えて行く若いアーティストの参加を求めます。

学習への意欲さえあれば、無能の人でも良いのです。
自らが無能である事を知っている人を求めます。
《無知の知》こそが重要です。


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