夏のコタツはクーラー付きで冷たい [建築]
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すでにこのブログでも紹介しているように、
建築系ラジオで、コタツ問題というのが起きている。
大杉哲也と伊藤友隆という若手の二人の作品が、実物制作で、ひどかったのです。たしかにひどすぎて、私なんかは無視するだけで、相手にするべきものではありませんでした。建築系ラジオから大事なお知らせがあります。アート・スタディーズと建築系ラジオによる越後妻有アートトリエンナーレの合同ツアー3日目の夜、山田幸司さんによる謝罪会見がありました。そしてある問題作をめぐり、通称「こたつ問題」の欠席裁判へ。建築系ラジオが送る「出会い系カフェ問題」以降、最大の問題作。今後のアイディアコンペのあり方の是非も含め、美術系と建築系のメンバーが混じって討議します。果たしてその行方は?(2008年8月11日、越後妻有津南エリアかたくりの宿にて)。
35A: 建築系ラジオ緊急謝罪会見「『こたつ問題』欠席裁判」
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越後妻有トリエンナーレには、建築系の人も、かなり出品しているのですが、その問題です。松代の農舞台のある敷地の芝生の上に、大きな正方形のパネルが4枚くみあわされて、大きなパネルになっているのですが、その3つは何とかくっついているのですが、1枚が巧く合わさらないで、かなり大きな亀裂ができているのです。この亀裂は、大きなパネルを合わせる時の、不可避的な問題なのですが、しかしそもそも水平も出ていない芝生の上に、巨大なパネルを4枚置いて、それが巧く合わさると考えこと事態が、《想像界》の思考であって、その愚かさはどうしようもないものです。とても東大工学部の学生とは思えない無知さなのです。
こたつの動画を、木村静さんが、アップしてくれました。
http://www.youtube.com/watch?v=vRHOf_fnnT0
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アイディアコンペというのが、建築にはあるのです。彼らはアイディアコンペデ、賞金数百万円のものを、いくつも取っていると言う、東大工学部建築家の大学院かなにかの、カリスマ学生で、大スターなのでした。そのいくつ家を五十嵐たろうさんに見せてもらいはしたが、《想像界》の産物で、昔のオルデンバーグの、大きくすれば現代美術的なアイディアのものでありましたが、奇妙なシニフィエ(記号内容)だけを指し示している軽さがあって、人を魅了する力があるのです。
こたつのさらなる偽造疑惑。
ツマリのHPの彼らの作品のCGは、下部がカットされています。
確かその部分には、穴があったのではないのでしょうか。
できなかったから、トリミングなんでしょうね。
http://www.echigo-tsumari.jp/2009/artworks/index.php?id=518
山田
architecture_database
http://d.hatena.ne.jp/arch-database/20090816/p1
最近のコンペの結果を見ていて、ラジオでも言及されていますように時代の流れとしてSANNAの両名や石上純也氏といった抽象的な空間が好まれてるなぁ、と思っています。アイデアコンペのような紙媒体の提出物のコンペでは表現はそこで評価されればいいと思いますが、現実に建てるものにおいてはそれがどのように実現されるのかという点まで考慮されるべきだと思います。(この点はラジオでも言及されています)
学生の努力、図面と実物の乖離、それが問題なのか?
で、ラジオではこの後、このアート作品の設計者は努力したかどうかといった話につながっていくのですが、ここでは違う話に移していきます。
少なくともこれは「努力」というテーマで語られる話ではなくて、東京大学という日本の最高の大学においてでさえ建築教育ができていない、と捉えるべきなのではないかと考えます。「建築」は図面を使って表現する「人・こと」と現場にて実際に作る「人・こと」を分けていることにより成立しているわけですから、この問題は大学ではその図面と実物の間のズレがなくなるように建築教育がされていないということを表しているといえます。また、それを選んだ審査員に関しては「建築」を見る目がないと評価されてもおかしくないでしょう。もし、この作品を選んだのが建築家の方でしたら、この審査結果がその人の作品の評価にも影響を与えるはずです。五十嵐氏は「この学生は表現がうまい」「抜群に目を引く」と言っていますが、この作品のどこに応募者の「建築」に対する考えや姿勢を見出したのか、プレゼンのどの表現を建築として良いと思ったのか、その点を語るべきだと思います。
審査員としての資質とは
「みなさんこの案を一等にすることが、どういう影響を与えるかを考えてますか?」
何年か前にせんだいメディアテークで行われた卒業設計展で一等を決める会議の間にある審査員の建築家が言われた一言だったと記憶しています。この「どういう影響」というのは、もちろん今後の学生に対してということだと思いますが、その作品を一等に押すということが、その判断をくだした建築家の建築観を表しているという意味もあるはずです。
このラジオ収録は欠席裁判で、制作者たちがいないところで笑い声まじりで行われてます。おそらくその笑い声は、「自分たちは関係ない」ということを意味するのだと思いますが、僕は一番に弾劾されなければならないのはこのアートのコンペに参加した建築側の審査員でないかと思います。
ぜひ、石上純也氏や大西麻貴氏の作風に似てるということではなく、そのコンペの応募案のどこに「建築」なるものを見出したのか、その説明が行われることを期待します。
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模倣の連鎖も指摘されています。
一番早そうなのはNY GIRLさんの指摘のプレイという美術系のグループのベンチという作品のものです。
ザ・プレイのベンチという作品、1971年です。
コンセプトも「その上で人々が出会い、 休息し、通り過ぎるための場」で、こちらは、上で楽器を演奏したりもしています。
これもやはりとても似ていると思いますし、
机の上を歩けるというものの
一番最初に出てきたものでは、
中山英之さんの2003があります。
五十嵐
僕がすぐに似ていると思った
2006年のシェルターコンペの第一位案、
大西麻貴さんの「大きな食卓」です。
みんなのこたつは、
この後ですよね。
《想像界》の持ち方が、美術系と建築系ではずいぶんと違うと言う印象を受けました。もともと建築家と美術家では、同じ制作者でもずいぶんと違うのですが、その違いが何処にあるのかが、今まで良く分からなかったのですが、今回のイメージデッサンを見て分かった事は、建築のデッサンには人形が描かれていて、人間社会との関係というのが軸でイメージされているという事でした。つまり制作する作品が描かれているというよりも、それが制作される事で、作りだされる人間の関係の仕方を描いているのです。つまり人間関係を制作していて、人間から独立した作品存在というものではないのです。
つまり作品そのものを制作すると言う、そう言う視点が、無いのかもしれないと思いました。