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天皇陛下に京都にお帰りいただく [状況と歴史]

亀井氏、天皇は江戸城より京都に 昼食会で進言

 亀井静香金融担当相は27日午前のテレビ朝日番組で、24日に皇居で開かれた天皇陛下と閣僚との昼食会の際に「権力の象徴である江戸城(跡地)にお住まいになるのは立場上ふさわしくないのではないか。京都か広島にお住まいになってはどうかと、陛下に一方的に申し上げた」と述べた。

 この後、亀井氏は記者団に「明治期に幕府の権力の象徴の跡に入られたことが、その後の歴史で政治利用みたいな形になってしまった」と指摘。陛下は返答は避けつつ「京都は好きです」と応じたことを明かした。

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皇居美術館空想表2.jpg

 

天皇に京都に帰っていただいて、

明治維新以来の歴史に終止符を打つと言うのが、

皇居美術館空想の基本でしたが、

この夢が、政治日程に入り始めました。

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大変に時間がかかりましたが、

『皇居美術館』という本が、朝日新聞出版から、3月に出版されます。

その出版記念展をやることでも、実は紆余曲折があったのですが、

ギャラリー山口で開催する事が、正式に決まりました。

画廊と会期

2010年3月15日(月)〜3月27日(土)

ギャラリー山口

104-0031 東京都中央区京橋3-5-3京栄ビル1F


展覧会名 

 

彦坂尚嘉・五十嵐太郎・新堀学編著

『空想 皇居美術館』(朝日新聞社出版刊) 出版記念展 

 

作家名 

主催:朝日新聞出版

作家:彦坂尚嘉・五十嵐太郎・新堀学,松田達


展覧会を説明する文章

 

 朝日新聞社出から『空想 皇居美術館』という本が、彦坂尚嘉・五十嵐太郎・新堀学の共編著で出る事になりました。

 

 2001年に彦坂尚嘉がawという美術館の学芸員の多いメーリングリストで、この皇居美術館という構想を発表してから、10年の年月をかけてまとまった本です。 

 

 この間、リスボン建築トリエンナーレに出品され、さらにその帰国展で、政治評論家の御厨貴、歴史学者の原武史、新右翼団体「一水会」の最高顧問の鈴木邦男諸氏を迎えてのシンポジウムを経る事で、皇居美術館という空想は、大きく成長を遂げて来ています。

 

 皇居美術館といプロジェクトは、芸術憲法の制定と言う主張を併せ持っている作品です。しかしこれは政治運動ではなくて、あくまでもコンセプチュアルな美術作品であり、建築作品なのです。アートであり、アートでしかないから、ここまで言える、ここまで構想を作れるという、空想の自由を追求した作品なのです。

 

 閉塞し、失速し、崩壊して行く日本近代社会に対して、アートと建築からの提言であります。


 この『皇居美術館』の出版を記念して、関連する美術作品、建築作品・プロジェクト等々を展示する展覧会であります。


 出品作品としては、彦坂尚嘉の皇居美術館建築模型彫刻、絵画/《超1流》の日本美術、新堀学の皇居美術館構想、松田逹・彦坂尚嘉・菊田龍鵬の皇居美術館建築構想と模型などです。


 同時にシンポジウムと、関連のギャラリートークを、展開いたします。ふるってご参加ご高覧をお願いする次第です。


 

 

      

 

作家略歴

彦坂尚嘉;1946年生まれ、美術家、日本建築学会会員、

     立教大学大学院特任教授


五十嵐太郎;1967年生まれ、建築評論家、建築史家、東北大学教授


新堀 学:1964年生まれ、建築家・新堀アトリエ主宰、

     NPO地域再創生プログラム副理事長


松田達:1975年生まれ、建築家。松田達建築設計事務所主宰。

     建築系ラジオのコアメンバー。 

 

 

皇居美術館の活動歴

 

2001年7月から、美術館学芸員の多い美術系メーリングリスト

        『aw-ml』で、彦坂が皇居美術館の構想を問題提起し

         議論となる。

2003年 タマダプロジェクトで開催された大きなNPOをつくる会議で、

     彦坂が、皇居美術館と芸術憲法制定の提案をする。

2005年 五十嵐太郎主催のリノベーション・スタディーズで

    『皇居美術館空想』がパワーポイント作品として発表される。

2005年6月 『メディアと精神科医』(批評社)に「【メディアと

       アートと天皇制」という座談会が彦坂尚嘉・宮台真司、

       高岡健で行われ収録される。

2005年12月 彰国社社より五十嵐太郎編著『リノベーションの現場』

       が刊行され、その中に、皇居美術館空想が収録される。

      、 

2007年5月〜 第1回リスボン建築トリエンナーレ(ポルトガル)に

        五十嵐太郎のコミッショナーで皇居美術館空想が、

        新堀学との共同作品として出品される。

2007年11月 第1回リスボン建築トリエンナーレ帰国展

       (リビングデザインセンターOZONE、東京新宿)で、

        政治評論家の御厨貴、歴史学者の原武史、

        新右翼団体「一水会」の最高顧問の鈴木邦男諸氏を

        迎えてのシンポジウムが開催される。

          

 

2006年 東北大学五十嵐太郎ゼミで、皇居美術館が学生によって
     課題制作される。
2008年 カルチュラルタイフーン仙台で、皇居美術館空想が発表
     展示される。
2008年 彦坂尚嘉・南泰裕2人展『建築と美術の間2』
    (マキイマサルファインアーツ)
2008年 日本建築学会広島大会で、皇居美術館構想を、彦坂尚嘉と、
     新堀学が、別々に発表する。  
2008年 『琴平プロジェクトこんぴらアート2008・虎丸社中』(琴平琴平公会堂)
2010年 朝日新聞出版から
     彦坂尚嘉・五十嵐太郎・新堀学編著『空想 皇居美術館』
     が3月に出版予定。

 




タグ:皇居美術館
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iphone/彦坂尚嘉の小さな映画シリーズ(加筆3改題) [状況と歴史]

iphone3g_pair.jpg


アイフォンを買いました。
良く分かっていないのですが、
電話というよりも、コンピューターの端末という感じのものです。

iPhoneの初代は、2007年1月に発表されたものです。


iPhone 3G は、第2世代で2008年6月発売。

私の買ったものは、iPhone 3G Sです。

今回のアップグレードは高速化がメインということで、
Sとついているのは、SpeedSで、
すべてが最大2倍にスピードアップし、
驚きの早さになったのです。

ビデオ撮影や音声コントロールなどの新機能を搭載し、
メモリーは32GB


買ったと言っても事実上は無料に近いもので、
毎月還付金が480円という破格のものです。


iPhone 3G Sは、動画が撮れるようになったのですが、
それだけでなくて、【YouTube画像】に、
簡単にアップできるのには驚きました。

越後妻有トリエンナーレの時は木村静さんと組んで、
短い映画を20数本アップしましたが、
iPhoneを使って、小さな映画をたくさんアップして行こうと思います。
小さな映画をたくさん【YouTube画像】としてアップして、
雲状のかたまりを作り出す事を試みたいと思います。



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2010年代 [状況と歴史]

佐藤大輔さんから、次のようなコメントを
いただきいました。

コメントは、「名誉毀損事件」以降多くて、
たいへん考えさせられましたが、
みなさんの、コメントを書いて下さった努力は、
たいへんありがたく、
それへのご返事も、おいおい書かせてもらいます。

アーキテクチャーとしてこのブログを再考することは、
なかなか考える事が多いのです。

その前哨戦で、
佐藤大輔さんへの返事を通して、
来年への変化を書こうと思います。


久しぶりにコメントさせていただきます。
2010年代に区切りを入れるということは、今継続中の活動を切っていくということ
になるんでしょうか?
アーティスト(他の公人にとっても)としては、意識においても実際の活動内容におい
ても、根本的に見直していくということが迫られることになるというように
お考えですか? 
by 佐藤大輔 (2009-11-01 22:18)  




佐藤大輔様コメントありがとうございます。ひとつは、時代そのものが2010年から大きく変わって行くという事です。

私自身は、1972年に『年表:現代美術の50年』という400頁に
のぼる作業を『美術手帖』(1972年4月号/5月号)でしています。

この年表の編纂に対しても、批判や誹謗中傷は、
後を立ちません。
少し前の話ですが、芸大先端研の教授である高山登氏と会う機会があって、
私はなつかしさで一緒に飲んだのですが、
高山氏は「彦坂のあの年表を含む作業はインチキだ」という
批判を始めたのです。
懐かしさから飲んでいたので、「やめろよ」と言ったのですが、
やめない。
結局、私が、高山登氏の頭を、ぽかぽかと殴るはめになったのです。

もちろん、殴るのは良く無い事で、
笑って、聞き流す事が必要なのだと思います。

ところが、たとえば、かわなかのぶひろ氏だと、
こちらが笑って流していると、サディズムが増幅して、
際限なく攻撃して来ますから、
反撃しないと、終わらないのです。


こういう事がイヤなので、昔の現代美術の関係には、
出来るだけでない事にしました。

しかし『年表:現代美術の50年』は、その後、
これに匹敵するものがない、たいへんにすぐれたものです。
この年表の成果は、広がりのある波及をしているのですが、
それを私が書いても、誇大宣伝としてしか機能しないので、
書きません。

被害も、高山氏以外からも、こそくな形を含めて受けていて、
私自身の、他者への不信感を募らせています。

もっとも私自身は、本当は能天気で、楽観的なので、
実は、どうでも良いのですが・・・。
そのへんの能天気さを、晩年は出して行きたいと思っています。

私自身の、歴史を見る目が、飛躍的に発達したのは、
この年表の編纂400頁作業を8ヶ月間の泊まり込みで、
集中的にやってからです。

特に最下段の批評の文章を引用した帯がありますが、
あれは私一人でやった作業です。
みんなが出来ないと言って中止を主張したのを、
無理矢理、私が一人でやったのです。

私自身は多摩美映画研究会に入っていて、
映画の編集技術を習得していましたから、
この批評の帯を、映画のように
作っているのです。

批評のコピーをはさみで切りながら、引用のコラージュを、
映画編集の容量で作り出したのです。

しかし他人は、こうした私の果敢な仕事を評価し無いどころか、
叩いて来て、侮辱し、差別し、無視しました。

しかし、それでも私自身は、歴史を見る目を学び、
自分自身を成長させることが出来ました。

だから、まあ、能天気に笑っているのが良いのです。
悪口を言う人が、実際には何もやらずに老いて行くのを
目の前に見ているのですから。

この様な経験から、来年からの2010年代というのは、
今までとは違う時代が始まる事を、予測できるのです。
特に、凄い予測というよりは、常識的過ぎる予測ですが・・・。

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このブログも、実は私の美術作品なのです。
このブログを出力して縦の絵巻のようにした作品も、
試作品を実現しています。
大木裕之氏の企画した「たまたま」展にささやかですが、
この試作品を数本出品しています。

気体分子ギャラリーというのも、私の作品なのです。
コンセプチュアルな作品として、ギャラリー活動をしているのです。
この2010年代の前半、つまり2015年までの5年間を
めどに、集中して、展開しようと考えています。

そのために、いくつかの整理をしています。
ひとつは2000年代は、越後妻有トリエンナーレに、
2000年の第1回から、2003年の第2回、2006年の第3回、
2009年の第4回と、すべてに参加して来ましたが、
これを,今回で終了するつもりです。

現地との関係は残っているので、
2010年代の展開が無いとは言いきれませんが、
作家としては、もはやネタ切れでして、
出来なくなっているのです。

さて、越後妻有を終了する事で、
もう少し、高度に、
私の格闘する問題を煮詰めて行きたいと考えています。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

私自身が向き合っているのは、あくまでもブーバーの語った
《普遍的他者》であるのです。
そしてフッサールが語ったような《厳密な学としての芸術》なの
です。

しかしこのような、私の志向性自体が、間違いではないのか?
という疑いもあります。

それは美術そのものが、結局のところ《世俗》であり、
そして《いい加減さと》であるからです。

《美術とは世俗である》ということを

この事実ともっと、向き合って行く必要があるでしょう。
この認識をもっとも、過激に自覚して展開したのが、
会田誠さんです。

つまり《厳密な学としての芸術》の追求と、
会田誠的な《現実の世俗社会の中の芸術》は、違うのです。
この差を、どう捉えて行くのか?
2010年からの私の活動の根幹をなすのは、
この矛盾との格闘です。

実例を上げると、ポロックの作品です。

世俗的に評価の高いのは、下の掲載作品です。
ニュヨーク近代美術館での回顧展でも、一番売れたポスターです。
むかし読んだ記憶で、確認していませんが、確か最初にオーストラリア
に売れた作品であったともいます。これも記憶ですが、
確かポロックが描けなくなったのを、友人たちがよってたかって、
描かせた作品と言う記憶があります。(以上、確認が必要です。)


g001b_pollock_blue-poles.jpg

ackson Pollock
Blue Poles: Number 11, 1952の彦坂尚嘉責任の芸術分析

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品液体美術

《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

《無芸術》であって、《芸術》ではない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

それに対して、グリンバーグが高く評価して、
ポロックの代表作と言われるのは、
「五尋の深み」(1947)(ニューヨーク近代美術館)です。

fathom.jpeg

Jackson Pollock


Full Fathom Five(1947) に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析。


《想像界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》、《気晴らしアート》性は無い。
《ハイアート》、《ローアート》性は無い。

シニフィアンの美術シニフィエの美術性は無い
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《芸術》であって《無芸術》《非芸術》《反芸術》性は無い。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大変にすぐれた作品ですが、
この作品は、多くの人には、分かりにくいと言えます。

何故に、分かりにくいのか?
この分かりにくさというのは、
彦坂尚嘉の理論では、大脳新皮質の存在に帰結します。

脳そのものは複雑なので、
正確な脳の構造は専門家に任せますが、
図式として極度に単純化すれば、
人間の脳は、理性脳と、原始脳の2つでくみたてられえいると
整理させて下さい。

つまり生物というのは、象が鼻を長くし、キリンが首を長くして
進化したように、身体変形で進化の運動をして来ました。
進化とは、身体変形であったのです。
そして人間は脳を巨大化し、さらに大脳新皮質を発達させて、
身体変形の限界まで進化したのです。

この大脳新皮質による抑圧が、
理性を作り出していると、一応考えておきます。

つまり理性脳と、原始脳があって、
この両者で、人間の精神は作動しています。

お酒を飲むと、理性脳の働きは、有る程度麻痺して、
原始脳が解放されます。

このお酒を飲んだ様な原始脳の解放として芸術を考える人々が
います。
このような人々は、
たとえば、デルボーのような美術を、芸術として歓迎したりします。

artwork_images_107745_201238_paul-delvaux.jpg

こうしたデルボーのような絵画は、
理性脳の抑圧を取った、原始脳の解放、つまり官能性としての芸術で
あると、私は考えます。

日本近代美術に、大きな影響を与えた黒田清輝の先生である
ラファエロ・コランの作品も、ソフトポルノとも言うべき、
原始脳の絵画であるのです。
デルボーの絵画以上の恥ずかしさを感じるのは、私だけでしょうか?

Raphael_Collin_Floréal.JPG.jpeg

黒田清輝がフランスに留学していたのは、1884年から1893年です。
この時期、すでに印象派は存在していてモネは、『積みわら』から
ルーアン大聖堂』に至連作シリーズを描いています。

Claude-Monet-Screensaver_1.png

ラファエル・コランは、 1850-1916年の人です。
一方のロード・モネは、1840年から 1926年の人です。
モネの方が10歳年上で、そしてコランより10歳長生きしています。
つまり二人は、同時代の人であり、
黒田清輝は、モネに指事する事も、時代的には出来たはずですが、
しかしラファエル・コランを選んだのです。

モネとコランの絵を並べて見ましょう。

Claude-Monet-Screensaver_1のコピー.jpg

このモネの絵画の系譜が、ポロックにつながります。
ニューヨーク近代美術館は、モネとポロックを並べて展示していた
ことがあって、私はこれについて読売新聞に文章を書いたことがあり
ますが、モネとポロックは継続して行くのですが、
ラファエロ・コランは、モダンアートの歴史の中では、
傍流に止まります。

この2枚の絵画の差を、脳の問題で整理すると、
モネの絵画を芸術として評価するためには、
大脳新皮質の理性脳で鑑賞するしか無いのです。
何よりも、ラファエロコランのヌード絵画の様な、直接的な官能性が
ありません。

Claude-Monet-Screensaver_1のコピー.jpg

原始脳の絵画、          理性脳の絵画

官能の美術            禁欲的な美術

黒田清輝が、








 




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幻しか見ていない未熟性に向けて [状況と歴史]

コメント 2

小比満

>私は、斉藤ちさとさんを誹謗する記事に賛同する筋合いは
>ありません。

>私の利益に反するのです。

>私は私の利益を守る権利があるのです。

今回の件は誹謗しているのではなく、どうかと言うことを聞いているのです。

来年の展覧会が始まる前に決着をつけた方が良いと思うのですが。
彦坂さんの判定法では、両者の作品が明らかに格付けとして違ってくると

思うのですが、同じになるのでしょうか?

とにかく、表現としてこのブログもあるのでしょうから、こたつの人たち

みたいに逃げないでがんばってください。私も、自分の名前の「こひみつ」

から「こひ」と略して書いた名前を否定されるとは思いませんでした。

これからは、フルネームで書きます。 
by 小比満 (2009-10-31 10:22)  

ヒコ

小比満様
別のブログで書きましたが、
決着もなにも、無いのです。
「盗作」問題は、《想像界》だけの人が誤読する妄想の世界なのです。

法廷に出て見れば、あなた方が見ているものが、いかに幻であるかが

分かります。

こたつの様に逃げるというような言い方も、誠に失礼であって、

私が40年間、この調子で戦った期ている事を知らない、

戯言にすぎません。

自分の見ているものが、まったく下らない幻であり、

いかにものが見えない未熟者かを、まず知りなさい。

小比満さん、お名前を書いて下さったことは、高く評価します。

面倒なので書きませんが、類似ということは怒りを呼び、

禁止されるというのは、民俗学の中でも定式化されている事です。 
by ヒコ (2009-11-01 09:52)  


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ポランスキー監督拘束 [状況と歴史]

polanski517.jpg


アサヒ・コム

ポランスキー監督拘束 

                       32年前の13歳暴行容疑


 2009年9月27日21時2分【パリ=国末憲人】映画「戦場のピアニスト」など

で知られるポーランドのロマン・ポランスキー監督(76)が訪問先の

スイスで警察当局に拘束されたと、スイスのメディアが27日伝えた。

同監督は米国で未成年者を暴行した容疑で77年に拘束されたが、

その後逃亡していた。

チューリヒからの報道によると、24日から始まったチューリヒ映画祭

で作品が回顧上映されるのを機に、同監督は26日現地入り。スイス司

法省の説明では、チューリヒ空港到着と同時に拘束された。同省は、

監督が米国に移送される可能性があると示唆した。

 同監督は77年、写真撮影を名目に連れ出した13歳の少女に暴行

したとして、ロサンゼルスの当局に逮捕された。しかし、翌年欧州に

逃亡。以後、米国に足を踏み入れないまま映画製作を続け、03年には

「戦場のピアニスト」で米アカデミー監督賞を受賞した。米国は05年、

同監督を国際手配していた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

13歳の少女に、アナルセックスによるレイプをした容疑で逮捕され、

逃亡を続けていたポランスキーが拘束されました。

私自身は、レイプをしたいという欲望を持った事もないので、

正直言って良く分からないのですが、

レイプが犯罪であり、ましてや未成年の少女をレイプする事は、

厳しく罰せられる必要があります。

ポランスキーという人物の顔を、絵画の様に見て、

《言語判定法》によって芸術分析をしてみたいと思います。

ポランスキーは、どんな顔をしているのか?

polanski1.jpg

ロマン・ポランスキーの顔
《想像界》の眼で《第21次元》のデザイん的人格
《象徴界》の眼で《第21次元》のデザイん的人格
《現実界》の眼で《第21次元》のデザイん的人格

《想像界》の人格
液体人間
《気晴らし人間》《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。
『平気でうそをつく人たち』


《第21次元 愛欲領域》というのは、《第2次元 技術領域》の
倒錯領域なのですが、エロ写真とかの領域です。
建築で言うとロココですし、写真家ですと荒木経惟、
演歌では小林幸子。
それだけでなくてデザイン的な人格ですので、13歳の少女を
レイプしたことは事実であるように見えます。

事件の経過


国際ニュース : AFPBB News
9月29日 AFP】32年前の淫行事件の容疑者として、映画監督のロマン
・ポランスキー(Roman Polanski)氏がスイスで身柄を拘束された。
以下はこの事件の経過。

■1977年

-3月10日:当時43歳だったポランスキー氏が、米ハリウッド
Hollywood)にある俳優ジャック・ニコルソン(Jack Nicholson
さんの自宅に13歳の少女を誘い、ファッション写真の撮影を行う。
ニコルソンさんは不在。ポランスキー氏は少女に酒と薬物を勧め
性行為に至る。

-3月25日:少女の両親が警察に届け出る。

-4月15日:暴行やアナルセックスなどの罪で起訴されたポランスキー
氏の裁判が開廷。同氏は当初、無罪を主張。

-8月8日:ポランスキー氏は司法取引を行い、未成年との違法な性行為
の罪のみを認める。カリフォルニア(California)州の施設で3か月間の
精神鑑定を受けるよう命じられるが、映画撮影があったため年末まで
延期される。

■1978年

-2月1日:ロサンゼルス(Los Angeles)近郊にあるチノ刑務所
Chino Penal Institution)で47日間過ごしたが、残る容疑に対する
重刑を恐れ米国を出国。出生地であるフランスに移住し、市民権を得
る。以来、同国で暮らす。

 通常、自国民の身柄引き渡しを行わないフランスは、カリフォルニア
州当局からの身柄引き渡し要求を拒否している。

■1994年

-8月:ポランスキー氏が被害者の女性に慰謝料を支払うことで合意す
るも、カリフォルニア州検察当局は起訴取り下げを拒否。

■2003年

-3月23日:『戦場のピアニスト(The Pianist)』でアカデミー賞監督
賞を受賞。

 被害者女性はポランスキー氏を許したというコメントを出し、同氏が
授賞式に出席できるよう訴えたが、逮捕を恐れた同氏は出席せず。

■2008年

-12月2日:ポランスキー氏の弁護士が、事件に誤った処理があったと
して検察当局に対し起訴取り下げを請求。

■2009年

-5月7日:ロサンゼルスの裁判所は、起訴取り下げ請求を棄却。

-9月26日:映画祭出席のため訪れたスイス・チューリヒ(Zurich)で
身柄を拘束される。米国からの身柄引き渡し要求が待たれている。

 


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アートスタディーズ第16回 [状況と歴史]

次回のアートスタディーズのゲストに、

松永康さんをお願いしたのですが、

小冊子の文章をお願いした所,

作家論を書いていただけなくて、

凡庸な状況論のなぞりだけでした。


テーマである佐々木薫論を、再度お願いした所、

辞退なさりました。


作家論というものを、理解して下さらないのです。

お会いして私はお話をしているのですが、

私の話は無視なさった文章です。


ですので、止も終えず、彦坂尚嘉がゲストを代行するつもりです。


ご参考に、その文章を読んで下さい。

題名と中身が、違うのです。



佐々木薫と名品−共時的視点から


 「もの派」による一連の営みにより、イメージとしての美術を構成していた要素が

ことごとく解体された。そうした混沌状態の中で、1970年代の現代美術家たちは表現

を再構築するための手がかりを求めていた。1980年代に入り、インスタレーション、

パフォーマンス、メディアアート、ニューペインティングなどといった言葉が矢継ぎ

早に登場する。新たに導入されたこれらの枠組みは、現代美術の展開を加速させる水

路の役目を果たした。

 その中のひとつの流れとして、若手女性作家の一群の動きがあった。彼らはそれま

での美術のスタイルを打ち破り、自由な発想とみずみずしい感性を発散させる作品を

発表した。そこには、生物の形態をモチーフとする、矩形の画面から離れる、アーチ

型を構成要素とする、複数の素材を組み合わせる、質感を統一させず、それぞれの材

質感を活かす、作者の容姿に訴求力があるなどの共通する特徴があった。そして彼ら

の作品の流通に伴い、世の中は大量消費時代へと突入していく。


松永康(MATSUNAGA Ko) アート・コーディネーター

1957年生まれ。埼玉県立近代美術館学芸員、国際芸術センタ−青森総括主任学芸員、

横浜美術短期大学非常勤講師、井ART画廊(上海)芸術監督を経て、現在、特定非営

利活動法人コンテンポラリーアートジャパン理事


上記の松永氏による経歴も、書き方として間違いです。

読者の読み間違いを誘発する書き方になっています。


元・埼玉県立近代美術館学芸員

元・際芸術センタ−青森総括主任学芸員


等々であって、元が抜けています。


 

 

 




Artstudies16.jpg



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アニリール・セルカン疑惑/《象徴界》の追跡 [状況と歴史]

anilir1.jpg

宇宙エレベーターで知られるアニリール・セルカンSerkan Anilir、1973年~)に対する疑惑が浮上しています。

アニリール・セルカンは、東京大学工学系研究科建築学専攻教員です。
(上岡誠二さんにいただいた情報です。)

1026a.jpg

この写真も偽造の疑いが指摘されていますが、
確かに、首と体の関係が不自然です。

セルカン氏の著書や氏に関する雑誌記事にある「セルカン氏が2004年に宇宙飛行士候補に選ばれた際の宇宙服写真」は、NASAロゴが1992年以前のものであるなど、捏造の疑いがあります。(出典;http://www29.atwiki.jp/serkan_anilir/

アニリール・セルカンについては、宇宙エレベーターの件で、
五十嵐太郎さんより教えていただいていて、
その特異な経歴で、印象深かった人です。

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アニリール・セルカンは、トルコの宇宙物理学者で、工学博士。
トルコ人としては初のNASA宇宙飛行士候補生(フライトエンジニア)であるとされていました。
しかし、この経歴も、嘘の可能性があります。


元アルペンスキー選手。
トルコ人としては初の金メダリストでもある、というのですが、

この経歴も偽造の可能性があると言うのです。


東大工学系研究科建築学専攻教員 

アニリール・セルカン博士の

経歴・業績に関わる疑惑の検証


(出典;http://www29.atwiki.jp/serkan_anilir/
 


  • アニリール・セルカン氏は「宇宙物理学者」であり11次元宇宙の研究で受賞したことになっていますが、物理学分野での論文をほぼ網羅するデータベースにも氏を著者とする物理学の論文は一編も確認できません。
  • 東京大学、およびJAXAのホームページ等で公表されていたセルカン氏の業績リストに掲載されていた物理学の論文も、掲載されていたとされる論文誌に掲載されていません。
  • 東京大学で公表されていたセルカン氏の業績リストに掲載されていた知的財産権2件については、一件は同じ番号で他人の特許が確認でき、もう一件はデータベースでも確認できません。
  • 「ケンブリッジ大学物理学部 特別科学賞 受賞」については記録が確認できません。また、セルカン氏は、上記のように一般の物理学者に認識される形での論文の発表がありませんので、物理学の研究によって(まともな)賞を受賞することは極めて考え難いです。
  • 同様に、U.S.Technology Award受賞の記録も確認できません。
  • 「American Medal of Honor」は、American Biographical Instituteが紳士録商法の一環として「発行」「販売」している賞であった可能性があります。
  • 「プリンストン大学数学部講師」に就任したという記録もありません。またセルカン氏の数学分野の研究業績は全く確認できませんので、数学部講師に就任するということは非常に考え難いです。
  • セルカン氏は「宇宙飛行士候補」と言うことになっていますが、NASAの宇宙飛行士候補のリストにも、宇宙飛行士のリストにも掲載されていません。
  • セルカン氏の著書や氏に関する雑誌記事にある「セルカン氏が2004年に宇宙飛行士候補に選ばれた際の宇宙服写真」は、NASAロゴが1992年以前のものであるなど、捏造の疑いがあります。
  • セルカン氏は、スキーの選手で1988年のカルガリー冬季オリンピックに出場したことになっていますが、同オリンピックの公式レポートの選手団および競技結果にセルカン氏の名前は見当たりません。
  • セルカン氏の著書等でセルカン氏の研究の説明資料として掲載された図画に、別人によって先に発表された論文や記事にある図画に酷似したものが何点もあり、剽窃(他人の業績の盗用)の疑いがあります。
  • 物理学の論文が存在しないだけでなく、その後の宇宙エレベーターやインフラフリーの研究についても図画等の剽窃が疑われるケースがあります。


すでに指摘されて、ある意味で答えの出ている人の顔を分析しても、
信頼性が無いし、リスクもないので無意味とは思いますが、

私自身の興味もあって、分析をしてみました。

070713_05.jpg

アニリール・セルカンの顔に対する《言語判定法》による分析
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》《真性の人格》
《現実界》の眼で第8次元 宗教領域》《真性の人格》

《想像界》の人格
気体人間
《気晴らし人間》《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。
『平気でうそをつく人たち』

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
金メダリストで、宇宙物理学者という顔ではありません。

すくなくとも物理学者などの科学者であれば、《現実界》の顔を
しています。それが《想像界》の顔なのです。

ひとつの例として、2004年にノーベル物理学賞を受賞したフランク・ウィルチェック
の顔を見てみましょう。

wilczek.jpg

ランク・ウィルチェックの顔に対する《言語判定法》による分析
《想像界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の人格》

《現実界》の人格
気体人間
《シリアス人間》《ハイアート的人間》

シニフィエとシニフィアンの同時表示人間。
『真実の人』

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

二人の顔を比較してみます。

wilczek.jpg

アニリール・セルカン                ランク・ウィルチェック
《想像界》で《第8次元 信仰領域》《真性の人格》《想像界》で《超次元〜第41次元》の《真性の人格》
《象徴界》で《第8次元 信仰領域》《真性の人格》《象徴界》で《第41次元〜超次元》の《真性の人格》
《現実界》で《第8次元 信仰領域》《真性の人格》《現実界》で《超次元〜第41次元》の《真性の人格》

《想像界》の人格                 《現実界》の人格
気体人間                      気体人間
《気晴らし人間》《ローアート的人間》       《シリアス人間》《ハイアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。           シニフィエとシニフィアンの同時表示人間。
『平気でうそをつく人たち』            『真実の人』




タイムマシン.jpg

アニリール・セルカンの本には『タイムマシン』というのもある
のですが、基本として《想像界》の人で,ファンタジーの
中を生きているのでしょう。
その《想像界》の中では、彼は《真性の人格》なのです。

しかし《想像界》だけの人は、
実はモラルという《象徴界》のことを理解できないのです。
さらには事実と言う《現実界》のことも理解できないのです。

《想像界》だけの人格の人が、
それほどの数いるのか?
20%80%の法則で推定すれば、80%の人々が、
《想像界》だけの人ということになります。

80%を2乗すれば、64%の人が《想像界》だけの人々で、
彼らが『平気で嘘をつく人びと』だと推定できます。

電車などで、私が観測測定していても、
だいたい、そんな感じであると言えます。

『平気で嘘をつく人びと』に対する危惧は、
香山リカ氏が『「 平気でうそをつく人たち」の危ない読まれ方』
という文章を雑誌『諸君』(文藝春秋 1997年8月号)に
書いておられるそうですが、私は未読です。

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香山リカの顔に対する《言語判定法》による分析
《想像界》の眼で《第1次元〜第6次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的人格
《現実界》の眼で《第1次元〜第6次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格

《シリアス人間》
《ローアート的人間》

シニフィエとシニフィアンの同時表示人間。
『真実の人』

香山リカ氏は、彦坂尚嘉責任の顔の芸術分析では、
《第1次元 社会的理性領域》の方と言えます。
聡明な、重層性のある人格をなさっています。

香山氏の危惧は理解できますし、
私も、その危ない人の一人であると思います。

しかし私の個人的な経験からも、
《想像界》しか無い人々は実に多く存在し、
そしてまたそれらの人々は《平気で嘘をつく》のです。

それは人格障害とか、ダメな人という範囲ではなくて、
人間存在の基底的な存在と思います。

人間の多くは、実は《想像界》しかなくて、
平気で嘘をつく者なのではないでしょうか。

いかにして《想像界》だけというシンプルな状態から脱して
人格を成長させうるのか。

《象徴界》を成立させるためには、
ひとつは初期の仏典とか、聖書とか、諸子百家などの古典を
学ぶ事です。

個体発生は系統発生を繰り返すのであって、
人類の文明の歴史を、個人もまた学んで行かないと、
《象徴界》を持った人格にはなり得ません。

そしてまた、科学を学ぶ事で、
《現実界》の精神をもった人格になる必要があるのです。

さらに、今日の情報化社会では、
《サントーム》の精神を持つ事が必要なのです。
これはどのようにして獲得できるのかが、
私には、まだ分かりません。

とにかく、人格は、成長して行かないと、
低いレベルで低迷して、
多くの文明的な事象を理解できない事になります。











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山田幸司さんと建築系ラジオ(リンクの貼り直し) [状況と歴史]

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「こたつ問題」は、「こたつ事件」という言い方になってきて、
今日のコンペティッションの問題点、
マスメディの批評の不在化、
そして建築家の危機性が、
あぶり出されて来ています。

今日の建築家は危機に見舞われているのです。
だから、美術に流れ込んで来ている傾向があるのです。

そして今回の越後妻有ツアーで、
それら建築系出品作を見ると、5つくらいの、実は弱い作品があった。
この失望が背景で、今回のこたつ事件が起きているのです。


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この「こたつ事件」は、
建築系ラジオという
新しいインターネト・メディのその生々しさを突き出したが故に、
「事件」にまでなったと言えます。

私のブログもそうですが、生々しいのです。
低俗性があると言っても良いですが、その生々しさがもつ私性こそが、
批評の依拠する場所なのです。

「批評とは何か?」という問いに対する答えを、
たとえば「批評とは - はてなキーワード」で、見てみましょう。

ある事物・事象についての、何らかの思想・主張を持つ者による個人的見解の発露(意見提示)。


上記を読んで分かるように、批評というのは、「個人的な見解の発露であり、意見提示」なのです。今日のマスメディアに批評性が無くなって来ているのは、つまりマスメディアが個人的な見解や意見を封じ込めて、公的なもので、塗り込めてしまうようになって来ているからです。

 

「建築系ラジオ」は、その意味で、コアメンバーである五十嵐太郎、山田幸司、南泰裕、松田達の肉声を発信し、個人的な見解の発露という、批評本来の性格を回復した活動を展開しています。

 

 

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igarashi_p01.jpg

 

個人的な見解の発露としてのメディを回復する動きは、ツイッターや、YouTubeでも、同様の機能が作動しています。

マスメディの人々から見れば、ゴミに過ぎない様なこの個人的な見解の発露が、実は批評を回復させ、現代の様々な問題を、個人が取り組んで行く契機を作り出しているのです。

 

 

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今回の「こたつ事件」に対して、山田幸司さんへの批判が出て来ています。
その代表が、大西正紀さんのもので、長文で出現して来ているのです。

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大西 正紀 Masaki Onishi

1977 大阪府和泉市生まれ。
1985-88台湾省台北市滞在。現千葉県在住。
高校時代、keyboard、accordion、ステージ構成、編曲etc...

日本大学理工学研究科建築学科 修後、渡英。
2003 Ushida FIndlay Architects(UK)勤務

Project
 「
Do+ project vol1 青山アパート」、
1999年- 
 「Puddle Puzzle 同潤会青山写真画展」開催
 青山アパートギャラリー華音留、2002年

Recture
 「青山同潤会アパート復興プロジェクトについて」
 Renovation Studies、月島、2002年
 (Director : 五十嵐太郎)

私はこうした批判の出現は、健康なことで、歓迎するものです。

ラジオには数人のメンバーが出演していて、前述の通り五十嵐さんや彦坂さんは、ここから全体(建築、批評、教育など)にある問題を見いだそうとする姿勢があった。つまり批判、批評であろうとする姿勢があった。しかし中には終始「あれひどいね〜クスクス」的な文句や嘲笑のままであるメンバーもいた。山田さんなんだけど。ご本人もこちらの意見をご存じみたいなので、書いちゃうけど。ごめんなさいね。でも山田さんの一連の発言は、放送全体の批評性を大きく下げるものだったと、私は思う。

「わざわざ名古屋から出てきたのに」「3000円も払ったのに」「東大なのに」それ、
全っ然批評じゃないです。みなさんお嫌いの「思考停止状態」そのもの。今回、彼らが東大生じゃなければこんな言われ方されなかったかしら?無料だったら?会場が近かったら?(まあ東大=最高峰なんだからおまいらちゃんとしろよ、という、東大ブランドのイメージに則った期待感はわからなくもなけど、鬼の首とったかの如くpgrしてんのは、聴いてる方としてはかえって微妙)。

居酒屋トーク的な本音って確かに面白いんだけど、山田さんの論調は、誰でも聴ける音声データとして一般に公表するにはどうかと思うレベルだった(番組を編集、放送している松田さんにこの話をしたところ「まあ、山田さんは悪役をかってでたんだよ」とのこと。ちょw未熟なものは後から「フェイズだった」と言えば済むとでも?元々熟考して仕組んだブックならまだしも、発信側のご都合による場当たり的な寸劇くずれなら誰も付き合わんし、そもそも要らんのです)。

とにかく私は「こたつ」という
駄作よりも、ラジオの中でのこの問題の「語られ方」のほうに、ずっと大きな関心を持ったので「「こたつ問題」を如何に語るか問題」になったわけです。それが狙いだったんです、裏テーマだったんです、って言われちゃいそうねw

「「こたつ問題」を如何に語るか問題」の本質は、建築クリティックの人材が少ないことだと思う。せっかく音声によるメディアが作られたのに、こたつの放送を聴く分には「この程度かよ」と思わざるを得なかった。今、日本の代表的な建築批評ってこんな感じです、って誰かに紹介するには恥ずかしい。人選、放送のプログラムといった番組制作側の問題かも知れないが、それ以上にまず、有能な批評家が少ないんだろうなと。五十嵐さんは、自分以外の書き手が足りないことを10年くらい前から問題としていたけれど、現在もその状況はあんま変わってない。

これまで建築のメディアが書き手を育てたり発掘したりすることに鈍感で、パっと見ハクのつく建築家や大学の先生に、その都度その都度で「ちょっとコメントしてくらさいお」という軽いノリで「視点」や「思考」を言葉にさせよう、提供させようとしてきた姿勢のツケかもね。もちろん書き手側もそれでよかったんだよね、言論を発表することが建築村での大事件、大きな成果になってたから。おじさんの時代は、書き手も読み手も「難しいこと考えてます発表会」で満足できていたのかも知れない。今回の「こたつ」に関する山田さんの発言みたいなのも、悪のりです、言葉のお遊びです、で済んだのかも知れない。

そーいうおじさんのやり方を、これからも踏襲するつもりなのかどうかという点も、建築系ラジオの姿勢に問いたい。おじさんの遊び場、と割り切って付き合うしかないメディアもこれから残り続けるかも知れないけれど、「建築系ラジオ」という新しいメディアには、そこでこそできることを、して欲しい。建築を扱うメディアに関わる、自分への自戒も込めつつ。


追記:
ほんとは放送の中で、一緒に
「こたつ」について話してはいるけれど、向かうベクトルが違っていることを、出演者同士で指摘し合えてたら、ぐっとクオリティが高まったと思うんだよね。ていうかそれだけで、私は恥ずかしいだのなんだのと文句言わなかった。

誰かが山田さんに、たった一言「それ批評じゃなくない?」って突っ込めてたらなあ。今日話してて、思い出した。慎也さんありがとう!
出典:http://blog.mosaki.com/?eid=905277#sequel
mosaki的東京経験値
=日常から建築まで.大西正紀(masaki)+田中元子(hana)+リン(Lynn)の即効的ブログ.


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山田幸司さんを批判する気持ちも分かるし,
山田幸司さんの語りが、面白いにも関わらず、不愉快と思う気持ちも
わかります。

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しかし山田幸司さんのもつ、この生々しさこそが、
今日のマスメディが失ったものなのです。

昔の明治期の新聞には、こうした山田的な生々しさがあったのです。
たとえば、夏目漱石の書いた美術批評ですが、憎悪をこめたかの様な、
悪口が口汚く書かれていて、その生々しさは、すごいものです。

それが,いつの間にか、個人の私的な意見を削除するようになった。
日本のマスメディアの活力の喪失は、
実は山田的なものを失ったからです。


批評というのは、公的なものではなくて、個人的な意見の発露なのです。
その意味では2ちゃんねるは、批評性の原点なのです。
ただ2ちゃんねるが残念なのは、匿名であることです。

山田幸司さんは、実名で、しかも建築家であって、
自分の責任で語っているのであって、その個人的な見解は、
批評たり得ていると彦坂尚嘉は考えます。

山田幸司さんは、学生時代に学費を稼ぐためにホストクラブで
働いていたのですね。
そうした経験とキャラクターが、生々しい表現力の語りを
成立させているのです。

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建築系ラジオの果たすべき役割の中心にあるのは、
大西正紀さんが考える公的な批評性とは逆であって、
個人的な私的見解を表出させる事で、
公的性において欠如して来ている批評と議論を活性化させる事なのです。

私性をもって、欺瞞に窒息する公的言論の硬直性を撃つこと。
そこに批評があるのです。

山田幸司さんは、その意味で私の好きな語りを展開するすぐれた才能の
持ち主です。
だからこそ、殺されるかもしれませんね(笑)。
社会と言うのは、私性を持って語る現論人を憎んで、殺して来ているからです。

ソクラテス
エックハルト
・・・・・
レニーブルース
・・・・・
そして北野誠

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タイヤのパンクと交換 [状況と歴史]

乗っている三菱のekワゴンがパンクしました。
もともとは女房の車なのですが、
自分の乗っていたブルーバードが古くなって捨ててしまってからは、
この軽自動車に乗るようになっていました。
タイヤは、すでの寿命になっていて、
交換は必要な時期でありました。
ですから、パンク自体は、
必然でありました。

ヤフーオークションで売っている安いタイヤを買って、
さらに交換をしてくれる業者を頼むということを、
井上清仁さんに、電話とメールで聞きながら実行しました。

これが一人では出来なくて、
そもそもヤフーオークションでのカテゴリーの細部の指定も、
何段階も選んで行かなければならなくて、
一人では分かりませんでした。
まず、自動車・オートバイを選ぶ。
パーツからタイヤを選ぶ。
インチのところに、155/65R13というタイヤサイズを、
車検証と一緒に入っている取扱説明書から見つけて打ち込む。

こうした検索そのものも、
知らないとなかなか出来ないものなのです。
タイヤ交換だけをしてくれる業者の存在も、
井上さんに教えられなければ知りようも無い情報です。
その結果として、費用は3割りほど安く、タイヤ交換が出来るのです。
物流や小売りの様態そのものが変化をして、
それに伴うサービスもまた、変化して来ているのです。
コンピューター・リテラシーというのもの、
想像以上にむずかしく、その複雑さは、
現在の文化そのものの変貌を指し示しています。
買い物も、コンピューターで検索して行う事自体が、
時間も知識も、根気も必要であって、
そのことに慣れるためには、
それなりの覚悟も、努力も、
そして何よりも友人の援助が必要なのです。



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秋の嵐(訂正1) [状況と歴史]


ドキュメンタリー映画『秋の嵐』を見て来ました。

1989年の昭和天皇崩御の時期に、
代々木の歩行者天国で、天皇批判の垂れ幕をはって、
天皇批判の音楽を演奏したロックグループが、
警察に襲われて、逮捕された事件が起きていたのです。

この事件は、以後4年に渡って闘争が展開され、
警察の不当性を訴えた裁判に、勝利します。

この事件を追った記録映像があって、
これが約1時間に編集されたものを見たのです。

地下大学の活動をしている音楽評論家の平井玄さんが、
編集や上映に努力なさっていると聞きました。

訂正します。
編集の実務をなさったのは、上岡誠二さんとその後聞きました。

私が見たのは、東京FATの上岡誠二さんが、
新宿2丁目のアートカフェで、開催した上映会です。

なかなか良い映像で《第1次元 社会的理性領域》の出来です。
感心しました。
特に警察と執拗にもみ合う「秋の嵐」のメンバーに密着して撮影している
映像は、感銘を受けました。

実はこの記事を、もっと長々書いたのですが、
ミスって消してしまいました。

この秋の嵐のメンバーは実は2人すでに死んでいて、
彼らの動きが興味深かったのです。

残念!
またチャンスを見つけて書きます。

タグ:秋の嵐
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