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《非芸術》という領域(加筆3) [アート論]

《非芸術》というのは、
文字通り、芸術にあらざる領域で、
普通の日常世界です。

私たちは日常に生きているのですから,
つまり《非芸術》の領域に生きています。
つまり《芸術》の中に生きているのではないのです。

日常世界がすべてであるというのが、
基本なのです。
日常というのは、何よりも超越性が無いということです。
しかし、本当に超越性が無いと言い切れるかというのは、
疑問です。

例えばマックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年-1905年)が解き明かしたように、西洋近代の資本主義を発展させた原動力は、日常の労働とビジネスの実践を通して神への信仰を実現するプロテスタント的宗教倫理から産み出された世俗内禁欲を追求する運動と、生活合理化への追求であったのです。

ビジネスを成立させた資本主義の「精神」とは、単なる拝金主義や利益の追求ではなかったのです。合理的な経営・経済活動を支える精神であり、あるいは行動様式であって、その裏にはプロテスタントの、特にカルヴァン主義の禁欲的な教義があったのです。

このような日常の中での宗教的超越性の追求は、実は仏教にもあって浄土真宗や日蓮宗では、基本と言えるものです。それは禅宗にもあって、日常の生活の中に、宗教的な探究を行おうというものです。

(アーティストの場合、この日常性を媒介しての超越の探究と言う基本を失って、日常生活から逃亡して《芸術》の中に生きてしまうのです。少なくとも本物の画家には、そうした傾向があります。それが今日ではマズいのです。) 
ですから常に日常の生活世界へ回帰して、日常の社会の変化を媒介して芸術の探究と言う超越性を考える必要があります。

無媒介的に日常や社会化する事から逃避して、
《芸術》なるものという非日常に逃避して、
閉じこもる事は、間違いです。

しかもそれが、前時代の《古い芸術観》に閉じこもる事は、
間違いなのです。

ヨーロッパにおけるモダンアートの歴史を見れば、
繰り返し新旧論争を繰り返して来ました。
つまり芸術観というのは、繰り返し刷新されるのであって、
この刷新というイノベーションを、アートの問題として
考えないのであれば、それはコンテンポラリーアートとは
言えないものであって、
現代美術を伝統芸術化することになるからです。


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とりあえず宗教的な禁欲的な実践の問題をカッコに入れて、
問題にしなければ、
日常世界の特徴は、浅く、短く、薄いことです。

軽薄短小というのは、この日常世界であり、
同時に、そこに住む人間の人格です。
私たちは軽薄短小なのです。
そのことがカルヴァン主義のみならずキリスト教全般にある認識で
あって、人間は神への反逆によって全面的な堕落をしているのであって、
この堕落した矮小な悪の存在が、すべての人間の基本的な性格なのです。

常に、この矮小な自分自身と、
矮小な生活世界に回帰して、
そこから考えなければなりません。

私たちの日常生活も、そして日常の人格も、
この《非芸術》領域の内側にいます。
私たちの存在それ自身は、《芸術》ではないのです。


そして日常とは、カオスとデザインの世界です。
デザインというのは、自然も含みます。

こう言うと異様に思うでしょうが、
「神が世界をデザインした」という言葉があるように、
神がつくった自然というのは、
デザインの世界で《非芸術》の領域です。


つまり私たちはこの軽薄短小な日常の世界に閉じ込められているのです。
日常の牢獄!
この日常の牢獄を《非芸術》と言うのです。
彦坂尚嘉の『アートの格付け』の中では、
とりわけ《第21次元 愛欲領域》というのが、
この全面的な人間の堕落の領域です。

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堕落した矮小な日常世界がすべてなのですが、
この日常の牢獄に徹して生きることによって、
この日常の牢獄に背理することによる脱出を、人間は試みます。
それがカルヴァン主義や浄土真宗、日蓮宗、禅宗に共通する
世俗や日常からの超出の希求なのです。

しかし《近代》になって、
宗教そのものからの離脱が進むと、
芸術が、その超越の方法として登場して来ます。

その試みには3つあったのです。
ひとつが《無芸術》の官能世界です。
二つが《反芸術》の反抗の世界です。
三つめが《芸術》という大脳皮質による抑制の世界です。

そしてこの《無芸術》《反芸術》《芸術》の3つが、
三位一体で、《大芸術》という非日常の構造を作っていたのです。


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つまり《大芸術》と《日常》は、2つの別の世界なのです。
少なくとも昔は、この2つは分離されていたのです。
ところがこれが入り乱れて混合された複雑系の状態に
なったのが現在です。

つまり今日では、
日常というのも美術館に持ち込まれて、
《非芸術》という芸術になっています。

つまり《非芸術》が《芸術》とされている時代が、
今日の時代です。
この混合化ということが、
今日の文明の基本的な性格です。

混合される事による、日常の高度化による変質が、
問題の根幹にあるのです。

だからこそ、すべての問題を、再度日常から組み立て直す事が
重要になって来ているのです。

この日常へのすべての還元という事態が、
多くの旧人類にとっては同意できない事なのですが、
そういう抵抗は、私は意味が無いというか、悪だと思います。

日常を再編し、
すべてを日常から始める事。
軽薄短小から、すべてをやり直すという《非芸術》的革命が
進行してきているのです。

それはエジプト以来の人間の文明の根本的な再編過程であって、
文明や文化のすべての転倒化と言えるものです。

つまり日常が《非日常》化しているのが、現在です。

そして《大芸術》が解体され、日常化しているのです。

だから《大芸術》が、《非芸術》へと還元されていく事態が
進行しているのです。

その時に重要なのは、日常の改変の方が、
大切なのです。

徹底的な軽薄短小化のはてに、
新しいリテラシーの世界が始まるのです。

その新しき世界に向けて、舟を走らせ続ける事!




タグ:《非芸術》
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