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まつろわぬもの(加筆2) [生きる方法]

私はアートマネージメントをする人を捜して、10年以上をついやしてきています。結論で言うと、あきらめて、自分でマネージメントをする事にしました。とは言ってもギャラリーARTEの梅谷幾代さんや、アートフロントの奥野恵さんをはじめとする優秀なマネージメントの人々に助けられて、私は存在しているのです。ついこの間までは、ギャラリー手の杉山旭さんでしたが、残念ながら閉廊して、ザ・マーケットというオークション会社の専従になってしまわれたのです。ですから、私の方もギャラリーを移籍したのです。作品そのものも含めて、奥野さんや梅谷さんの意見やアドバイスは、現在大きいものがあります。

それでもなお、マネージメント全部をお願いする関係にはならない。それは彼らに限らないのですが、私の付き合って来てくれたギャラリーと言うものは、作家研究はしないのです。過去のギャラリーで言えば、カンワイラーや、日本の山中商店といった大画商さんは、作家研究をしましたが、人間は自分の事を考えるのが精一杯で、作家研究はしない。私の気体分子ギャラリーは、扱う作家の研究はします。伊東直昭さんについても、次回の斉藤ちさとさんについても、作家研究はしています。もっとも作家研究をすると嫌われると言う事もあります。なぜなら良い所も、悪い所も見つめようとするからです。そのために、声をかけても展覧会が実現しない事になる例は、いくつもあります。作家自身が、自分のことしか考えない人は、こちらも、あきらめることにしています。作家の才能は夏草のように生えてくるのであって、才能のある新人は無数にいるのです。そしてすぐに枯れる。

正確に言うと、今日の情報化社会というのはサントームの時代であって、美術作品の制作という、その制作そのものがサントームに移行しているのです。作品をセザンヌのように制作する事は、不可能になっているのです。制作した所で、作品そのものを情報化しなければ、存在しない事になるのです。情報化社会と言うのは、情報化したものだけが存在しているかの様な面があるからです。作家の才能も、自分の作品だけに集中していれば5年がピークで、すぐに凡庸になります。

サントームというのはラカンの用語ですが、人間の精神の三界・・・《想像界》《象徴界》《現実界》の関係性が崩壊すると人間は気が狂うのですが、この崩壊をつなぎ止める第4の輪がサントームです。狂気に転げ落ちる寸前の時代の中で、正気を保つつなぎがサントームで、芸術とはサントームになったのです。いかにして、狂気の渕を、狂気に転落しないで歩いて行けるのか?

ですからサントームというのは、つなぎ止める環のことです。マネージメントとか、組織化、そして管理の仕事なのです。つまり彦坂流に言うと、今日の管理社会というものが、サントームの時代と言う事です。そして芸術の制作と言うのは、実は物を作る事ではなくて、物事を関係づけて管理して行く事に移行したのです。それがシュミレーショニズムであり、シュミレーショニズム以降の作品なのです。ですからサントームとしての芸術と、時代の流れは敏感に対応しています。2002年から2007年10月までのアメリカの根拠無き熱狂と密接に関係づけられていた時代が終わった今、新しい時代が始まっているはずなのですが、これは海のものとも山のものとも分からない。混沌とした中を、現在は進んでいるのです。はっきりとするのには6年くらいの時間がかかるでしょう。

彦坂尚嘉の芸術分析や、アートの格付けと言うのは、このサントームの時代の芸術の管理技術の問題であると言うことになります。

いくら物としての作品をつくっても、それが《8流》であったり《6流》であることよりは、《1流》であったり、《超1流》であること、さらには《41流》であることの問題が大きいと言う事です。もちろん逆の事も言えて、時代にマッチしてくためには、実は《第8次元》や《第21次元》次元の方が、良いのだとも言えるのです。それはそうなのです。

問題なのは物ではなくて、そのクオリティの管理なのです。クオリティ管理を欠いた制作は意味が無い時代になって来ているのです。

アートをいかにして管理できるのか? それが重要なのです。

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むかし、ハイネッケン・ビレッジという、ビールのハイネッケンのアートメセナのスペースがあって、その最後に、私は作品を出品しています。最後と言うのは、ハイネッケンがアートの文化メセナから、撤退したからですが、その時にお会いしたのが、そのハイネッケン・ビレッジのマネージャーだった一色さんという美しい女性だったのです。一色さんは独立なさって、アートマネージメントのお仕事をなさるようになって、日本人アーティストの海外マネージメントをなさっているようであります。噂は聞きますが、直にはお付き合いできていないので、詳しくは知りません。この一色さんが出現してくる時期に、アートマネージメントを専門にやる女性たちが8人ほど出現して来て、私もそういう方にマネージメントを頼みたくなっていたのです。

それはそれまでに付き合って来た画廊が、箱にこだわっていて、画廊という蛸壺に潜り込んでいて、外部を見る視線を欠いていたからです。そこで、箱を持たないマネージメントの人を捜して、ずいぶんと何人もの人とおつきあいを試みましたが、駄目でした。ギャラリーARTEさんやアートフロント・ギャラリーというのは、箱に閉じこもらないから新しいのです。彼らはギャラリーとして新しいのですが、ギャラリーを持たない、完全な箱無しのマネージャーを夢想したのです。対最近も、実はそういう仕事を希望しているという女性2人と、仕事の構築を試みていたのですが、2人とも失敗しています。その時にも感じたのですが、その女性たちも、宗教心が無いというか、運命愛が無いのです。

一人の人間が、生まれて生きると言うのは、
実は自由が、極めて限られているのです。

自分は、自分の意思では親を選び得ないし、生まれる時代も選ぶことが
できません。

生まれる国も、地域も、文化も選び得ないのです。

生まれると言う事は、否応も無い受動性の中で生まれて、
自分の運命を引き受ける所から、始まるのです。

こうした自分の運命を愛する気持ちがあって、
はじめて他人と出会うことが出来るのですが、
こうした出会いに於ける運命愛が無いのです。

だからマネージメントをやりたいと言っていても、
実際に実現して行く力が無い。

物事を実現して行くのは、むずかしいのですが、
それでも何とか、少しでもやり遂げて行くのには、
こうした、ある種の決断が必要なのです。

さて、そうしていたら昨晩から今朝にかけて、
川瀬貴也の『「まつろわぬもの」とっしての宗教』という文章を
読みました。
『思想地図』(日本放送出版協会)Vol.1に収録されているものです。

医療現場の問題を透して、現代日本の宗教の位相を描き出しているのですが、その指摘が、近代という物理科学の中で、古い文化であるプレモダンの宗教を、ノイズとして排除する風潮の問題点を、極めて冷静に、今日的なライターの感覚で書いておられる。

それがアートマネージメントをしたがる女性たちの弱さをあぶり出している面があって、感銘をうけたのです。

今、私のやっている越後妻有トリエンナーレもそうですが、作品規模は号数で言うと7000号を超える大きい作品ですから、半端な精神では出来ないのです。出来ない所を切り開いて行く、冷静な認識と、具体的な方法と、そして作品として仕上げて行く落とし込み方が、重要なのですが、こうした闘いをして行く時には、川瀬貴也の指摘する「まつろわぬもの」という精神が重要なのです。

まつろわぬもの」というのは、抵抗者のことです。社会にただ順応する事ではなくて、どれほどの犠牲をはらっても、抵抗して行く何かの存在です。

その根源に運命と、宗教の本質を見る川瀬貴也の冷静な眼差しは、認識者として透徹しているものであると思いました。

日本の現実の中で美術をやって行く時に、日本社会の大勢や常識にあわせて、結局は《6流》や《8流》の凡庸なものへの同化に活路を見出し、なによりもデザインになって行くというのが多くの作家であります。これではサントームとしてのアートは成立しません。いや、逆に《第6次元》とか《第8次元》、さらには《第21次元》こそが、サントームであると言う意見もまた、真実ではあります。しかしそれは抵抗ではありません。

現在の大勢に対して、あくまでも抵抗して行くという姿勢が無いと、芸術も、真の意味で芸術としてマネージメントが成立して行かないのです。

しかし彦坂尚嘉の理論では、宗教とか、神の定義は、常識とはずいぶんと違うものであります。立教大学の大学院でも、宗教や神の言葉は出していますが、それはあくまでも全人類の歴史の中で位置づけであって、常識とはまったく違うのです。

原始社会の呪術という、《想像界》の領域を否定するものとして書き文字が出現しますが、この書き文字の出現が《象徴界》であって、それが神であって、宗教というものは、彦坂尚嘉の理論では既成宗教教団や新興宗教の教団ではなくて、あくまでも識字であります。つまり書き文字の世界が神であり、《象徴界》なのであります。

モーゼの十戒でも書き文字ですし、聖書そのものが神の言葉として書き文字として出現するのです。つまり書き文字が神であって、文字としてしか神は存在しないのです。

つまり今日の脱宗教の風潮は、実は書き文字文化の衰退であって、文字としての文化に
依拠しない非識字者の精神状態なのです。

実は、私の世代でもこういう非識字者は多いのです。

本は読んでいるのですが、その読み方が精神として読むのではない読み方で、つまり読んだフリをしていて、本質は非識字者である人が多いのです。何故に本を読みながら、本を読み得ないのか? それは書き文字が、神であると言うことを、認識できないからです。文字が神であると思わないと、文字が読めないのです。文字文化の衰退そのものは、実は今始まった事ではなくて、もっと昔から進行している非識字の事なのです。

なぜに、非識字者が増えるのか?
一つは近代になると物理科学が主導権を握って、書き文字を否定して、数学という形での真理を、《現実界》として切り開いたからです。これはラカンの論理とは違う説明なので、ラカンの用語を使いながら、彦坂尚嘉流の《現実界》の定義になります。彦坂尚嘉の使用法だと、《現実界》の成立は、禅の不立文字や、物理科学の数学によって切り開かれる領域となります。


近代物理学が成立すると、《象徴界》の言語としての本と言うものを真面目に読まなくなるから、彼らは祈る事も、そして神を見る事も出来ない。神と言うのは、あくまでも《象徴界》に屹立する文字でしかありませんから、この不動性において面白いのですが、このことを排除してしまう。コスースをはじめとしてコンセプチュアルアティストが、何故に書き文字を使うかと言えば、それが《象徴界》を成立させ、書き文字が神だからです。

しかし逆に言えば、宗教と向き合わないと、書き文字とも出会わないし、そして自分の運命とも出会わないと言う事になります。

数学の数式の中には、運命は存在しないのです。

自分の運命を愛し、追いかけない人というのは、数学だけを信じて、つまり《象徴界》の書き文字を読んでいない人なのかもしれません。まつろわぬもの」というのは、実は古い書き文字に依拠する者たちなのです。

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今日の情報化社会の識字と言うのが、
情報リテラシー、あるいはコンピューターリテラシーというように、
言われていて、それがどこまでを指しているのかは、
正確にはわかりません。
しかし、普通の書き文字、数学/数式/、さらにコンピューター
と言う風に、知識の基盤が変わって来ているのです。
それは作品制作の基礎教養の変化でもあるのです。


作品制作という概念そのものが、変わって来ているのです。



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