SSブログ
生きる方法 ブログトップ
- | 次の10件

人間関係の素描(校正1) [生きる方法]

人類の歴史も、長すぎて、複雑になってきている。

 そのために、今日起きている事柄も、

どのように整理していいのか、判らなくなるのです。

 特に人間関係は、難しくなっています。

以下に述べることは、その概略のデッサンです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人間の歴史を、簡単に次のように整理します。

■自然採取の時代

 ここでは人間は小グループ(猿の群れからの類推では最大で120人くらい)で、定住はしないで移動し続けていました。この人間関係の基本、グループ外からの婚姻関係を含む血縁集団です。

 このグループの内部には、貨幣経済や流通システムは存在しませんでした。この原始共産制の人間関係が、人類のユートピアであって、その後の人間関係も含めて、常にこの貨幣経済を含まない直接的な人間関係への希求が、人間関係の欲望の原動力になります。

 この原始共産制の共同体が複数あって、この間で交易が発生します。それが沈黙交易です。つまり原始共同体の内部はコスモス(秩序)ですが、その外部であるカオスから、交易というビジネスが生まれ、やがて貨幣が生み出されます。このカオスから生まれた交易=ビジネスが、歴史が進むに従って、次第に共同体であるコスモスの内側に折り返されて、コスモスを切り裂いていく形で、共同体の構造を変質させていきます。

 現在の高度消費社会というのは、交易=ビジネスというカオスから生まれたカオスの変形物が、人間の諸関係が持つはずの原始共産主義的秩序をズタズタに切り裂いている状態です。

 今日、ボランティアやNPOなどの非営利的活動が要請されるのは、人間の社会の本来の秩序=コスモスを回復するには、交易=ビジネスの持つカオス性を排除した人間関係が重要だからです。

市場の持つカオス性は、抑制されないと、実は社会そのものが解体されてしまうほどのカオス原理で作動する機械なのです。このことを良く現した結果が新自由主義の暴走が生み出した現在の金融危機です。

■農業革命後の文明社会

 さて、話は長いのではしょっていきますが、人間が定住してエジプトに代表されるような文明社会を形成すると、それまでの原始共同体の血縁秩序に、さらに地縁秩序と、世界宗教によるモラル秩序=象徴界の秩序が、人間関係を形成することになります。

東アジア文化圏では、それは儒教秩序が代表するような恩や義理等々の封建意見秩序関係です。

■産業革命後の近代社会

産業革命が成立すると、人間社会は近代化されるのですが、近代は、その前の象徴界秩序での人間関係を解体する運動となります。

封建秩序を否定することで、近代個人主義を前提に、平等性や人権、自由、博愛などの理性的な価値による人間関係の再編が行われるのです。

■情報革命後の現在

はしょって書きますが、現在の情報革命は、これら近代の理性的人間関係と称せられていたもの、つまり大文字の人間そのものの死と解体の中で、再編が進んでいるのです。

 人間=近代ヒューマニズムが死んだのが現在の社会です。

 これが何に帰結するのかは、最終的な姿が見えませんが、かつての血縁、地縁、封建的諸関係、さらに学閥、会社関係等々では無い関係に、流出してきているのです。

この古い人間関係の解体を進めているのが情報リテラシーや、コンピューターリテラシーの作動なのです。この暴力的な破壊力は驚くべきものがあって、それが指し示しているのは、かならずしもグローバルな世界の形成ではなくて、あたらしいし小さな擬似的な共同体ともいうべき島の形成にむかっているのです。石鹸をとかした水にストローで空気を吹き込んだような泡の無数の閉じた球体世界の乱立と集合の世界。この新中世世界の形成に、世界構造は向かっているかのようなのです。

整理すれば、私たちの内側で作動する様々な過去系の人間関係、それは血縁関係であり、地縁関係であり、学閥、ビジネス関係、等等の関係の中で、原始共産制の失われたユートピアへの回帰衝動と、金銭的な欲望と、さらには新しい情報化社会の社会秩序を模索する情報リテラシーを巡る関係の性の探求といった、複雑な欲動機械の作動なのです。

その中で、多くのアーティストは、自己愛の盲目性にとらわれて、他者排除の機械と化しているのです。

 しかし、文化そのものは、他者愛の可能性を模索する動きもまた強く作動し続けているのです。他者への愛を欠いては、文化は形成できないのです。

原始的共産主義

封建的秩序

近代の人間秩序

そして現代の人間の死以後の秩序

この4つの人間の関係の重なりと、相互の否定破壊関係が問題を複雑にしているのです。


nice!(2)  コメント(11)  トラックバック(1) 
共通テーマ:アート

主体を立ち上げる事(加筆2校正1) [生きる方法]

先日私よりは20歳くらい若い友人、つまり40歳代の人と話していて、
「主体を立ち上げる」と言ったら、
その意味が分からないと言われました。

自然というのは、主体を立ち上げないと、美しく見えるのです。
しかし主体を立ちあげると、凡庸に見えるという話をしていた時の
反応が、「話が分からないという」という事だったのです。

自然を鑑賞する態度によって、
美しく見えたり、
凡庸に見えたりするのです。

この自然との向き合う人間の態度に、
主体の確立というのは、
関わっているのです。

自然性にゆだねれば、
主体は立ち上がりません。

分かりやすい例でいうと、
自然性にまかせていたら、
マラソンで、オリンピックで金メダルはとれません。

マラソンを走って金メダルを取るという事は
不自然な人工的な行為なのです。
この不自然さとして主体は立ち上がります。

最言葉が通じないという経験は、何度も味わいますが、
「主体を立ち上げる」ということも、
他人に説明することが、すこし難しい事です。
その難しさは、こうした自然/不自然に関わっているからです。

芸術論の中では、
ハイアートと、ローアートの区別を生む、
大きな要因が、この主体と自然性の問題です。

自然との関係でいうと、
自然と否定的に向き合うのがハイアートで、
自然を肯定的に愛するのがローアートです。

・・・・・・・・・・・・・・・
分かりやすい例を上げると、
本名で、文章を書いたり、書いた文章に責任を取るという態度が
主体を立ち上げるという事です。
本名で文章を書くというのは、実は反自然的なものなのです。

つまり、署名して原稿を書くという事が、
主体を立ち上げる事です。
文章を書くという識字性が、反自然なのです。
識字というのが、反自然で、文明の基盤を作っているのです。

しかし、
文章を署名入で書いていても、
それを本にするのを嫌がる人がいますが、
これも書いたものの責任をとって、主体として立つのを、
回避しようとしているからです。
自然性に回帰しようとしているのです。

つまり署名原稿を書いているからといって、
必ずしも責任は取っていないし、
主体は立ち上がっていないのです。

つまり主体というのは社会的歴史的な責任と密接に結びついています。
分かりやすく言えば、昔の武士のように、
責任をとって腹を切っていくということにおいて、
主体は立ち上がります。
切腹というのは、反自然な行為なのです。

千利休が腹を切っていった意味というのは、
一つの美意識や芸術観が、
社会的歴史的な責任を取る事で、
主体として立ち上がる事です。
ここにおいて、芸術はひとつの根拠を示したのです。
そしてこうした利休のハイアートは、反自然なのです。

日本芸術の本質的な根拠は、
この利休の切腹にあります。
だからこそ、三島由起夫もまた、
切腹を模倣したのです。

名前を伏せた匿名で書いたり、物事の責任を取る事を避けるのは、
主体を立ち上げないという事なのです。
主体を立ち上げなければ、腹を切らなくてすみます。
生き延びるためには、主体は立ち上げない方が良いのです。

つまり自然というのは匿名であって、無責任なのです。
実際、台風や地震にしても、無責任です。
その被害に対して、自然は責任をとりません。
自然は切腹をしないのです。

つまり責任をとるというのは人工性なのです。

つまり主体を立ち上げるというのは、切腹を意味するのです。

ですから、何があっても責任を取らない役人というのは、
主体がありません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

哲学的には、主体というのは意識のことで、
感覚を通して、物事を知り、物事を見る事です。

物事を知ることや、見る事には、実は反自然であり、
署名性や、責任がつきまとうのです。

言い換えると、物事の善し悪しをはっきりとさせるためには、
主体を立ち上げて、責任を明示しないと、
はっきりとは見えないのです。
それは反自然な行為なのです。

物事を知ること、そして見る事というのは、
こうした歴史的社会的責任と密接に結びついていて、
ソクラテスやエックハルト、そして利休のように、
それは死に至る、極めて危険なものなのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ハイアートというのは、
この責任をとる主体を立ち上げる事が、
表現の様式や内容にまで及ぶものです。
だからハイアートは、反自然なのです。

それに対して
ローアートというのは、
生き延びるためのものです。
表現の様式や内容が模倣の連鎖であって、
伝承の連続を基盤にしているものです。
実例としては民謡です。
それは自然の美しさに満ちています。

ハイアートの場合には、
伝承を切るところがあって、
切るという形で、個人の署名と責任を明示していきます。
つまり、この伝承性を切るという事が、
切腹につながる危険な人工的な行為なのです。
それは同時に主体として、物事をはっきりと見て、知る事なのです。
それが文明なのです。

事実を調査し、歴史的にも事実や資料を精密に調べ、
そしてよく考えて、その構造を抽出するといった
十分に根拠づけられた知識というのは、
主体を立ち上げる事においてのみ、可能なのですが、
実は、こうした文明的な作業は、危険な行為なのです。

なぜなら、社会の基盤というのは自然性にあって、
こうした十分に根拠づけられた知識の文明的人工性では、
動いていないからです。

・・・・・・・・・・・・・・・

ハイアートに対して、ローアートには匿名性があって、
この匿名性や伝承性に、深い意味を見いだしている
心理があります。
それは集団や群れの中に溶け込む事で、
そこに伝わる自然性の意味の永続性に、
すべての根拠を置く心理があるからです。

匿名性の中で生きるというのは、
自然の中で生きる事であります。

実は、物事をはっきりと知るとか見るという事を、
しないということを事を意味します。
物事をはっきりと知るとか見るとかではなくて
集団が信じている迷信に、真理を感じるのです。

集団が信じる先入観や迷信、クリシェイな思想を繰り返し言って、
多くの人は満足しているものです。

このローアート的な、
集団の迷信世界こそが自然性であって、
実は社会の基盤であります。
80パーセントに人は、この中にいます。

ここでは、はっきりと知るとか、
明確に見るという事が、
できないのです。
調査する事もできなければ、学習することもできません。
無知無能なのです。
恐ろしく怠惰で、怯懦に満ちています。
この無知無能で、怠惰で、臆病な存在にこそ、
人間の深い本質と事実と真理が存在しているのです。
この人間の闇の深さこそが、
世界の本質なのです。
それが自然なのです。
自然は深い闇です。





nice!(1)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

蛸壷について/リテラシーという暴力(改題、最終章大幅加筆1) [生きる方法]

ここは2です。

彦坂尚嘉の《第41次元》アート1の記事を読みたい方は、
下記をクリックして下さい。
http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/


蛸壷について/リテラシーという暴力

◆◆1◆蛸◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

4480.jpg
タコは、軟体動物門 頭足綱 八腕形上目 タコ目に分類される動物です。

img6178960ezik4zj.jpeg
海洋性の軟体動物で、主に岩礁や砂地で活動しています。
海にしか、いないのですね。

1165685528.jpg
複数の吸盤がついた8本の触手を特徴としています。
一般にはと呼んでいますが、
学術書などではと表現されるものです。

madako.jpg
無脊椎動物の中で最も高い知能を持っていて、色を見分けます。
形を認識する事や、問題を学習し解決する事ができるのです。 
身を守るためには、保護色に変色し、地形に合わせて体型を変えます。
その色や形を2年ほど記憶できることが知られているのです。

つまり知能が高いと言う意味では、人間に似ているのです。 

◆◆2◆蛸壺◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

middle_1181921074.jpg
タコは体を保護する固い殻などを持っておらず、
身を守るため普通、海底の岩場の中に潜んでいます。

体を保護する固い殻を持っていないと言う事では、
人間とタコは、良く似ていると言えます。

タコは、潮がゆるくなる時間帯を見計らい岩場から出てきては、
砂地などでイシガニや小魚、などを短時間で捕獲します。

潮が変わると慌てて住処に戻ろうとします。
隠れる場所の少ない砂地はタコにとって危険地帯であります。
そこに絶好の隠れ場所として蛸壺があれば、
タコはこれ幸いと入っていくのです。
tbw1.jpg

人間もまた、隠れ場所としての蛸壺を必要としていて、
多くの人は、蛸壺にこもる事が好きなのです。

52116931_bf4f9dbc0b.jpg
蛸壺(たこつぼ)は、タコを捕獲する目的で漁師が使う壺で、
明石がその発祥の地といわれます。
人間の蛸壺は、建築なのでしょうが、建築だけでなくて、
精神的にも、自分の内側にこもろうとする構造があって、
こうした心理的な自閉の構造が、蛸壺と言えるものなのです。

DSCN31931.jpg

タコのための蛸壺は主に横にして使うため、
多くは胴に平らな部分があって、
カマボコ型になっています。
これはの流れなどの影響を受けないようにするためなのです。
古くは首の部分のくびれた単純な素焼きの壺が用いられました。

海底から蛸壺を引き上げる際も、
壺から逃げるタコは滅多におらず、
蛸壺の中でじっとしています。
これが蛸壺漁の原理なのです。

◆◆3◆◆子宮回帰衝動◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

人間と言うのも、実は、蛸壺の中で、命を始めます。
つまり子宮ですが、お母さんの子宮と言う蛸壺の中で、
成長するのです。

ですから、臨月になって、この蛸壺から出産されると言う事が、
重要なことになります。

つまり子宮から出なければ、人生は始まらないのです。

この出産されること、つまり自分の生息し、安全である場所から
でることを、ネグリ/ハートの用語を借りて、
《脱領土化》と、ここでは呼んでおきます。

正確には、ドルーズ/ガタリの使った用語で、
どこかに根を張って動けないという蛸壺の心理状態が領土化ですが、
それを脱して、蛸壺の外に出て行くという出産化の運動が、
《脱領土化》です。

つまりアイディンティにこだわり、自分探しを追い求めて、
自己同一性を強引に形成しようとすると、
《自己愛》性人格障害になるのです。

その逆に、子宮回帰願望を抑圧して、
不安に打ち勝って、
外部に出て行く事によって、
人間は未来を獲得します。

しかし、外部に出る事は《恐怖》があるのです。
人生の秘密は、この外部へでる《恐怖》との格闘という
心理問題にあります。

多くの人は《恐怖》に負けて、安心できる蛸壺の中で、
人生を終えるのです。

【続きはここをクリックして下さい】


nice!(3)  コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート
- | 次の10件 生きる方法 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。