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《想像界》について [生きる方法]

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少し前に書いた糸崎公朗論の中で明確になっていった事に、
《想像界》の問題があります。

彦坂尚嘉の私見では、
《想像界》というのは人間の自然採取の原始時代の最上部構造の
呪術に対応するものです。
偶像崇拝の精神なのです。

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この《想像界》の原始性というのは、今も生きていて、
たとえば、人間の一生の中では、
子供の精神は、《想像界》の精神の時代です。

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また、社会の中での下層の人々は、
《想像界》の精神で生きています。

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ですからU2や、マドンナや、ボンジョビなどのビックヒットを
支えている音楽の精神は《想像界》のものです。

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それは同時に、一人の人間の中でも、
原始性のある肉体を支配しているものが《想像界》なのです。

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つまり肉体を動かしているのは《想像界》であって、
だからこそイメージ・トレーニングが有効なのです。

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イメージトレーニングとはスポーツトレーニング法の一種です。

実際に体を動かすことをしないで、動いている自分を思い描くことによって、

技術戦術を向上させるというものです。

これが私の経験でも有効なのです。

私のやったことがあるのは自転車です。元オリンピック選手の自転車乗りの先生に、個人教授を受けた事があるのですが、その時に、ペダルをこぐ事のイメージトレーニングを受けました。


脳科学的にも、一部の運動野は、実際に運動するよりもイメージのほうがよく働くというデータがあるそうです。


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人間の脳の中で、想像するときは、右脳を使うという、いわゆる右脳理論があります。

右脳が、イメージ脳と言われ、《想像界》の精神を司っているというのですが、脳科学的には、明確な事実は分からない様です。脳は極めて複雑なので、そう簡単な答えは出ないのです。


俗論のイメージ脳(右脳)説では、現実と想像を区別しないという特性があると言います。つまり《想像界》では、現実と空想の区別がつかないのです。この空想領域が肉体をコントロールしているのは、妙なもののようですが、しかし私たちは、脳で情報を判断して、つまり間接的に外界と接しているので、感覚自体が、こうした間接性にいるのです。

熱いと思ったら、実際に熱くなくても、あたかも熱いと思うのが、右脳の特性であると言われるのです。

一種の思い込みですが、肉体や身体と言われる領域は、この《想像界》の思い込みで動いています。


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もうひとつ右脳は、時間を区別できないといわれます。未来上のことを想像しても、右脳は未来として認識できないというのです。つまり《想像界》には、時間がないのです。私も時間を忘れるというのは、よくありますが、これは《想像界》の中にいるからでしょう。


右脳では、繰り返し聞いたことは、嘘でも真実となる傾向があるとされています。《想像界》だけの人は、嘘の中でも真実と思ってい生きているのです。 小さいころより、何度も何度も教え込まれた事は、事実を確認しないままに、それが正しいと大人になっても思いつつけることになります。


小説を読んだり、映画を見たり、ゲームをして没頭していると、空想の世界に入り込み、時間も忘れあたかもファンタージーの住民になったような錯覚するのは、右脳の機能なのであると言われます。


右脳を使う時は、は、大きいものを把握してから、次に小さいものを見るようにすると、より正確に認識しやすい傾向があるとされます。《想像界》の特性とも、このことも言えるように思います。


イメージトレーニングで、スポーツやピアノの指を早く動かす訓練や、仕事の段取りを考えるとき、旅行を行くときに、全体をイメージしてから、細部のイメージを作って行くと、効率よく、体が動くようになるのです。


私たちは、《想像界》というのを、まるで精神の世界のように思ってしまっていますが、そうではなくて肉体のコントロール領域なのだという話ですが、そう考えると、少しは生きやすくなるように思います。人生は夢幻であるというのは、実際に肉体を使って生きている大半は、《想像界》の中で生きているという、原始的なものが、生身の人生だからです。

 


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何かを信じるのか?/糸崎公朗論として(加筆1改稿2校正1) [生きる方法]

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糸崎公朗氏の顔の《言語判定法》による分析
《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント的な人格
《現実界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の人格》

《想像界》と《現実界》の人格
液体人間
《気晴らし人間》と《シリアス人間》の同時表示
《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。
『真実の人』

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加筆改稿部分は、字を紺色にしてあります。

以下は、糸崎公朗さんからいただいたコメントです。
「宗教」とか、「神」の問題、そして「信仰」の問題を書いて下さって
います。

私自身は、歴史的に《近代》以前の問題として、
こうした「神」や「宗教」を語るのは良いですが、
あくまでもレイヤーをかけて、考えます。
つまり神や宗教を生に、現在の問題としては、一応語らないという立場です。

つまり《近代》においては、
「神」という名前は出さないというルールがあったという風に、理解します。
神と言う言葉を使うと、話を誤解する人が多くいるのです。

こういう言い方も正確ではありませんが、
正確に言おうとすると、人間の精神は階層があるのであって、
《近代》においては、分かりやすく言えば《物理科学》が最上部構造をつくっていたのであって、
そこでは「神」という名前は出さないと言うことになっていたのです。

そのことは《近代》においいては宗教者がいなかったと言って居るわけではなくて、
《近代》における宗教領域は、社会の最上部構造ではなかったということであって、
その下層の次元としては、宗教はあったのだということです。

言い換えると、それまでの宗教の支配していた階層の上に、
もう一層、別の次元をつくって、
そこを社会と歴史を動かす最上部構造にしたのです。
ですから、伝統的な教会は、バチカンのローマ法王も含めて、
そのまま存続しつつ、相対的に低い位置になったのです。


下層の次元の問題としての近代宗教の問題は、
天理教や大本教、
そして今の創価学会や、幸福の科学、オウム真理教など、
それらが無視できない社会問題や、人間の真理や精神の問題としてあるのは、事実です。

が、しかし、これら近代の新興宗教と、
かつての《近代》以前の世界宗教は違うのであって、
私が興味があるのは、
むしろ初期の文明の初めにあった初期の世界宗教なのです。

つまり自分の人格と言うか、個体の中には、初期文明に対応する古い階層があって、
その古い人格層の中では、世界宗教は生きていると考えます。

ラカンの用語を借りて言えば《象徴界》の領域がそうであって、
これは《近代》では、実は物理科学が作り出した《現実界》に対して、
下の階層性を持っている精神領域となります。

つまりラカンは言っていませんが、
彦坂尚嘉的には、《近代》においては、個人の人格も階層化されていて、
最上部構造が物理科学主義の精神界が生み出した《現実界》であって、
その下に前近代の《象徴界》の精神があって、
さらに下に原始時代の《想像界》の精神が抑圧されてあった。

この彦坂尚嘉が「絶対零度」と言っている原始領域は、
私の肉体の中にはあって、それは人格としても精神としても残って、
最深部の層をつくっていて、そこでは呪術の《想像界》世界は生きていたのです。

つまりこれらの各階層の上にはレイヤーがかかっているのです。
つまり人格は、人類的に生成されてきて、多重構造をしているのです。

そして現在の情報革命によって、人間精神は、
更なる上部構造を作り出していて、
4階層目が増築されたのです。
この4階層目の次元を増築している人々と、
それを拒否している人々がいるのです。
この第4層目の精神領域が、ラカンの晩年の思想である《サントーム》です。



さて、糸崎公朗さんの議論を読んでいただいてから、話を進めたいと思います。

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興味深いお話ですが、ぼくはまさに携帯電話を持っておりません。

そしてこれは彦坂さんがアーミッシュを引き合いに出されたように、ぼく自身も「宗教」の問題として捉えてます。
「技術の進歩」が「暴力」だと言うのはもっともなことで、つまり「神なき時代」の現代において「技術の進歩」こそが「神」であるわけです。
「技術の進歩」とは、それを良き事として信奉する「宗教」だからこそ、狂信的で暴力的になるのではないかと思います。
そして、携帯電話を持つ人と持たない人では「宗教」が違うとすれば、「世界認識」や「空間認識」も異なり、一緒に仕事をすることに支障があるだろう事も理解できます。

 

『「技術の進歩」が「暴力」だと言うのはもっともなことで 』というのは、糸崎公朗さんの誤読でありまして、私が言っているのは識字(リテラシー)というのが、暴力だと言っているのです。

つまり字を覚えるという事自体が、暴力であって、覚えない人々を差別し、淘汰して行くのです。

『「神なき時代」の現代において「技術の進歩」こそが「神」であるわけです』という糸崎公朗さんの言い方は、
もちろん私に理解は出来ますが、
こういうレトリックの水準としての「神」という言い方の次元で、「神」を問題にするのは、通俗的であると考えます。

ぼくは、人間にとっては「全てが宗教である」と捉えており、だからこそ自分が信じるべき「宗教」を、なるべく自分で選ぶようにしています。
これは、以前このブログのコメント欄で「全てはゲームである」と言ったのと同じ事です。

 

「全てが宗教である」という言い方は、レトリックとしては成立します。
しかし「全てが宗教である」、あるいは「全てがゲームである」という言い方は、なんでも言えるのです。

「全てが芸術である」とか、「全ては金である」とも言います。

私は、こういう単純化に還元する思考には興味がありません。低俗な理論であると思うのです。

出来るだけ厳密に考えたいし、全人類史の中で、文節化して考えたいのです。

つまり、少なくとも「宗教であるものと、宗教ではないものがある」と言いたいのです。
こういう言い方の方が、正確で、高級であると考えます。

「全てがゲームであるのではなくて、ゲームにすぎないものと、まったくゲームではないものがある」と考えるのです。

「芸術と、芸術ではないものがある」のであり、「金の問題である事と、金では解決できないものがある」という風に、2分割して考えたいのです。

糸崎公朗さんの様に、1に還元するやり方は、《近代》特有の還元主義のやり方で、古い手法であって、古い手法の、さらなる通俗化にすぎません。

この古い手法そのものを、2の方法で、否定したいと思うのです。

このことに現れているように、糸崎公朗さんの思想や方法は、基本的に古い《近代》の内側にいます。

そして、全てが宗教であるのは、すでに述べたように前近代の時代なのであって、
一人の人間の精神領域においては《象徴界》の領域が宗教領域であるといえます。
この次元だけで言えば、全てが宗教になるのです。


「技術の進歩」とか「携帯電話は便利」と言った言説は、「宗教」であり「ゲーム」であって、ぼくはそれに参加することにとりあえず懐疑的な態度を取ります。

 

現在、世界の構造として、完成して来ている情報革命の次元は、
「宗教」や「ゲーム」といったものではなくて、
人類の第4番目の新しいステージであります。

これを認識できない人は、基本的には不適応者であって、淘汰されて行きます。

実は日本社会の80%の人々は、この革命を理解しないので、新しいリテラリーの元では文盲の扱いを受けて、日本という社会が野蛮な後進国化してきていて、一挙に淘汰され沈没して行くのです。

日本のGDPは急速に悪化し、日本社会は、経済においても、人口においても縮小して行って、アジアの中の野蛮人の後進国になるのでしょう。

そうした日本衰退の選択をしている日本の多数の野蛮人の1人が、糸崎公朗さんであると、私には見えます。

だから糸崎公朗さんは、古びて、滅びて行く野蛮なものに深い愛情を注ぎ込んであられる。

ある種の廃墟アーティストでおられるのです。それは未来の後進国日本の野蛮/衰退の世界を先取りなさっている芸術です。

この情報革命によって切り開かれた情報文明の階層である第4階層には、
宗教もなければ、ゲームも無いのです。
ここは複雑系の領域であって、動いている原理が違うのです。
ここにおいては「何かを信じるということ」は、無いのです。
刻々と予想を超える展開で動く複雑系の世界では、少なくとも中期予報は成立できないので、常に予想できない状況を前提に生きて行かなければ也ません。つまり信じられるものは、この第4階層においては、存在しないのです。

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糸崎公朗のフォトモの芸術分析

《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》

《想像界》の表現であって、《象徴界》《現実界》が欠損している。
液体表現であって、絶対零度、固体、気体の様態を持っていない。

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術
《原始立体》『ペンキ絵』【B級美術】

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もちろん、ぼくも人間ですから、あらゆる「宗教」や「ゲーム」から逃れることはできず、だから自分にとって相応しいものを自らセレクトするのです。

 

糸崎公朗さんはセレクトできているつもりですが、人間はもともと極度の受動性の中で生きているのです。自分では両親は選べませんし、生まれる国も、自分ではセレクトできません。生まれる時代もまた、セレクトできないのです。

つまり人間には、自分の意思で選択できる重要な項目は、実は無いのです。人間の基本は、このような受動性であって、自分の運命を愛すると言う《運命愛》においてしか作動できない機械なのです。
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ぼくが携帯電話を持たないのは、言ってみれば中島義道さんに宗教的に師事しているのです。
欲望もまた、自分の欲望であるように見えながら、他人の欲望のコピーでしかないという事を、ジラールや、ラカンは指摘します。

実際に糸崎公朗さんの「非人称芸術」という主張は、グループ位の1960年大後半の同名の展覧会と主張のコピーにすぎません。

さらにご本人も明確にしているように赤瀬川源平の「トマソン」の模倣としての活動です。

ホトモにしても、このような立体絵は、伝統的に存在するものであって、模倣の連鎖でしかありません。

さらに中島義道さんの人生論を模倣なさっておられる。
彦坂尚嘉の私見からすると、中島義道氏の精神は、《現実界》のものであって、聖書や仏典と比較する視点で言うと、真性の宗教ではありません。こういうものに引きつけられることは、カント学者としての意味を除いては、私にはありません。ですから糸崎公朗さんが中島氏を評価している事は知っていますが、私の場合には、カントに関する著作以外の中島義道氏の著作には、興味が無いのです。ご本人も言っていますが「狂人3歩手前」の思想なのです。その特徴は、《現実界》の精神だけで、全てを見て了解し対処しようとする、単精神主義の異様な明快な世界です。哲学者には、この様な単精神の人が何人もいるので、中島氏が人格欠損者というわけではなくて、哲学という領域が人間の精神のトータリティを欠く所で活動している欠損領域の特権性で成立しているのです。

基本として糸崎公朗さんの精神活動は、人間の模倣衝動の運動の中での作動であって、模倣機械としての人間の生理を強く示しています。
つまり糸崎公朗さんによっては、何もセレクトはされていないのです。
模倣そのものの衝動すらが、糸崎公朗さんには自覚がないように見えます。

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糸崎公朗の昆虫写真の芸術分析

《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》

《想像界》の表現であって、《象徴界》《現実界》が欠損している。
液体表現であって、絶対零度、固体、気体の様態を持っていない。

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術
《原始写真》『ペンキ絵的写真』【B級美術】



糸崎公朗さんが好きな昆虫のように、人間は昆虫であって、そして昆虫が生物機械であるように、人間は模倣機械なのです。

どこにもセレクトする主体は存在していないし、そもそも非人称である糸崎公朗さん自身が、非人称であるが故に、存在していないのです。

糸崎公朗さんのこうした模倣性を、私は非難しているのではないのです。

こうした模倣の連鎖こそが人間の制作の基本であって、それが彦坂尚嘉が言う「ローアート」というものなのです。

《ローアート》は、模倣の連鎖としての民衆芸術のことなのです。

つまり糸崎公朗さんは、民衆芸術家というものと、私は考えます。

ただ、真に宗教的な師の教えは非常に難解で、不出来な在家信者のぼくにはなかなか理解できず、それで試行錯誤しているのです。しかしその反対に、大衆を扇動する宗教の教えは明快で分かりやすく、だから「大きな力」となり「暴力的」になるのだと思います。

 

さて、ここで糸崎公朗さんが「真に宗教的な師の教えは非常に難解で」と、書いておられる事について書きますが、少し遠回りをして語ります。

自然採取段階の野蛮である原始時代の人間は、
書き言葉を持っていなかったのです。

書き文字の無い段階でも、糸崎公朗さん的に「すべてが宗教である」とするのならば、原始時代にも宗教がある事になりますが、私はそうは考えません。


オーストリアのアボリジニーは、5万年まえから12万年まえにオーストラリアに上陸したと考えられるそうですが、もちろんこれは文明以前です。

エジプトが中央集権的な国家になるのが紀元前3000年前ですから、文明以前のアボリジニーのような原始時代は、ずいぶんと長かったのです。

この長い原始時代には文字はなかったのです。
定住もしていなかったのです。

この原始時代を、無文字時代の呪術の時代であると考えます。そして偶像を崇拝するアニミズムを呪術として考えるのですが、この時代の人間の精神が、ラカンの用語を借りれば、《想像界》だけの時代であったと考えます。

つまり人間の精神は、最初、《想像界》だけであったのです。

つまり《想像界》というのは、人間精神の野蛮の領域であって、無文字文化であり、そして偶像崇拝の領域なのです。

この後に、《象徴界》が出現します。

つまり《象徴界》が出現するには、書き文字の発明が必要であったのであって、書き文字が出現することで、人間は記録を作り出すほかに、法律を作り出します。

「神」というのは、この書き文字として出現するのであって、それ以前の呪術とは違うのです。

つまり聖書に「はじめに言葉ありき」と書かれているように、そしてモーゼが十戒を神からもらうように、神というのは、書き言葉の出現であって、書き言葉が出現する事で生まれる人間の《象徴界》の領域が、世界宗教です。

そこでは偶像が禁止されていますが、それは《想像界》の禁止なのです。

つまり神は言葉であって、イメージとして見える様な《想像界》の領域のものでは、最初はなかったのです。

つまり彦坂尚嘉の私見では、《象徴界》の言語として神が出現するのであって、彦坂的にはそれ以外は、擬似的な偽の宗教性として排除するのです。ですから聖書や、仏典、そして老子や荘子、孔子などの諸子百家、コーランなどの聖典を読む事が、基本であるのです。

さて、《象徴界》の言語領域を否定して、《不立文字》を主張した中国の禅宗が出現します。これは《現実界》の出現であって、宗教ではないのです。宗教を否定した《現実界》の出現が、禅宗です。日本では、禅宗がまるで宗教を代表しているかのようにも思われていますが、彦坂尚嘉の私見では、禅宗は宗教を否定した《反宗教》なのです。この禅宗は、《現実界》という人間の精神領域を最上部層に切り開いた故に凄いのですが、これは物理科学が数式をもって言語を否定して《現実界》を切り開いたのと、連動して行くのです。繰り返しますが、禅宗は宗教ではなくて、ある意味では早産の物理科学精神であったのです。


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相対化と現実/善悪について(加筆1) [生きる方法]

物事の善し悪しを判断するのは、

難しいし、人によって価値観がちがうので、

今日では特に難しいことです。

たとえば昨日書いた携帯電話を持つかどうかにしても、

持たない人を擁護することはできるし、

同時に携帯電話を持たない人を嫌うこともできるのです。


つまりどちらでも良いように見えて、相対化しているのです。

ただ、相対化していても、大きな流れの中で見ると、かならずしも、どちらでも良いとは言えないところもあります。例えば、ワープロが出て来た時に、私はワープロに飛びつきましたが、手書きにこだわって一言をいう友人がいました。ところが時代は進んで、メールの時代になると、キーボードを使わないで来た事のしわ寄せがきたのです。あの時の一言は、時代の中で、踏みつぶされるのです。時代の流れは暴力なのです。適者生存という原則はあって、環境の変化に適応して行かないと、生きて行く事はむずかしく、淘汰されるのです。淘汰という現実の前では、必ずしも相対性は維持できないのです。

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善と悪という2元論が気になって、調べたことがあります。

私自信が、実はこの二元論自体が嫌で、アレルギーを起こしていたことがあるからです。それは自分の作品の制作の基本にかかわるところがあって、画面を2つに分割して終わって良いのか、それとももう一つ分割して、3分割で良しとするのかという問題にかかわっていました。そんな事とどちらでも良いではないかと思われるでしょうが、しかし普通の人にはどうでも良い事でも、美術の専門家としては、かなり気になることです。

 たとえば遠近画法でも、西洋遠近画法は2分割によって、まず地平線を決めることから始めます。つまり最初の画面分割が重要な意味を持ちます。それに対して東洋遠近画法である三遠法においては、その名前のとおり3分割が重要な構造を持つのです。

この理由は、西洋遠近画法においては、レンズを使った単眼構造で設定されているからです。レンズを基準にするので、俯瞰ということが禁止されて画法が成立しているのです。しかし実際の絵画作品では、そのような単純さは実はないのですが。

それにたいして東洋遠近画法は、透視面に対する人間の目の動きを基準に組み立てられているので、俯瞰法生きていて、その結果として水平の視覚、仰角の視覚、さらに俯瞰視覚の3つが組み合わさるという肉眼の目の動きが絵画構造をつくります。

 先ほど書いたように西洋絵画えも、実際には3視覚を意識して画面に取り入れているものはモナリザはもちろん、マネの絵画にも見られて、西洋絵画の、実は基本構造としてあるのですが、その事を日本の西洋美術史の解説では、比較的無視して書いているものが多いのです。

さて、こうした絵画の画面の組み立てに深くかかわる二元論と、三元論の問題です。三元論が、キリスト教の三位一体の教義にあって、実は物事の重要な認識枠なのです。

私の場合、三元論には感覚的に肯定的で、相性が良かったのです。

さて、今書きたいのは、アレルギーを起こしていた二元論の問題です。

つまり善と悪という二元論の根拠はなんなのか?

椹木野衣的に言えば、根拠は無いということになります。

今日の日本社会の中で、他人の意見を聞いて見て、その空気の中で判断をして行く限り、人それぞれで良いのであって、どうという事は無いのです。今の女性はタバコを吸う人が多いですが、それも各自の責任でどうでも良い事ということになります。しかしタバコの害は明らかになっているのですから、タバコを吸う女性は、いろいろな理由があるにしても、理性的ではないのです。その内に肺癌にでもなって、死ぬだけかもしれません。もっとも人間は理性的では、かならずしも無いので、女性がタバコを吸うのは相対的に自由ではあります。だからといって、愚かである事に変わりはないのです。毒は毒です。


つまり、思考の原型というのは、実は相対的ではなくて、歴史の中で反省をしてみると、それなりの根拠の上に形成されているのです。ただ人類の歴史が長くなり過ぎているので、初心を忘れてしまって、根拠が忘却の彼方に消えているのです。歴史を遡ってみて見ると、きちんとした根拠はあるのです。

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善悪の二元論の成立を、

キリスト教の神学の中で追いかけると、

カソリックの祖といわれるアウグスティヌスにぶち当たります。

神学というのは、前近代においては哲学であり、認識なので、馬鹿にできるものではないシリアスな人間の思考が見られるのです。

面白いのはアウグスティヌスは、もともとはマニ教徒だったことです。

そしてマニ教というのはゾロアスター教から出てきたのです。

そして二元論の源流のひとつがゾロアスター教なのです。

ゾロアスター教は、人類史の中での農業革命に深くかかわっていて、

原始的な自然採取の野蛮世界を悪としてとらえ、農業革命を経て確立された文明世界を善として、2元論を組み立てていたのです。

ゾロアスター教というのは、日本語では拝火教で、何か野蛮ないかがわしい呪術のように思われますが、世界の中でも非常に古いの宗教で、旧約聖書に大きな影響を与えた先行宗教で、人類の精神史にとって重要なものなのです。


文明を善とする闘いの歴史を述べるゾロアスター教の中で、善悪の二元論を理解すると、私は二元論に潜在している理不尽さが納得のいくものになったのです。

つまりゾロアスター教的に文明を善として見る見方からすると、岡本太郎やデビュッフェのように野蛮主義を主張する事は、悪なのです。今日の文明の中には、「文明の中の野蛮」がはびこっているので、野蛮こそが善であって、熱狂をもって迎えられるのですが、しかし、それは「文明の中の野蛮」という現象であって、クーラーや暖房のある部屋の中にいる野蛮人に過ぎないのです。本当の野蛮状態というものとの差を見損なうと、間違いになります。

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今日進んでいるリテラシー(識字)革命も、このゾロアスター教の起源にさかのぼって考えると、良くわかります。識字革命というのは暴力であって、文字通り革命なのです。それゆえに理不尽なのであって、暴力というものの単純さがあります。

携帯電話をもつというのは、暴力としてのコンピューター・リテラシーに屈して、この情報革命に適応する道を選ぶことなのです。

それに対して、携帯電話を持たない人は、心の根底において現在の情報革命に抵抗して、古いものに回帰することに快感を覚えるタイプのレトロ主義的な人々です。

実際に情報革命というのは暴力ですから、実は良いも悪いもないのであって、問答無用に暴力が作動しているのです。その場合、ゾロアスター教の考え方をとれば、古いレトロの世界が悪であって、新らしい情報化社会が善なのです。この暴力的な二元論の単純さが重要なのです。ここで線引きされるのです。

私が言っているのは、あくまでも現在の情報革命が、暴力であるといっているのであり、人類史の中での新しい意識革命であって、この展開は良くも悪くも凄いことだと、考えているということです。

 この単純な認識を持たないで、価値の多様性だけを言って論議することには、私は迷路すぎて興味が持てません。ジラールがいうように暴力というものの単純さが、文明の根底にあるのであって、根本にあるのは問答無用性なのです。それが良いと言っているのではないのです。事実であると言っているだけなのです。

携帯電話をも持たないのは各自の自由ですが、その選択の根底には、ゾロアスター教的な二元論の善悪の価値観があるのです。つまりレトロを良しとするのか、悪とするのか、の区分です。ゾロアスター教的に言えば、レトロは悪なのです。


悪に魅力はありますが、しかし悪は、かならず、行き詰まるのです。悪が際限なく栄える事はありません。


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携帯電話の問題とアーミッシュ的人々(最後に加筆) [生きる方法]

 
携帯電話を持たない自由と言うのはあるのです。
 
同じように自動車を持たないとか、
コンピューターを使わないとかいう態度の自由はあります。

テレビを持たない、新聞をとらない自由もあります。

そういう意味では、犯罪以外は、何でも自由なのです。
しかし同時に、それは他人との関係は、何らかの形で、影響を被るものではあります。

テレビを見ない、新聞を読まないというのが、他人との関係に影響を及ぼすのと同様に、携帯電話を持たないという事は、他人との関係に影響を与えることではあります。つまり自由であると言う事と、他人との関係に変化を与えるという事は、同時に起きるのです。

その代表的な人々は、アーミッシュです。
アーミッシュは電気を使用しません。
商用電源は使用せず、わずかに風車水車によって蓄電池に充電した電気を利用する程度であるといわれます。
 
アーミッシュの日常生活では、きわめて古い自給自足時代の技術しか使わないのです。
原則として、《近代》の技術による機器を生活に導入することを拒んでいる人々です。
近代以前と同様の生活様式を基本にして、自給自足の生活を営んでいます。
こういう生活態度は、当然のように、現代文明で暮らす人々との関係に影響を与えます。
 
アーミッシュは、自動車は運転しないのです。日本にもアーミッシュのように自動車を運転しない人はたくさんいます。こうした日本人も、ある意味では部分的にはアーミッシュ的な面を持っていると言えると言えるかのしれません。

アーミッシュは、《近代》の一般的な通信機器である電話等々も家庭内にはいれません。
 
アーミッシュは、アメリカ合衆国・ペンシルベニア州などに居住するドイツ系アメリカ人です。カナダにもいるそうです。原郷はスイスなどで、人口は20万人以上いるとされています。むかし(1985年)に 刑事ジョン・ブック 目撃者』という映画があって、アーミッシュが描かれました。
 
私自身は、自給自足を基本とした生活というのは、
重要だと思っています。
ですからアーミッシュの存在自体は好きであります。
 
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 
今日の日本にも、実はたくさんのアーミッシュ的な
人々がいて、
携帯電話の使用も拒否しています。
私も回りにもいます。
 
それはそれで良いのだろうと、私も思います。
 
ただ、実感として、そういう人々と接すると古さを感じます。
それと話が合わないのです。
 
今の情報化社会の新しい表現の問題を、
携帯も持たない新アーミッシュ的人々と話しでも、
話が通じないのです。
 
話が通じなければ、当然のように人間関係は疎遠になって行きます。
それもまた致し方のない事です。
 
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 
アーミッシュというのは、キリスト教の新教であるルター派などから分かれて、スイスのチューリッヒで生まれた一派であります。そして、ドイツに移住した人々です。古い固体的なキリスト教共同体に忠実である厳格な規則のある宗派で、創始者はメノ・シモンズです。
 
メノ・シモンズは、15世紀から16世紀の人で、この人自身は《近代》の産業革命を体験していません。ですから《近代》に対する反動の宗教者ではないのです。彼の思想は、福音的人道主義者と言われるものであって、バプテスト派の重要な人物であります。
 
バプテスト派というのは、キリスト教プロテスタント教派のひとつで、イギリスの分離派思想から派生します。17世紀のイギリスから生まれて、現在のアメリカ合衆国の最大の宗派なのです。このアメリカ合衆国のバプテスト派は南部を拠点に、最大の保守派勢力を形成しています。
 
つまりアーミッシュの源流であるプロテスタント・バプテスト派は、実は産業革命の基底を形成していた保守派の最大勢力であって、その中からヤコブ・アマンという宗教者が、ほかのグループから離れて暮らすいっそう保守的な派を作ったのです。それがアーミッシュです。ヤコブ・アマンというアマンという名前から、この派の人たちのことをアーミッシュというのです。つまり多くの人々から離れて暮らす事を好む人々というのは、アーミッシュ的であって、それは日本にもたくさんいるのであります。
 
つまりアメリカ南部の最大の保守勢力の極端な人々がアーミッシュであって、アーミッシュだけで切り離してアーミッシュを見る事は間違いであって、その裏に、アメリカのプロテスタント保守派の大勢力バプテストが存在しているのです。

この事を日本社会に当てはめれば、携帯電話を持たない新アーミッシュ的な人々は、実は極端な少数派であって、その裏には、実は日本社会の南部ともいうべき巨大保守勢力が潜在しているのです。

アーミッシュに代表される人々が、《近代》の産業革命を拒絶しているように、現代の日本の新アーミッシュ的な人々は、現在の情報革命を拒絶する姿勢を示しているのです。それはしかし複雑な形態を取っているのであって、携帯を持たなくてもコンピューターのメールはやっていると言った部分的な反応を取ります。メールは間接性が強いメディアですが、携帯電話は音声の直接性を持っているので、拒否する理由もこの直接性なのかもしれません。

人類史的にみると、現在の情報革命は、巨大な革命であって、それは暴力的なものです。その暴力的な大変革に対して、順応しつつも拒否の姿勢を崩さずに保とうとする複雑な反応が、実は多くの人々の姿勢であって、その分かりやすい例が、携帯電話を持たない人々と言えると思います。
 
基本としては、この新アーミッシュ的な人々を私は肯定的に見たいと思いますが、しかし距離を取りたく思います。一緒に仕事はしたくないのです。仕事はやりにくいのです。何よりも、その古さは、近くで付き合うには堪え難い所があります。ですから、一緒に仕事を決してしない限りにおいては、距離を持って、遠くから肯定的に眺めていたいと思います。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
バプテストの宗教的な最大の特徴は、赤ん坊の洗礼を認めない事です。
洗礼というのを、成人になるイニシエーションとしてのみ限定して考えているのです。そして洗礼と言う言葉を使わずに「侵礼/バプテスマ」と言います。バプテストでは、全身を水に沈める全浸礼を行います。そして、また、信仰告白を行うことが重要であるしています。この儀式によって、子供の時からの継続的な成長の歴史としての自我は殺され、新しいパプテストとしての成人の自我が作られるのです。つまり子供から大人になる重要な区切り目として、この「侵礼/バプテスマ」と信仰告白の儀式が存在するのです。それは極めて正統な成人社会の形成のシステムであると言えます。その結果として、アメリカ合衆国の極めて保守的な成人による巨大勢力が成立しているのです。

日本にも成人の社会は、少なからず存在しているし、保守勢力は巨大な存在としてあるのです。

 
アメリカ南部の保守勢力に私は近づきたくありませんが、日本の南部ともいう成人達の保守大勢力にも、私は出来るだけ近づきたくはないのです
なぜなら、芸術家というのは、この成人になるイニシエーションの失敗した人々だからです。ですからこれら大人の保守派とは相性が良くないのです。


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視野が狭いということ [生きる方法]


あらゆる人間の欠点は、視野が狭いことです。


同時に1人の人間の強みもまた、この視野の狭さです。


視野が狭いから、人間には魅力があるのです。


しかし、自分が視野が狭いと言う事は、

実は気がついていない場合が多いのです。


他人の目には、明らかに見えるのに、本人には自分の狭さが分からないのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


素人には、色の好みがあるという事です。


色彩を学ぶと、好きな色とか、嫌いな色とかは、

なくなります。


食べ物の好き嫌いが有る人と言うのは、

実は感性が狭いのです。

広くなると、マズいものでも、美味しいものでも、

そう言うものとして食べて、好き嫌いがなくなります。


つまり、自分の好みをはっきり持っている人は、

視野の狭い人です。

素人なのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


あるデザイナーが、すごくこだわって作品をつくるのですが、

私から見ると《第6次元》の《6流》作品でしかなくて、

凡庸です。


しかしその人には、すぐれて感性の良いものとして、

お洒落で、凄いものと信じられているのです。

《6流》のデザインを、洗練された世界と信じている人は、

結構な人数がいます。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


お金の問題が良く分からないと言う人、

あるいはお金を稼ぐのが巧く無い人と言うのは、

その人の人格の《象徴界》の中で、《第7次元》領域が欠けているのです。

意識ですから、意識して《第7次元》を獲得しようとすると出来ます。


そう言う意味で、意識を《第7次元》に広げる事は、

簡単で、お金ももうかるようになります。


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視野を広くする事というのは、

意識を広げる事ですが、

意識の広い人は、

聴く音楽の幅が広いです。



民族音楽、演歌、ポップスから、

ゲーム音楽、

ブルース、ロック、

クラシックから、現代音楽と、

公汎に聴いて楽しむ事ができます。


音楽の好みと言うのは、

その人の意識の広さや、傾向を示すのです。


自分の音楽の趣味が狭い人は、

意識が狭いと言う事を自覚できることになります。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

情報化社会というのは、

実は、意識の広さを必要とする時代であります。


意識が広く無いと、

多くの情報を理解し、適切に処理できないからです。


それはまた、自分自身の内面の様々な葛藤を、

適切に解決して行く事も、この意識の広さが重要なのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


電車の中で観察する限り、

中年から高年のおばさんや、おじさんの精神の《象徴界》は、

《第6次元》《第7次元》《第8次元》の3次元で出来ています。


つまり自然領域、金銭領域、そして信念の領域で生きているのです。


この3次元性を理解しないと、彼らと巧く付き合う事ができません。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


視野そのものは、その人の《象徴界》に現れる様です。


《象徴界》の次元を増やすと、自分の人格を拡大して、

抱えていた問題を、新たに処理できる能力を得る事ができるようになります。


《象徴界》には、《超次元》から《第1次元》、そして《第2次元》から《第41次元》まで、実に42段階があるのです。


人格的に成長して解脱するというのは、意識を42段階のすべてに広げる事です。


42段階に意識を広げても、人生の問題が消えるわけではありませんが、

しかし《苦》そのものは大幅に軽減して行きます。

処理できる範囲になると、言えます。



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シニフィアンからシニフィエへ [生きる方法]

Aさんへの、お返事の続きです。

ナルシズムというのは、
前にも書きましたが、自己防御のシステムで、
自己を守ると同時に、他者を排除します。

他者を排除すると、ご質問のシニフィアン連鎖ということは、
わからなくなるのです。

言語そのものが、社会の中の生成物であって、
他者の作り出したものなのです。

つまり他人の言葉の記録や記憶の集積に、
自分自身の言葉が連鎖しているのです。

言葉で考えると言うのは、
実は他人の言葉、それは無意識なのですが、
無意識としての言葉の集積と網があって、
これと連動してしか、自分の言語は作動しないのです。

自分が使う言語と言うのは、
常に他人の無意識であって、
それによって意味は形成されているのです。

海と言う言葉が、
海という意味になるのは、
海と言う言葉が、
海という意味になる共同体が存在しているからです。

言語の共同体の中で、
自分が発する海と言う言葉が海になる。

しかし、「うみ」という音が何故に「海」と言う意味に
なるのかは、実は日本語共同体の内部だけで成立しているのです。

海という言葉を書いて、
海であると理解するのは、
自分で決めた事ではなくて、
社会の中で成立しているのです。
言語を使う事自体が、他者との関係そのものなのです。

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才能の無い私/無能な私(加筆1) [生きる方法]

Aさんより、次の様なご質問をいただいたので、
お答えします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ぼくは以前より詩に興味がありまして、美術の製作と詩を結合したいと考えています。

理由のないことではなくて、中高時代に俳句の地区公募で入選して賞をもらったことがあり、それも二度あったので偶然でもないなと勝手に思っています。


美術予備校に入る前はロックミュージシャンになろうとしていたのですが、曲も歌詞も作れなかったので挫折しました。

僕が強い影響を受けたのはブランキージェットシティーというバンドの浅井健一という人の歌詞で、とてもかなわないと気付き止めたんだと思います。


この人はまた、椎名林檎に多大な影響を与えた人でもあるのですが、椎名林檎はおそらく彼を超えているんじゃないかと思います。

(ブランキーおよび浅井についてはYouTubeで映像がたくさんあります。)


最近、椎名林檎の新曲の、有りあまる富というのを聴いて、その歌詞の内容に感銘を受けたのでまた詩を書いてみたいと欲求が湧いてきました。


そこで、もう少し詳しく、シニフィアン連鎖ということについて論じていただきたく思っています。。


以前中川さんの封筒の作品を論じられたブログで、シニフィエの連合とシニフィアン連鎖の違いについて書かれていました。

ビールという言葉があって、同じアルコール類で常識的に連想していくのがシニフィエの連合で、ビールのフランス語の意味表現から音の似ているものをつなげていくのが、詩的領域であり、シニフィアンの連鎖ということであったと思います。


また、バシュラールとヴァン・モリソンのシニフィアン併置という記述もありました。この場合の両者のシニフィアンにおけるつながりは両者共にシニフィエがないということなんでしょうか?

つまり「シニフィエの欠如」という文字や音声にした情報によって共通項を見出し、それを併置したというこになりますか?


また関連して質問もありまして、メイプルソープについて、形態の類似から作品を撮るということがあると思いますが、

普通に考えると形の類似を見つけるというのはシニフィエによる連想のように思うのですが、しかし、これはシニフィアン連鎖ではないのでしょうか?ということです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

Aさんよりのご質問にどのようにお答えするのか?

と言う事自体が、重要な問題なのです。

つまり、私が何かを答えたとしても、それをAさんが理解を出来るのか?

という事自体が、問題なのです。


Aさんの本質的限界を現しているのは、次の部分です。


僕が強い影響を受けたのはブランキージェットシティーというバンドの浅井健一という人の歌詞で、とてもかなわないと気付き止めたんだと思います。


人は実は様々なもので、実はその人にあった知識しか理解できないのです。

つまり人間は平等ではなくて、平等には理解できないのです。


自分より浅井健一がすぐれていると認めながら、

だから「かなわない」と思って作詞する事を止めたという事のうちに、

Aさんの人生のある態度が出ています。


「かなわない」と思う、その自分の無能性との向き合い方の問題です。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


人に何かを教えようとしても出来ない事があります。


書き文字を覚えていない非識字者に、白川 静についていくら教えても、

理解できないのです。


同様に、数学の苦手な子に、アインシュタインの一般相対性原理の数式を

講義しても、理解は出来ないのです。


つまり重要な事は、物事には積み重ねがあって、

ある重要な事柄を理解しないと、先には行けないと言う事です。


先に行かなくても良いのですが、

自分には理解できない事柄が、この世界にはたくさんある事を、

まず、認めなければ、なりません。


この世は、分からない事だらけで、

自分自身は無知無能なのです。

この分からなさと、自分自身の無能力性から逃げないで、

まず、認める勇気が無いと、何事も始まらないのです。


Aさんの問題は、自分より浅井健一がすぐれていると認めた時に、

ここで、「かなわない」と思った逃げた事です。


すべての事で、実は自分自身は無知無能であって、

自分よりもすぐれている人はたくさん、無数にいるのです。

この世界の中で、自分自身は一番劣っている存在なのです。

この最低の自分自身を認めて、まず、受け入れないと、

何も始まりません。


しかしAさんは 理由のないことではなくて、中高時代に俳句の地区公募で入選して賞をもらったことがあり、それも二度あったので偶然でもないなと勝手に思っています と書いている成功体験に捕われて、自分に才能があると思っているのです。この成功体験で、Aさんの人生はピークを迎えて、終わっているのです。


この成功体験を完全に否定できないと、

何も始まりません。


これが去勢です。

去勢をして、物事は始まるし、

学習する事が、始まるのです。


それが大人になる事の敷居なのです。


本当に、自分自身の無知無能性を認められる人と言うのは、

実は少数者なのです。

10人中8人くらいの人は、この辛い事実を認めない事で、

小さな成功の記憶にしがみついて、

永遠の子供の世界を生きて死ぬのです。


つまり人格的に成長できないで、

子供のままに停滞して、死ぬのです。


子供と言うのは、実は自分には能力があって、

本当は、何でも出来るという、神のような万能感を持っているのです。

子供の頃に、大人から ほめられた、ささいな成功体験を記憶し続けて、

この万能感を心の奥底に隠して、これに向って精神を集中する事が、

生きる事の最も重要なテーマになって、

そして何もやらずに死ぬというのが、

多くの凡庸なアーティストの生き方です。


神の様な全知全能の万能感と、無知無能性と、

そしてナルシズムに包まれた統合体としての自我・・・私自身を、

抱いて、死んで行く人々は、

しかし、安全な人々でもあり、

また危険な人々でもあるのですが、

この全知全能/無知無能の未分離性こそが、

《第8次元》性を形成して、人間社会の中心の大きな幹となっているのです。


ですから、この《第8次元》の世界の外に先ず、出る事が、成長のためには

重要なのです。


しかし、多くの人は成長をしたいとは、思っていないのです。


自分自身の人格を成長させたいとは思っていない事を、

まず、素直に、認めないと、困るのです。


そして、成長したく無ければ、そのままに、

つまり、ささやかに ほめられた時に喜びを抱いて、

ありのままに生きて死ねば良いのです。

人生とは、そうしたものなのです。


そういう身の丈の生き方をしたい場合には、

シニフィアン連鎖は、理解は出来ないのです。


メイプルソープについて、形態の類似から作品を撮るということがあると思いますが、

普通に考えると形の類似を見つけるというのはシニフィエによる連想のように思うのですが、しかし、これはシニフィアン連鎖ではないのでしょうか?ということです。


上記のメープルソープの類似性の併置と言う手法も、そもそもそれは表現の実体化を解体して行く手法であるのです。人間の外部を知覚する時に生じる実体化という自然作用を、どのように解体して行くのかということが重要なのですが、その事の意味を教えるのは、真の意味ではむずかしいのです。

 


なによりもナルシズムに捕われている人に、教える事は出来ないのです。


世の中には、教える事の出来ない事が、いくらもあるのです。


何よりも、一度ほめられて、ナルシズムに捕われている人に、

その人自身の無知無能性と、無意味性を、

教える事が出来ないのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


村上龍も、そして村上春樹も同様の事を書いていて、

読んだ覚えがありますが、

自分が無能で、書く事が出来ないと認めて、

初めて文章は書けるようになるのです。


そういう正直さがないと、文章は書けるようになりません。


詩も、美術も同様であって、

作れないと認めないと、作れるようになりません。


そういう意味では、文章を書いたり、

詩をつくること、美術を作る事のコツは、

極めて簡単なことなのです。


誰にでもできる、やさしい事です。


自分自身の無知無能性、無意味性を認めれば、良いだけなのです。


しかし、そのためには、

小さな成功体験を捨てなければなりません。


そんなもの、何の意味もないのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


村上隆さんも、アエラのインタビューで答えています。

「俺なんか、空っぽですよ」

この自分の無内容性を認めた時に、

つまり自分には才能が無いという、

そのことを認めた時に、初めて社会的な学習が始まるのです。


そうするとシニフィアン連鎖の意味が分かるようになります。


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まつろわぬもの(加筆2) [生きる方法]

私はアートマネージメントをする人を捜して、10年以上をついやしてきています。結論で言うと、あきらめて、自分でマネージメントをする事にしました。とは言ってもギャラリーARTEの梅谷幾代さんや、アートフロントの奥野恵さんをはじめとする優秀なマネージメントの人々に助けられて、私は存在しているのです。ついこの間までは、ギャラリー手の杉山旭さんでしたが、残念ながら閉廊して、ザ・マーケットというオークション会社の専従になってしまわれたのです。ですから、私の方もギャラリーを移籍したのです。作品そのものも含めて、奥野さんや梅谷さんの意見やアドバイスは、現在大きいものがあります。

それでもなお、マネージメント全部をお願いする関係にはならない。それは彼らに限らないのですが、私の付き合って来てくれたギャラリーと言うものは、作家研究はしないのです。過去のギャラリーで言えば、カンワイラーや、日本の山中商店といった大画商さんは、作家研究をしましたが、人間は自分の事を考えるのが精一杯で、作家研究はしない。私の気体分子ギャラリーは、扱う作家の研究はします。伊東直昭さんについても、次回の斉藤ちさとさんについても、作家研究はしています。もっとも作家研究をすると嫌われると言う事もあります。なぜなら良い所も、悪い所も見つめようとするからです。そのために、声をかけても展覧会が実現しない事になる例は、いくつもあります。作家自身が、自分のことしか考えない人は、こちらも、あきらめることにしています。作家の才能は夏草のように生えてくるのであって、才能のある新人は無数にいるのです。そしてすぐに枯れる。

正確に言うと、今日の情報化社会というのはサントームの時代であって、美術作品の制作という、その制作そのものがサントームに移行しているのです。作品をセザンヌのように制作する事は、不可能になっているのです。制作した所で、作品そのものを情報化しなければ、存在しない事になるのです。情報化社会と言うのは、情報化したものだけが存在しているかの様な面があるからです。作家の才能も、自分の作品だけに集中していれば5年がピークで、すぐに凡庸になります。

サントームというのはラカンの用語ですが、人間の精神の三界・・・《想像界》《象徴界》《現実界》の関係性が崩壊すると人間は気が狂うのですが、この崩壊をつなぎ止める第4の輪がサントームです。狂気に転げ落ちる寸前の時代の中で、正気を保つつなぎがサントームで、芸術とはサントームになったのです。いかにして、狂気の渕を、狂気に転落しないで歩いて行けるのか?

ですからサントームというのは、つなぎ止める環のことです。マネージメントとか、組織化、そして管理の仕事なのです。つまり彦坂流に言うと、今日の管理社会というものが、サントームの時代と言う事です。そして芸術の制作と言うのは、実は物を作る事ではなくて、物事を関係づけて管理して行く事に移行したのです。それがシュミレーショニズムであり、シュミレーショニズム以降の作品なのです。ですからサントームとしての芸術と、時代の流れは敏感に対応しています。2002年から2007年10月までのアメリカの根拠無き熱狂と密接に関係づけられていた時代が終わった今、新しい時代が始まっているはずなのですが、これは海のものとも山のものとも分からない。混沌とした中を、現在は進んでいるのです。はっきりとするのには6年くらいの時間がかかるでしょう。

彦坂尚嘉の芸術分析や、アートの格付けと言うのは、このサントームの時代の芸術の管理技術の問題であると言うことになります。

いくら物としての作品をつくっても、それが《8流》であったり《6流》であることよりは、《1流》であったり、《超1流》であること、さらには《41流》であることの問題が大きいと言う事です。もちろん逆の事も言えて、時代にマッチしてくためには、実は《第8次元》や《第21次元》次元の方が、良いのだとも言えるのです。それはそうなのです。

問題なのは物ではなくて、そのクオリティの管理なのです。クオリティ管理を欠いた制作は意味が無い時代になって来ているのです。

アートをいかにして管理できるのか? それが重要なのです。

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むかし、ハイネッケン・ビレッジという、ビールのハイネッケンのアートメセナのスペースがあって、その最後に、私は作品を出品しています。最後と言うのは、ハイネッケンがアートの文化メセナから、撤退したからですが、その時にお会いしたのが、そのハイネッケン・ビレッジのマネージャーだった一色さんという美しい女性だったのです。一色さんは独立なさって、アートマネージメントのお仕事をなさるようになって、日本人アーティストの海外マネージメントをなさっているようであります。噂は聞きますが、直にはお付き合いできていないので、詳しくは知りません。この一色さんが出現してくる時期に、アートマネージメントを専門にやる女性たちが8人ほど出現して来て、私もそういう方にマネージメントを頼みたくなっていたのです。

それはそれまでに付き合って来た画廊が、箱にこだわっていて、画廊という蛸壺に潜り込んでいて、外部を見る視線を欠いていたからです。そこで、箱を持たないマネージメントの人を捜して、ずいぶんと何人もの人とおつきあいを試みましたが、駄目でした。ギャラリーARTEさんやアートフロント・ギャラリーというのは、箱に閉じこもらないから新しいのです。彼らはギャラリーとして新しいのですが、ギャラリーを持たない、完全な箱無しのマネージャーを夢想したのです。対最近も、実はそういう仕事を希望しているという女性2人と、仕事の構築を試みていたのですが、2人とも失敗しています。その時にも感じたのですが、その女性たちも、宗教心が無いというか、運命愛が無いのです。

一人の人間が、生まれて生きると言うのは、
実は自由が、極めて限られているのです。

自分は、自分の意思では親を選び得ないし、生まれる時代も選ぶことが
できません。

生まれる国も、地域も、文化も選び得ないのです。

生まれると言う事は、否応も無い受動性の中で生まれて、
自分の運命を引き受ける所から、始まるのです。

こうした自分の運命を愛する気持ちがあって、
はじめて他人と出会うことが出来るのですが、
こうした出会いに於ける運命愛が無いのです。

だからマネージメントをやりたいと言っていても、
実際に実現して行く力が無い。

物事を実現して行くのは、むずかしいのですが、
それでも何とか、少しでもやり遂げて行くのには、
こうした、ある種の決断が必要なのです。

さて、そうしていたら昨晩から今朝にかけて、
川瀬貴也の『「まつろわぬもの」とっしての宗教』という文章を
読みました。
『思想地図』(日本放送出版協会)Vol.1に収録されているものです。

医療現場の問題を透して、現代日本の宗教の位相を描き出しているのですが、その指摘が、近代という物理科学の中で、古い文化であるプレモダンの宗教を、ノイズとして排除する風潮の問題点を、極めて冷静に、今日的なライターの感覚で書いておられる。

それがアートマネージメントをしたがる女性たちの弱さをあぶり出している面があって、感銘をうけたのです。

今、私のやっている越後妻有トリエンナーレもそうですが、作品規模は号数で言うと7000号を超える大きい作品ですから、半端な精神では出来ないのです。出来ない所を切り開いて行く、冷静な認識と、具体的な方法と、そして作品として仕上げて行く落とし込み方が、重要なのですが、こうした闘いをして行く時には、川瀬貴也の指摘する「まつろわぬもの」という精神が重要なのです。

まつろわぬもの」というのは、抵抗者のことです。社会にただ順応する事ではなくて、どれほどの犠牲をはらっても、抵抗して行く何かの存在です。

その根源に運命と、宗教の本質を見る川瀬貴也の冷静な眼差しは、認識者として透徹しているものであると思いました。

日本の現実の中で美術をやって行く時に、日本社会の大勢や常識にあわせて、結局は《6流》や《8流》の凡庸なものへの同化に活路を見出し、なによりもデザインになって行くというのが多くの作家であります。これではサントームとしてのアートは成立しません。いや、逆に《第6次元》とか《第8次元》、さらには《第21次元》こそが、サントームであると言う意見もまた、真実ではあります。しかしそれは抵抗ではありません。

現在の大勢に対して、あくまでも抵抗して行くという姿勢が無いと、芸術も、真の意味で芸術としてマネージメントが成立して行かないのです。

しかし彦坂尚嘉の理論では、宗教とか、神の定義は、常識とはずいぶんと違うものであります。立教大学の大学院でも、宗教や神の言葉は出していますが、それはあくまでも全人類の歴史の中で位置づけであって、常識とはまったく違うのです。

原始社会の呪術という、《想像界》の領域を否定するものとして書き文字が出現しますが、この書き文字の出現が《象徴界》であって、それが神であって、宗教というものは、彦坂尚嘉の理論では既成宗教教団や新興宗教の教団ではなくて、あくまでも識字であります。つまり書き文字の世界が神であり、《象徴界》なのであります。

モーゼの十戒でも書き文字ですし、聖書そのものが神の言葉として書き文字として出現するのです。つまり書き文字が神であって、文字としてしか神は存在しないのです。

つまり今日の脱宗教の風潮は、実は書き文字文化の衰退であって、文字としての文化に
依拠しない非識字者の精神状態なのです。

実は、私の世代でもこういう非識字者は多いのです。

本は読んでいるのですが、その読み方が精神として読むのではない読み方で、つまり読んだフリをしていて、本質は非識字者である人が多いのです。何故に本を読みながら、本を読み得ないのか? それは書き文字が、神であると言うことを、認識できないからです。文字が神であると思わないと、文字が読めないのです。文字文化の衰退そのものは、実は今始まった事ではなくて、もっと昔から進行している非識字の事なのです。

なぜに、非識字者が増えるのか?
一つは近代になると物理科学が主導権を握って、書き文字を否定して、数学という形での真理を、《現実界》として切り開いたからです。これはラカンの論理とは違う説明なので、ラカンの用語を使いながら、彦坂尚嘉流の《現実界》の定義になります。彦坂尚嘉の使用法だと、《現実界》の成立は、禅の不立文字や、物理科学の数学によって切り開かれる領域となります。


近代物理学が成立すると、《象徴界》の言語としての本と言うものを真面目に読まなくなるから、彼らは祈る事も、そして神を見る事も出来ない。神と言うのは、あくまでも《象徴界》に屹立する文字でしかありませんから、この不動性において面白いのですが、このことを排除してしまう。コスースをはじめとしてコンセプチュアルアティストが、何故に書き文字を使うかと言えば、それが《象徴界》を成立させ、書き文字が神だからです。

しかし逆に言えば、宗教と向き合わないと、書き文字とも出会わないし、そして自分の運命とも出会わないと言う事になります。

数学の数式の中には、運命は存在しないのです。

自分の運命を愛し、追いかけない人というのは、数学だけを信じて、つまり《象徴界》の書き文字を読んでいない人なのかもしれません。まつろわぬもの」というのは、実は古い書き文字に依拠する者たちなのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

今日の情報化社会の識字と言うのが、
情報リテラシー、あるいはコンピューターリテラシーというように、
言われていて、それがどこまでを指しているのかは、
正確にはわかりません。
しかし、普通の書き文字、数学/数式/、さらにコンピューター
と言う風に、知識の基盤が変わって来ているのです。
それは作品制作の基礎教養の変化でもあるのです。


作品制作という概念そのものが、変わって来ているのです。



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サントームとしての情報化社会(改題2加筆2) [生きる方法]

最近、私の見に降り掛かった大きな問題は、
実は小沢一郎の顔の問題でした。

最近の私の芸術分析が細くくなってきていて、
小沢一郎が民主党党首を辞任して首相になれなくなった時点で、
小沢の顔を詳細に分析すると、
ある事に気がついたのです。

私の芸術分析は、
想像界、象徴界、現実界という人間精神を3界でできているとする
ジャック・ラカンの用語を下敷きして行っています。
しかしラカンの言っている事は、
かなりずれてきているので、それはご了承ください。

小沢の顔を、言語判定法で分析すると、
想像界と現実界は、超次元から41次元まであるのです。
つまり全領域に精神が展開していて完璧なのです。

ところが象徴界は、超次元から6次元までしかないのです。

これは不完全というよりは、昔の人の精神構造です。

たとえばバッハの音楽を聴くと、
超次元から6次元までしかありません。
バッハの時代に、第7次元から41次元までが
無かったというのではないのですが、
意識領域としては抑圧されていたのです。
その原因は、一つはキリスト教という宗教の問題でしょうが、
もう一つは、もっと大きな文明としての意識構造です。

同様のことが小沢の象徴界にあるのです。
ネットで見ると、小沢にまつわる批判は多くあって、
その真偽を確認することは私にはできませんが、
人相見的には、小沢は善人です。
善人であるからこそ、問題があるのです。

電車などに乗っていて、
普通の多くの成人、それも中高年の顔をすばやく分析してみると、
多くの人の象徴界は、6次元、7次元、8次元でできています。
つまり6次元というのは自然領域、
7次元はビジネス領域、
8次元は信仰領域です。

つまり普通の成人の多くは、
自然性と、金と、そしてある事を疑わないでいる事で、
生きているのです。

それに対して、小沢の象徴界は、
7次元、8次元を欠いていて、
普通の多くの人の気持ちを理解する事ができないのです。

小沢の金脈が問題にされながら、
何故に第7次元というビジネス領域が無いのかが問題ですが、
もしも小沢が7次元の意識領域を持っていたら、
もっと巧くビジネスをやっていて、
追究を受けるような事にはならなかったでしょう。

しかしこの象徴界が超次元から6次元までしかないというのは、
小沢の問題だけではなくて、
私の顔の問題でもある事だったのです。


そこで、サイコトリップを繰り返して、
人格改造を試みたのが、
ギャラリーARTEの時の顔写真の3回にわたる撮影でした。

彦坂理論では、芸術分析の超次元から41次元までの広がりというのは、
意識だけという事になっています。
ですから意識を広げることを意識すれば、変化はできるのです。

意識だけを変えれば良いのですから、
それは物質性や、お金、時間をあまりかけないで、
可能な事なのです。

普通の意味で使われる意識の広い、狭いということを、
正面から42段階の階層構造でとらえている作業なのです。

それで、一応急遽ですが、私の象徴界を、
超次元から41次元まで拡張すると、
身体にまでくる、大きな変化を被ったのです。

便秘が治ったようなもので、
自分が口から肛門まで一本の空洞のパイプとして、
通ってしまうのです。
そうすると、この空洞のパイプである事の
空虚さが、、身にしみるのです。

聴く音楽の趣味も、大幅にかわります。
エンターテイメント的な軽い音楽は、
子供だましのばかばかしいものとしてしか聴こえてこなくて、
話にならなくなるのです。

人間の生きていくときの目標の一つは、
実は人格のこうした拡張の問題であると思います。

芸術の趣味判断というのは、
つまりその人の人格が、いかなる成長を遂げているのか、
そのことを示します。

つまらない作品しか、美術でも音楽でも、文学でも理解できない人は、
精神的に幼稚で、単純で、狭い構造をしているのです。

つまり芸術の話をすれば、その人の精神の構造規模が、理解できるのです。

だから人は、自分を偉そうに見せるために、
高級そうな美術や、音楽や、文学や、哲学を、
理解したようなふりをするのですが、
しかし、本当に理解している人の精神は、
彦坂的に言えば、
超次元から41次元までの全領域にわたって、
空洞の空いている人という事になります。
それは顔に表れるのであって、その規模は偽装はできないのです。

さて、自分の精神改造をすると、
正直言って、かなりまいると言えます。
生活の仕方から、変える必要を生じているからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人間の文明は、情報革命を経て、意識の領域の拡張に達しているのです。
先ほどバッハの音楽を言いましたが、
バッハの音楽と、シュトックハウゼンとか、リゲティの音楽は、
意識の広さが違うのです。
現代の音楽は、精神の倒錯領域を大量に含んでいるのです。

つまり意識を拡大するというのは、
一方で見れば破壊活動に似ているのですが、
しかしそうでは無くて、広範囲での意識そのものの
多様性を同時に立ち上げて、空無の中に、
真の意味構成を壮大に立ち上げる事なのです。

この総合的で高度で、多様多重の意味構成をなし得るのか?
おそらく芸術が、晩年のラカンの唱えたサントームという
第4の構造として出現してくるのは、
こうした高度な空無との対峙によるのです。

彦坂流に人類史を区分すれば次のようになります。

自然採取の原始時代・・・・想像界の時代(偶像崇拝の呪術の時代)
農業化社会・・・・・・・・象徴界の時代(世界宗教の時代)
産業化社会・・・・・・・・現実界の時代(物理科学の時代)
情報化社会・・・・・・・・サントームの時代(情報科学の時代)

こう考えると、
情報化社会は、決して原始的な想像界への回帰の時代ではないのです。

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お金を含む人間関係について(再論) [生きる方法]

人間の関係は、基本的には、2つの関係があります。

一つは、お金を介さない関係です。


もう一つはお金を介する関係です。



お金を介さない関係と言うのは、

家族の関係とか、友人の関係です。


お金を介する関係はビジネスの関係です。


この2つが、実は、起源が違うのです。


お金を介さない関係は、初期原始共同体のコスモスに起源があります。

コスモスと言うのは人間の秩序です。


ビジネスの関係は、コスモスとコスモスの間のカオスに起源があります。

ビジネスには、カオスがあるのです。

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ビジネスの関係に、深い意味を見る人たちがいますが、

ビジネスに作動しているのは、カオス空間なのです。


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気体分子ギャラリーの場合、ここにもお金の関係は介在はしますが、

基本にあるのは非営利的な関係です。

営利性そのものは、存在するので、

そのことを無視は出来ませんが、それをむき出しにすると、

関係性は、違うものに変質します。


それはコレクターとの関係や、

批評家との関係、雑誌との関係もそうであって、

美術の関係性そのものが、お金を介しながらも、

微妙に、原始共同体的なコスモスの中で、成立しているのです。


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デザインの業界の方が、ビジネスとしては割り切りが良いと思います。


アートスタディーズなどの仕事や、建築系ラジオなども、

基本はボランティアで成立していて、

その辺を間違えると、関係性が壊れます。


私のブログもそうですが、基本は無償で書いているので、

人間性が壊れると、昔のブログでもダウンして下ろしてしまいます。

作家と作家の関係も、それがカオスであるならば、

礼儀も尊敬もないのであって、

それはつぶし合いの競争関係と言うことになります。


彦坂理論では、自然はカオスであって、

基本的に悪です。

弱肉強食であって、そこには礼儀もなければ、挨拶もない。

無視か殺戮かの世界です。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


若いアーティストの場合、

作家としてどのようにやろうとしているかによるのです。


ビジネスとしてアーティストをやるのならば、

それは画廊の下請けの業者ですから、

その文脈で、つまりカオスの関係で付き合うことになります。

業者は業者同士の競争の中で存在しますので、

そういうビジネスのカオスの関係で、考えて行くと言う事です。


気体分子ギャラリー自体は、

小さなものであって、

作家を契約で拘束するものではありません。

それを必要としなければ出て行けばよいし、

必要とする作家同士が、協力する創造性の面白さの追求なのです。

そこには擬似的ではありますが、コスモスがあるのです。


その辺の擬似的なコスモスの呼吸が分からないのだろうと思います。

そのへんの事も、実は才能なのですよ。


自分が最終的に何をやりたくて、どのようにしたいのかを、

お考えになるのが、良いと思います。

擬似的なコスモスの関係が良いのか、

それともビジネスが持っているカオスの世界が合っているのか、

ということです。




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