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伊東豊雄 講演会 「呼吸する建築」 [建築]

昨晩寝る前にアップしたはずが、下書き保存になっていました。失礼致しました。加筆して、改めてアップします。


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伊東豊雄 講演会 「呼吸する建築」

国士舘大学 理工学部建築学系主催で建築家・伊東豊雄氏の講演会が開催。
テーマは「呼吸する建築」。 是非ご来場ください。
日時
2010年6月12日(土)
16:30~18:00 (開場 15:30~)
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会場
国士舘大学 世田谷キャンパス 中央図書館B1F 多目的ホール
(東京都世田谷区世田谷4-28-1)


定員
528名 (要申込み、先着順)
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上記の講演会に昨日行って来ました。

伊東豊雄さんの人柄の良さがあふれる講演会で、特に最後の会場からの質問へを受けての答弁は、正直で率直で印象深いものでした。

同時にし、かし伊東豊雄の建築が、実は建造物に過ぎなくて、厳密な意味での建築になっていないという事が、良く実感できました。
 
 この場合、《建築》という言葉は、古い意味での大文字の《芸術》とか、蓮實 重彦が批判した《大文字の文学》という《近代》の概念に重なるところはありますが、しかし彦坂尚嘉が語るう場合には《原建築》とか《原芸術》性の方に比重をかけて、従来の《近代》的な芸術概念の外に出ようとしている所です。

つまり《原建築》性のある建築を《建築》としてとらえ、《原建築》性の無いものを《建造物》として整理しようとする極端さを秘めつつ、しかし実際にはその間にグラデーション的に分類概念を増やして、より細かい分析データーと生み出そうとする態度です。

 さて話を伊東豊雄の建築に戻すと、伊東豊雄の建築を、社会的有用性の高い建造物に過ぎないとする見方は、「せんだいメディアテーク」を見て、さらに「まつもと市民芸術館」を見て、「せんだいメディアテーク」や「まつもと市民芸術館」についてはこのブログでもすでに書いていますが、驚いた体験を持つ私が言える事では無いように私自身が思う事ですが、しかし伊東豊雄の建築への疑問もまた、私の中には根強くあって、オペラシティの回顧個展を見た時の疑問が続いていて、私の中で攻めぎ合っていたのです。。

会場では、建築系美術ラジオを一緒にやっている美学の天内大樹さんと会えました。
天内さんが、建築の大きな賞であるプリツカー賞を西沢立衛とともに妹島和世が受賞した話をしてくれて、それが実は伊東豊雄を飛び越してしまった受賞である事に、「なぜか?」という疑問を呈したのです。

私には刺激的な話で、実は私は妹島和世さんの建築とも私的に格闘していて、このブログでも何回か取り上げています。妹島和世と伊東豊雄という2人の建築家を理解し評価することは、美術家としての彦坂尚嘉にとって重要な事であったのです。それは現代という時代を把握する大きな指標の問題であるからです。

プリツカー賞というは、アメリカハイアット財団(The Hyatt Foundation)から建築家に授与される賞で、建築界のノーベル賞と言われるほどの権威の高いものです。

改めて妹島和世の建築と伊東豊雄の建築を比較して見ようとする時、《現実判定法》のよって私の開発したさまざまな概念装置の中で、下記の概念梯子を使ってみようと思います。


《原建築》

《建築》

《反建築》

《非建築》

《無建築》

《世間体建築》

《形骸建築》

《炎上建築》

《崩壊建築》


ここで言う《原建築》というのは、代表的なのストーンヘンジなどの巨石記念物からギリシアの神殿建築、アンコールワットなどの建築です。

こういう《原建築》性を持つかどうかを重視するのですが、それを《現実判定法》で測定するという方法ですので、この方法を使わない人たちからは再現性が無いと言う不審の念を抱かれるものです。

その問題をいま、ここでは問題にしないで先に行くとすると、結論は、妹島和世の建築は、上部構造である《原建築》《建築》《反建築》性を持っているのに対して、伊東豊雄の建築にはこの《原建築》《建築》《反建築》性が無いのです。

こうしたことは、例えばル コルビジェの建築がギリシア建築までさかのぼる《原建築》性が有るのに、
ミース・ファン・デル・ローエの建築が、そうした《原建築》性を欠いていて、
《非建築》性しか持っていないことに、似ています。


正確に書くと妹島和世の建築には、《原建築》《建築》《反建築》《非建《無建築》性までがあって、《世間体建築》以下がありません。


伊東豊雄の建築には、《非建築》《無建築》《世間体建築》はありますが、上部構造の《原建築》《建築》《反建築》性はないのです。《形骸建築》《炎上建築》《崩壊建築》といったひどい領域もありません。つまり中部しかない建築なのです。

《形骸建築》というのは、住宅メーカーの建てるプラモデルの様な家です。



伊東豊雄の建築には、この上部構造が無いということは、昨日の講演会を聴いていても明確に分かる内容でありました。社会的に有用で、生理的に気持ちの良いな建造物を作る事しか考えておられない。建築の下部構造しかない建築家なのです。

伊東豊雄の建築は、気持ちが良いし、驚きがあったし、美しさもありました。十全に素晴らしい建築に見えるにもかかわらず、それでは不十分であると事に、建築=芸術の秘密が有るのです。

妹島和世と伊東豊雄の間にある亀裂を対象化できたことは、私には大きな体験になりました。それはある意味で私の苦しみを解消してくれるものです。伊東豊雄の建築が、プリツカー賞を受賞できない所に、建築=芸術の秘密が有るのです。

それは今日の日本の現代アートの多くが、伊東豊雄の建築同様に、下部構造しか無い美術を良しとする風潮に満ちているからです。

奈良美智の絵には、《原芸術》《芸術》《反芸術》性が無くて、《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》があります。それは伊東豊雄の建築と同様の芸術構造なのです。つまり伊東豊雄の建築と奈良美智の絵は似ているのです。






 



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糸崎公朗と山本藍子をめぐって(校正1加筆1) [気体分子ギャラリー]


糸崎公朗さんが、金曜日の立教大学大学院の授業に3コマ出て下さって、
さらに一緒に藤沢のアトリエまで来て下さった。
さらに翌朝土曜日の早朝6時まで、話して行ってくれたのです。
この情熱は、並大抵のものではありません。

以下は糸崎さんのブログからの引用です。

難解な絵の解り方 2010年5月28日 (金) 


ぼくにとってこの絵は非常に「難解」に思えたのだが、つまりはこの絵の良さが解らないと言うか、ハッキリ言えばちっとも良いと思えない。と、そのように自分の自然な感性に従えば、この作品にぼくが興味を持つこともないはずだが、しかしデュシャンは芸術における「趣味的判断」を否定しているのである。いや、デュシャンが言う「趣味的判断の否定」の真意をぼくはまだ良く理解していないのだが、少なくともぼくの「趣味」に合わないこの作品を、作家本人は自信作として提示し、彦坂尚嘉 さんも非常に優れた作品として評論しているわけで、そのこと自体は非常に気になる。
ありていに言えば、この絵の良さが解らない人は「芸術がわからない人」「センスがない人」として、彦坂さんから批判されている。
そして、その非難を「無視する」のも「受け入れる」のも、どちらも「方法」なのである。
で、最近のぼくはデュシャンの「趣味的判断の否定」を受けて、自分の感性を方法論的に信頼しないことにしているので、彦坂さんの批判を受け入れる(真に受ける)ことにしたのだ。

誤解があるのは、山本藍子さんの絵は、《第6次元 自然領域》の作品ばかりの日本の状況の中では、かなり例外的な作品なので、彦坂尚嘉が評価しているのであって、それが分からない人は「芸術のわからない人」という分けではない。山本藍子さんの作品の《想像界》《現実界》は《第41〜50次元》であって、こういう作品は、独特の違和感を発しているので、嫌いな人がいても、それは仕方がないと思っています。

こうして糸崎公朗さんは山本藍子さんの作品を見てくれたのですが、
この評価を巡って、【YouTube画像】をつくりました。

さらに糸崎公朗さんが作ってくれた、画像を掲載しておきます。





糸崎さんはまず山本藍子の元画像を上下反転してみます。

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この上下反転の画像を見て、糸崎公朗さんは次のように言います。

まず、絵を上下逆にしてみたのだが、これは彦坂さんが

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』

と評していたのが良くわからなくて、つまりこの絵はぼくにはごちゃごちゃしていて「空間」や「立体」がよくわからないのだ。
しかし絵を180度回転すると、明らかに上下逆に見えて、つまりはこの絵にはもともと明確な「上下」の区別のもとに描かれていたことがわかる。

さらに上下逆にしたことで、つまり画面上部の「重さ」が強調されるとともに、画面の「立体感」や「奥行き」が強調され、なるほど《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』のような気がしてくる。

糸崎さんは、この絵がごちゃごちゃして見えるのだが、それは彦坂的に言えば《複雑系の絵画》になっていて、豚とレースという2つの要素で組み上げられる事で生まれる複雑な絵画になっているからです。

「複雑な絵画」というのを日本で提起した最初の人は藤枝晃雄さんで、私は彼から大きな示唆を得ています。
現代音楽では、「新しい複雑性」の音楽と言う運動が1970年代後半から起きます。ブライアン・ファーニホウなどの音楽です。


しかし【YouTube画像】の中で私が指摘しているように、山本藍子の作品は複雑系の絵画にはなっていますが、《情報アート》になっていなくて、もっとシンプルに豚が見えるように組み立てて良いと、彦坂尚嘉は考えます。

e5b1b1e69cace8978de5ad902f.jpg

次はもっと大胆に画像を加工して、画面を左右二分割し、片面を鏡像にして合成してみた。
なぜこのような加工を施したかと言えば、彦坂さんのブログに

何人かの私の友人は、山本藍子の作品は、分かりにくい作品だと言います。つまり良さが分からないと言うのですが、それは豚とレースの組み合わせに意味を見いだせない人には、分からないのは仕方がない事です。

と書かれているからだ。
つまり、このような加工を施すことで「レース」はそのままに「豚」の存在を消すことができる。
これによって絵の見え方がどう変化するのか、検証してみたのだ。


e5b1b1e69cace8978de5ad902d.jpg

 

もうワンパターンあるのだが、実は結果としてオリジナル画像より自分にとって「解りやすい」作品になった。
理由は単純で、左右対称になることで「恐ろしい生物」を描いた絵に変貌したわけで、ぼくはそういう絵が好みなのだ。
ただ、それを突き詰めて言うと、ぼくは「生物が描かれた絵」よりも「本物の生物」のほうが好きなのだ。
それは結局のところ、ぼくの「反芸術」としての好みの現われでしかない。
ぼくとしてはそのような自分の「趣味的判断」を超越して「芸術」を理解してみたいのだが、なかなかに難しいのである。

このような左右対称の模様の作品だったら、少なくとも彦坂尚嘉は山本藍子の作品を選ばないと思います。
 
「本物の生物」のほうが好きだという糸崎公朗さんの視点は、何と言うか、象徴的な言葉なのです。
「ニューヨーク近代美術館よりも、アメリカ自然史博物館の方が好きだ」という葉書を書いて来てくれたのは、むかしむかしになりますが前本彰子が、「アゲインスト・ネイチャー展」でニューヨークに初めて行ったときでした。
たぶん、昆虫や動物を美しいと感じ、宇宙の写真に見入り、こうした自然の美を面白がる様な気持ちの外に、芸術自体はあります。
彦坂尚嘉的に言えば、それは人間の人格の構造と深く関わっています。糸崎公朗さんが、むかし絵を描こうとした時に、何も描くものがないと気がついたと言っています。この事が、重要なのです。自分のことを思い出しても、最初はお花の絵や、風景、静物を描いているのであり、人物や石膏デッサンを描き、次第に美術史の内側に入って行くのであって、自分の好きな物や、自分が描くべきものをもっていると言う明確な自覚が有るわけでは有りません。もう少し違う動機であると思います。
糸崎公朗さんのように真摯に取り組んで下さった方は初めてですが、興味深いコミュニケーションで有りました。


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