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芸術の趣味判断/ダニエル・ブェスのパーカッションを例にして [音楽の頂点]



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ジョン・ゾーン [音楽の頂点]

 
John Zornの音楽
《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》《ハイアートの音楽》

シニフィアン(記号表現)の音楽、シニフィエ(記号内容)がない。
【A級音楽】

ジョン・ゾーンは、むかし、もっと過激だったのですが、
いつのまにか、ジャズという枠組みの中に入ってしまったのでしょうか、
最近は追いかけていないのですが、
なんとなく、そういう古さを感じています。
何か、新しい事を知っている方がいれば、教えて下さい。

別の話になって、恐縮ですが、
私の活動は、2010年代、別の次元に移行します。
晩年の作品制作と、ギャラリー活動へ集中化していきます。
そのことをジョン・ゾーンの穏健化と重ねて、書いておきます。
このブログで、追いかけて来たある「生(なま)さ」は、
あくまでも2009年代の追求であったということです。

言語としての詩的な「生(なま)さ」の追求は、
今、始めているツイッター小説の方に、移行させます。

それでも、このブログが継続できれば、
学問としての芸術の追求そのものは、
地味にですが展開できればと思います。



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高田渡/ボブ・ディラン/ウディ・ガスリー/頭脳警察 [音楽の頂点]


高田渡/生活の柄の芸術分析

《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ローアートの音楽》

シニフィアン(記号表現)の音楽。

《無芸術》の音楽、《芸術》ではない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

日本のフォークソングの中で、ひとつの頂点と言うべきものが、
高田渡の歌だろうと思います。

高田渡の音楽が、《超1流》〜《41流》までのすべての領域を
持っているという意識の広さは感動的なもので、
フォークソングがここまでの深さに達する事に驚きがあります。


歴史的に言えば民族音楽と言われるもの
のほとんどは《第6次元 自然領域》です。


沖縄民謡に《第1次元 社会的理性領域》のものがたくさんあるので、
例外はというか、
しかし民族音楽は《第6次元 自然領域》が基本です。
一応私は小泉 文夫が生前に編纂した民族音楽全集は買って、
一度は全部聴いたはずなのですが、
もっとも今探すと、そのレコードの塊がでて来ません。
本当に買って聴いたのか、夢の思い込みか、定かでなくなりますが、
かなり聴いているつもりです
売ってしまったのか?

ただ高田渡の音楽は、《芸術》ではなくて《無芸術》なのです。
《無芸術》というのは、装飾や、手芸などに見られるもので、
さらには性的な表現を肯定的に描いている官能的な領域です。

俵屋宗達の絵や、アンリー・ルソーの絵画。
そしてゴヤの裸のマハ。
着衣のマハは《芸術》になっています。
しかしゴヤの作品の重要なものは、版画も含めて《無芸術》です。

ルーベンスの裸体のあふれる絵画も《無芸術》です。

ティツィアーノの裸体画も、《無芸術》です。

それと重要なのは、
マチスが《無芸術》であるという事です。
『私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい』という
マチスの志向は、実は《芸術》ではなくて、《無芸術》を指し示す
ものであったのです。

つまりこのように見てくると、
私たちが《芸術》という名前で呼んで来たものが、
実は《芸術》と《無芸術》の混合したものであったのです。

この差は官能性に対する態度です。
装飾やエロティシズムを否定して成立するのが《芸術》です。
逆に、装飾やエロティシズムといった人間の官能性に対する欲望を
肯定して成立するのが《無芸術》なのです。

ですから《無芸術》が悪いと言っているのではないのです。
高田渡の歌は、宗達やマチスという《無芸術》と、同じ《無芸術》
であると言っているのです。


ではフォークソングのほとんどは《無芸術》なのか?
たとえば、おそらく大きな影響を与えたであろうボブ・ディランの
音楽も《無芸術》なのでしょうか。
違うのです。
ボブディランの音楽は《芸術》なのです。
下の【YouTube画像】を聴いて下さい。

ボブ・ディランの「風に吹かれて」芸術分析

《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ハイアートの音楽》《ローアート》ではない。

シニフィアンとシニフィエの同時表示の音楽。

《芸術》の音楽、《無芸術》《反芸術》《非芸術》ではない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
高田渡が、《ローアート》であったのに対して、
ボブディランは、《ハイアート》なのです。
つまりボブディランの音楽は、伝承音楽という民衆音楽の
範囲を超えて、個人の独創的な私性として、表現が切り出されて、
《ハイアート》になっているのであり、
《無芸術》ではなくて《芸術》になっているのです。

私もボブディランは武道館に見に行った事が一度ですがありますが、
もの凄い音楽家で、圧倒された経験があります。

このアメリカ・フォークソングの《芸術》、そして《ハイアート》
という性格は、ボブ・ディランから始まった事でしょうか?

ボブ・ディランに大きな影響を与えたウディ・ガスリーを
聴いてみましょう。
ウディ・ガスリーは、高田渡にも大きな影響を与えたと言われます。




ウディ・ガスリーの芸術分析

《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ハイアートの音楽》《ローアート》ではない。

シニフィアンとシニフィエの同時表示の音楽。

《芸術》の音楽、《無芸術》《反芸術》《非芸術》ではない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

こう見てくると、高田渡の音楽は、
確かに凄いレベルの高さを示して入るのですが、
しかしウディ・ガスリーが切り開いた
最下層の民衆音楽の中から《ハイアート》の《芸術》を立ち上げた
そうした驚愕すべきフォークソング革命の凄さはないのです。

むしろ再び、低い《ローアート》に回帰させ、《無芸術》の官能の
中に沈み込んだのです。

ウディ・ガスリーにまでたどって見る時、
フォークソングに代表されるカンターカッルチャーというのは、
決して《ローアート》や《無芸術》の復権ではなかったのです。

最下層から《芸術》が立ち上がってくると言う、
《芸術》本来の革命性の上昇する凄みがあったのです。
最下層からの《芸術》革命こそが、《真性の芸術》の根拠なのです。

それは黒人音楽のブルースの《芸術》としての成立までに
遡るものであり、アメリカ文化の根底にある《芸術》と
《ハイアート》へと屹立するエネルギーを持つ豊穣な大地なのです。

さて、再び高田渡を見てみましょう。
高田渡は1949年生まれ。
父親は、詩人・活動家・元共産党員の高田豊です
その父親の影響もあるのかもしれませんが、英
彼のデビューを印象づけた『自衛隊に入ろう』という歌は
すぐれたものです。
1968年第3回関西フォークキャンプ(8月9日-11日、京都・山崎「宝寺」)に参加。「自衛隊に入ろう」を唄い、観客に衝撃を与えたのです。この【YouTube画像】が貼付け禁止でできないので、代用品ですが、お許しください。



高田渡/「自衛隊に入ろう」の芸術分析

《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ローアートの音楽》

シニフィアン(記号表現)の音楽。

《無芸術》の音楽、《芸術》ではない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

高田渡の中にあるこうした反戦の意思と、
《無芸術》という性格は、深い所でつながっていると、
私は、思います。
《芸術》というものの根底には、帝国主義的なものがあると
私は思うからです。

この「自衛隊に入ろう」という1968年の歌の出現から2年後、
頭脳警察が結成されます。

1970年にパンタ(中村治雄)、トシ(石塚俊明)の2人のバンドとして結成。

「ダサくてもいいからオリジナリティに満ち、自信をもって人前で演奏できる」
ことを目指した頭脳警察というバンドは、《無芸術》ではなくて《芸術》を
成立させたバンドとして傑出していると私は思います。

その初期の2枚のアルバムを聴くと、フォークソングであって、
しかし同時に日本で最初のパンクバンドなのです。

それは世界的に見ても早いのであって、ラモーンズも、
ニューヨーク・ドールズも、マティスミスも、
セックスピストルズもまだ出ていない段階で、
頭脳警察は、パンクの音を生み出しています。
それは私も感動する創造性なのです。
日本にもオリジナルの音が生まれたからです。

この創造性と、日本赤軍は深く関わっていました。
頭脳警察が演奏する「銃をとれ」は、
聞き苦しいので、最初には、柔らかい方を載せます。
後ろにあるのが、オリジナルです。

オリジナルの「~イントロダクション~世界革命戦争宣言/赤軍兵士の詩/銃をとれ(Part 1)」は、頭脳警察のファーストアルバムの最初に収録されていましたが、発売禁止になりました(1972年3月)。

この音楽は、私はオリジナルのライブで、当時聴いています。

【YouTube画像】で見れるその演奏は見にくいですが、
トシ(石塚俊明)のパーカッションの演奏はすばらしいです。
我慢して聴いて下されば、
高田渡的な日本の《無芸術》を乗り越えて、
日本のフォークソングの流れの中から《芸術》が立ち現れる、
そのあまりに不愉快な瞬間を見ていただけると思います。

それはしかし政治性の問題ではありません。
《ハイアート》というのは主体を切り出し、《芸術》として立ち上げる
その意識のありようなのです。
それは《無芸術》的なるものとは違うのです。

だからと言って、私は高田渡を批判しているのではありません。
人間には官能性が必要であって、《無芸術》にも、
重要な根拠があると考えます。
言いたいのは、《無芸術》と《芸術》は、
混同できない差異があることです。

頭脳警察の、
「ダサくてもいいからオリジナリティに満ち、自信をもって人前で演奏できる」音楽を演奏しようという態度にこそ、《ハイアート》と《芸術》の根拠があるのです。


頭脳警察の「銃をとれ」の芸術分析

《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ハイアートの音楽》《ローアート》ではない。

シニフィアンとシニフィエの同時表示の音楽。

《芸術》と《反芸術》の同時表示の音楽、
                《無芸術》《非芸術》ではない。



頭脳警察の「世界革命戦争宣言」の芸術分析

《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ハイアートの音楽》《ローアート》ではない。

シニフィアンとシニフィエの同時表示の音楽。

《芸術》と《反芸術》の同時表示の音楽、
                《無芸術》《非芸術》ではない。


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趣味の変化 [音楽の頂点]

最近ロックを、前ほどには聞かなくなってきて、
現代音楽が増えている。

一つはジェルジ・リゲティで、柏原孝昭さんからコピーをたくさんいただいたこともあって、はまってしまっている。

ギャラリーarteでご一緒した大木 裕之さんもリゲティが好きで、趣味が合ってしまった。

リゲティ作曲ピアノのためのエチュード/第13曲《悪魔の階段》


《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ハイアートの音楽》

シニフィアン(記号表現)の音楽。
【A級音楽】

しかし、この音楽は、
《シリアス・アート》と《ローアート》の同時表示や、
芸術と反芸術の同時表示、
さらにシニフィアンとシニフィエの同時表示はない。
もはや、一つ前の時代の音楽であって、
最先端の音ではないのです。
それでも、面白いものです。


こうした音楽と、
例えば、正反対のナパームデスの音楽と言うのは、
どういう関係にあるのでしょうか。





タグ:リゲティ
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木山光の音楽(校正1) [音楽の頂点]


木山光の音楽に対する彦坂尚嘉の《言語判定法》による芸術分析

《想像界》の耳で《第16次元》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の耳で《第16次元》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の耳で《第16次元》のデザイン的エンターテイメント。

《現実界》の音楽、ただし《想像界》《象徴界》が無い。
絶対零度(=原始時代の野蛮)の音楽。

《気晴らしアートの音楽》《ローアートの音楽》

シニフィアン(記号表現)の音楽、シニフィエ(記号内容)がない。
【B級音楽】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
木山 光(きやま ひかり)は、1983年生まれの、日本現代音楽作曲家

木山光の音楽は、《気晴らしアート》ですから、
面白いのは、面白いのですが、
《第16次元》のデザイン的エンターテイメントに過ぎません。

いや、芸術ではなくてデザイン的エンターテイメントだからこそ、
聴きやすいとは言えます。

《第16次元》というのは、崩壊領域です。

崩壊という事象は、実は人を引きつけるのです。
ジャック・ラカンの言う《対象a》であって、
喪失した空洞性が、人間を引きつけるのです。
廃墟趣味というのは、一種の崩壊領域です。

《第16次元》の音楽として私の知っているのは2つあって、
一つがパンク・ニューウエイブの最後の時期に出てきた
ポップグループです。


もう一つはモターヘッドというハードロックです。

これら崩壊領域の音楽の登場は、
1975年にアメリカ/イギリスが、ベトナム戦争に敗れて《近代》という
時代が終わってしまった事と、深く結びついています。

どちらにしろ、
木山光の音楽は、崩壊領域の音楽ですが、
それだけでなくて絶対零度の音楽、つまり原始時代の野蛮音楽です。

文化的にはこの流れは、
私の知る限りは、岡本太郎の絵画『重工業』に一番早く見えます。
戦前には、まだ発見していません。

日本の被爆と廃墟化に深く連動して生まれた文化構造です。
同様の事は、具体美術協会の、廃墟を美しいとする具体宣言にも
見られる考え方です。

もう一つ1970年の『人間と物質のあいだ』という美術展を、
東京ビエンナーレとして組織した中原佑介の志向にも見られます。
中原は神戸で、焼夷弾攻撃で、隣のおばさんが、真っ黒の焼けこげたのを
見ていて、人間は物質だと思ったという話を、
私にしています。

歴史的には『ばさら』と言われる、
原始的な野蛮主義への回帰の運動で、
室町時代に出現していると言われる表現構造です。
このことは、現在アップされているアートスケープの最後の章に
書きましたので、ご参考にして下さい。

もう一曲木山光の【YouTube画像】を付けましたので、
下記をクリックして下さい。

【続きはここをクリックして下さい】


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オーネット・コールマン [音楽の頂点]

2124_200903011746.jpg

オーネット・コールマンの顔

《想像界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格

《シリアス人間》《ハイアート的人間》

シニフィアン(記号表現)的人間。
『真実の人』

【続きはここをクリックして下さい】


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