《想像界》について [生きる方法]
イメージトレーニングとはスポーツのトレーニング法の一種です。
実際に体を動かすことをしないで、動いている自分を思い描くことによって、
これが私の経験でも有効なのです。
私のやったことがあるのは自転車です。元オリンピック選手の自転車乗りの先生に、個人教授を受けた事があるのですが、その時に、ペダルをこぐ事のイメージトレーニングを受けました。
脳科学的にも、一部の運動野は、実際に運動するよりもイメージのほうがよく働くというデータがあるそうです。
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人間の脳の中で、想像するときは、右脳を使うという、いわゆる右脳理論があります。
右脳が、イメージ脳と言われ、《想像界》の精神を司っているというのですが、脳科学的には、明確な事実は分からない様です。脳は極めて複雑なので、そう簡単な答えは出ないのです。
俗論のイメージ脳(右脳)説では、現実と想像を区別しないという特性があると言います。つまり《想像界》では、現実と空想の区別がつかないのです。この空想領域が肉体をコントロールしているのは、妙なもののようですが、しかし私たちは、脳で情報を判断して、つまり間接的に外界と接しているので、感覚自体が、こうした間接性にいるのです。
熱いと思ったら、実際に熱くなくても、あたかも熱いと思うのが、右脳の特性であると言われるのです。
一種の思い込みですが、肉体や身体と言われる領域は、この《想像界》の思い込みで動いています。
もうひとつ右脳は、時間を区別できないといわれます。未来上のことを想像しても、右脳は未来として認識できないというのです。つまり《想像界》には、時間がないのです。私も時間を忘れるというのは、よくありますが、これは《想像界》の中にいるからでしょう。
右脳では、繰り返し聞いたことは、嘘でも真実となる傾向があるとされています。《想像界》だけの人は、嘘の中でも真実と思ってい生きているのです。 小さいころより、何度も何度も教え込まれた事は、事実を確認しないままに、それが正しいと大人になっても思いつつけることになります。
小説を読んだり、映画を見たり、ゲームをして没頭していると、空想の世界に入り込み、時間も忘れあたかもファンタージーの住民になったような錯覚するのは、右脳の機能なのであると言われます。
右脳を使う時は、は、大きいものを把握してから、次に小さいものを見るようにすると、より正確に認識しやすい傾向があるとされます。《想像界》の特性とも、このことも言えるように思います。
イメージトレーニングで、スポーツやピアノの指を早く動かす訓練や、仕事の段取りを考えるとき、旅行を行くときに、全体をイメージしてから、細部のイメージを作って行くと、効率よく、体が動くようになるのです。
私たちは、《想像界》というのを、まるで精神の世界のように思ってしまっていますが、そうではなくて肉体のコントロール領域なのだという話ですが、そう考えると、少しは生きやすくなるように思います。人生は夢幻であるというのは、実際に肉体を使って生きている大半は、《想像界》の中で生きているという、原始的なものが、生身の人生だからです。
何かを信じるのか?/糸崎公朗論として(加筆1改稿2校正1) [生きる方法]
『「神なき時代」の現代において「技術の進歩」こそが「神」であるわけです』という糸崎公朗さんの言い方は、
ぼくは、人間にとっては「全てが宗教である」と捉えており、だからこそ自分が信じるべき「宗教」を、なるべく自分で選ぶようにしています。
これは、以前このブログのコメント欄で「全てはゲームである」と言ったのと同じ事です。
「技術の進歩」とか「携帯電話は便利」と言った言説は、「宗教」であり「ゲーム」であって、ぼくはそれに参加することにとりあえず懐疑的な態度を取ります。
もちろん、ぼくも人間ですから、あらゆる「宗教」や「ゲーム」から逃れることはできず、だから自分にとって相応しいものを自らセレクトするのです。
ぼくが携帯電話を持たないのは、言ってみれば中島義道さんに宗教的に師事しているのです。
ただ、真に宗教的な師の教えは非常に難解で、不出来な在家信者のぼくにはなかなか理解できず、それで試行錯誤しているのです。しかしその反対に、大衆を扇動する宗教の教えは明快で分かりやすく、だから「大きな力」となり「暴力的」になるのだと思います。
つまり《象徴界》が出現するには、書き文字の発明が必要であったのであって、書き文字が出現することで、人間は記録を作り出すほかに、法律を作り出します。
つまり彦坂尚嘉の私見では、《象徴界》の言語として神が出現するのであって、彦坂的にはそれ以外は、擬似的な偽の宗教性として排除するのです。ですから聖書や、仏典、そして老子や荘子、孔子などの諸子百家、コーランなどの聖典を読む事が、基本であるのです。
相対化と現実/善悪について(加筆1) [生きる方法]
物事の善し悪しを判断するのは、
難しいし、人によって価値観がちがうので、
今日では特に難しいことです。
たとえば昨日書いた携帯電話を持つかどうかにしても、
持たない人を擁護することはできるし、
同時に携帯電話を持たない人を嫌うこともできるのです。
つまりどちらでも良いように見えて、相対化しているのです。
ただ、相対化していても、大きな流れの中で見ると、かならずしも、どちらでも良いとは言えないところもあります。例えば、ワープロが出て来た時に、私はワープロに飛びつきましたが、手書きにこだわって一言をいう友人がいました。ところが時代は進んで、メールの時代になると、キーボードを使わないで来た事のしわ寄せがきたのです。あの時の一言は、時代の中で、踏みつぶされるのです。時代の流れは暴力なのです。適者生存という原則はあって、環境の変化に適応して行かないと、生きて行く事はむずかしく、淘汰されるのです。淘汰という現実の前では、必ずしも相対性は維持できないのです。
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善と悪という2元論が気になって、調べたことがあります。
私自信が、実はこの二元論自体が嫌で、アレルギーを起こしていたことがあるからです。それは自分の作品の制作の基本にかかわるところがあって、画面を2つに分割して終わって良いのか、それとももう一つ分割して、3分割で良しとするのかという問題にかかわっていました。そんな事とどちらでも良いではないかと思われるでしょうが、しかし普通の人にはどうでも良い事でも、美術の専門家としては、かなり気になることです。
たとえば遠近画法でも、西洋遠近画法は2分割によって、まず地平線を決めることから始めます。つまり最初の画面分割が重要な意味を持ちます。それに対して東洋遠近画法である三遠法においては、その名前のとおり3分割が重要な構造を持つのです。
この理由は、西洋遠近画法においては、レンズを使った単眼構造で設定されているからです。レンズを基準にするので、俯瞰ということが禁止されて画法が成立しているのです。しかし実際の絵画作品では、そのような単純さは実はないのですが。
それにたいして東洋遠近画法は、透視面に対する人間の目の動きを基準に組み立てられているので、俯瞰法生きていて、その結果として水平の視覚、仰角の視覚、さらに俯瞰視覚の3つが組み合わさるという肉眼の目の動きが絵画構造をつくります。
先ほど書いたように西洋絵画えも、実際には3視覚を意識して画面に取り入れているものはモナリザはもちろん、マネの絵画にも見られて、西洋絵画の、実は基本構造としてあるのですが、その事を日本の西洋美術史の解説では、比較的無視して書いているものが多いのです。
さて、こうした絵画の画面の組み立てに深くかかわる二元論と、三元論の問題です。三元論が、キリスト教の三位一体の教義にあって、実は物事の重要な認識枠なのです。
私の場合、三元論には感覚的に肯定的で、相性が良かったのです。
さて、今書きたいのは、アレルギーを起こしていた二元論の問題です。
つまり善と悪という二元論の根拠はなんなのか?
椹木野衣的に言えば、根拠は無いということになります。
今日の日本社会の中で、他人の意見を聞いて見て、その空気の中で判断をして行く限り、人それぞれで良いのであって、どうという事は無いのです。今の女性はタバコを吸う人が多いですが、それも各自の責任でどうでも良い事ということになります。しかしタバコの害は明らかになっているのですから、タバコを吸う女性は、いろいろな理由があるにしても、理性的ではないのです。その内に肺癌にでもなって、死ぬだけかもしれません。もっとも人間は理性的では、かならずしも無いので、女性がタバコを吸うのは相対的に自由ではあります。だからといって、愚かである事に変わりはないのです。毒は毒です。
つまり、思考の原型というのは、実は相対的ではなくて、歴史の中で反省をしてみると、それなりの根拠の上に形成されているのです。ただ人類の歴史が長くなり過ぎているので、初心を忘れてしまって、根拠が忘却の彼方に消えているのです。歴史を遡ってみて見ると、きちんとした根拠はあるのです。
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善悪の二元論の成立を、
キリスト教の神学の中で追いかけると、
カソリックの祖といわれるアウグスティヌスにぶち当たります。
神学というのは、前近代においては哲学であり、認識なので、馬鹿にできるものではないシリアスな人間の思考が見られるのです。
面白いのはアウグスティヌスは、もともとはマニ教徒だったことです。
そしてマニ教というのはゾロアスター教から出てきたのです。
そして二元論の源流のひとつがゾロアスター教なのです。
ゾロアスター教は、人類史の中での農業革命に深くかかわっていて、
原始的な自然採取の野蛮世界を悪としてとらえ、農業革命を経て確立された文明世界を善として、2元論を組み立てていたのです。
ゾロアスター教というのは、日本語では拝火教で、何か野蛮ないかがわしい呪術のように思われますが、世界の中でも非常に古いの宗教で、旧約聖書に大きな影響を与えた先行宗教で、人類の精神史にとって重要なものなのです。
文明を善とする闘いの歴史を述べるゾロアスター教の中で、善悪の二元論を理解すると、私は二元論に潜在している理不尽さが納得のいくものになったのです。
つまりゾロアスター教的に文明を善として見る見方からすると、岡本太郎やデビュッフェのように野蛮主義を主張する事は、悪なのです。今日の文明の中には、「文明の中の野蛮」がはびこっているので、野蛮こそが善であって、熱狂をもって迎えられるのですが、しかし、それは「文明の中の野蛮」という現象であって、クーラーや暖房のある部屋の中にいる野蛮人に過ぎないのです。本当の野蛮状態というものとの差を見損なうと、間違いになります。
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今日進んでいるリテラシー(識字)革命も、このゾロアスター教の起源にさかのぼって考えると、良くわかります。識字革命というのは暴力であって、文字通り革命なのです。それゆえに理不尽なのであって、暴力というものの単純さがあります。
携帯電話をもつというのは、暴力としてのコンピューター・リテラシーに屈して、この情報革命に適応する道を選ぶことなのです。
それに対して、携帯電話を持たない人は、心の根底において現在の情報革命に抵抗して、古いものに回帰することに快感を覚えるタイプのレトロ主義的な人々です。
実際に情報革命というのは暴力ですから、実は良いも悪いもないのであって、問答無用に暴力が作動しているのです。その場合、ゾロアスター教の考え方をとれば、古いレトロの世界が悪であって、新らしい情報化社会が善なのです。この暴力的な二元論の単純さが重要なのです。ここで線引きされるのです。
私が言っているのは、あくまでも現在の情報革命が、暴力であるといっているのであり、人類史の中での新しい意識革命であって、この展開は良くも悪くも凄いことだと、考えているということです。
この単純な認識を持たないで、価値の多様性だけを言って論議することには、私は迷路すぎて興味が持てません。ジラールがいうように暴力というものの単純さが、文明の根底にあるのであって、根本にあるのは問答無用性なのです。それが良いと言っているのではないのです。事実であると言っているだけなのです。
携帯電話をも持たないのは各自の自由ですが、その選択の根底には、ゾロアスター教的な二元論の善悪の価値観があるのです。つまりレトロを良しとするのか、悪とするのか、の区分です。ゾロアスター教的に言えば、レトロは悪なのです。
悪に魅力はありますが、しかし悪は、かならず、行き詰まるのです。悪が際限なく栄える事はありません。
携帯電話の問題とアーミッシュ的人々(最後に加筆) [生きる方法]
携帯電話を持たない自由と言うのはあるのです。
同じように自動車を持たないとか、
コンピューターを使わないとかいう態度の自由はあります。
その代表的な人々は、アーミッシュです。
アーミッシュは電気を使用しません。
商用電源は使用せず、わずかに風車、水車によって蓄電池に充電した電気を利用する程度であるといわれます。
アーミッシュの日常生活では、きわめて古い自給自足時代の技術しか使わないのです。
原則として、《近代》の技術による機器を生活に導入することを拒んでいる人々です。
近代以前と同様の生活様式を基本にして、自給自足の生活を営んでいます。
アーミッシュは、自動車は運転しないのです。日本にもアーミッシュのように自動車を運転しない人はたくさんいます。こうした日本人も、ある意味では部分的にはアーミッシュ的な面を持っていると言えると言えるかのしれません。
アーミッシュは、《近代》の一般的な通信機器である電話等々も家庭内にはいれません。
アーミッシュは、アメリカ合衆国・ペンシルベニア州などに居住するドイツ系アメリカ人です。カナダにもいるそうです。原郷はスイスなどで、人口は20万人以上いるとされています。むかし(1985年)に 『刑事ジョン・ブック 目撃者』という映画があって、アーミッシュが描かれました。
私自身は、自給自足を基本とした生活というのは、
重要だと思っています。
ですからアーミッシュの存在自体は好きであります。
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今日の日本にも、実はたくさんのアーミッシュ的な
人々がいて、
携帯電話の使用も拒否しています。
私も回りにもいます。
それはそれで良いのだろうと、私も思います。
ただ、実感として、そういう人々と接すると古さを感じます。
それと話が合わないのです。
今の情報化社会の新しい表現の問題を、
携帯も持たない新アーミッシュ的人々と話しでも、
話が通じないのです。
話が通じなければ、当然のように人間関係は疎遠になって行きます。
それもまた致し方のない事です。
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アーミッシュというのは、キリスト教の新教であるルター派などから分かれて、スイスのチューリッヒで生まれた一派であります。そして、ドイツに移住した人々です。古い固体的なキリスト教共同体に忠実である厳格な規則のある宗派で、創始者はメノ・シモンズです。
メノ・シモンズは、15世紀から16世紀の人で、この人自身は《近代》の産業革命を体験していません。ですから《近代》に対する反動の宗教者ではないのです。彼の思想は、福音的人道主義者と言われるものであって、バプテスト派の重要な人物であります。
バプテスト派というのは、キリスト教プロテスタント教派のひとつで、イギリスの分離派思想から派生します。17世紀のイギリスから生まれて、現在のアメリカ合衆国の最大の宗派なのです。このアメリカ合衆国のバプテスト派は南部を拠点に、最大の保守派勢力を形成しています。
つまりアーミッシュの源流であるプロテスタント・バプテスト派は、実は産業革命の基底を形成していた保守派の最大勢力であって、その中からヤコブ・アマンという宗教者が、ほかのグループから離れて暮らすいっそう保守的な派を作ったのです。それがアーミッシュです。ヤコブ・アマンというアマンという名前から、この派の人たちのことをアーミッシュというのです。つまり多くの人々から離れて暮らす事を好む人々というのは、アーミッシュ的であって、それは日本にもたくさんいるのであります。
つまりアメリカ南部の最大の保守勢力の極端な人々がアーミッシュであって、アーミッシュだけで切り離してアーミッシュを見る事は間違いであって、その裏に、アメリカのプロテスタント保守派の大勢力バプテストが存在しているのです。
基本としては、この新アーミッシュ的な人々を私は肯定的に見たいと思いますが、しかし距離を取りたく思います。一緒に仕事はしたくないのです。仕事はやりにくいのです。何よりも、その古さは、近くで付き合うには堪え難い所があります。ですから、一緒に仕事を決してしない限りにおいては、距離を持って、遠くから肯定的に眺めていたいと思います。
視野が狭いということ [生きる方法]
あらゆる人間の欠点は、視野が狭いことです。
同時に1人の人間の強みもまた、この視野の狭さです。
視野が狭いから、人間には魅力があるのです。
しかし、自分が視野が狭いと言う事は、
実は気がついていない場合が多いのです。
他人の目には、明らかに見えるのに、本人には自分の狭さが分からないのです。
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素人には、色の好みがあるという事です。
色彩を学ぶと、好きな色とか、嫌いな色とかは、
なくなります。
食べ物の好き嫌いが有る人と言うのは、
実は感性が狭いのです。
広くなると、マズいものでも、美味しいものでも、
そう言うものとして食べて、好き嫌いがなくなります。
つまり、自分の好みをはっきり持っている人は、
視野の狭い人です。
素人なのです。
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あるデザイナーが、すごくこだわって作品をつくるのですが、
私から見ると《第6次元》の《6流》作品でしかなくて、
凡庸です。
しかしその人には、すぐれて感性の良いものとして、
お洒落で、凄いものと信じられているのです。
《6流》のデザインを、洗練された世界と信じている人は、
結構な人数がいます。
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お金の問題が良く分からないと言う人、
あるいはお金を稼ぐのが巧く無い人と言うのは、
その人の人格の《象徴界》の中で、《第7次元》領域が欠けているのです。
意識ですから、意識して《第7次元》を獲得しようとすると出来ます。
そう言う意味で、意識を《第7次元》に広げる事は、
簡単で、お金ももうかるようになります。
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視野を広くする事というのは、
意識を広げる事ですが、
意識の広い人は、
聴く音楽の幅が広いです。
民族音楽、演歌、ポップスから、
ゲーム音楽、
ブルース、ロック、
クラシックから、現代音楽と、
公汎に聴いて楽しむ事ができます。
音楽の好みと言うのは、
その人の意識の広さや、傾向を示すのです。
自分の音楽の趣味が狭い人は、
意識が狭いと言う事を自覚できることになります。
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情報化社会というのは、
実は、意識の広さを必要とする時代であります。
意識が広く無いと、
多くの情報を理解し、適切に処理できないからです。
それはまた、自分自身の内面の様々な葛藤を、
適切に解決して行く事も、この意識の広さが重要なのです。
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電車の中で観察する限り、
中年から高年のおばさんや、おじさんの精神の《象徴界》は、
《第6次元》《第7次元》《第8次元》の3次元で出来ています。
つまり自然領域、金銭領域、そして信念の領域で生きているのです。
この3次元性を理解しないと、彼らと巧く付き合う事ができません。
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視野そのものは、その人の《象徴界》に現れる様です。
《象徴界》の次元を増やすと、自分の人格を拡大して、
抱えていた問題を、新たに処理できる能力を得る事ができるようになります。
《象徴界》には、《超次元》から《第1次元》、そして《第2次元》から《第41次元》まで、実に42段階があるのです。
人格的に成長して解脱するというのは、意識を42段階のすべてに広げる事です。
42段階に意識を広げても、人生の問題が消えるわけではありませんが、
しかし《苦》そのものは大幅に軽減して行きます。
処理できる範囲になると、言えます。
シニフィアンからシニフィエへ [生きる方法]
才能の無い私/無能な私(加筆1) [生きる方法]
ぼくは以前より詩に興味がありまして、美術の製作と詩を結合したいと考えています。
理由のないことではなくて、中高時代に俳句の地区公募で入選して賞をもらったことがあり、それも二度あったので偶然でもないなと勝手に思っています。
美術予備校に入る前はロックミュージシャンになろうとしていたのですが、曲も歌詞も作れなかったので挫折しました。
僕が強い影響を受けたのはブランキージェットシティーというバンドの浅井健一という人の歌詞で、とてもかなわないと気付き止めたんだと思います。
この人はまた、椎名林檎に多大な影響を与えた人でもあるのですが、椎名林檎はおそらく彼を超えているんじゃないかと思います。
(ブランキーおよび浅井についてはYouTubeで映像がたくさんあります。)
最近、椎名林檎の新曲の、有りあまる富というのを聴いて、その歌詞の内容に感銘を受けたのでまた詩を書いてみたいと欲求が湧いてきました。
そこで、もう少し詳しく、シニフィアン連鎖ということについて論じていただきたく思っています。。
以前中川さんの封筒の作品を論じられたブログで、シニフィエの連合とシニフィアン連鎖の違いについて書かれていました。
ビールという言葉があって、同じアルコール類で常識的に連想していくのがシニフィエの連合で、ビールのフランス語の意味表現から音の似ているものをつなげていくのが、詩的領域であり、シニフィアンの連鎖ということであったと思います。
また、バシュラールとヴァン・モリソンのシニフィアン併置という記述もありました。この場合の両者のシニフィアンにおけるつながりは両者共にシニフィエがないということなんでしょうか?
つまり「シニフィエの欠如」という文字や音声にした情報によって共通項を見出し、それを併置したというこになりますか?
また関連して質問もありまして、メイプルソープについて、形態の類似から作品を撮るということがあると思いますが、
普通に考えると形の類似を見つけるというのはシニフィエによる連想のように思うのですが、しかし、これはシニフィアン連鎖ではないのでしょうか?ということです。
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Aさんよりのご質問にどのようにお答えするのか?
と言う事自体が、重要な問題なのです。
つまり、私が何かを答えたとしても、それをAさんが理解を出来るのか?
という事自体が、問題なのです。
Aさんの本質的限界を現しているのは、次の部分です。
僕が強い影響を受けたのはブランキージェットシティーというバンドの浅井健一という人の歌詞で、とてもかなわないと気付き止めたんだと思います。
人は実は様々なもので、実はその人にあった知識しか理解できないのです。
つまり人間は平等ではなくて、平等には理解できないのです。
自分より浅井健一がすぐれていると認めながら、
だから「かなわない」と思って作詞する事を止めたという事のうちに、
Aさんの人生のある態度が出ています。
「かなわない」と思う、その自分の無能性との向き合い方の問題です。
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人に何かを教えようとしても出来ない事があります。
書き文字を覚えていない非識字者に、白川 静についていくら教えても、
理解できないのです。
同様に、数学の苦手な子に、アインシュタインの一般相対性原理の数式を
講義しても、理解は出来ないのです。
つまり重要な事は、物事には積み重ねがあって、
ある重要な事柄を理解しないと、先には行けないと言う事です。
先に行かなくても良いのですが、
自分には理解できない事柄が、この世界にはたくさんある事を、
まず、認めなければ、なりません。
この世は、分からない事だらけで、
自分自身は無知無能なのです。
この分からなさと、自分自身の無能力性から逃げないで、
まず、認める勇気が無いと、何事も始まらないのです。
Aさんの問題は、自分より浅井健一がすぐれていると認めた時に、
ここで、「かなわない」と思った逃げた事です。
すべての事で、実は自分自身は無知無能であって、
自分よりもすぐれている人はたくさん、無数にいるのです。
この世界の中で、自分自身は一番劣っている存在なのです。
この最低の自分自身を認めて、まず、受け入れないと、
何も始まりません。
しかしAさんは 理由のないことではなくて、中高時代に俳句の地区公募で入選して賞をもらったことがあり、それも二度あったので偶然でもないなと勝手に思っています と書いている成功体験に捕われて、自分に才能があると思っているのです。この成功体験で、Aさんの人生はピークを迎えて、終わっているのです。
この成功体験を完全に否定できないと、
何も始まりません。
これが去勢です。
去勢をして、物事は始まるし、
学習する事が、始まるのです。
それが大人になる事の敷居なのです。
本当に、自分自身の無知無能性を認められる人と言うのは、
実は少数者なのです。
10人中8人くらいの人は、この辛い事実を認めない事で、
小さな成功の記憶にしがみついて、
永遠の子供の世界を生きて死ぬのです。
つまり人格的に成長できないで、
子供のままに停滞して、死ぬのです。
子供と言うのは、実は自分には能力があって、
本当は、何でも出来るという、神のような万能感を持っているのです。
子供の頃に、大人から ほめられた、ささいな成功体験を記憶し続けて、
この万能感を心の奥底に隠して、これに向って精神を集中する事が、
生きる事の最も重要なテーマになって、
そして何もやらずに死ぬというのが、
多くの凡庸なアーティストの生き方です。
神の様な全知全能の万能感と、無知無能性と、
そしてナルシズムに包まれた統合体としての自我・・・私自身を、
抱いて、死んで行く人々は、
しかし、安全な人々でもあり、
また危険な人々でもあるのですが、
この全知全能/無知無能の未分離性こそが、
《第8次元》性を形成して、人間社会の中心の大きな幹となっているのです。
ですから、この《第8次元》の世界の外に先ず、出る事が、成長のためには
重要なのです。
しかし、多くの人は成長をしたいとは、思っていないのです。
自分自身の人格を成長させたいとは思っていない事を、
まず、素直に、認めないと、困るのです。
そして、成長したく無ければ、そのままに、
つまり、ささやかに ほめられた時に喜びを抱いて、
ありのままに生きて死ねば良いのです。
人生とは、そうしたものなのです。
そういう身の丈の生き方をしたい場合には、
シニフィアン連鎖は、理解は出来ないのです。
メイプルソープについて、形態の類似から作品を撮るということがあると思いますが、
普通に考えると形の類似を見つけるというのはシニフィエによる連想のように思うのですが、しかし、これはシニフィアン連鎖ではないのでしょうか?ということです。
上記のメープルソープの類似性の併置と言う手法も、そもそもそれは表現の実体化を解体して行く手法であるのです。人間の外部を知覚する時に生じる実体化という自然作用を、どのように解体して行くのかということが重要なのですが、その事の意味を教えるのは、真の意味ではむずかしいのです。
なによりもナルシズムに捕われている人に、教える事は出来ないのです。
世の中には、教える事の出来ない事が、いくらもあるのです。
何よりも、一度ほめられて、ナルシズムに捕われている人に、
その人自身の無知無能性と、無意味性を、
教える事が出来ないのです。
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村上龍も、そして村上春樹も同様の事を書いていて、
読んだ覚えがありますが、
自分が無能で、書く事が出来ないと認めて、
初めて文章は書けるようになるのです。
そういう正直さがないと、文章は書けるようになりません。
詩も、美術も同様であって、
作れないと認めないと、作れるようになりません。
そういう意味では、文章を書いたり、
詩をつくること、美術を作る事のコツは、
極めて簡単なことなのです。
誰にでもできる、やさしい事です。
自分自身の無知無能性、無意味性を認めれば、良いだけなのです。
しかし、そのためには、
小さな成功体験を捨てなければなりません。
そんなもの、何の意味もないのです。
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村上隆さんも、アエラのインタビューで答えています。
「俺なんか、空っぽですよ」
この自分の無内容性を認めた時に、
つまり自分には才能が無いという、
そのことを認めた時に、初めて社会的な学習が始まるのです。
そうするとシニフィアン連鎖の意味が分かるようになります。
まつろわぬもの(加筆2) [生きる方法]
サントームとしての情報化社会(改題2加筆2) [生きる方法]
お金を含む人間関係について(再論) [生きる方法]
人間の関係は、基本的には、2つの関係があります。
一つは、お金を介さない関係です。
もう一つはお金を介する関係です。
お金を介さない関係と言うのは、
家族の関係とか、友人の関係です。
お金を介する関係はビジネスの関係です。
この2つが、実は、起源が違うのです。
お金を介さない関係は、初期原始共同体のコスモスに起源があります。
コスモスと言うのは人間の秩序です。
ビジネスの関係は、コスモスとコスモスの間のカオスに起源があります。
ビジネスには、カオスがあるのです。
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ビジネスの関係に、深い意味を見る人たちがいますが、
ビジネスに作動しているのは、カオス空間なのです。
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気体分子ギャラリーの場合、ここにもお金の関係は介在はしますが、
基本にあるのは非営利的な関係です。
営利性そのものは、存在するので、
そのことを無視は出来ませんが、それをむき出しにすると、
関係性は、違うものに変質します。
それはコレクターとの関係や、
批評家との関係、雑誌との関係もそうであって、
美術の関係性そのものが、お金を介しながらも、
微妙に、原始共同体的なコスモスの中で、成立しているのです。
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デザインの業界の方が、ビジネスとしては割り切りが良いと思います。
アートスタディーズなどの仕事や、建築系ラジオなども、
基本はボランティアで成立していて、
その辺を間違えると、関係性が壊れます。
私のブログもそうですが、基本は無償で書いているので、
人間性が壊れると、昔のブログでもダウンして下ろしてしまいます。
作家と作家の関係も、それがカオスであるならば、
礼儀も尊敬もないのであって、
それはつぶし合いの競争関係と言うことになります。
彦坂理論では、自然はカオスであって、
基本的に悪です。
弱肉強食であって、そこには礼儀もなければ、挨拶もない。
無視か殺戮かの世界です。
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若いアーティストの場合、
作家としてどのようにやろうとしているかによるのです。
ビジネスとしてアーティストをやるのならば、
それは画廊の下請けの業者ですから、
その文脈で、つまりカオスの関係で付き合うことになります。
業者は業者同士の競争の中で存在しますので、
そういうビジネスのカオスの関係で、考えて行くと言う事です。
気体分子ギャラリー自体は、
小さなものであって、
作家を契約で拘束するものではありません。
それを必要としなければ出て行けばよいし、
必要とする作家同士が、協力する創造性の面白さの追求なのです。
そこには擬似的ではありますが、コスモスがあるのです。
その辺の擬似的なコスモスの呼吸が分からないのだろうと思います。
そのへんの事も、実は才能なのですよ。
自分が最終的に何をやりたくて、どのようにしたいのかを、
お考えになるのが、良いと思います。
擬似的なコスモスの関係が良いのか、
それともビジネスが持っているカオスの世界が合っているのか、
ということです。
興味深いお話ですが、ぼくはまさに携帯電話を持っておりません。
そしてこれは彦坂さんがアーミッシュを引き合いに出されたように、ぼく自身も「宗教」の問題として捉えてます。
「技術の進歩」が「暴力」だと言うのはもっともなことで、つまり「神なき時代」の現代において「技術の進歩」こそが「神」であるわけです。
「技術の進歩」とは、それを良き事として信奉する「宗教」だからこそ、狂信的で暴力的になるのではないかと思います。
そして、携帯電話を持つ人と持たない人では「宗教」が違うとすれば、「世界認識」や「空間認識」も異なり、一緒に仕事をすることに支障があるだろう事も理解できます。