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誤読される危険の中で [詩]

文章というものは、
読者に向って書くのですが、
その読者というのは、誰なのでしょうか?

まず、最初の読者は、自分自身です。

さらにその向こうに、誰がいるのでしょうか?

日本の現在の現代アート界とか、
そういう限られた読者に向って書くのでしょうか?

そこでは、私から見ると、迷信の中での議論にしか見えない、
つまらない文字が氾濫しているように、
私には見えます。

この私の判断が、正しいかどうかは、
実は自分の事ですから分かりませんが、
私自身は、その外に向って書いてます。

それはしかし、具体的な読者ではありません。

私はミクシーに南泰裕さんに誘われて入りましたが、
すぐに書くのを止めました。
読者の顔が見えるからです。

私は、見える読者に向っては書いていません。

すでに書いたように、最初の読者は自分自身です。
この読者の向こうに、勝手にですが、
普遍的な読者を想定して、
それに向って書いています。

それはブバーの「我と汝」という有名な哲学書がありますが、
この影響の中で、書かれている事を意味します。

つまり普遍的な読者というのは、
ブバーの言う《永遠の他者》というものです。

この《永遠の他者》に向って書いていて、
実際にこのブログを読んで下さっている具体的な一人一人を
想定していないのです。

ですから、誤読される危険性は常にあります。

しかしコミュニケーションというのは、
この誤読の中にあるのです。

誤読といのは、大切なのです。
ジャック・ラカンの残した言葉が、極めて難解で、
インチキにも見えるのは、言葉というのは、
実は無意識であり、誤読において成立するからです。
読者は、一人一人の責任で読んでいるのであって、
その誤読性の中で意味が生じるのです。

ですので、くださるコメントが、誤読による怒りや、
悪意である場合、問答無用で削除します。
なぜなら、それは議論が不可能ですし、
説明しても無意味だからです。
私の書いているのは《想像界》《象徴界》《現実界》の3界の中で、
書いていて、
誤読して怒る読者の方は、《想像界》だけの人格の方々だからです。
《想像界》だけの方々は、
奇妙な誤読の中に生きています。
私がいくら努力しても、どうしようもないのです。

だから、問答は無用なのです。
削除します。

誤読の危険性こそが、
しかし、人間の関係の本質なのです。

この危険性の中で《永遠の他者》に向って書き続ける事。

それが私の仕事なのです。

では《永遠の他者》とは誰なのか?

このブログを読んで下さったあなたの向こう側にいる方が、
《永遠の他者》です。

そう、具体的なあなたを、透視して見える向こう側の他者です。

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