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相対化と現実/善悪について(加筆1) [生きる方法]

物事の善し悪しを判断するのは、

難しいし、人によって価値観がちがうので、

今日では特に難しいことです。

たとえば昨日書いた携帯電話を持つかどうかにしても、

持たない人を擁護することはできるし、

同時に携帯電話を持たない人を嫌うこともできるのです。


つまりどちらでも良いように見えて、相対化しているのです。

ただ、相対化していても、大きな流れの中で見ると、かならずしも、どちらでも良いとは言えないところもあります。例えば、ワープロが出て来た時に、私はワープロに飛びつきましたが、手書きにこだわって一言をいう友人がいました。ところが時代は進んで、メールの時代になると、キーボードを使わないで来た事のしわ寄せがきたのです。あの時の一言は、時代の中で、踏みつぶされるのです。時代の流れは暴力なのです。適者生存という原則はあって、環境の変化に適応して行かないと、生きて行く事はむずかしく、淘汰されるのです。淘汰という現実の前では、必ずしも相対性は維持できないのです。

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善と悪という2元論が気になって、調べたことがあります。

私自信が、実はこの二元論自体が嫌で、アレルギーを起こしていたことがあるからです。それは自分の作品の制作の基本にかかわるところがあって、画面を2つに分割して終わって良いのか、それとももう一つ分割して、3分割で良しとするのかという問題にかかわっていました。そんな事とどちらでも良いではないかと思われるでしょうが、しかし普通の人にはどうでも良い事でも、美術の専門家としては、かなり気になることです。

 たとえば遠近画法でも、西洋遠近画法は2分割によって、まず地平線を決めることから始めます。つまり最初の画面分割が重要な意味を持ちます。それに対して東洋遠近画法である三遠法においては、その名前のとおり3分割が重要な構造を持つのです。

この理由は、西洋遠近画法においては、レンズを使った単眼構造で設定されているからです。レンズを基準にするので、俯瞰ということが禁止されて画法が成立しているのです。しかし実際の絵画作品では、そのような単純さは実はないのですが。

それにたいして東洋遠近画法は、透視面に対する人間の目の動きを基準に組み立てられているので、俯瞰法生きていて、その結果として水平の視覚、仰角の視覚、さらに俯瞰視覚の3つが組み合わさるという肉眼の目の動きが絵画構造をつくります。

 先ほど書いたように西洋絵画えも、実際には3視覚を意識して画面に取り入れているものはモナリザはもちろん、マネの絵画にも見られて、西洋絵画の、実は基本構造としてあるのですが、その事を日本の西洋美術史の解説では、比較的無視して書いているものが多いのです。

さて、こうした絵画の画面の組み立てに深くかかわる二元論と、三元論の問題です。三元論が、キリスト教の三位一体の教義にあって、実は物事の重要な認識枠なのです。

私の場合、三元論には感覚的に肯定的で、相性が良かったのです。

さて、今書きたいのは、アレルギーを起こしていた二元論の問題です。

つまり善と悪という二元論の根拠はなんなのか?

椹木野衣的に言えば、根拠は無いということになります。

今日の日本社会の中で、他人の意見を聞いて見て、その空気の中で判断をして行く限り、人それぞれで良いのであって、どうという事は無いのです。今の女性はタバコを吸う人が多いですが、それも各自の責任でどうでも良い事ということになります。しかしタバコの害は明らかになっているのですから、タバコを吸う女性は、いろいろな理由があるにしても、理性的ではないのです。その内に肺癌にでもなって、死ぬだけかもしれません。もっとも人間は理性的では、かならずしも無いので、女性がタバコを吸うのは相対的に自由ではあります。だからといって、愚かである事に変わりはないのです。毒は毒です。


つまり、思考の原型というのは、実は相対的ではなくて、歴史の中で反省をしてみると、それなりの根拠の上に形成されているのです。ただ人類の歴史が長くなり過ぎているので、初心を忘れてしまって、根拠が忘却の彼方に消えているのです。歴史を遡ってみて見ると、きちんとした根拠はあるのです。

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善悪の二元論の成立を、

キリスト教の神学の中で追いかけると、

カソリックの祖といわれるアウグスティヌスにぶち当たります。

神学というのは、前近代においては哲学であり、認識なので、馬鹿にできるものではないシリアスな人間の思考が見られるのです。

面白いのはアウグスティヌスは、もともとはマニ教徒だったことです。

そしてマニ教というのはゾロアスター教から出てきたのです。

そして二元論の源流のひとつがゾロアスター教なのです。

ゾロアスター教は、人類史の中での農業革命に深くかかわっていて、

原始的な自然採取の野蛮世界を悪としてとらえ、農業革命を経て確立された文明世界を善として、2元論を組み立てていたのです。

ゾロアスター教というのは、日本語では拝火教で、何か野蛮ないかがわしい呪術のように思われますが、世界の中でも非常に古いの宗教で、旧約聖書に大きな影響を与えた先行宗教で、人類の精神史にとって重要なものなのです。


文明を善とする闘いの歴史を述べるゾロアスター教の中で、善悪の二元論を理解すると、私は二元論に潜在している理不尽さが納得のいくものになったのです。

つまりゾロアスター教的に文明を善として見る見方からすると、岡本太郎やデビュッフェのように野蛮主義を主張する事は、悪なのです。今日の文明の中には、「文明の中の野蛮」がはびこっているので、野蛮こそが善であって、熱狂をもって迎えられるのですが、しかし、それは「文明の中の野蛮」という現象であって、クーラーや暖房のある部屋の中にいる野蛮人に過ぎないのです。本当の野蛮状態というものとの差を見損なうと、間違いになります。

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今日進んでいるリテラシー(識字)革命も、このゾロアスター教の起源にさかのぼって考えると、良くわかります。識字革命というのは暴力であって、文字通り革命なのです。それゆえに理不尽なのであって、暴力というものの単純さがあります。

携帯電話をもつというのは、暴力としてのコンピューター・リテラシーに屈して、この情報革命に適応する道を選ぶことなのです。

それに対して、携帯電話を持たない人は、心の根底において現在の情報革命に抵抗して、古いものに回帰することに快感を覚えるタイプのレトロ主義的な人々です。

実際に情報革命というのは暴力ですから、実は良いも悪いもないのであって、問答無用に暴力が作動しているのです。その場合、ゾロアスター教の考え方をとれば、古いレトロの世界が悪であって、新らしい情報化社会が善なのです。この暴力的な二元論の単純さが重要なのです。ここで線引きされるのです。

私が言っているのは、あくまでも現在の情報革命が、暴力であるといっているのであり、人類史の中での新しい意識革命であって、この展開は良くも悪くも凄いことだと、考えているということです。

 この単純な認識を持たないで、価値の多様性だけを言って論議することには、私は迷路すぎて興味が持てません。ジラールがいうように暴力というものの単純さが、文明の根底にあるのであって、根本にあるのは問答無用性なのです。それが良いと言っているのではないのです。事実であると言っているだけなのです。

携帯電話をも持たないのは各自の自由ですが、その選択の根底には、ゾロアスター教的な二元論の善悪の価値観があるのです。つまりレトロを良しとするのか、悪とするのか、の区分です。ゾロアスター教的に言えば、レトロは悪なのです。


悪に魅力はありますが、しかし悪は、かならず、行き詰まるのです。悪が際限なく栄える事はありません。


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コメント 9

たみ家

こんにちは
はじめまして
丸亀の梅谷さんのご紹介で、拝読させていただくようになりました。
二元論と暴力のお話は感銘というか快感が走りました。
by たみ家 (2009-07-24 16:22) 

ヒコ

たみ家様
コメントありがとうございます。
書きたかったことを、もう一度整理して書きます。

宇宙が膨張し続けるように人間の道具の進化を介しての進化の運動は続いているのです。それは暴力なのです。

この時に、2つの運動があります。
進化があれば退化があるという原則です。

これを分けて考える必要があります。そうしないと退化の衝動や退化の行動に対する過剰な称賛に走ることになるからです。退化することもまた歴史の必然ではあるので、これを意図的に使うことはよいのですが、退化そのものは限界があるのです。ですから何かが可能であると、退化の運動に過大な期待は止めたほうがよいのです。

by ヒコ (2009-07-25 00:26) 

丈

ゾロアスター教の開祖に注目したニーチェが「ツァラトゥストラはこう語った」書いた訳ですが、彼の書いた「善悪の彼岸」も彦坂さんの論を念頭に再読してみると面白そうですね。
by (2009-07-25 12:34) 

M

退化の先は死だと考えると、確かに限界があり、過剰な期待はできないのだなと
よくわかりました。

退化を意図的に使って、
昔のような自給自足を独立の手段として部分的に使っている
新しい人たちも沢山いると思いますが、
意図せず情報や教育などの面で退化が進み、
あまりにも都合のよい隷属状態になってしまうのは恐ろしいです。

先生の仰る、自己愛=自己保存は淘汰を志向していると言う旨は、
私の世代にとって、リアルな感覚です。
外部につながる、自由な流通の手段である通信は、使うべき権利なのかもしれないと思いました。
by M (2009-07-25 18:03) 

糸崎

興味深いお話ですが、ぼくはまさに携帯電話を持っておりません。

そしてこれは彦坂さんがアーミッシュを引き合いに出されたように、ぼく自身も「宗教」の問題として捉えてます。
「技術の進歩」が「暴力」だと言うのはもっともなことで、つまり「神なき時代」の現代において「技術の進歩」こそが「神」であるわけです。
「技術の進歩」とは、それを良き事として信奉する「宗教」だからこそ、狂信的で暴力的になるのではないかと思います。
そして、携帯電話を持つ人と持たない人では「宗教」が違うとすれば、「世界認識」や「空間認識」も異なり、一緒に仕事をすることに支障があるだろう事も理解できます。

ぼくは、人間にとっては「全てが宗教である」と捉えており、だからこそ自分が信じるべき「宗教」を、なるべく自分で選ぶようにしています。
これは、以前このブログのコメント欄で「全てはゲームである」と言ったのと同じ事です。
「技術の進歩」とか「携帯電話は便利」と言った言説は、「宗教」であり「ゲーム」であって、ぼくはそれに参加することにとりあえず懐疑的な態度を取ります。
もちろん、ぼくも人間ですから、あらゆる「宗教」や「ゲーム」から逃れることはできず、だから自分にとって相応しいものを自らセレクトするのです。

ぼくが携帯電話を持たないのは、言ってみれば中島義道さんに宗教的に師事しているのです。
ただ、真に宗教的な師の教えは非常に難解で、不出来な在家信者のぼくにはなかなか理解できず、それで試行錯誤しているのです。
しかしその反対に、大衆を扇動する宗教の教えは明快で分かりやすく、だから「大きな力」となり「暴力的」になるのだと思います。

ぼくとしては、「進歩・退化」の対立軸もひとつの「宗教」に根差していて、それが「ヒューマニズム」だと思うのです。
進歩が「人間の可能性」に根差しているのだとすれば、進歩にも「人体の限界」や「地球環境の限界」と言うものがあり、だから「退歩」を目指す人がいるのではないかと思います。
ただ、赤瀬川原平さんが「脳内リゾート」と言ったように、人体内にはまだ知られざる未開拓地があるかも知れず、だから「進歩」の方が優勢なのかも知れません。
「携帯電話」や「パソコン」の需要は過去には予測できませんでしたから、それは新たに開拓された「人体内の土地」だと言うことができます。

これとは別に、ぼくは「アンチヒューマニズム」と言うあり方の「宗教」も模索しており、それは「進歩・退歩」と言う対立軸の「脱構築」ではないかと思うのです。
そして、「芸術」というものには「ヒューマニズム」と「アンチヒューマニズム」の相反した要素が含まれていると思うのです。
ありていに言うと、芸術は「人間理性の証」であると同時に、芸術そのものが「神」なのですが、これについてはまだ考え中です。

以上、ぼくが言う「宗教」はあくまで「例え」であり、中島義道さんも「宗教者」ではなく「哲学者」ですので、そこはお間違えの無いようお願いしますw

by 糸崎 (2009-07-25 21:17) 

ヒコ

M様
日本の美術家では、この≪退化≫という方法を使う作家が多くいます。詳しく書くと長くなるので、別のブログを書かないとなりません。私見では、限界があって、晩年の作品が良くない傾向が強いと思います。

糸崎様
コメントありがとうございます。糸崎さんのように、文章を書いてお仕事にされている方が携帯電話を持たないでやられていることに、驚きがあります。お仕事相手の編集者の方は、さぞ、ご苦労の事だろうと、よけいな同情をするものです。

各自自由なので、糸崎さんの態度を尊重はいたしますが、私は私の態度で生きるしかないのだろうと思います。今回の越後妻有でも携帯電話なしでは作品を作ることは不可能でした。

各自が各自の思想と態度で生きることは尊重されるべきで、一致そのものは不可能なのですから、したがって、それが可能な範囲で、社会や人間関係が緩い形でつくられていくのが、今日の社会なのだろうと思います。

中島義道氏も極端な方で、面白い方だと思います。その考え方に賛同なさることも理解はできます。しかし私自信は、遠くから見ている範囲のもので、失礼な言い方になりますが、ある特殊な方としてカッコにいれてしまいます。ある種の別のアーミッシュでおられるように見えるのです。どのようなアーミッシュでも、それはそれで良いのではないでしょうか。
by ヒコ (2009-07-27 10:16) 

ヒコ

丈様
いつもコメントとナイスをありがとうございます。私自身は、ご指摘のようにニーチェから、逆にゾロアスター教を知ったのであって、こういう古い原型の中に、私たちが使っている認識枠の基礎を見るのです。
by ヒコ (2009-07-27 10:23) 

糸崎

携帯電話はパロール(話し言葉)で、ブログや掲示板はエクリチュール(書き言葉)ですね。
そして技術の進歩は、パロールやエクリチュールの利便性を拡大すると共に、その暴力性も拡大しています。
恐らく、ぼくはエクリチュールの暴力性は割りと平気だけど、パロールの暴力性には「弱い」と言うことになるかもしれません。

エクリチュールの暴力性は、言葉が保存され、コピーされて増殖し、異なる文脈とコラージュされてしまう、と言ったことです。
このエクリチュールの暴力性は、ブログや掲示板の炎上などに現れていますが、こういうのはぼくは割りと平気です。
また、最近過剰に騒がれている感のある、ネット上の画像の著作権や肖像権の問題も、エクリチュールの暴力性の問題と同一に思えます(画像を視覚言語だとすれば)。

パロールの暴力性は、相手の時間や空間を奪うことでしょうか。
電車内での携帯電話の使用は、周囲の人間の「静かな空間」を奪います。
また、不意なタイミングにかかってくる電話や、長電話は、本質的にはそれによって「自分の時間」が少なからず奪われるわけです。
ぼくは中島義道さんのような「スピーカー音」はあまり気にならないのですが、基本的に「パロールの暴力に弱い」と言う点で一致してるように思えます。

パロールの暴力に対抗し、「自らパロールを使わない」と言うのも、相手に対しての「暴力」になりますね。
携帯電話での連絡が常識の世界で、一人だけそれを使わないというのは、それだけで迷惑になりますから「暴力」です。
「パロールを発しない」のもひとつのパロールだとすれば、そこに固有の「暴力性」が内在するでしょう。
例えば相手のミスをとがめようとして、その相手が終始「だんまり」を決め込んでいたら、それだけで頭にきてしまいます。
それと同じ問題が、「携帯電話を使わない人」にもあるかもしれません。

幸い、今のところぼくが携帯電話を持たないことで、仕事上決定的に問題になることはありません。
雑誌の仕事は、基本的に一人で書いた原稿を納品するだけなので、パソコンが無いほうが格段に相手は不便だと思います。
それとぼくが「芸術家」として、大目に見られてることもあるのかもしれません。

これに限らず、世間では「芸術家」と言うだけで多少常識を逸したり社会性が無くとも許される風潮があります(もちろん、それなりの実績が認められてのことですが)。
それは、そもそも芸術家という存在自体がアーミッシュだからで、それがある程度世間に認知されてるからだと思います。
芸術家の生み出す芸術作品は、「機能主義」や「大量生産」に真っ向から対立してますから、世間からはかなり特殊なものとしてカッコに入れられてるはずです。
でも「芸術」には太古の昔からの「呪術」の伝統を引きずってますから、そういうことに世間の人は(無意識的にでも)一目置いてるのかもしれません。

まぁしかし、ぼくから見れば「携帯電話」のほうが呪術と言うか「迷信」に思えてしまいますw
どのような形であれ(何を拒否するのであれ)、アーミッシュ的な人間は世間からつまはじきにされるかわりに、「世間を外側から見る」視点を獲得してるのではないかと思います・
「世間を外側から見る」と言う方法論は色々あるでしょうが、ぼくの場合は「携帯電話を持たないこと」がそのひとつであるわけです。
彦坂さんはまた別の方法論で、アーミッシュ的なのであって、だからこのような面白いブログが書けるんじゃないかと思います。
ぼくも見習いたいですが、なかなか実力が伴いません・・・

by 糸崎 (2009-07-28 13:33) 

ヒコ

糸崎公朗様
良いコメントをありがとうございます。お気持ちお考え良く分かりました。芸術家がアーミッシュであるというのは確かですね。私自身も同様であるのも確かです。携帯電話は、持っていない人には不自由はないのですね。回りの人間が、連絡が巧く出来ないので困るのです。前に建築系美術ラジオで、コラージュの話を企画した時も、糸崎さんには巧く連絡が出来なくて、あきらめました。後からメールをいただいているのに気がつきましたが、遅くて、そのまま失礼しました。
 携帯電話を持たなくても良いとは思います。一人一人の仕事の仕方や人間の関係の作り方だと思うのです。私はとにかく《近代》個人主義を解体する方向に暴走しようとしているので、携帯が無いと無理ですね。他者の欲望と向き合う事で、少しでも仕事を刷新しようとしているのです。とは言っても、相変わらず、同じ作品を作ってはおりますが。
by ヒコ (2009-07-29 05:33) 

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