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第34回「ラカンと美術読書会」のご案内 [告知]

山本藍子展も終わりになりますので、よろしければ見に来て下さい。

27日の日曜日には、ラカンの読書会もあります。

ただ音読している気楽な会ですので、良く続いています。

お気軽に、冷やかしでのぞいてください。

歓迎します。


第34回「ラカンと美術読書会」のご案内


日時6月27日(日)18時30分 〜 2時間程度

場所 彦坂尚嘉アトリエ  藤沢(小田急線六会日大前)から徒歩12分


通常読書会は立教大学で行われておりますが、今回の読書会は

現代開催中の山本藍子展/気体分子ギャラリー(彦坂尚嘉アトリエ内)

の展覧会に合わせ、藤沢(六会)の彦坂尚嘉アトリエで行うこととなりました。


ご注意下さい。


第4回気体分子ギャラリー/「日本が出身の豚絵画/山本藍子展」

http://www.kitaibunshi.com/exhibition/last/index.html


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「ラカンと美術読書会」とは下記の2人が共催する読書会です。


彦坂尚嘉(日本ラカン協会幹事、立教大学大学院特任教授、日本建築学会会員、

美術家)

武田友孝(元・東京スタデオ、インデペンデント・キュレーター)


ラカン『無意識の形成物〈下〉』と、

月代わりで選出される美術本の読書会です。


2007年8月より月一回のペースで開かれています。

ごくごく初歩的な読書会で何方でも参加できます。

どうぞお気軽にご参加下さい。


テキスト

     ◎ラカンは『無意識の形成物〈下〉』 (岩波書店)

     ●美術は 五十嵐太郎 彦坂尚嘉 新堀学 『空想皇居美術館』(朝日新

聞出版)


  参加費 無料(コピー代のみ実費で頂きたくお願いいたします)

     テキストは特に準備なさらなくても、こちらでコピーを用意いたします。


※ 研究会終了後、懇親会を予定しております。

 お時間に余裕のある方は、こちらの方にもご参加ください。

 なお、懇親会は、持ち寄りのパーティー形式で行いたいと思いますので、

 希望者の方は、あらかじめアルコールとつまみを

 適当に用意して来て頂ければ幸いです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

六会日大前に着いたら、電話を携帯に下さい。

車で迎えに行きます。


徒歩で行かれる場合は、

小田急藤沢江ノ島線 六会日大前下車。

東口に出てバスターミナルを突っ切り 大通りを300メートル進み

六会日大前駅入口交差点と言う大きな交差点を右折。

300メートル進むと左手にローソンがあります。

ローソン手前の細い道を左折。T字路にぶつかるまで300メートル直進。

T字路左手が彦坂アトリエです。

徒歩12分


彦坂尚嘉アトリエ

〒252-0813藤沢市亀井野3−23−11

電話:0466-21-8898

携帯090-1040-1445

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

申込・問合せ先:加藤 力(美術家、臨床美術士)

            E-mail:sp5g7d99@axel.ocn.ne.jp

               FAX:0467-48-5667











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伊東豊雄 講演会 「呼吸する建築」(校正5) [建築]

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昨晩寝る前にアップしたはずが、下書き保存になっていました。失礼致しました。加筆して、改めてアップします。
 
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伊東豊雄 講演会 「呼吸する建築」

国士舘大学 理工学部建築学系主催で建築家・伊東豊雄氏の講演会が開催。
テーマは「呼吸する建築」。 是非ご来場ください。
日時
2010612日(土)
16301800 (開場 1530~)
このページの先頭へ▲
会場
国士舘大学 世田谷キャンパス 中央図書館B1F 多目的ホール
(東京都世田谷区世田谷4-28-1
 
 
定員
528名 (要申込み、先着順)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 
上記の講演会に一昨日行って来ました。

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伊東豊雄さんの人柄の良さがあふれる講演会で、特に最後の会場からの質問へを受けての答弁は、正直で率直で印象深いものでした。ほんとうに良い方だなと思いました。
 
しかし同時に伊東豊雄の建築が、実は建造物に過ぎなくて、厳密な意味での建築になっていないという事が、良く実感できました。講演の題目にある『呼吸する建築』というのは、文字道理の建築機能のことでした。
 
伊東豊雄の作品が建造物でしかなくて「建築ではない」と彦坂尚嘉が言う場合、《建築》という言葉は、古い意味での大文字の《芸術》とか、蓮實重彦が批判した《大文字の文学》という《近代》の概念に重なるところはありますが、しかし彦坂尚嘉が語る場合には《原建築》とか《原芸術》性の方に比重をかけて、従来の《近代》的な芸術概念の外に出ようとしているものです。
 
つまり《原建築》性のある建築を《建築》としてとらえ、《原建築》性の無いものを《建造物》として整理しようとする極端さを秘めつつ、しかし実際にはその間にグラデーション的に分類概念を増やして、より細かい分析データーにもとづいて建築を見ようとする態度です。

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さて話を伊東豊雄の建築に戻すと、伊東豊雄の建築を、社会的有用性の高い建造物に過ぎないとする見方は、「せんだいメディアテーク」を見て、さらに「まつもと市民芸術館」を見て、建築家としての成長飛躍の大きさに驚いた体験を持つ私が言える事では無いように思うのです。が、しかし伊東豊雄の建築への疑問もまた、私の中には根強くあって、オペラシティの回顧個展を見た時の疑問が続いていて、私の中で攻め合っていたのです。伊東豊雄の特徴である有機的なフォルムや窓の形等々が、実体的で甘く、ムーアやアルプといった美術家の仕事と比較しても芸術的不満を持たざるを得ないことも、私には重大な疑念でした。
 
会場では、建築系美術ラジオを一緒にやっている美学の天内大樹さんと会えました。天内さんが、建築の大きな賞であるプリツカー賞を西沢立衛とともに妹島和世が受賞した話をしてくれて、それが実は妹島和世の先生であった伊東豊雄を飛び越してしまった受賞である事に、「なぜか?」という疑問を呈したのです。

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私には刺激的な話で、私は妹島和世さんの建築とも私的に格闘していて、このブログでも何回か取り上げています。妹島和世の建築を理解する事は、私には難しい事で、妹島和世と伊東豊雄という2人の建築家を理解し評価することは、美術家としての彦坂尚嘉にとって重要な事であったのです。それは現代という時代を把握する大きな指標の問題であるからです。
 
プリツカー賞というは、アメリカのハイアット財団(The Hyatt Foundation)から建築家に授与される賞で、建築界のノーベル賞と言われるほどの権威の高いものです。この権威の高さのある賞を介してしか、私自身は先に行けなかったのですが、この賞を媒介にしてみると、妹島和世の建築の中に潜む《原建築》性の精神の高みが改めて良く見えてくることと、伊東豊雄の建築の精神性の低さもまた見えてきたのです。

同様のことはプリツカー賞を受賞した安藤忠雄と、取れなかった磯崎新建築の差の問題でもあるのです。活発な言論活動にも関わらす磯崎新の建築作品は《原建築》性を欠いていて、芸術性や精神性を持たない建造物に過ぎないという構造があるのです。海外の賞を媒介してしか明確にできないことは残念では有りますが、しかし日本国内の中では、見識ある人々がいるにもかかわらず、こうした磯崎新の建築の低さを明確に出来ない《村》的な甘さが日本を覆っているのです。

さてここで妹島和世の建築と伊東豊雄の建築を比較して見ようとする時、《言語判定法》によって私の開発したさまざまな概念装置の中で、下記の概念梯子を使ってみようと思います。
 
《原建築》
《建築》
《反建築》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《非建築》
《無建築》
《世間体建築》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《形骸建築》
《炎上建築》
《崩壊建築》
 
ここで言う《原建築》というのは、代表的なのストーンヘンジなどの巨石記念物からエジプトのピラミッド、ギリシアの神殿建築、アンコールワットなどの巨大構築物です。ここに建築というものの、有用性を超えた深い意味が存在すると、彦坂尚嘉は考えています。全人類史を遡行して行った時の、躓きの地点がここにあります。この地点は、岡本太郎のように原始時代のストレートに回帰してしまうと、見損なってしまうポイントなのです。つまり原始から文明に移行する時の原点が、この《原建築》であり、《原芸術》なのです。

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ストーンヘンジ、エジプトのピラミッド、ギリシア神殿、アンコールワットなどは《建築》ではなくて、《原建築》であると彦坂尚嘉は分類するのです。

では、いよいよメインの《建築》ですが、それは多く有るのですが、彦坂尚嘉が考える《建築》だけのものは、前近代建築に限られます。つまり単品というか、単性としての《建築》は、産業革命が起きる前の建築に限られていて、産業革命以後のモダニズム建築というのは、建築に対する《反建築》や《非建築》《無建築》、さらには《形骸建築》の問題になるのです。

たとえばローマのパンテオンです。こうした建築は、《原建築》性は欠いていて、純粋に単性で《建築》であると彦坂尚嘉は考えます。

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日本建築ですと、聖徳太子が建てたと言われる四天王寺などです。ここにも《原建築》性は無くて、《建築》だけが単性として存在しています。

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誤解されては困るのは、これらの概念は単性であって、すぐれた建築家の建築は、実は総合性として現れるのであって、この総合性こそが重要だと、彦坂尚嘉は考えています。その総合性を明らかにするために、分析概念として《原建築》《建築》《反建築》《非建築》《無建築》《形骸建築》と言った用語を編み出しているのです。



では、《反建築》とは何なのでしょうか? 私自身が美術家でしかなくて、建築史の教養が無いので、《反建築》だけしかない例を、なかなか上げられないのですが、ひとつはエッフェル塔です。

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《反建築》の例を、もうひとつ踏み込んで言えば、
たとえばオットー・ワーグナーの建築です。

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つまり《反建築》だけしかないものは、モダニズム建築の出発点や、初期にある建築なのです。




さらに《非建築》というのは、代表はミース・ファン・デル・ローエです。このミースの評価をめぐる議論では、建築の人々とはいつも食い違っていて、彦坂尚嘉の建築に対する無知無能と言うか狂気がむき出しになる所ですが、どうしても私には建築家の意見が納得できない所があります。

最近では高橋堅さんと話していて、その相違が大きく出るのです。彦坂尚嘉から見ると、ミースの建築は、《非建築》だけのもので、《原建築》への遡行性を欠いているものなのです。《原建築》への遡行性をもっているコルビジェの建築とは、まったく水準が違うものなのです。そういう意味ではミース・ファン・デル・ローエの建築は純粋の《非建築》であって、そこにだけに還元した建築として評価するのなら、傑出していると言えるのかもしれません。


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《無建築》だけの代表として私に見えるのは、
フンデルトヴァッサーの建築です。

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日本人では藤森照信の建築が、《無建築》性しかないものの代表です。


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荒川修作の建築もまた、《無建築》です。

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次の《世間体建築》というのも難しいのですが、代表のひとつは民家です。
民家には、《原建築》《建築》《反建築》《非建築》《無建築》性は
無くて、単性としての《世間体建築》性があります。

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《形骸建築》というのは、ハウスメーカーの建築や、タワーマンションと
言ったものです。

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《炎上建築》というのも、あまり巧く単性のものを見つけられませんが、
ドバイの建築に見られる様なものです。

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最後の《崩壊建築》も、美術作品では幾つも《崩壊》という領域の
作品が有りますが、建築だと廃墟であると、取りあえずしておきます。

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《原建築》
《建築》
《反建築》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《非建築》
《無建築》
《世間体建築》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《形骸建築》
《炎上建築》
《崩壊建築》
 

さて、上記の概念の梯子を、駆け足で説明した後に、
単性ではなくて、総合性をもった建築として、
伊東豊雄と妹島和世の建築を比較しようと言うのです。

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入札がありました/足あと1 [気体分子ギャラリー]

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足あと1

現在の最高入札価格 3,100円

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伊東豊雄 講演会 「呼吸する建築」 [建築]

昨晩寝る前にアップしたはずが、下書き保存になっていました。失礼致しました。加筆して、改めてアップします。


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伊東豊雄 講演会 「呼吸する建築」

国士舘大学 理工学部建築学系主催で建築家・伊東豊雄氏の講演会が開催。
テーマは「呼吸する建築」。 是非ご来場ください。
日時
2010年6月12日(土)
16:30~18:00 (開場 15:30~)
このページの先頭へ▲
会場
国士舘大学 世田谷キャンパス 中央図書館B1F 多目的ホール
(東京都世田谷区世田谷4-28-1)


定員
528名 (要申込み、先着順)
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上記の講演会に昨日行って来ました。

伊東豊雄さんの人柄の良さがあふれる講演会で、特に最後の会場からの質問へを受けての答弁は、正直で率直で印象深いものでした。

同時にし、かし伊東豊雄の建築が、実は建造物に過ぎなくて、厳密な意味での建築になっていないという事が、良く実感できました。
 
 この場合、《建築》という言葉は、古い意味での大文字の《芸術》とか、蓮實 重彦が批判した《大文字の文学》という《近代》の概念に重なるところはありますが、しかし彦坂尚嘉が語るう場合には《原建築》とか《原芸術》性の方に比重をかけて、従来の《近代》的な芸術概念の外に出ようとしている所です。

つまり《原建築》性のある建築を《建築》としてとらえ、《原建築》性の無いものを《建造物》として整理しようとする極端さを秘めつつ、しかし実際にはその間にグラデーション的に分類概念を増やして、より細かい分析データーと生み出そうとする態度です。

 さて話を伊東豊雄の建築に戻すと、伊東豊雄の建築を、社会的有用性の高い建造物に過ぎないとする見方は、「せんだいメディアテーク」を見て、さらに「まつもと市民芸術館」を見て、「せんだいメディアテーク」や「まつもと市民芸術館」についてはこのブログでもすでに書いていますが、驚いた体験を持つ私が言える事では無いように私自身が思う事ですが、しかし伊東豊雄の建築への疑問もまた、私の中には根強くあって、オペラシティの回顧個展を見た時の疑問が続いていて、私の中で攻めぎ合っていたのです。。

会場では、建築系美術ラジオを一緒にやっている美学の天内大樹さんと会えました。
天内さんが、建築の大きな賞であるプリツカー賞を西沢立衛とともに妹島和世が受賞した話をしてくれて、それが実は伊東豊雄を飛び越してしまった受賞である事に、「なぜか?」という疑問を呈したのです。

私には刺激的な話で、実は私は妹島和世さんの建築とも私的に格闘していて、このブログでも何回か取り上げています。妹島和世と伊東豊雄という2人の建築家を理解し評価することは、美術家としての彦坂尚嘉にとって重要な事であったのです。それは現代という時代を把握する大きな指標の問題であるからです。

プリツカー賞というは、アメリカハイアット財団(The Hyatt Foundation)から建築家に授与される賞で、建築界のノーベル賞と言われるほどの権威の高いものです。

改めて妹島和世の建築と伊東豊雄の建築を比較して見ようとする時、《現実判定法》のよって私の開発したさまざまな概念装置の中で、下記の概念梯子を使ってみようと思います。


《原建築》

《建築》

《反建築》

《非建築》

《無建築》

《世間体建築》

《形骸建築》

《炎上建築》

《崩壊建築》


ここで言う《原建築》というのは、代表的なのストーンヘンジなどの巨石記念物からギリシアの神殿建築、アンコールワットなどの建築です。

こういう《原建築》性を持つかどうかを重視するのですが、それを《現実判定法》で測定するという方法ですので、この方法を使わない人たちからは再現性が無いと言う不審の念を抱かれるものです。

その問題をいま、ここでは問題にしないで先に行くとすると、結論は、妹島和世の建築は、上部構造である《原建築》《建築》《反建築》性を持っているのに対して、伊東豊雄の建築にはこの《原建築》《建築》《反建築》性が無いのです。

こうしたことは、例えばル コルビジェの建築がギリシア建築までさかのぼる《原建築》性が有るのに、
ミース・ファン・デル・ローエの建築が、そうした《原建築》性を欠いていて、
《非建築》性しか持っていないことに、似ています。


正確に書くと妹島和世の建築には、《原建築》《建築》《反建築》《非建《無建築》性までがあって、《世間体建築》以下がありません。


伊東豊雄の建築には、《非建築》《無建築》《世間体建築》はありますが、上部構造の《原建築》《建築》《反建築》性はないのです。《形骸建築》《炎上建築》《崩壊建築》といったひどい領域もありません。つまり中部しかない建築なのです。

《形骸建築》というのは、住宅メーカーの建てるプラモデルの様な家です。



伊東豊雄の建築には、この上部構造が無いということは、昨日の講演会を聴いていても明確に分かる内容でありました。社会的に有用で、生理的に気持ちの良いな建造物を作る事しか考えておられない。建築の下部構造しかない建築家なのです。

伊東豊雄の建築は、気持ちが良いし、驚きがあったし、美しさもありました。十全に素晴らしい建築に見えるにもかかわらず、それでは不十分であると事に、建築=芸術の秘密が有るのです。

妹島和世と伊東豊雄の間にある亀裂を対象化できたことは、私には大きな体験になりました。それはある意味で私の苦しみを解消してくれるものです。伊東豊雄の建築が、プリツカー賞を受賞できない所に、建築=芸術の秘密が有るのです。

それは今日の日本の現代アートの多くが、伊東豊雄の建築同様に、下部構造しか無い美術を良しとする風潮に満ちているからです。

奈良美智の絵には、《原芸術》《芸術》《反芸術》性が無くて、《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》があります。それは伊東豊雄の建築と同様の芸術構造なのです。つまり伊東豊雄の建築と奈良美智の絵は似ているのです。






 



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糸崎公朗と山本藍子をめぐって(校正1加筆1) [気体分子ギャラリー]


糸崎公朗さんが、金曜日の立教大学大学院の授業に3コマ出て下さって、
さらに一緒に藤沢のアトリエまで来て下さった。
さらに翌朝土曜日の早朝6時まで、話して行ってくれたのです。
この情熱は、並大抵のものではありません。

以下は糸崎さんのブログからの引用です。

難解な絵の解り方 2010年5月28日 (金) 


ぼくにとってこの絵は非常に「難解」に思えたのだが、つまりはこの絵の良さが解らないと言うか、ハッキリ言えばちっとも良いと思えない。と、そのように自分の自然な感性に従えば、この作品にぼくが興味を持つこともないはずだが、しかしデュシャンは芸術における「趣味的判断」を否定しているのである。いや、デュシャンが言う「趣味的判断の否定」の真意をぼくはまだ良く理解していないのだが、少なくともぼくの「趣味」に合わないこの作品を、作家本人は自信作として提示し、彦坂尚嘉 さんも非常に優れた作品として評論しているわけで、そのこと自体は非常に気になる。
ありていに言えば、この絵の良さが解らない人は「芸術がわからない人」「センスがない人」として、彦坂さんから批判されている。
そして、その非難を「無視する」のも「受け入れる」のも、どちらも「方法」なのである。
で、最近のぼくはデュシャンの「趣味的判断の否定」を受けて、自分の感性を方法論的に信頼しないことにしているので、彦坂さんの批判を受け入れる(真に受ける)ことにしたのだ。

誤解があるのは、山本藍子さんの絵は、《第6次元 自然領域》の作品ばかりの日本の状況の中では、かなり例外的な作品なので、彦坂尚嘉が評価しているのであって、それが分からない人は「芸術のわからない人」という分けではない。山本藍子さんの作品の《想像界》《現実界》は《第41〜50次元》であって、こういう作品は、独特の違和感を発しているので、嫌いな人がいても、それは仕方がないと思っています。

こうして糸崎公朗さんは山本藍子さんの作品を見てくれたのですが、
この評価を巡って、【YouTube画像】をつくりました。

さらに糸崎公朗さんが作ってくれた、画像を掲載しておきます。





糸崎さんはまず山本藍子の元画像を上下反転してみます。

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この上下反転の画像を見て、糸崎公朗さんは次のように言います。

まず、絵を上下逆にしてみたのだが、これは彦坂さんが

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』

と評していたのが良くわからなくて、つまりこの絵はぼくにはごちゃごちゃしていて「空間」や「立体」がよくわからないのだ。
しかし絵を180度回転すると、明らかに上下逆に見えて、つまりはこの絵にはもともと明確な「上下」の区別のもとに描かれていたことがわかる。

さらに上下逆にしたことで、つまり画面上部の「重さ」が強調されるとともに、画面の「立体感」や「奥行き」が強調され、なるほど《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』のような気がしてくる。

糸崎さんは、この絵がごちゃごちゃして見えるのだが、それは彦坂的に言えば《複雑系の絵画》になっていて、豚とレースという2つの要素で組み上げられる事で生まれる複雑な絵画になっているからです。

「複雑な絵画」というのを日本で提起した最初の人は藤枝晃雄さんで、私は彼から大きな示唆を得ています。
現代音楽では、「新しい複雑性」の音楽と言う運動が1970年代後半から起きます。ブライアン・ファーニホウなどの音楽です。


しかし【YouTube画像】の中で私が指摘しているように、山本藍子の作品は複雑系の絵画にはなっていますが、《情報アート》になっていなくて、もっとシンプルに豚が見えるように組み立てて良いと、彦坂尚嘉は考えます。

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次はもっと大胆に画像を加工して、画面を左右二分割し、片面を鏡像にして合成してみた。
なぜこのような加工を施したかと言えば、彦坂さんのブログに

何人かの私の友人は、山本藍子の作品は、分かりにくい作品だと言います。つまり良さが分からないと言うのですが、それは豚とレースの組み合わせに意味を見いだせない人には、分からないのは仕方がない事です。

と書かれているからだ。
つまり、このような加工を施すことで「レース」はそのままに「豚」の存在を消すことができる。
これによって絵の見え方がどう変化するのか、検証してみたのだ。


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もうワンパターンあるのだが、実は結果としてオリジナル画像より自分にとって「解りやすい」作品になった。
理由は単純で、左右対称になることで「恐ろしい生物」を描いた絵に変貌したわけで、ぼくはそういう絵が好みなのだ。
ただ、それを突き詰めて言うと、ぼくは「生物が描かれた絵」よりも「本物の生物」のほうが好きなのだ。
それは結局のところ、ぼくの「反芸術」としての好みの現われでしかない。
ぼくとしてはそのような自分の「趣味的判断」を超越して「芸術」を理解してみたいのだが、なかなかに難しいのである。

このような左右対称の模様の作品だったら、少なくとも彦坂尚嘉は山本藍子の作品を選ばないと思います。
 
「本物の生物」のほうが好きだという糸崎公朗さんの視点は、何と言うか、象徴的な言葉なのです。
「ニューヨーク近代美術館よりも、アメリカ自然史博物館の方が好きだ」という葉書を書いて来てくれたのは、むかしむかしになりますが前本彰子が、「アゲインスト・ネイチャー展」でニューヨークに初めて行ったときでした。
たぶん、昆虫や動物を美しいと感じ、宇宙の写真に見入り、こうした自然の美を面白がる様な気持ちの外に、芸術自体はあります。
彦坂尚嘉的に言えば、それは人間の人格の構造と深く関わっています。糸崎公朗さんが、むかし絵を描こうとした時に、何も描くものがないと気がついたと言っています。この事が、重要なのです。自分のことを思い出しても、最初はお花の絵や、風景、静物を描いているのであり、人物や石膏デッサンを描き、次第に美術史の内側に入って行くのであって、自分の好きな物や、自分が描くべきものをもっていると言う明確な自覚が有るわけでは有りません。もう少し違う動機であると思います。
糸崎公朗さんのように真摯に取り組んで下さった方は初めてですが、興味深いコミュニケーションで有りました。


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19日のシンポジウム [空想皇居美術館]

空想皇居美術館のシンポジウムが開かれます。
ご出席いただける鈴木芳雄さんの有名ブログをペーストします。


元 雑誌BRUTUS(ブルータス)副編集長、鈴木芳雄のブログ


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予告: シンポジウム「皇居美術館の可能性を考える」
10/06/07 | カテゴリー:レクチャー/講義 | | No コメント
トラックバックURL:http://fukuhen.lammfromm.jp/wp-trackback.php?p=5937
『空想 皇居美術館』(彦坂 尚嘉、五十嵐 太郎、新堀 学/朝日新聞出版刊)の
刊行記念シンポジウム「皇居美術館の可能性を考える」で少し話をさせていただく。
テーマ「皇居美術館の可能性を考える
──アートであり、アートでしかなく、アートでしかなしえない提言をめぐって」
 
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日 時:2010年6月19日(土)
    19:00~21:00(18:30開場)
入場料:1,000円(当日精算)
予約制:電話または店頭にて受付
    Tel.03-3408-9482
    ※60名様になり次第締切り
電話予約受付:火~土曜 12:00~20:00(祝日除く)
会 場:Bibliothéque(ビブリオテック)
    協 力:朝日新聞出版

「日本にも大英博物館やルーブル美術館のような巨大美術館がほしい!
だったら、いっそ広大な敷地をもつ皇居に作れないか?
展示する美術品は日本中の超一流作品を集めよう!
法隆寺も鎌倉の大仏もみんな持ってきて展示しよう!
こんな奇想天外な「空想」をもとに、美術や建築の専門家、
政治学者から右翼までが集まって、どんな美術館を作るか、
“大真面目に”議論する前代未聞の美術書。」
以上、朝日新聞出版のサイトからの引用。
最後に「美術書」とあるが、それはまあ、どうかはわからないけど、
ユニークな提言書ではあります。
 
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『空想 皇居美術館』朝日新聞出版刊 定価:2940円(税込)

シンポジウム出演者の略歴朝日新聞出版のサイトより)

倉方俊輔(くらかた・しゅんすけ)1971年生まれ。建築史家。西日本工業大学デザイン学部建築学科准教授。著書に『吉阪隆正とル・コル ビュジエ』(王国社)、『伊東忠太を知っていますか』(共著、王国社)など。
辛酸なめ子(しんさん・なめこ)1974年生まれ。漫画家・コラムニスト。黒田清子(旧名・紀宮清子内親王)のファンで、皇室ウォッチャー でもある。著書に、『Celeb Mania』(ぶんか社)、『皇室へのソボクなギモン』(共著、扶桑社)など多数。
鈴木邦男(すずき・くにお)1943年生まれ。政治活動家、新右翼「一水会」顧問。著書に『鈴木邦男の読書術──言論派「右」翼の原点』(彩流社)、『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)など。
鈴木芳雄(すずき・よしお)1958年生まれ。「ブルータス」編集部エディトリアルコーディネーター。これまで「ブルータス」(マガジンハウス)では、「奈良美智、村上隆は世界言語だ!」、「若冲を見たか?」「国宝って何?」など多くの美術特集を担当。
彦坂尚嘉(ひこさか・なおよし)1946年生まれ。現代美術家・美術史評論家。立教大学大学院文学研究科・比較文明学専攻特任教授。著書に 『彦坂尚嘉のエクリチュール──日本現代美術家の思考』(三和書籍)など。
五十嵐太郎(いがらし・たろう)1967年生まれ。建築史家・建築評論家。東北大学大学院工学研究科・都市・建築学専攻教授。著書に『建築はいかに社会と回路をつなぐのか』(彩流社)、『映画的建築/建築的映画』(春秋社)など。
新堀 学(しんぼり・まなぶ)1964年生まれ。建築家。新堀アトリエ一級建築士事務所主宰、NPO地域再創生プログラム副理事長。作品に 明月院桂橋、小金井の家、金沢の家ほか。共著に『リノベーション・スタディーズ』(INAX出版)、『建築再生の進め方』(市ヶ谷出版)など。
 
 
大変ユニークで大規模な構想、しかもトークのパネラーの方々はそれぞれの
専門ジャンルの第一線で活躍している、しかもかなり個性的な人たち。
僕はどれだけお役に立てるかわからないが、自分の領域でがんばりたい。



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事実誤認と誤植の訂正/北斎とクールベ [空想皇居美術館]

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葛飾北斎の「おしおくりはとうつうせんのづ」   集英社版『北斎美術館/全5巻』よりのスキャン画像

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ギュスターヴ・クールベ The Wave

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葛飾北斎の「おしおくりはとうつうせんのづ」 東京国立博物館のサイトよりのコピー画像

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『空想 皇居美術館』の美術史の問題で、重大な事実誤認をしていました。ご指摘をいただいたのは橋本麻里さんからです。

 一番大きなミスは、葛飾北斎とクールベの歴史的順番を間違えている事でした。葛飾北斎が、1760年年まれで、1849年に亡くなっていて、クールベは1819年生まれで1877年に亡くなっています。葛飾北斎の作品の正確な制作年は不明ですが、初期作品ですので大雑把に言っても18世紀後半ですから、クールベの生まれる前に作られた西洋版画を見ていることになります。つまりクールベの波ではなくて、別の西洋版画を見て、影響を受けていたのです。

橋本麻里さんのご指摘は、ごもっともなものなのです。

私の誤りを生んだのは、『北斎美術館全5巻』の中にある初期北斎の作品シリーズが、西洋銅画を見て、それを木版画で試みたという記述と、さらにその影響でつくった浪の初期木版画「おしおくりはとうつうせんのづ」が掲載されている記事です。

たぶん、それを非常に雑に私が読んで,クールベの波の複製銅版画が日本に入って来て、それを北斎が見たと、潜入観で早とちりして誤読したのだろうと思います。

これはヨーロッパでのジャポニズムが、彦坂が好きではなくて、基本学習が不十分であったので穴があいていたことが、そもそもの原因です。特に福本和夫氏の研究『福本和夫著作集 第五巻 葛飾北斎論』は傑出したもので、これを読んでいなかったのです。

しかも彦坂はジャポニズムにかぎらず正規の美術史に対してはかなりの無知無能で、多くの穴があります。彦坂は美術家として全人類の美術史を問題にしていて、日本美術だけでなく海外の美術に対しても非常に広範な領域を目配りして、《超1流》の作品を選択しているので、不正確な記述や思い違いや思い込みによる間違いの多いことは、自分自身でも予想していて、その責任をとる覚悟はしておりました。したがって今回のミスは、美術の専門家からみれば「彦坂は信頼のおけない」という証拠となるものでした。本人も日本美術史の個別専門家であるとは自称もしておりませんので、そのご批判は甘受せざるをえません。

 橋本麻里さんはブルータスの美術特集号『国宝』を一人で執筆なさった方です。

 実は橋本麻里さんには、この『空想 皇居美術館』の《超1流》の美術品を、日本美術史の中で論じる座談会の司会をお願いしていたのです。

私の初心としては、橋本麻里様にご参加を頂いて、美術史の専門家からのご批判も交えながらの記事を作りたかったのですが、それができずに出版せざるを得なかったのは、誠に残念でありました。

当初、日本美術史の専門家に入っていただいて鼎談を企画していたのです。

しかし、彦坂尚嘉が現代美術家でありながら、中学生の時から東京国立博物館に通っていて、眼で国宝/重要文化財を眼で暗記することをしていて、刀剣から陶磁器、仏像、建築、書まで広範な領域について《超1流》の美術品を探してく姿勢は狂気に満ちていて、大学時代は奈良、京都に新幹線でたびたび行って古美術を見て歩いていたので、こういう私に日本美術史の専門家の方は引いてしまったのです。

「対談しても話がもうまく噛み合わない、いい議論になりそうにもない」と相手にして下さらなかったのです。たしかに全領域の日本美術を見ていて、しかも欧米美術から現代美術/現代アートまでに目配りしている美術史の専門家は、いないのです。彦坂尚嘉は、美術オタクであって、オタクの狂気とゆがみがあるのです。しかし私自身は、学問を尊敬し、専門家の見解を謙虚に学ぶ態度であって、ゆがみに立て篭る様な姿勢は無いつもりです。

 こうして美術史の専門家の参加が実現できず、編集の高橋伸児さんからは「日程のこともありますから、鼎談は無しにしましょう」というメールが来たのです。それに対して彦坂尚嘉は、「日本美術史の専門家の不参加は残念ですが、ある程度は予想をしていました。”無し”というのは、明らかにマズいので、皇居美術館に収蔵するリストと一緒に、ある程度の文章が必要です。

橋本麻理さんとするということもありますが、橋本麻里さんもかなり引いておられるので、時間が押し詰まっていることもあって、親しくしている坂上しのぶ氏(ヤマザキマザック美術館学芸員)との対談ということでどうでしょうか? 原稿枚数20~30でまとめます」とお願いして、坂上氏の協力を得て『《超1流》の日本美術を集めた皇居美術館』という文章になりました。この文章では、今の所ミスは指摘されていません。

 ミスが出たのは、『皇居美術館所蔵作品 空想画集』の29枚の画像につけた解説文です。

 実はこの画像も当初、本物の日本古美術の写真を使う予定だったのですが、本の定価を下げるために彦坂尚嘉に制作依頼があって、急遽制作したものです。手描きのトレースと、コンピューターを使ってレイヤーに分けてのCG制作で、しかも2色刷りにする作業は、かなり加重な労働であったのです。ようやく画像29枚を制作した後に、190字ほどの解説文をつけることを編集部より要求されて、この対応でミスの問題が起きたのです。

もともと彦坂尚嘉の特徴は、広範な美術を見て歩いて来ている事であって、個別研究の専門家ではないので、ひとつひとつの解説は百科事典に頼らざるをえません。それをカバーするために、自分の記憶や思い込みを書くとミスが出ることになったのです。と言っても大きなミスは29件のうちの2つで、パーセント計算で言えば7%弱です。2つのうちのひとつは「聴秋閣」でした。橋本麻里さんからは、次のようなご指摘を受けています。

 

85ページ

また三渓園にある「聴秋閣」について、「原富太郎に与えられて」とありますが、これは原三溪が購入、移築したものです。前後の記述を見る限り、wikipedia「聴秋閣」の項のコピー&ペーストではないかと推測されます。

 

それに対して、私は次の様なメールを返しています。

 上記のご指摘は、その通りです。

私自身は、宮川淳から大きな影響を受けた世代で、特に宮川淳の『引用の織物』という文章から大きな影響を受けています。フーコーの『知の考古学』からも大きな影響を受けていて、一人の著者が文章を書いた時に他者の書いたものとの連続性を有ることの事実性がかならずあって、その事実の認識は重要だと考えます。

今回の2色刷りの作品図版もそうですが、引用で成立しています。いわゆるシミュレーショニズムです。

 私の基本は、すべてを他人の文章の引用で織物のように書く事を理想としています。ですがコピー&ペーストについての社会的批判も理解するもので、ご批判は甘受し、ご指摘のことは、再度勉強して適切な形で修正させていただきます。

 

そういうわけで、まずは、次の誤植と事実誤認を訂正致します。

下記のご指摘は、藤原えりみさんからいただいたものです。藤原えりみさんには、『空想皇居美術館』を全部読んでいただいての校正をいただき、まことに感謝いたしております。

 

p39上段

「デンドゥール神殿」の記述:紀元前15世紀→紀元前15年?

 

p105 北斎「神奈川沖波裏」の記述:

北斎とクールベの生没年および活動時期、ヨーロッパにおけるジャポニスムを

考えると、影響関係は逆。

 

p192上段

彦坂の発言:

ハイコンテスト→ハイコンテキスト/ローコンテスト→ローコンテキスト

 

●後書き:橋本麻里さんのお名前が誤植。


以上訂正して、お詫び申しあげます。

彦坂尚嘉/hiko@ja2.so-net.ne.jp

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
橋本麻里さんからのご指摘を早くに受けながら、この訂正記事が遅れてしまった事も、深くお詫び申しあげます。ひとつは『空想皇居美術館』という独立したブログを立ち上げようとして、それが出来ずに、時間を費やしてしまった事です。もうひとつは、ミスにこそ深い問題が露呈しているので、自らのミスを掘り下げた『北斎の作品は《科学美術》であった』という小論を執筆していて、結局時間が流れ過ぎたので、その並記を諦めて、本日遅ればせながらアップした次第です。
数日後にこの小論もアップできればと思っています。
 


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2010-06-11

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さて、ここでのミスの最大である葛飾北斎とクールベの問題を、考察し直しておきます。人間にとって、ミスこそが重要な思索のきっかけである事は、確かな事だからです。ただ単なる表面的な訂正で住むものではありません。ミスにはより深い構造上の問題が潜んでいいるのです。

 

葛飾北斎の作品は、

     《科学美術》であった

 世界の起源.jpg

クールベの「世界の起源/The Origin of the World



 この絵は、クールベの「世界の起源/The Origin of the World」という作品です。
 この絵画は精神分析医のジャック・ラカンが所有していた事のあるもので、現在はパリのオルセー美術館にあります。私は日本ラカン協会という学会に入っているので、実物を見に行っています。絵のある部屋には椅子があって、私は座って、長々とこの絵を見ていましたが、不思議な絵画です。エロティックではありますが、猥褻な絵画ではありません。たとえばティツィアーノのような官能性のある裸婦でもありません。

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クールベの『世界の起源』これは何なのだろうか?
見る人に不快感を与える面がある作品ですが、事実を事実として、直視している作品であって、エロティシズムはありますが、猥褻ではありません。次の絵画もクールベです。


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クールベというと、自然主義リアリズムの画家として教えられていますが、しかしこのようなエロティックな絵画にある眼差しというものが、猥褻ではないということにおいて、改めて問われるものを持っているのです。猥褻とエロティシズムの差とは何なのか?

「猥褻」という言葉の定義は難しいし、人によって考えが違うでしょうが、彦坂尚嘉が「猥褻」という言葉を、この絵に投げかけると、木霊(こだま)が「猥褻ではない」と返ってくるのです。言葉を投げかけて判断するのが、《言語判定法》なのです。言語というのは、コミュニケーションの道具だけであるのではなくて、認識の道具なのです。

つまり言葉を介して私たちは自分の回りの環境を認識しています。ですから雨の多い日本では、雨に関する語彙が多く、エスキモーの言葉では雪に関する言葉が多くて、両者とも英語に比較しても雨や雪に関する言葉の認識力に差があるのです。つまり雨の多い地域の人は、雨に関する微細な変化に敏感で、雨にかんする言葉をたくさん作って、雨に関する認識を深めているのです。つまり言葉で認識をしているのです。この機能を自覚的に使用しているのが彦坂尚嘉の《現実判定法》です。

つまり画像をイメージだけで見るのではなくて、言語との関係で測定するのが《現実判定法》です。言葉との関係に置き換える事で、現実に合う言葉を探していくこともします。クールベの絵画に「猥褻」という言葉を投げかけると、「猥褻ではない」という反応が返ってくるのです。これを拾って、私は、「クールベの絵画は猥褻ではない」と判定するのです。

748px-Courbet,_Gustave_-_Woman_with_White_Stockings_-_c._1861.jpg


彦坂尚嘉責任による白いストッキングの少女の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
ただし《サントーム》は無い。

液体/固体/絶対零度の3様態をもつ多層的な表現。
ただし気体/プラズマの2様態は無い。
 
 
《シリアス・アート》であって、《気晴らしアート》性は無い。
《ハイアート》であって、《ローアート》性は無い。
シニフィアン(記号表現)の表現で、シニフィエ(記号内容)表現ではない。
理性脳の表現であって、原始脳的な表現性は無い。

《原芸術》《芸術》《反芸術》は有るが、
しかし《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》性が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《国家》である。

鑑賞構造が《対話》である。

呪術美術や宗教美術ではなくで、科学美術である。
ただし情報美術ではない。

クールベのエロティシズムの絵画は《シリアス・アート》であって、《気晴らしアート》ではないのです。それ以上に重要なことは、液体美術という《近代》の美術であって、しかも科学美術である事です。

「液体美術」というのは彦坂尚嘉がつくった概念で、H2Oという水の様態変化の比喩で人類の歴史をとらえているのです。つまり産業革命以前は、氷の時代で、歴史は氷河の様にゆっくりと流れていたのですが、それが産業革命で汽車や汽船が走って交通網が変わると、温度が上がって、氷は融けて水になり、歴史は川になって速く流れるようになったと、時代の変化をH2Oの様態変化で説明するのです。つまりクールベのエロティシズムの絵画は、時代が氷河の時代から、液体時代になる中で出現したのです。

このことは、同じ様な少女の股を描いたバルテュスの作品と比較すると明らかになります。


Balthus1938.jpg
バルテュス「夢みるテレーズ」(1938年)

彦坂尚嘉責任によるバルテュス「夢みるテレーズ」の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
 
 
《想像界》だけの表現で、《象徴界》《現実界》は無い。

固体美術だけの表現で、液体美術という近代性は無い。
 
 
《気晴らしアート》であって、《シリアス・アート》性は無い。
《ローアート》であって、《ハイアート》性は無い。
シニフィエ(記号内容)表現であって、シニフィアン(記号表現)の表現ではない。
原始脳的な表現性であって、理性脳の表現は無い。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無いが、
しかし《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》性がある。

大衆の芸術

作品空間の意識の大きさが《群》である。

鑑賞構造が無い。
《イラスト/ペンキ絵》である。

呪術美術であって、宗教美術ではなく、科学美術でもない。

《猥褻》である。





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定価での入札がありました/合計14点。 [気体分子ギャラリー]

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ぶたのみみ5

2008年
日本画用キャンバスにアクリル:333×242㎜


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入札がありました/足あと2 [気体分子ギャラリー]

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足あと2

現在の最高入札価格 2800円

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