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幻しか見ていない未熟性に向けて [状況と歴史]

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小比満

>私は、斉藤ちさとさんを誹謗する記事に賛同する筋合いは
>ありません。

>私の利益に反するのです。

>私は私の利益を守る権利があるのです。

今回の件は誹謗しているのではなく、どうかと言うことを聞いているのです。

来年の展覧会が始まる前に決着をつけた方が良いと思うのですが。
彦坂さんの判定法では、両者の作品が明らかに格付けとして違ってくると

思うのですが、同じになるのでしょうか?

とにかく、表現としてこのブログもあるのでしょうから、こたつの人たち

みたいに逃げないでがんばってください。私も、自分の名前の「こひみつ」

から「こひ」と略して書いた名前を否定されるとは思いませんでした。

これからは、フルネームで書きます。 
by 小比満 (2009-10-31 10:22)  

ヒコ

小比満様
別のブログで書きましたが、
決着もなにも、無いのです。
「盗作」問題は、《想像界》だけの人が誤読する妄想の世界なのです。

法廷に出て見れば、あなた方が見ているものが、いかに幻であるかが

分かります。

こたつの様に逃げるというような言い方も、誠に失礼であって、

私が40年間、この調子で戦った期ている事を知らない、

戯言にすぎません。

自分の見ているものが、まったく下らない幻であり、

いかにものが見えない未熟者かを、まず知りなさい。

小比満さん、お名前を書いて下さったことは、高く評価します。

面倒なので書きませんが、類似ということは怒りを呼び、

禁止されるというのは、民俗学の中でも定式化されている事です。 
by ヒコ (2009-11-01 09:52)  


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山根秀太郎

繰り返し、自己欺瞞が行われているように思えるのです。泡の写真のコレクションは、ネットから拾ってきたものでしょう?検索したらすぐに見つかりました。ここで行われている自己欺瞞こそがすべての議論に一貫する重要な問題なのです。つまり誰々は「想像界」であると言ったときの問題です。「盗作である」という言葉に対して、私(彦坂)は最初から多くの泡の写真の存在は知っていた上で斉藤さんを評価したのであって断じて盗作ではないと言ったとき多くの泡の写真を最初に見た後に斉藤さんの写真を見て、自立性を保障したうえで評価をした、というニュアンスになります。それがプロの仕事であるという実証のためにも。
しかし実際には斉藤さんの写真に対する疑惑がかけられ斉藤さんの作品を保障するため泡の写真を並べて斉藤さんの自立性を保障するというプロセスがあったのだと、推測します。

あべこべなのです。

「想像界」の格付けにしてもそうで「私の意見を排除するから想像界」というあべこべのプロセスで格付けが行われているように見えるのはこのブログにおいては非常に大きな問題であるように思われます。確かに有料ではないので嫌なら見なければ良い話ですが一個人としては白黒ハッキリさせたい。玄人としてプロとしてやられているので、素人の小さな欲望に付き合えない、なぜなら利害が生じるからというのであればこのブログの運営…いや、ネットとの付き合い方に問題があるでしょう。他者排除とはサントームの場においては使い方を間違えれば危険な過ちになるのではないでしょうか?私が今しようとしているのは具体的な作品の話ではなくて(もちろん小山さんや斉藤さんの作品の話でもなくて)システムの話です。論議のアーキテクチャに関する個人的な疑念です。
by 山根秀太郎 (2009-11-01 11:01) 

山根秀太郎

すみません。書き足りないので加筆します。「論理的ではない」という話が過去のコメントで出ていましたが私はこれに賛同します。それは思考のプロセスがあべこべであるからです。私が観察してきて思ったのはこのブログの本質です。論理的に、学術的に、という話が表層ではなされていますが実際にはそうした問題ではないのでしょう。核心に迫れば迫るほど「実物を見なければ分からない」とか「素人には説明しても無駄である」とかいう言葉に頼らざるを得なくなる。つまりそれは初めから理論ではないからです。わかりますか? そして論議のアーキテクチャの話で私からの意見ではたとえばコメント欄の存在意義に対する疑問です。今回意図せずとも起動している素人の排除「棲み分け」という問題を簡単に解決しようと思うならコメント欄を削除すれば良いでしょう。なぜなら多くの人の意見というのは議論するに値しないから。ここで浮かび上がってくる疑問は「見られている」という意識が見え隠れすることです。このブログで現在浮上している事実は「学術的な芸術の追究」などではあらず「「見られている」という彦坂さん像」です。しかし実際にはここにコメントを寄せた多くの人が持つこのブログへの興味は一過性のものであるということです。その限りにおいては確かに彼らは「素人」でしょう。しかし彼らによって成り立っているものが事実としてあるということです。

by 山根秀太郎 (2009-11-01 11:18) 

ヒコ

山根秀太郎様
ご指摘は、知的で、面白いと思います。考えさせていただきますが、こういう議論そのものは、可能である事は認めますが、私に対する批判として、外部でおやりください。
すべてのアーキテクチャーは批判可能です。

そして何よりも、山根秀太さん自身の議論が、まるこど、あべこべなのです。

こういう論争は、戦争以外ではありません。

まず、作品を実物で、ご覧なさい。

申し分けないですが、これ以上の議論はできません。
外部で、おやりください。
お互いが、あべこべを感じるのです。

基本は、写真作品ですので、写真をみてください。
画像での議論では無理があります。

作品であります。

まず、見て下さい。

必要があれば、私のアトリエに1点でしたら用意しますので、来て下さい。歓迎しますよ。

住所は、下記です。

彦坂尚嘉
アトリエ:〒252-0813藤沢市亀井野3−23−11
電話:0466-21-8898
携帯090-1040-1445


もちろん、新国立美術館で見ていただくのでも、
かまいませんが、来春になります。

見ていただいたからと言って、解決がつくとは、まったく思いません。どこまで行っても、平行線で、あべこべは、続くのです。
by ヒコ (2009-11-01 11:20) 

山根秀太郎

>こういう論争は、戦争以外ではありません。

>まず、作品を実物で、ご覧なさい。

さっそくのご返信ありがとうございます。しかし違います。戦争ではありません。喧嘩でも批判でも批評でもありません。質問でも意見でもありません。人間の会話です。
そしてもう一度私が上に書いたコメントをお読みになってください。つまりこのエントリで行われようとしている議論が「論理的であるかどうか」。「まず、作品を実物で、ご覧なさい」これこそが重要なのです! もう一度強調しおきます。この一言です! 決して削除もされないでください。本質的であるからです。結論に入っていきましょう。私は斉藤ちさとさんの作品は実際に見ています。その上での「会話」です。了解してください。私の目がおかしいとか、そういう話でもありません。だいいち私(たち)が初めから行っていることは「目の話」ではありません。「頭の話」です。つまり、印象批評であるなら印象批評の体裁をとれ、ということです。なぜなら人に誤解を生むからです。それが今回の騒動なのです。この議論は「平行線」でもありません。私はあなたのコメントを熟読したうえで書いています。理解もしているつもりですが、完璧ではないでしょう。それも分かっています。いいですか? 私の「会話」したいことはただひとつ、このブログ(というか彦坂さんの「批評」)が論理的であるかないか、です。斉藤さんの作品のすばらしさは知っています。小山さんの作品は実物を見ていません。つまりアーキテクチャといったのは、人々に誤解を生む議論のやり方に問題があるのではないでしょうか? という会話です。彦坂さんに対する攻撃心はありません。「悪魔主義」精神に反するかもしれませんが、やはり公正な議論から核心に辿り着くことを私は行いたいのです。戦争ではありません。攻撃していません。
by 山根秀太郎 (2009-11-01 11:30) 

ヒコ

山根秀太郎様
追伸も、興味深く拝読しました。ご指摘、ご批判は、良く分かります。正統なご批判だと思います。
しかし、その批判は、私以外にも適用できる事であります。
たとえば福田和也さんの手法などです。
私自身の戸惑いは、私から《想像界》の人々が誤解して攻撃してくることを、十分には理解できない事です。
ですから、むしろお知恵を借りたいのは、そう言う人々と、どのように議論できるかです。きちんと話せるのなら話したいと思いますが、どうしても、それこそ「バカの壁」が存在するのです。

そう言う事実からは、断絶の側に走っているのであって、それ以外の方法があるのなら、それは学びたいし、吸収したいと思います。

原理的には、《象徴界》というのは、彦坂尚嘉理論では、《想像界》を否定する所から生まれるのです。ですので、《想像界》だけの人は、《象徴界》を嫌い、《象徴界》からの意見に対して恐怖と、反発を生じている様なのです。

彦坂尚嘉理論では、《現実界》は、、さらに《象徴界》を否定する事で、生まれます。だから《象徴界》に住む人は、《現実界》がイヤで、無意味に見えるのです。

こういう断絶の中で、この亀裂を超えるのが、少なくともサントームであって、その希求は、私自身の中にも強くあって、この両者のせめぎ合いなのです。

ですので、ご批判の正当性は分かります。

しかし現実の構造は、どちらに向っているのか、極めて複雑になっているように思います。私自身は美術家ですから、現実のコレクターにも接していますし、その人々の感性の限界を見ながら、しかし普遍的と思う仕事を、したたかに展開する道を選んでいます。
そう言う中では、ショスタコビッチの音楽に、一番共感します。

基本としては、私は、現在の《島》化の進行を、肯定的に見て行くのですが、その辺は、どうお考えですか。私を非難できる延長で、この多方面に起きている《島》化を、具体的に批判しえるものでしょうか?

私はむしろ《近代》というものが持っていた普遍主義、一般主義を解体して行く運動を、脱近代の方向として、《島》化は避け得ないものであると考えています。理論的な下敷きとしては鈴木 謙介氏の著作への共感を持っていて、それを右傾化し過ぎているとは言えます。

ご批判自体は、ですから知的なものとして、ありがたく拝読しました。
by ヒコ (2009-11-01 12:07) 

ヒコ

山根秀太郎様

アーキテクチャーとして、このブログを見ていただいているのは、あらためて感動すると言うか、ご指摘を得て、反省します。

最初から見て下さると分かりますが、そういう自覚からは始まっていません。むしろ生理的に進んで来ていて、丁寧にコメントに答えると言うのも、あくまでも私のモラルにおける生理的な反応でした。

もうひとつの問題は、私はアーティストであって、その立場で生きて、また文章を書いて来ているのです。それは私だけではなくて、美術家がギリシアの昔から書いて来ている文章の系譜であって、一般論としての理論性ではありません。私が学生時代、ホルクハイマーを愛読していたので、私の志向そのものは、彼の批判する道具的理性の範囲である事は、自覚しています。

作家と話すと、私の話は具体的で、技法や結果に結びつくと言う、そういう反応をもらいますが、私の芸術分析は、あくまでも美術家の書いて来た、そのような具体的な画論の系譜の文章なのです。

そのような性格に対するご批判はごもっともとは思いますが、その基本的性格は、変え様がありません。彦坂尚嘉の理論的性格として、ご批判を受けて再自覚し、反省する努力はしますが、出自そのものは変えられないのです。

ともあれ、批判は、たいへんにありがたく思います。ちょっと今日の予定があるので、また夜に書きますが、このブログをアーキテクチャーとして、自覚し、再構築する方途も、考える努力をしてみます。
ありがとうございました。
by ヒコ (2009-11-01 12:22) 

小比満

山根秀太郎さん、おっしゃっているアーキテクチャーはブログの持つ特性ではなく、彦坂さんのこのブログでの振る舞い方だということかなと思ったのですが。彼は、発言自体に自分に対する攻撃性を読み取り、それに反応してしまうのではないのでしょうか?確かに、自分の言うことに反論を唱えるものに対しては、頭にくるのでしょうね。

私たちの世代(20代です)は、ネットに対する耐性がある程度出来ていて、2チャンネルなんかは反対に非常に民主的な場所に思えるのです。変な人やまともな人が混在していて。

この世代の人の研究(彦坂さんぐらい)を大学で行っていますが、チャーリーの書籍を読んで理解できるのであれば、もう少し柔軟に対処できると思うんですけどね。

絶対話題にあがっている作品の比較格付けをすれば、ほとんどの人に理解できると思うんですがね。実物を見ることを至上主義にするなら、テキストベースの評論なんて全く意味がないですものね。
by 小比満 (2009-11-01 12:58) 

山根秀太郎

彦坂尚嘉さま。ご質問に順を追って返答していきます。


>私自身の戸惑いは、私から《想像界》の人々が誤解して攻撃してくることを、十分には理解できない事です。
ですから、むしろお知恵を借りたいのは、そう言う人々と、どのように議論できるかです。きちんと話せるのなら話したいと思いますが、どうしても、それこそ「バカの壁」が存在するのです。


ここで重要なのは、今回の騒動の本質的な「誤読」です。それは彦坂さんと「想像界の人たち(オオクラさん、こひさん、桑山さん、中野さんたち)」との間に彦坂さんみずからが設定した誤読です。つまり「想像界の人たち」は決して彦坂さんを攻撃しているというわけではないということを自覚することの強い必要性です。端的に言ってしまえば、これだけで今回の騒動に関するほとんどの問題はおろか、彦坂さんが長年悩まれてきた「理解されない」という問題にも触れることが出来るでしょう。セラピー的な語り口になってしまいますがご了承ください。彼ら6流の人たちは彦坂さんを陥れようとか嫉妬しているとかそういう類の欲望は一切持ち合わせていないということです。インターネットとは、そういうものです。過去に美術活動を行ってきた中でもしかしたらそういう人と接したことがあるのではないですか? 2chで誹謗中傷されたことをまだ引きずってらっしゃるのではないですか? しかしネットでの誹謗中傷は現実とは違って彦坂さんを本当に陥れることが出来ないということが特徴です。つまりこちらは匿名で語っているのであって責任もないけど力も無い。ネットの大衆が持っている最大の「暴力」が「通報」です。ネットで横行する殺人予告とか、あからさまな犯罪に対して国家という力に介入するしか「力」を発揮する場面がないということです。これが「想像界の(ネットの)人たち」が彦坂さんに対しての攻撃心がない、ということを実証するために必要な入り口です。つまり無力であるから、そうした意志すら初めから持ち合わせてないのです。意識すらしていないのです。「暴力」はないし、「呪い」もそういう意味では初めからなかった。単に純粋な「質問」とか「疑問の投げかけ」とか「意見」とか、そういう「幼稚な」感情が発露したものであったと捉えるほうが賢明でしょう。実際に彦坂さんと会ったならばわざわざ質問しないことも、この場では可能なのです。知的好奇心とも欲望とも言っても良いですが大事なのはそれらが短絡的な思考プロセスの上で作動しているということなのです。これが彦坂さんと「想像界の人たち(という設定)」とのズレのひとつであると分析します。


>こういう断絶の中で、この亀裂を超えるのが、少なくともサントームであって、その希求は、私自身の中にも強くあって、この両者のせめぎ合いなのです。

>ですので、ご批判の正当性は分かります。


だから、ここで「サントーム」という言葉が象徴的な役割を担ってきます。彦坂さんも想像界の人たちも本質的には友好関係を築きたいと思っているのです。この騒動で「想像界の人たち」がコメントを繰り返しやめなかったのはそうした意志が(団体という力も作用して)継続したということでしょう。重要なのは生まれた「誤読」です。その原因は私が上記コメントで指摘した「論理性の有無」というそれだけの問題であるように思います(発端は顔判断の根拠であったということからです)。


>基本としては、私は、現在の《島》化の進行を、肯定的に見て行くのですが、その辺は、どうお考えですか。私を非難できる延長で、この多方面に起きている《島》化を、具体的に批判しえるものでしょうか?


ここでも「誤読」が起きていると解釈します(攻撃ではありません)。重要なのは「島化」という思想が「棲み分け」に繋がったのだと解釈したうえでの私からの「会話」です。たしかに、ネット上で各人が小さな島に所属し結合していく状態は理解できますし棲み分けが行われるのだということも理解できますが、今日彦坂さんブログの「島」に移住した私は同時に別の「島」にも住んでいるということです。「桑山の呪い」と批判し「棲み分け」を行った限りにおいては「桑山」はこのブログ(のコメント欄)において「想像界の人間」であったのですが、別の「島」の住民でもあるということです。「棲み分け」は複雑に絡み合って重層的に重なっているので正確には厳密なる「棲み分け」は行われていないものだと考えています。桑山は敵である一方で味方でもあるという主張で、それは桑山は想像界である一方で象徴界でもあるということと同義です。これはオオクラさんにも中野さんにもこひさんにも当てはめられる可能性があります。つまり私個人の考えとしては「島化は避けられないが同時にそれは結合でもある」ということです。具体的に申すなら、私はここでこうして長文を書いてそれに拠る目的一致的な(一過性の)関係を構築していくのでしょうが、他方でトウィッターではその文字数制限ゆえにくだらないことを書いてそれ相応の軽い関係を構築し、ブログでは自分の日常も含めたリアルな関係を構築している、ということなのです。重要なのはこの分化ですので、一概な批判はネットの一部を掻い摘んだものにしかなりませんので被批判者にとって説得力に欠けたものにもなるでしょう。これがもうひとつのズレです。


>最初から見て下さると分かりますが、そういう自覚からは始まっていません。むしろ生理的に進んで来ていて、丁寧にコメントに答えると言うのも、あくまでも私のモラルにおける生理的な反応でした。


この一言は彦坂さんにとっても「想像界の人たち」にとっても重要であるし、今回の議論の発端となった「顔判断(=言語判定法=41次元アートブログ)の根拠」にも通じる、というか解決へと導いてくれると思います。つまりこうした「生理的な反応」こそが正直なところ私たちが最初から指摘しているところであって、それに対する「欺瞞」にこそ嫌悪しているのです。そうして向けられたコメントは彦坂さんにとって「攻撃」「批判」「利害関係にあるもの」として届いたかもしれませんが、実は違います。その意味では「想像界の人たち」も同様に「生理的な反応」によって行動していたとも言えますが、その対象がまったく違うのです。「想像界の人たち」が問題の核として設定したものの核心にはこの一言があったのです。この一言が聴きたいがために今回の騒動がおきたのだと、私は思っていますので、ここは再考の余地があると思います。つまり「生理的な反応である」ということが彦坂さんにとってどういった利害を与えるのか、です。私の推測では、それはむしろ「信頼の回復」に貢献するものだと思っています。彦坂さんの批評の場合これまで行ってきたことを私なりに分析するなら、その「教養」と「洞察力」からくる「補足的な展開」にこそ人々は引き付けられていたのだが、肝心の「言語判定法」がうそ臭い。理解できない。短絡的である。生理的反応である。ということなのです。これが、大きな「誤読」でしょう。


この問題を考えるうえで、というより、私自身もこのブログ以外の「島」にも現実の社会にも暮らしているので、そろそろこの騒動を片付けたいと思っていますので本来反則技であることは分かってはいますが白状します。実は山根秀太郎という名前はハンドルネームを変えただけであって「桑山」と同一人物が書いています。これは中野さんのアドバイスもあって、語り口、ハンドルネーム、論点を変更してアプローチした結果です。問題の追究のためには止むを得なかったとの判断からです。これは捉えようによっては大きな「騙し」ではありますが、私自身の大きな疑問を解決するためにも、私なりにこのブログが良い方向へ進むために出来ることとして発端からこれまでの騒動を諦めず追究してきたかったからです。ここまで書いて、最初から私に「悪意」がなかったことも理解してもらいたいと、切に願います。こうした「暴露」を行ってしまった後では、上に自分が書いたものも説得力を欠いて、また、不愉快に感じられるかもしれませんが、そうした抵抗心は再度お捨てになって、私からの「会話」を受け取ってください。繰り返し強調しておきますが、私は最初から「悪意」はありませんでした。ただ、この一件の問題解決のために割く時間を短縮したかったので、ああいった言葉を使ったことは反省すべきだと思います。また何かあればコメント欄に登場するかもしれません。


>小比満さん

>山根秀太郎さん、おっしゃっているアーキテクチャーはブログの持つ特性ではなく、彦坂さんのこのブログでの振る舞い方だということかなと思ったのですが。彼は、発言自体に自分に対する攻撃性を読み取り、それに反応してしまうのではないのでしょうか?確かに、自分の言うことに反論を唱えるものに対しては、頭にくるのでしょうね。


これに対する返答は、すみませんが上に書いた彦坂さんへの返事をお読みください。私なりの意見を書いたつもりです。


>私たちの世代(20代です)は、ネットに対する耐性がある程度出来ていて、2チャンネルなんかは反対に非常に民主的な場所に思えるのです。変な人やまともな人が混在していて。


これも上の彦坂さん向けの返事を読んでいただきたいのですが、大事なのはユーザーが場所によって言語を使い分けているということだと思います。その意味では「棲み分け」は作動していてそれに対するリテラシーがある人からすると、こうしたブログという場で正常に作動するはずの形式的な「コメントのやり取り」が「反論」や「悪意」と受け取られてしまって思わぬ騒動にまで発展してしまったことは不愉快でもありましたが、このブログにおいてはそうした2chなら2ch、ニコニコならニコニコ、ブログならブログみたいな「棲み分け」が意識されていなかったことではないでしょうか? これが、お互いの齟齬を生んでいた原因だと思います。

by 山根秀太郎 (2009-11-01 13:13) 

みち

意見を言わせていただきます。

上の茶番も含めてうんざりです。
どうも僕とほかの人の彦坂さんに対する見方がズレているようです。議論の焦点になっているような話題も、上に見られるような議論上のテクニックも、彦坂さんに対する質問も僕は根本的に興味がないです。
こんなことはおかしいとわかっているし、すぐにつぶされる意見であろうと承知しているし、むちゃくちゃなことを言おうとしているのはわかっているのですが、もう議論そのもので得られる情報を僕は求めていないです。むしろそうしたことで得られない情報を僕は彦坂さんに求めて、このブログを拝見しているのです。
彦坂さんは思うに、口べたなのではないかと思うのです。上の人たちのようにすらすらと整理されたキレイな文章は彦坂さんにはある種欠けているように思います。それは彦坂さんの頭にある知識があまりに膨大であるために整理するのが困難なためであるかもしれません。どちらにせよ、僕はそういった見かけの文章上のうまさや、上のようなテクニックは見ていてうんざりします。正直どうでもいいのです。彦坂さんの文章や知識や見る目は、ある意味で、言葉でかたりえない次元のものです。僕はそのかけらをつかもうとこのブログを読むのです。時々、「ああ、言い足りてないな、言うのが困難なのだろうな」と文章を読んでいて感じることがあります。もどかしいのです。そうした経験は誰もでもあるでしょう?自分で書くときも感じることがあるはずです。言葉が足りないのです。あと少しで言えそうなのに、どうしても言いきれないのです。でも自分にはわかっているのです。その言いきれない部分、あと少しで言えそうな部分、それこそが、真実なのに、と。僕は彦坂さんのそうした語りえない部分を感じたいのです。うまく伝わっているとも思えないですが、正直なところ、言語判定法がうそっぱちのインチキであっても構わないのです。言葉によってどうにかして語ろうとする、しかし語りえないその部分を、僕は感じたいのです。議論していることも、追及することによってあきらかにしようとしている真実も、僕にとっては些細なことでしかないです。仮に、彦坂さんの言葉がどんなに非論理的であったとしても、うさんくさくても、事実とかけ離れていたとしても、そんなことはどうでもいいのです。もう少しで何かがつかめそうな気がするのです。僕はその何かが垣間見えるためにこのブログを読むのです。それらは論理性や見た目の事実や今議論していることとは無関係のことのように感じられるのです。どうしようもなく本当に無関係だと、切実に感じるのです。彦坂さんの「とにかく実物を見てください」という意見も、突然の命令のような理不尽さは確かにあります。しかし、”実際に見てみて初めて”ああ、なるほど、とわかるという体験が人生で何度もありませんか?それは「とにかく実物を見ればわかるのに」と他人に言いたくなるような感覚ではありませんか?言葉でそれ以上つくせますか?僕が彦坂さんに求めているのはまさにそう言った、言葉では言いえないところなのです。それが彦坂さんの言葉足らずであったとしても、僕は気にならないのです。議論そのものの価値を否定するような間違った意見ですが、しかし、それほど間違ったことを言っているとも僕は思えないのです。この文章でさえどうしようもなく僕は言いきれないのです。足りないです。伝えきれないです。言いきれないからこそ、この文章に真実性があるようにも僕は思うのです。僕が知りたいのはそうしたことです。それを見に僕はこのブログにやってくるのです。
だからといって今回の件が無視されてよいことだとはもちろん思いません。しかし、そのことによって彦坂さんのブログが進行を妨げられているのは事実です。僕は一見正しいかも知れませんが、議論による真実の追求よりも、一見間違っていたとしても彦坂さんの普段の記事に現れる何かが見たいのです。少なくともそうした読者がいるのです。どうかそのためにもこれ以上ブログの進行を妨げるような行為はやめていただけませんか?どこか別のところでやっていただけることを願います。

失礼します。
by みち (2009-11-01 15:57) 

みち

わかりやすく書き換えます。

>僕は一見正しいかも知れませんが、議論による真実の追求よりも、一見間違っていたとしても彦坂さんの普段の記事に現れる何かが見たいのです。

僕は「一見正しいかも知れませんが、議論による真実の追求」よりも、「一見間違っていたとしても彦坂さんの普段の記事に現れる”何か”」が見たいのです。

失礼します。
by みち (2009-11-01 16:01) 

きゅうり

みちさんにほぼ同意です。
若さを爆発させるには、もっと有意義な場所が別にあると思いますよ。

。。。彦坂さんがまじめに対応されているのはスゴイ。
by きゅうり (2009-11-01 20:00) 

ぽん

彦坂さんのブログを普段ロムっている者ですが僕もみちさんにはほぼ同意ですね。
好む好まざるは別にして彦坂さんの芸術論が稀有なものである事は読んだ方なら認めざるを得ないと思います。
村上隆論、現代中国美術論など本当に目から鱗が落ちる思いでした。
こういうマトモな分析というのが日本のアートシーンでは全く欠けてしまっているのです。
自分のように彦坂さんの文章が楽しみでただ読んでいるだけ、という読者も大勢居るわけです。
受動的で議論に参加しないのでレベルの低い読者であるという事は自覚しておりますが…。
今後は作品制作にも専念するとの事ですがとても楽しみですね。
by ぽん (2009-11-01 22:41) 

東條

彦坂さんの理論は「言語」レヴェルのものだと受け取っています。なので非常に繊細で深い反面、単純明快です。それが読み取れないのはほとんどが読者の主観的な誤読だと思います。

作品は作品であって、その他の何ものでもありません。
それを産み出すのは創作者の言語に対する精神性です。

僕自身は彦坂さんを同じクリエーターの先輩として尊敬しています。それだけです。

構造が読み取れないクリエーターや読者は多いようです。

彦坂さんの理論と実践に、闇の中から一握りの光を紡ぎだすような可能性を感じるのは僕だけではないように思います。



by 東條 (2009-11-02 02:09) 

中野輝也

「山根秀太郎さん(桑山さん)」が、「何を言いたかったのか」、ようやく見えてきました。今回の「“論点”をしっかりと立てた長文」は、今までと比べて、非常に理解しやすい内容になっています。

“彦坂さんの批評の場合これまで行ってきたことを私なりに分析するなら、その「教養」と「洞察力」からくる「補足的な展開」にこそ人々は引き付けられていたのだが、肝心の「言語判定法」がうそ臭い。理解できない。短絡的である。生理的反応である。ということなのです”

“つまり、印象批評であるなら印象批評の体裁をとれ、ということです。なぜなら人に誤解を生むからです”



「山根秀太郎さん(桑山さん)」の一番主張したい「論点」は、「印象批評の体裁をとれ」だと理解しました。議論を続けるのであれば、この「論点」をさらに深めてくださると、私にとって理解しやすい文章となるので、よろしくお願いします。

「印象批評の体裁をとれ」というゴールの具体像(仮説)


「これは印象批評です」という断り書きを、文章の「最初と最後」に入れる。現時点においても、「これは印象批評」だという断りを入れているが、それをもっと徹底する。


「想像界」という言葉を使うたびに、「想像界」について説明されている入門用の記事に飛べるリンクをはる。おそらく「想像界に関する入門用の記事」だけで10万字を超える事になるが、それを読ませる。もちろん、他の特殊な用語に関しても、それぞれリンクをはる。「山根秀太郎さん(桑山さん)」から見て、「欺瞞的なレッテル張りに使われそうな用語」には、すべてリンクをはる。


そして②のリンク先にも「これは印象批評です」と書いておく。


上記に掲げた3点の案は、「印象批評の体裁をとれ」という「論点」にそった思考ゲームなので、私が本心から望んでいる解決策とは異なります。


山根秀太郎さんが「印象批評の体裁をとれ」と発言する時、「具体像」「ゴール地点」は見えているのでしょうか?「自分が望んでいる最終的な具体像」「ゴール地点」を持たないで、議論している人を時々見かけるのですが、そういう人が議論の輪の中に含まれていると、しばしば議論の場が空転するのです。「印象批評の体裁」をとるための、「誤解」をできるだけ少なくするための、「具体像・ゴール地点」があるのであれば、お聞かせください。



小比満さんへ

小比満さんは、「水の泡の写真に関する騒動」だけでなく、彦坂尚嘉さんの対応についても意見があるようですが、一番主張したい論点がよくわかりません。発言の内容・論点が、それぞれ単発的すぎて、一番主張したい一貫した論点が見えてこないのです。もしよろしければ、「小比満さんの一番主張したい“論点”」をお聞かせ願えませんか?


みちさんへ

みちさんの意見には80%賛同しますし、私自身も、彦坂尚嘉さんの文章から「言葉にならない言葉」を聞き取ろうとしてきた人間なので、90%共感するのですが、「急がば回れ」と言うべきか、今回の騒動は、「中野輝也」が論点を整理しつつ、「山根秀太郎さん」「小比満さん」の「議論したい情熱を“完全燃焼”」させておいたほうが、後腐れがないと思うのです。今回の議論がうまくいけば、また「“ほのぼの”として“たまに荒れる”程度の平和なブログ」が戻ってくると思うので、みちさんにとってはお目汚しでしょうが、しばらくお待ちください。
by 中野輝也 (2009-11-02 03:40) 

motoki

 ーコメント欄に毎度長文を書き込む人たちへー
 ご自分のブログを立ち上げて、そこでご自身の主張なりを書き込んでください。あなたたちのコメントはもはやその範疇を超えています。正直目障りです。恥を知りなさい。
by motoki (2009-11-02 09:49) 

小比満

中野輝也さん

>発言の内容・論点が、それぞれ単発的すぎて、一番主張したい一貫し
>た論点が見えてこないのです。もしよろしければ、「小比満さんの一
>番主張したい“論点”」をお聞かせ願えませんか?

特別主張や議論をしたいことは無くて、単純にいつも彦坂さんがやられているように作品の格付けをしてもらいたいと言うことなんです。特定の作品に関して言及したら、

>自分の見ているものが、まったく下らない幻であり、
>いかにものが見えない未熟者かを、まず知りなさい。

とかって感じで終わってしまうのはつまらないなと思っているわけです。特定の作品をアンタッチャブルにするのであれば、ここのブログを見る意味もないかなと思うし。ある意味彦坂さんは、どんなものにも責任を持って格付けしてるんだとしたら、よい評価であれ悪い評価であれ出来ると思うんですよ。

この泡の問題に関して、スタジオボイスの情報を最初に掲載したのは私ですが、私の周りではすでにこの問題が結構話題になっています。彦坂さんの「気体分子ギャラリー」が評価を含めて販売していることもあって。

芸術作品も作家が生活していくためには、商品として流通させなければならないわけで、その価値を格付けし保証するとしたら色々リアルな問題も含んでいくと思うし、今までのアートシーンはこのあたりが非常に不透明でもあったわけです。この部分に関して、彦坂さんは明確に情報を開示されているわけですが、このような類似作品が出てきた場合、歯切れが悪くなると今まで積み重ねてきた評価も揺らぐような気がします。

彦坂さん自身コメントでこの問題に関して考えるとおっしゃっているので、私としてはそれで十分です。
by 小比満 (2009-11-02 09:51) 

中野輝也

“私の周りではすでにこの問題が結構話題になっています”

「この状況」に対する「危機感」が、小比満 さんの発言全体を貫いているわけですね。


“芸術作品も作家が生活していくためには、商品として流通させなければならないわけで、その価値を格付けし保証するとしたら色々リアルな問題も含んでいくと思うし、今までのアートシーンはこのあたりが非常に不透明でもあったわけです。この部分に関して、彦坂さんは明確に情報を開示されているわけですが、このような類似作品が出てきた場合、歯切れが悪くなると今まで積み重ねてきた評価も揺らぐような気がします”


「気体分子ギャラリー」の「情報開示の姿勢」に、今までのアートシーンの不透明さを超えた可能性を見ていたけれど、この件に関しては「情報開示の姿勢」が十分ではなく、「気体分子ギャラリー」に対する「評価」を揺るがせる「危険性」がある。

ここでも、「危機感」がベースになっているように思いました。そして、彦坂尚嘉さん自身のなかに「危機感」ないようなので「もやもや」している、という心理状態でしょうか。これまでと比べて、小比満 さんの「論点」がわかってきました。わかりやすい説明をありがとうございます。

これからの議論においては、「アートギャラリーにおける「安心感の提供」とはどのようにあるべきか?という「論点」を、小比満さんが「積極的」に押し出していただけると、非常に「建設的な議論」になるのではないかと思いました。

誤読がありましたら、訂正をおねがいします。
by 中野輝也 (2009-11-02 10:16) 

中野輝也

motokiさんへ

「コメント欄の長文が“目障り”」であるとの指摘、ごもっともです。「一般的なブログ」でこのような長文を書けば、「非常識」と言えます。

しかしながら「このブログ」における「コメントの“目障り”さ」は「長文」という要素だけにあるのではないのです。

「山根秀太郎さん(桑山さん)」さんが「桑山・桑田・桑名さん」だった頃の、最初の2件のコメントは「礼儀正しい“質問”」でしたが、その後の「短文の“批判”」は、正直言って、「目障り」でした。「目障り」でしたが、削除の判断・実行は彦坂尚嘉さんのブログ運営権にのみ由来するので、わたしはあくまでも、「論理的」に「論点」を整理していって、「空回りする議論」の「目障りさ」を軽減しようと努力してきました。そういった議論に「積極的に参加」する「私自身が「目障り」であることも承知の上での行動です。


そして、「コメントの“目障り”さ」は「長文」という要素だけにあるのではない、という「論点」を、私はこれから論じます。これに対する「質問・批判」は遠慮なくぶつけてきてください。できるかぎり、返答・調査させてもらいます。



「桑山・桑田・桑名さん」の過去の「短文批判」よりも、「山根秀太郎さん(桑山さん)」の現在の「長文批判」のほうが、「目障りさ」は十分の一以下になっていると、私は感じます。私の感性では、「単発的」な「短文による批判」が空転しつつ繰り返されるコメント欄よりも、冷静かつ一貫した理論にもとづく「長文による批判」がくりかえされるコメント欄のほうが「目障りさ」が「かなり少ない」と感じるのです。

そしてこのブログの管理人である彦坂尚嘉さんが削除したのも、「単発的」な「短文による批判」をくりかえしていた「桑山・桑田・桑名さん」のコメントです。そして、現在の「長文批判」は削除されていません。このブログの管理人である彦坂尚嘉さんも、「短文・長文」の相違によって「目障りさの程度が“上下”する」とは、考えていないのだろう、と私は理解しています。むしろ、「彦坂尚嘉さんに対する批判」が投げかけられた場合、「感情的な短文批判」こそが「目障り」であるゆえに、ブログ管理者の運営権にもとづき削除、という事例が圧倒的に多いのです。
by 中野輝也 (2009-11-02 10:48) 

motoki

ー中野さんへ
 分をわきまえろ、ということです。そもそもあなたには人の話をまともに聞くことすらできていません。
 見苦しい自己弁護は他所でやってください。
by motoki (2009-11-02 21:56) 

中野輝也

motokiさんへ

“分をわきまえろ、ということです”

とても重要な論点です。ブログにおける権力者とは管理人だけです。その他の人間は、コメント欄を借りて「発言させてもらっている身分」と言えます。そして管理人は自由に削除できる運営権を保持しています。基本的に、「発言させてもらっている身分」ではコメント削除に対して文句は言えないのです。30分で新しいブログを立ち上げられるのですから、そのブログで「批判」を書いて、トラックパックをこのブログに送る、というのが「自立した大人による言論」です。
特に「ラディカルな批判」であれば、自分のブログからトラックバックを送って批判すべき、と考えています。


“そもそもあなたには人の話をまともに聞くことすらできていません”

自覚はしています。半分は私の能力不足であり、半分は「意図的」なものです。基本的に、私が人の話を「要約」するときは、「建設的な議論につながりそうな箇所」しか「要約」しません。私が「恣意的に編集」している「要約」なのです。その人の「攻撃的な論点」を、正直に「要約」して再提出してしまうと、議論が「ギスギス」した雰囲気に包まれてしまうのです。「攻撃的な論点」に対しては、まともに聞くつもりが初めからありません。

程度の差こそあれ、「攻撃的な論点」と「建設的な論点」を混ぜこぜにした状態で、多くの人は批判するのです。そこから「建設的な論点」だけを抽出しておかないと、「建設的な議論」は始まりません。ただし、「意図的な要約」はルール
違反ですから、「要約しただけで自己完結」したら「欺瞞」と批判されます。相手の発言をうながし、そのときに「誤読に対する訂正」があれば「受け入れる」と言う姿勢で、「ルール違反」とのバランスを取っています。「誤読に対する訂正」に対して「いいや、あんたの本意は違うはずだ」などの突っぱね方はしないのです。


“見苦しい自己弁護は他所でやってください”


私の目的の一つは、このブログの「炎上」を防ぐ事ですから、騒ぎが沈静化するまでは、ここで発言していくつもりです。一度始まった炎上を防ぐためには、「コメント欄の擁護」と「コメント削除」の2つを組み合わせる事が効果的でしょ
う。「コメント削除の基準」が「コメント欄の擁護」から自然発生すれば、管理人の削除行動は、「独裁」ではなく「民意」と評価されます。

私はたくさんのブログ炎上事件に立ち会ってきましたが、いつも「擁護側」であり、「純粋な批判側」に回ったことはありません。「こたつ事件」では、「例の批判された二人」についての記事において「彼らが撤退せざるを得なかった事情」とそれに対する「同情・共感」の意をこめたコメントを書き込みましたが、あの時から、このブログが炎上する危険性に対して警戒してきました。

このブログではまだ炎上は始まっていません。批判者たちは、自制心をもって論理展開をしています。しかしながら、彼らの真似をしてやってくる批判者は、「“批判の模倣”による安易さゆえに」炎上のきっかけとなる可能性が高いのです。「擁護」と言っても「やや擁護よりの中立」ぐらいを目指すことが、「信者」とレッテル張りされて「発言の信頼性」を低下させないために必要です。「批判と擁護」を組み合わせることで、中立性を演出した「効果的な擁護」を目指すとい
うテクニックはよく使います。ネット上の討論にはゲーム性があり、「ゲームとしての構造」を客観的に把握していないと、失敗するのです。

そして「炎上」にもゲームの構造があります。、「俺にでも“かんたんに”批判できる」という認識が広くネット上で共有されてしまうことが、炎上が激化する理由の一つです。現在の「山根秀太郎さん」は、「長文による論理展開で批判」していますが、これが「安全弁」です。主な批判者が、「短文で感情的に批判」していると、「俺にも、“かんたんに”真似できそうだから、俺も批判に参加するぞ」という「安易な批判者の群れ」を呼び込んでしまうのです。「山根秀太郎さん」が、「長文による論理展開で批判」していることで「俺には真似できそうにないぞ」となって、新たな批判者が現れないのです。彦坂尚嘉さんのブログの規模になると、「批判的な“沈黙”の読者」を大量にふくんでいますから、彼らにとって高いハードルを用意して、足止めしておくことが「炎上防止」にとって重要です。

このブログを、これからも継続的に「読んでいきたい」、という私の「欲望」にしたがって、私の「責任」で「炎上防止活動」をこの場でやっているのです。

“見苦しい自己弁護は他所でやってください”

私より「上手な擁護者」が現れた時には、私は消えますが、それまではここに居座ります。なお、管理者のブログ運営権により、私がコメント削除を喰らったときは、それを合図におとなしく退散しましょう。管理者「彦坂尚嘉さん」による
、コメント削除実行をしばらくお待ちください。

motokiさんの疑問は十分に解消されてないでしょうから、引き続き「質問・批判」をお待ちしています。できるかぎり「返答・調査」させてもらいます。
by 中野輝也 (2009-11-03 01:24) 

motoki

ー中野さんへ

中野さんの言う現実を私は認識せずに批判してしまいました。

確かに中野さんの行為に意義があると思います。
しかし、本当に必要なのでしょうか?

コメント欄に書き込みをする人は自分のコメント以外のものも読むはずです。コメントを読んだ個人はそれぞれ感想を持ちます。しかし、あえて他のコメントに対する直接的な発言は控えるものです。なぜなら、この場所は彦坂氏のブログに対するコメントを書く場だからです。

それに、この場で批判はやってはいけないと思います。それは他人の家にあがって、やれ廊下が汚い、物が片付いていないだとか文句を言うことです。そういった人は彦坂氏の希有な寛容力によって非常識なことができていることを察するべきです。

これ以上、私も他のコメントに反応していると自己矛盾を来しますので、この場での議論を続けるつもりはございません。

どなたかが彦坂氏について議論をするサイトを立ち上げトラックバックを送ったなら、その時はよろしくお願いします。
by motoki (2009-11-03 10:06) 

小比満

motokiさん

別に中野輝也さんを養護するために書くのではないのですが、重要なことを勘違いされているようですので。

>それに、この場で批判はやってはいけないと思います。それは他
>人の家にあがって、やれ廊下が汚い、物が片付いていないだとか
>文句を言うことです。そういった人は彦坂氏の希有な寛容力に
>よって非常識なことができていることを察するべきです。

上記の喩えはここへ来られる方々を混乱させると思います。ブログを家に喩えるなら、彦坂さんのブログは玄関を開けてどうぞ入ってくださっても良いですよという表明をコメント欄を解放することによって行っているわけです。

だから、基本的に入ってきた人は「これなんですか?」って聞いても良いわけです。これがいやなら、ドアを閉めれば良いんです。それでお終いです。

入ってきた人の振る舞いが気に入らなければ、注意するか「帰れ!」と言って削除すれば良いんです。

ですから、motokiさんの家ではない彦坂さんの家に入った人にやめろとは言ってはいけないと思います。
by 小比満 (2009-11-03 12:26) 

中野輝也

motokiさんへ

“どなたかが彦坂氏について議論をするサイトを立ち上げトラックバックを送ったなら、その時はよろしくお願いします”


「彦坂尚嘉さん」について議論したい「3人」の参加希望者がいれば、「中野輝也の議論専用ブログ」を立ち上げます。「議論」するためには私もふくめて「2人」いれば十分ですが、「継続して議論」するためには、私もふくめて最低限「4人」以上の議論チームが必要です。

この「議論専用ブログ」があれば、このブログのコメント欄が炎上した時、『「中野輝也の議論専用ブログ」に参加してください、議論の続きはそこでやりましょう』と誘導することができます。

しかしながら、閑古鳥が鳴いているような「議論専用ブログ」では誰も誘導されないでしょうから、やはり最低限「4人」以上の議論チームが必要です。

ただし、基本的に「彦坂尚嘉」さんのコメント欄で書き込むことは自由ですから、「議論専用ブログ」が盛況であっても、「誘導されない」批判者は一定数いるでしょう。「彦坂尚嘉さん」を「直接に」批判したい人もいるのですから仕方あ
りません。


「motokiさん」「オオクラさん」「小比満さん」「山根秀太郎さん」、彦坂尚嘉さんについて批判したいけど「彦坂尚嘉さんのブログ内」でのコメントを「遠慮」してきた人々、批判的な議論をこのブログ内から「隔離」したい「擁護者」の人々、どんな方でも構わないので、「中野輝也の議論専用ブログ」の立ち上げ計画に「賛同」する人は、その意思を「表明」してください。

彦坂尚嘉について議論したい「3人」の参加希望者がいれば、「中野輝也の議論専用ブログ」を立ち上げます。



“確かに中野さんの行為に意義があると思います。
しかし、本当に必要なのでしょうか?
コメント欄に書き込みをする人は自分のコメント以外のものも読むはずです。コメントを読んだ個人はそれぞれ感想を持ちます。しかし、あえて他のコメントに対する直接的な発言は控えるものです。なぜなら、この場所は彦坂氏のブログに対するコメントを書く場だからです”


“あえて他のコメントに対する直接的な発言は控えるものです”


これは「マナー」の指摘として「正当」な発言です。「平常時」であれば、「発言させてもらっている身分」であることを自覚しているので、私もこの「マナー」を守りながらコメントします。しかしながら、「炎上のきっかけとなる危険性をふくんだ」議論が始まってしまうと、単純に「マナー」を守っていれば良いというわけにはいきません。コメント欄という「基盤そのものが崩壊」する危険性を感じて、「マナー」を超えた発言を「私の責任」でさせてもらいました。


失礼ながら、私が言及した「motokiさん」「みちさん」の発言内容には、「批判者たち」にとって「かんたんに」批判できる「要素」がふくまれていました。この「批判しやすい“要素”」につけこんで、「感情的な短文の批判」をぶつけてくる「新たな批判派」が現れないともかぎりません。「新たな批判派」が現れる前に、私が率先して、比較的におだやかで「建設的な批判」をしたのです。

「彦坂尚嘉さんの擁護者・あるいは批判派に対する批判者」が善意から発言している事は十分に共感していますが、「批判しやすい“要素”」をコメント欄に「放置」しておくのは危険です。「批判の空白」は、それをにつけこむ「悪意の批判」を呼びこみ、「炎上のきっかけ」となります。私が率先して、比較的におだやかで「建設的な批判」をすることにより、「悪意の批判」につけこまれやすい「批判の空白」を解消して「批判の均衡」をつくっているのです。

コメント欄の「平和」は、「批判の均衡」により作られます。「批判の空白」は一見して「平和」に見えますが、潜在的に「“悪意の批判”を呼び込みやすい状況」と言えます。現在このブログは「平常時」ではありません。ちょっとしたきっかけでコメント欄が「炎上」してしまう、危険な状態なのです。「批判の空白」という「気休め程度の“平和”」では、いつまで留まれるか不確定すぎます。それよりは、「“批判の均衡”の創出」がより「コメント欄の“平和”」に貢献するだろうと考えて、「motokiさん」「みちさん」に対して言及させてもらいました。



“確かに中野さんの行為に意義があると思います。
しかし、本当に必要なのでしょうか?”



「オオクラさん」「桑田・桑名・桑山さん」が「積極的」な議論を仕掛けてきた当初から、わたしはコメント欄における「長文コメントが発生しやすい流れ」を、「意図的」に作り出しています。たくさんのブログ炎上事件に、私は立ち会っていますが、「長文コメントの発生しやすい流れ」が「コメント欄の炎上被害」を「最小限に食い止めている」現場を、何度も目撃してきました。私の経験した範囲において、「長文」は「効果」があるのです。

「オオクラさん」「桑田・桑名・桑山さん」の後から現れたのが「小比満さん(こひさん)」です。彼が「斉藤ちさとさんの作品」に対して「盗作くさい」とコメントした瞬間、「炎上の危険性」が急に跳ね上がりました。私が知らないだけで「盗作疑惑」の火種はどこかで燃えていたのかもしれませんが、このブログで表面化したのは、「あの瞬間」です。

「盗作疑惑」の多くが、ブログの炎上につながっています。「ネット世間」というのは「盗作疑惑」に過剰反応をするのです。「ネット世間」の行動原理は「道徳」ですから、「法律」と異なり、「“疑惑”の段階」であっても徹底的に「ネット的制裁」を加えます。「ネット的制裁」は「新時代の秩序・道徳・世間」ですから、ブログを運営しているかぎり、逃れる事はできません。「逃れられない」と理解したうえで「どう対応するか」が問題です。

そして私は「盗作疑惑」の「質問者・批判者」になることを、その瞬間に決断しました。今回の「斉藤ちさとさんの作品騒動」の「主犯格」誕生の瞬間です。「主犯格である中野輝也」の「説明責任の一環」として、「犯行の動機」をすべて白状しておきます。


「長文による論理展開」をするタイプの「盗作疑惑に対する質問者・批判者」になれば、「感情的な短文の批判者」を排除しやすいだろう、と計画していました。「盗作疑惑」の主な批判者が「感情的な短文批判」をくりかえせば、「俺にも“かんたんに”真似できそうだから、俺も批判に参加するぞ」という「“批判の模倣者”であるがゆえに安易な批判者」たちの群れを呼び寄せることになります。私は「主犯格」としてできるだけ、「盗作疑惑」に「安易な批判者」が参加しないように、気をつけていました。


実際問題として、早急な結論を出そうとする人もいたのです。「早急な結論を出そうとする人」を放置しておくと、あっというまに「“批判の模倣者”であるがゆえに安易な批判者」たちの群れを呼び寄せることになります。




驚きました。
明らかにパクリですね。ヒコさんも知らなかったことでしょうから作家ご自身のコメントをうかがいたいと思います。
by 通りすがりです (2009-10-31 02:59)


「明らかにパクリ」というのは単純かつ早急な結論です。盗作、パクリ、模倣、オマージュ、これらすべてニュアンスが異なりますが、どの言葉が最適なのか、どの言葉もあてはまらないのか、厳密に調査していません。

時期的にどちらが早かったのか厳密に調査していません。

偶然に一致した可能性を、厳密に調査していません。

「芸銃的に格上の作品は、たとえ後発でも模倣と呼ばれる事は少ない。あるいは、模倣である事が、評価の減少につながりにくい」。そういう芸術界の習慣が一部にあるので、まず芸術的な格の違いを調べる必要があります。まだ厳密に調査していません。

これら「水の泡の写真」は意外と、他の写真家もやっている可能性があります。一般化した方法であれば、誰が使用しても「パクリ」と呼ばれる事はありません。「水の泡の写真」の一般性・特殊性について、まだ厳密に調査していません。

調査をするまえに、早急な結論を出すのはどうかと思います。
by 中野輝也 (2009-10-31 04:10)


同じ「“盗作疑惑”に対する批判者」でも、「中野輝也」のように「長文による論理展開」をしている人間のほうが、「コメント欄の“平和”」という観点から考えて、ずっとマシな存在でしょう。「炎上防止」における「長文」の効果は、これまでに私が実践してきて、「ある程度の手ごたえ」を感じているのです。



“確かに中野さんの行為に意義があると思います。
しかし、本当に必要なのでしょうか?”


「長文による論理展開」は「炎上防止」に効果的であり、現在このブログは「平常時」ではないのだから、このブログを「読み続けたい」と願う私の「欲望」にとって「必要」な処置です。


“それに、この場で批判はやってはいけないと思います。それは他人の家にあがって、やれ廊下が汚い、物が片付いていないだとか文句を言うことです。そういった人は彦坂氏の希有な寛容力によって非常識なことができていることを察するべきです”


彦坂尚嘉さんの「寛容さ」にはいくら感謝しても、言葉が足りません。しかしながら、感謝しつつも、私の責任による「炎上防止活動」の一環としての

『純粋な擁護』
『論点を整理する擁護』
『論点を整理する“体裁”をとりながらも、「意図的」に「建設的な議論」に誘導する擁護』
『中立性を演出するための批判』
『「批判の空白」という「弱点を解消」するための「批判の均衡」の創出』
『「長文コメントが発生しやすい流れ」をつくるための「長文による“擁護・批判”」』

をただいま展開しています。私より「上手な擁護者」が現れた時には、消えますし、あるいは彦坂尚嘉さんが私のコメントを削除した時も、おとなしく退散します。それまで、しばらくお待ちください。

motokiさんの疑問は十分に解消されてないでしょうから、引き続き「質問・批判」をお待ちしています。できるかぎり「返答・調査」させてもらいます。
by 中野輝也 (2009-11-03 15:42) 

ヒコ

みち (2009-11-01 15:57) 様
コメント、ありがとうございます。私のブログを読んでいただいていて、感謝します。ご指摘のように、文章の書き方の方法自体が、普通のなめらかな書き方とは違うのです。ラカン的に言うと、シニフィア連鎖の精神の運動で書いているので、ある種の散文詩なのですね。
普通の人が書いているものの多くは、シニフィエ連鎖で書いているし、シニフィエ連鎖で考えています。
昔から、批判は強く受けています。例えば柏原えつとむさんからは、彦坂の文章は、飛躍が多すぎて読めないという様な趣旨の批判を受けています。柏原えつとむ氏の文章は大変にうまいもので、講談社の児童文学の大賞をとっていて、児童文学者としても仕事をされている方です。
批判は受けて、それを承知で書いていますので、自分の文章が破天荒で、社会的な問題がある事は知ってはいますが、社会的な常識をなぞっている様な文章に、魅力を感じないのも確かなのです。
今回の「名誉毀損事件」で、ブログを読んで下さっている方々の踏み込んだご意見や感想をいただけて、感謝しています。みちさんの感想は、とりわけ、ありがたく思いました。感謝します。
by ヒコ (2009-11-06 14:13) 

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