糸崎公朗と山本藍子をめぐって(校正1加筆1) [気体分子ギャラリー]
糸崎公朗さんが、金曜日の立教大学大学院の授業に3コマ出て下さって、
さらに一緒に藤沢のアトリエまで来て下さった。
さらに翌朝土曜日の早朝6時まで、話して行ってくれたのです。
この情熱は、並大抵のものではありません。
以下は糸崎さんのブログからの引用です。
難解な絵の解り方 2010年5月28日 (金)
ありていに言えば、この絵の良さが解らない人は「芸術がわからない人」「センスがない人」として、彦坂さんから批判されている。
そして、その非難を「無視する」のも「受け入れる」のも、どちらも「方法」なのである。
で、最近のぼくはデュシャンの「趣味的判断の否定」を受けて、自分の感性を方法論的に信頼しないことにしているので、彦坂さんの批判を受け入れる(真に受ける)ことにしたのだ。
誤解があるのは、山本藍子さんの絵は、《第6次元 自然領域》の作品ばかりの日本の状況の中では、かなり例外的な作品なので、彦坂尚嘉が評価しているのであって、それが分からない人は「芸術のわからない人」という分けではない。山本藍子さんの作品の《想像界》《現実界》は《第41〜50次元》であって、こういう作品は、独特の違和感を発しているので、嫌いな人がいても、それは仕方がないと思っています。
もうワンパターンあるのだが、実は結果としてオリジナル画像より自分にとって「解りやすい」作品になった。こうして糸崎公朗さんは山本藍子さんの作品を見てくれたのですが、
この評価を巡って、【YouTube画像】をつくりました。
さらに糸崎公朗さんが作ってくれた、画像を掲載しておきます。
糸崎さんはまず山本藍子の元画像を上下反転してみます。
この上下反転の画像を見て、糸崎公朗さんは次のように言います。
まず、絵を上下逆にしてみたのだが、これは彦坂さんが
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』
と評していたのが良くわからなくて、つまりこの絵はぼくにはごちゃごちゃしていて「空間」や「立体」がよくわからないのだ。
しかし絵を180度回転すると、明らかに上下逆に見えて、つまりはこの絵にはもともと明確な「上下」の区別のもとに描かれていたことがわかる。
さらに上下逆にしたことで、つまり画面上部の「重さ」が強調されるとともに、画面の「立体感」や「奥行き」が強調され、なるほど《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』のような気がしてくる。
糸崎さんは、この絵がごちゃごちゃして見えるのだが、それは彦坂的に言えば《複雑系の絵画》になっていて、豚とレースという2つの要素で組み上げられる事で生まれる複雑な絵画になっているからです。
「複雑な絵画」というのを日本で提起した最初の人は藤枝晃雄さんで、私は彼から大きな示唆を得ています。
現代音楽では、「新しい複雑性」の音楽と言う運動が1970年代後半から起きます。ブライアン・ファーニホウなどの音楽です。
しかし【YouTube画像】の中で私が指摘しているように、山本藍子の作品は複雑系の絵画にはなっていますが、《情報アート》になっていなくて、もっとシンプルに豚が見えるように組み立てて良いと、彦坂尚嘉は考えます。
次はもっと大胆に画像を加工して、画面を左右二分割し、片面を鏡像にして合成してみた。
なぜこのような加工を施したかと言えば、彦坂さんのブログに
何人かの私の友人は、山本藍子の作品は、分かりにくい作品だと言います。つまり良さが分からないと言うのですが、それは豚とレースの組み合わせに意味を見いだせない人には、分からないのは仕方がない事です。
と書かれているからだ。
つまり、このような加工を施すことで「レース」はそのままに「豚」の存在を消すことができる。
これによって絵の見え方がどう変化するのか、検証してみたのだ。
理由は単純で、左右対称になることで「恐ろしい生物」を描いた絵に変貌したわけで、ぼくはそういう絵が好みなのだ。
ただ、それを突き詰めて言うと、ぼくは「生物が描かれた絵」よりも「本物の生物」のほうが好きなのだ。
それは結局のところ、ぼくの「反芸術」としての好みの現われでしかない。
ぼくとしてはそのような自分の「趣味的判断」を超越して「芸術」を理解してみたいのだが、なかなかに難しいのである。
このような左右対称の模様の作品だったら、少なくとも彦坂尚嘉は山本藍子の作品を選ばないと思います。
「本物の生物」のほうが好きだという糸崎公朗さんの視点は、何と言うか、象徴的な言葉なのです。
「ニューヨーク近代美術館よりも、アメリカ自然史博物館の方が好きだ」という葉書を書いて来てくれたのは、むかしむかしになりますが前本彰子が、「アゲインスト・ネイチャー展」でニューヨークに初めて行ったときでした。
たぶん、昆虫や動物を美しいと感じ、宇宙の写真に見入り、こうした自然の美を面白がる様な気持ちの外に、芸術自体はあります。
彦坂尚嘉的に言えば、それは人間の人格の構造と深く関わっています。糸崎公朗さんが、むかし絵を描こうとした時に、何も描くものがないと気がついたと言っています。この事が、重要なのです。自分のことを思い出しても、最初はお花の絵や、風景、静物を描いているのであり、人物や石膏デッサンを描き、次第に美術史の内側に入って行くのであって、自分の好きな物や、自分が描くべきものをもっていると言う明確な自覚が有るわけでは有りません。もう少し違う動機であると思います。
糸崎公朗さんのように真摯に取り組んで下さった方は初めてですが、興味深いコミュニケーションで有りました。