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山本藍子の近作リスト(2) [気体分子ギャラリー]

近作2

三匹の子豚.jpg


三匹の子豚1〜3
   2008年  / 530×455㎜
日本画用キャンバスにアクリル

彦坂尚嘉責任による芸術分析


《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元 》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現


《シリアス・アート》だけ作品。
《ハイアート》だけの作品。
シニフィアン(記号表現)だけの作品。
理性脳だけの作品。

《透視画面》オプティカル・イリュージョン【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。
ただし《世間体のアート》が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《村》である。

鑑賞構造がある。
鑑賞構造が《対話》である。


定    価  10万円

最低入札価格   4万円


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足あと1.jpg


足あと1
   2007年  / 190×393㎜
日本画用キャンバスにアクリル

彦坂尚嘉責任による芸術分析


《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元 》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現


《シリアス・アート》だけ作品。
《ハイアート》だけの作品。
シニフィアン(記号表現)だけの作品。
理性脳だけの作品。

《透視画面》オプティカル・イリュージョン【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。
ただし《世間体のアート》が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《村》である。

鑑賞構造がある。
鑑賞構造が《対話》である。


定    価  5千円

最低入札価格  3千円


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 足あと2.jpg


足あと2
   2007年  / 190×393㎜
日本画用キャンバスにアクリル

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元 》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現


《シリアス・アート》だけ作品。
《ハイアート》だけの作品。
シニフィアン(記号表現)だけの作品。
理性脳だけの作品。

《透視画面》オプティカル・イリュージョン【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。
ただし《世間体のアート》が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《村》である。

鑑賞構造がある。
鑑賞構造が《対話》である。


定    価  4千円

最低入札価格  2千円


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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nice!(2) 

山本藍子の近作リスト(1) [気体分子ギャラリー]

近作1


豚の舌1.jpg


豚の舌1
   2008年  / 300×300㎜
日本画用キャンバスにアクリル

彦坂尚嘉責任による芸術分析


《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》

《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元 》の《真性の芸術》

《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》



《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現



《シリアス・アート》だけ作品。

《ハイアート》だけの作品。

シニフィアン(記号表現)だけの作品。

理性脳だけの作品。


《透視画面》オプティカル・イリュージョン【A級美術】


《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。

ただし《世間体のアート》が無い。


貴族の芸術


作品空間の意識の大きさが《村》である。


鑑賞構造がある。

鑑賞構造が《対話》である。


定    価  2万円

最低入札価格  1万円


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豚の舌2.jpg

豚の舌2
   2008年  / 300×300㎜
日本画用キャンバスにアクリル

彦坂尚嘉責任による芸術分析は1と同じ


定    価  2万2千円

最低入札価格  1万2千円


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豚の舌3.jpg

豚の舌3

   2008年  / 300×300㎜
日本画用キャンバスにアクリル

彦坂尚嘉責任による芸術分析は1と同じ

定    価 1万9千円

最低入札価格   9千円


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顔豚右向き.jpg


顔豚(左向き)
2008年  / 728×515㎜
日本画用キャンバスにアクリル

彦坂尚嘉責任による芸術分析


《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》

《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元 》の《真性の芸術》

《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》



《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現



《シリアス・アート》だけ作品。

《ハイアート》だけの作品。

シニフィアン(記号表現)だけの作品。

理性脳だけの作品。


《透視画面》オプティカル・イリュージョン【A級美術】


《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。

ただし《世間体のアート》が無い。


貴族の芸術


作品空間の意識の大きさが《村》である。


鑑賞構造がある。

鑑賞構造が《対話》である。


定    価  3万5千円

最低入札価格  2万1千円


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顔豚真ん中.jpg


顔豚(真ん中)     
  2008年  / 728×515㎜
日本画用キャンバスにアクリル

彦坂尚嘉責任による芸術分析は左と同じ



定    価  3万8千円

最低入札価格  2万5千円


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顔豚左向き.jpg


顔豚(右向き)       
2008年  / 728×515㎜
日本画用キャンバスにアクリル

彦坂尚嘉責任による芸術分析は左向きと同じ



定    価  3万円

最低入札価格  1万9千円



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山本藍子の初期日本画作品 [気体分子ギャラリー]

戦う女.jpg

戦う女


2000年  / 1620×1303 

麻紙、膠、岩絵具、銀箔


彦坂尚嘉責任による芸術分析


《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》

《象徴界》の眼で《第1次元〜第6次元》の《真性の芸術》

《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》



《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現



《シリアス・アート》だけ作品。

《ハイアート》だけの作品。

シニフィアン(記号表現)だけの作品。

理性脳だけの作品。


《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】


《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。

ただし《世間体のアート》が無い。


貴族の芸術


作品空間の意識の大きさが《村》である。


鑑賞構造がある。

鑑賞構造が《対話》である。


非売品


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スイカ.jpg

 


スイカ


 2000年  / 90×90

 麻紙、膠、岩絵具、洋箔


彦坂尚嘉責任による芸術分析


《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》

《象徴界》の眼で《第6次元 》の《真性の芸術》

《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》



《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現



《シリアス・アート》だけ作品。

《ハイアート》だけの作品。

シニフィアン(記号表現)だけの作品。

理性脳だけの作品。


《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。

ただし《世間体のアート》が無い。


貴族の芸術


作品空間の意識の大きさが《村》である。


鑑賞構造が無い。

イラストである。


非売品


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パンツの自画像.jpg

 


パンツの自画像


 2001年  / 1167×910 

麻紙、膠、岩絵具、銀箔、玉虫箔


彦坂尚嘉責任による芸術分析


《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》

《象徴界》の眼で《第6次元 》の《真性の芸術》

《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》



《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現



《シリアス・アート》だけ作品。

《ハイアート》だけの作品。

シニフィアン(記号表現)だけの作品。

理性脳だけの作品。


《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。

ただし《世間体のアート》が無い。


貴族の芸術


作品空間の意識の大きさが《村》である。


鑑賞構造が無い。

イラストである。


定    価 20万円

最低入札価格  5万円



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弱い魚.jpg

 

弱い魚


海を泳いでいるのは、干物の魚という日本画です。


   2001年  /  910×1167

 麻紙、膠、岩絵具、銀箔



彦坂尚嘉責任による芸術分析


《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》

《象徴界》の眼で《第6次元 》の《真性の芸術》

《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》



《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現



《シリアス・アート》だけ作品。

《ハイアート》だけの作品。

シニフィアン(記号表現)だけの作品。

理性脳だけの作品。


《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。

ただし《世間体のアート》が無い。


貴族の芸術


作品空間の意識の大きさが《村》である。


鑑賞構造が無い。

イラストである。


定    価 20万円

最低入札価格  7万円


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My Family_左.jpg

My Family_右.jpg

My Family_右左.jpg


 


My Family(左、右)
    
2002 / 1167×910(左)   1167×910(右)
 麻紙、膠、岩絵具

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元 》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現


《シリアス・アート》だけ作品。
《ハイアート》だけの作品。
シニフィアン(記号表現)だけの作品。
理性脳だけの作品。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。
ただし《世間体のアート》が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《村》である。

鑑賞構造が無い。
イラストである。

右作品
定    価 20万円
最低入札価格  4万円

左作品
定    価 15万円
最低入札価格  4万円

2点組定価 30万円
最低入札価格 6万円


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4点売れました/山本藍子マキイマサルファインアーツ個展 [気体分子ギャラリー]

山本藍子のマキイマサルファインアーツで4点売れました。
ありがとうございました。


以下売れた作品画像です。

山本藍子小品30売れた.jpg

見るチカラ


山本藍子11売れた.jpg

見るチカラ



山本藍子小品赤1.jpg

干涸びた体(痛)



山本藍子小品青1.jpg

まるまる1


マキイマサルファインアーツではオークションが出来ませんでしたが、
気体分子ギャラリーではオークションを致します。

旧作(学生時代の作品)が9点。(2点は非売。)

近作(2008年発表作品)が24点

新作が、23点

合計 56点です。

この不景気の時代に、
そんなに売れると思っているわけではありませんが、
コレクターのみなさまには、
それなりにチャンスをつくろうとしています。
高いものもありますが、安いもの、お買い得作品もありますので、
ご検討ください。


さらに、山本藍子のネタで、彦坂尚嘉の作品を制作しています。
さすがに制作が終わっていません。
これは来週になりますが、
特別企画『1円オークション』というかたちの試みを致します。
明日からでも、不完全な形では、見ていただけますので、
興味のある方はお申し出ください。

 






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山本藍子の気体分子ギャラリーでの個展 [気体分子ギャラリー]

 山本藍子DM表ブログ用2.jpg

山本藍子という日本絵画の新星!
 
村上隆の登場以後の日本画はどうなるのか?
日本画とは何か?ということを、明治期の国民絵画、さらには大日本帝国としての日本画として日本画を考える事を、私はもう止めなければならない。
なぜなら、明治維新以来の日本の近代は1991年に終わったからだ。
この終わりに出現したのが村上隆という日本画家であったとすれば、それは実はポストモダンにおける日本画が、日本画と言う膠絵の具という材料に規定されたものではないということになる。つまり村上隆以降の日本画というのは、日本美術院のような大日本帝国の国民絵画ではないし、そして油彩画に対する膠(にかわ)絵というものではない。加藤周一が嘆いたような日本の絵画が、油彩画=洋画と膠絵=日本画という分裂に見舞われ、日本の絵画そのものが見失われた時代は、終わったのである。つまりポスト村上隆に出現してくるのは、日本画というふるい名称を超えた日本画、つまりそれは日本絵画という、当選過ぎる分裂を乗り越えた日本の絵画なのである。
 
 では、村上隆登場以前の最後の近代日本画とは何であり、そして誰であったのか? 近代という時代の絵画が、純粋美術を追い求め、そしてそれは抽象絵画への道行きであったとすれば、近代日本画の到達点もまた抽象画としての日本画であり、そして抽象画家としての日本画家であった。その一人が日本画の異端児と言われた山本直彰だ。
 山本直彰は1950年横浜市生まれ。1975年に愛知県立芸術大学大学院修了。創画会でデビューして、1992年には文化庁在外派遣研修生としてプラハ滞在している。2004年に練馬区立美術館で開かれた『超日本画宣言――それは、かつて日本画と呼ばれていた』に出品している。さらに2009年には
平塚市美術館で『山本直彰展 ―帰還する風景― 』を開催、そして2010年位は芸術選奨文部科学大臣賞を受賞している。
 
 こうした抽象画家としての日本画家を父として生まれたのが山本藍子という日本画家なのである。父の山本直彰が、近代日本画家であったのに対して、娘の山本藍子は、村上隆のポスト日本画を引き継ぐポスト村上隆世代の日本画家なのである。そしてこの娘の藍子には、父の異端性と反骨性を引き継いだ奇妙な面白さがある。例えば学生時代に描いた魚の絵がある。それは海の中を泳いでいる魚の絵なのだが、その魚が干物なのである。干物が泳いでいる魚の絵というのは、どこか魚の図鑑のような若冲の絵画の系譜を感じさせるのだが、それ以上に絵画そのもののありように対する画家特有の批評性なのである。それはショートケーキを描いた絵画や、パンツを丸出しにして座るヒロミックスのような自画像や、片岡珠子の面構えのパロディのようなおひな様の絵画にも言える。絵画が絵画でありながら、絵画を批評し、そして絵画に毒を盛り込んだような日本画なのである。
 
 学生時代の日本画作品と、最近作を併置して比較する形で展示を行おうと思っています。一人の美術家のささやかな制作史をとおして、私たちは芸術や美術、そして絵画の可能性を見ることが出来ます。
 
同時開催:彦坂尚嘉の山本藍子ネタの『1円オークション』の作品。
 
 山本藍子のテーマとしているレース模様や、豚の写真を素材にしてシミュレーション作品を彦坂尚嘉が制作しています。そこには単なる摸倣や盗作を超えて、芸術表現の本質が出現しています。特にレースをキャンバスに貼った作品は、彦坂尚嘉の初期作品からフロアイベントに至る時期の作品を彷彿とさせて、彦坂尚嘉自身にとって重要な制作となりました。
 
 豚の目玉を撮った写真作品は、撮影は山本藍子で、この画像を彦坂尚嘉が作品化しています。それは山本藍子の心理に潜む闇を暗示している作品であると同時に、ここでもまた彦坂尚嘉という作家の欲望につながる重要な意味を露呈させます。
 
 諏訪直樹からはじまって、いままで多くの若い作家に関わって来た彦坂尚嘉の、その美術家の探究が、この摸倣/盗作性をはらむシミュレーション制作によって、ステージをアップさせています。他者を見つめる眼差しは、同時に他者の向こうに己自身を見るという鏡像関係であり、それは他者の人間の闇に入ると同時に、自分自身の闇を照らす作業であったのです。

 10年がかりで『空想皇居美術館』という情報美術の作品を出版した彦坂尚嘉は、人生の最終ステージに至って、摸倣/盗作を介して自分自身の制作を露呈させる展開をはじめました。それは、気体分子ギャラリーの意味と方向性をも照らし出します。日本現代美術と現代アートの限界を超えて、孤独に展開するあくなき探究の軌跡は、最後に気体分子ギャラリーでの制作とオークションの連動の中に凝縮されて行くのです。《価格の自由》《批評の自由》《フリーアート》の3位一体の追求が、気体分子ギャラリーです。それは同時に美術家である彦坂尚嘉の制作の探究に結実して行くのです。
 
6月5日(土)に、ささやかなオープニングパーティです。
5日、6日はおりますので、自由においで下さってもよいですが、美術家のやっているオープンアトリエのギャラリーですので、出かけている可能性もあります。他の日はアポイントを取って来て下さい。
 090 1040 1445(彦坂尚嘉)
 


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1円オークション [気体分子ギャラリー]

もうすぐ、マキイマサルファインアーツの山本藍子個展が終わって、
藤沢の気体分子のギャラリーでの、
日本画の初期作品の回顧を中心とした展示になります。

画像をうまくアップできなかったのは、
コンピューターの調子が悪くて、無線LANでは、
数がある画像のアップが思うようにできなくて
嫌になって、私がふて寝したせいなのです。

それと、いろいろなところが、山本藍子さんとは、
かすかにずれていて、
オークションをする気分にはならなかったというのがあります。
申し訳ありません。
コレクターのみなさんには、お詫びします。

そういう失敗の中で良く分かった事は、
オークションをするには、
かなりうまく組み合わさる作家と彦坂尚嘉が合同しないと、
出来ないという事です。

山本藍子さんは、この展覧会が決まった後に、
就職の話が来て、今時ですから断れなくて、
春から中学の美術の先生に就職してしまって、
実は作品を売る事には消極的になったのです。

山本藍子さんは、美術界という分けの分からないものの視線を
気にしているので、
《村》的であって、
《帝国》的なものを理解してくれないのです。

私自身は、《村》には興味が無いし、
《近代国家》の空間からも、遅まきながら脱出を目指したいのです。
ネグリ/ハートの『帝国』から、大きな影響を受けているのです。


ですから、山本藍子さんの気持ちは理解しますが、
その気持ちを尊重するのは良いのですが、そういう作家と
オークションを一緒にやって行くことに耐える体質が、
私にはないのです。

私にまかせると言いながら、私のつけた作品の値踏みに、
文句をつけられると、私はその抗議をはねつけはしますが、
作品を売る気分にはならなくなって、
ブログへの写真のアップをする努力に耐えられなくなる。
そしてコンピューターも動かないのを良い事に、
ふて寝をしていたのです。

嫌だという安い値段で売るわけにもいかないでしょう。

ブログを書く事も、労働としては大変ですから、
不信感ももたれれば、
そういう苦痛に耐えたく無くなるのです。

マキイマサルファインアーツも貸し画廊で、
古い体質で、それはそれで尊重はしますが、
私自身は、こういう古さとすりあわせて調整をすることは、
過去にたくさんの闘争をしてきていて、そういう記憶がじゃまして、
とても話し合う気になれないのです。

とにかく、争わないで、やり過ごしたいと言うだけなのです。

ですからマキイマサルファインアーツでは売る努力をしないで、
気体分子ギャラリーで売るというような、
こすいことを考えているのではないのです。
マキイマサルファインアーツの佐藤さんは、もしかすると、
そういう疑心暗鬼に捕われているのかもしれませんが、
そんな馬鹿げた姑息なことをする為に、彦坂尚嘉が、
気体分子ギャラリーの活動をしているのではないのです。

時代を超え、新しい可能性を切り開く為に、最後の聖戦を戦っている
のであって、理解してくれない人とは、争いもしませんが、
一緒に戦う事は誘いません。
分かれて行きます。

一期一会です。

真剣に未来に賭けない人とは、浅く付き合いたいのです。

山本藍子さんの作品も、人柄も面白いので、
楽しんで展覧会をやって来ていますが、
売る努力に全力をかける気分にならなかったのです。

コレクターの人々に、全力で、作品を投げて行くという事は、
それなりに、スッキリとした自信と気分がないとやり得ないのです。

古い『芸術至上主義』に捕われている作家と争いながら、コレクターと
向き合うだけの根性が、私には無いのです。

プライマリーギャラリーの時代は終わったのであり、
古い芸術至上主義の時代は終わったのです。
今、重要なのは、村上隆さんの主張した芸術起業です。
アートビジネス至上主義が重要なのです。
それは同時にフリーアート至上主義でもあります。

アートビジネス至上主義とフリーアート至上主義は、
背中合わせです。
そしてそこに1円オークションが出現します。

もっとも、最初は、1円でオークションするのは、
原価の低い水彩やドローイングなどの紙の作品です。

紙の作品とは言っても、
1円でオークションをやり続けるのは、
根性がいります。
信じられなければ、続きません。

価格の自由。
そして批評の自由が、真剣に追求される必要があります。

未来を切り開くのは、
新しく登場して来たアートのパトロネージなのです。

コレクターを信じて、
そのコレクターに向けて、
売れても売れなくても、作品を作って投げて行く。

売れなくても、死ぬまで作品をつくり投げ続ける根性が重要なのです。

1円オークションと、
毎日オークションを実現したく思います。

毎日作品を制作し、そしてコレクターに向けて発信する。
そういうスタイルを実現したいのです。
つまり制作の現場と、オークション市場を直結するのです。

それがどんなに小さくても、
この可能性を切り開きたいのです。

ここに、絞り込む過激さを、
1円オークションとフリーアートに夢想するのです。

ですから中学校の教師で稼ぐ山本藍子さんとは、
道が違うのです。
私の求めるのは、ハングリーなアーティストです。
飢え死にを覚悟の作家だけが、
この芸術道を歩めるのです。

命をかけて作品を作るのが、
新しい芸術起業のアートビジネス至上主義なのです。

ですから、まず、彦坂尚嘉が自分の制作をして、
自分の作品を売る努力をする方が、
理解してくれない作家と争うよりも気分がいいし、
楽しいし、コレクター諸氏に責任が持ているのです。

ですから、気体分子ギャラリーが、積極的に売って行く作家というのは、
ハングリーであることと、
私との信頼関係が持てる作家に絞り込んで行きます。
そういう作家の作品には、『アートの格付け』をします。

深い信頼関係が持てない作家の展覧会も、
評価できる作品を作っていればやりますが、
それはオークションはしないで、普通の美術展にします。
『アートの格付け』もしません。
格付けをするのも労働であって、苦痛なのですから、
さぼれる所は、さぼりたいのです。

それほどにオークションをやって行く活動は、
新しいし、頑張らないと出来ないのです。

《近代》という時代は、芸術至上主義の時代であって、
作品を売らなくても良いというイデオロギーの時代でした。
それはしかし虚偽であったのです。
モダンアートにあっても、実は作品を売る事が重要であったのは、
『ギャラリーゲーム』(淡交社)という真面目な研究書が明らかに
しています。

そういうわけで、
山本藍子の日本画回顧展と同時開催で、最初の1円オークションを
いたします。
自分の作品には『アートの格付け』はします。
1円だからと言って、いい加減なものはだしません。
ふるって入札をお願いいたします。

山本藍子の最高傑作!!/中規模作品をめぐって [気体分子ギャラリー]

アップが遅れてすみません。昨日の深夜にアップしたはずでしたが、
Safariというソフトが異常に遅くなってしまって、出来なくなりました。
修復と、コンピューターの掃除で時間がかかりました。
取りあえず、旧原稿をそのままアップします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


やまと彦坂尚嘉.jpg
                                撮影:糸崎公朗

マキイマサルファインアーツのある地域は、浅草橋で、
久月」や「吉徳」などの人形問屋や模型メーカー、
衣料品などの各種の問屋が集まっている古い下町の地域です。
マキイマサルファインアーツの側には、「やまと」という古い日本の
飲み屋があって、この酎ハイが白い液体で美味しいです。

山本藍子パーティ2.jpg
左からアーティストの栃原比比奈、建築家の高橋堅、
お名前不明の山本藍子の友人、アニメション作家の中川晋介、彦坂尚嘉
                          撮影:糸崎公朗

山本藍子彦坂尚嘉.jpg
山本藍子    彦坂尚嘉      撮影;糸崎公朗

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
今回の個展で、山本藍子の作品が、大きく飛躍を遂げたのは、確かです。
前回のマキイマサルファインアーツの個展を見た人々は、
異口同音に言います。

建築家の高橋堅氏がオープニングに来て下さったのですが、
高橋堅氏と私が意見一致して高く評価する作品の第一が、次の画像の
作品「堂々としましょう」です。
これには残された画像が2つあって、ひとつは、未完成段階の、
マスキング液のゴムを取っていない段階で、山本藍子はこの状態で、
作品を描き込んでいます。

山本藍子「堂々としましょう」未完成画像.jpg
写真家・高石巧撮影の 未完成状態の「堂々としましょう」

山本藍子新作.jpg
完成した「堂々としましょう」のiPhoneでの撮影画像

iPhoneでの撮影画像ですので、写真としては不十分ですが、
実物の作品の白い線は、もっと高明度で抜けていて、
非常に傑出した作品です。
その特徴は、彦坂尚嘉の『アートの格付け』で明らかになります。
非常に高温の作品なのです。

彦坂尚嘉責任による山本藍子作品「堂々としましょう」の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜100次元》《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜100次元》《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現
 
 
《シリアス・アート》だけ作品。
《ハイアート》だけの作品。
シニフィアン(記号表現)だけの作品。
理性脳だけの作品。

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。
ただし《世間体のアート》が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《グローバル帝国》である。

鑑賞構造がある。
鑑賞構造が《対話》である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

アーティストに限りませんが、
人間は常に、可能性に向けて脱出を目指します。


過去の偉大な人間たちが成し遂げた事を踏まえつつ、
その過去の人々の知らなかった可能性に向けて、未来を切り開こうと
するのです。

今日のアート/芸術の可能性は、いろいろあるのですが、
そのひとつが、温度の上昇化なのです。

つまり現在の状態は、H2Oという水の比喩で言うと、
産業家社会が液体の水が流れる川のような形で時代が流れていたのに
たいして、今日ではH2Oは沸騰して水蒸気になり、
さらに温度が上がって水の分子は原子に分裂してプラズマ状態に
なっているのです。

この高温化を絵画作品に体現しても、まさか100次元にまで温度を
あげる作品というのは、私は予想はしていたのですが、
その実物にお目にかかるとは思っていなかったのです。

山本藍子のこの「堂々としていなさい」という作品は、
人類が作り出して来た絵画の中で、初めてと言って良いほどの
傑出した新しさを成し遂げたのです。


技法としては、マスキング液の使用にありますが、
それ以上に大きいのは、レイヤー構造です。
今日の絵画の可能性は、レイヤー構造と言う、
絵画の積層化によって生み出す絵画空間です。

もうひとつ重要なのは、意識の大きさが《グローバル帝国化》して
いる事です。

人間の意識は、《群》→《村》→《近代国家》→《グローバル帝国》

へと、変化してきていて、この格段界で、意味構造が大きく変化
します。

「堂々としましょう」という作品は、山本藍子が盲目的に、
制作の集中化の中で暴走して獲得した新しさとしての《帝国》段階
性も、実現しているのです。


《帝国》

《プラズマ化》

《レイヤー構造》

《原芸術》


1991年以降の現代アートの状態は、
何なのか?

それは《芸術》の大乗仏教化と言えると思います。
つまり仏教の歴史を比喩として言うと、
モダンアートというのは、難解な仏教哲学を展開した小乗仏教の
時代であったのです。
モダンアートを学ぶというのは、難解な仏教教典を学ぶ必要が
あって、あくまでも知的なエリートだけに許された特権だったのです。

それが1991年以降になると、
《芸術》は大衆化し、一挙に大乗仏教に変貌したのです。
そういう状態は、《世間体のアート》の台頭なのですが、
彦坂尚嘉の主張としては、あくまでも《原芸術》の重視と言う
路線の維持を主張します。

正確には《原芸術》と《世間体のアート》の同時表示を
今日的な新しい表現として設定しますが、
《原芸術》への視野をキープする事が重要だと考えるのです。

そういう中で、山本藍子の今回の「堂々としましょう」は、
高く評価できる到達点でありました。

山本藍子新作.jpg



批評の自由/山本藍子展の『アートの格付け』2 [気体分子ギャラリー]

山本藍子彦坂・.jpg
山本藍子             彦坂尚嘉  撮影:糸崎公朗   


100521気体分子・山本藍子.jpg
山口俊郎、 田島奈保子、 栃原比比奈、 日本画家・山本直彰、 彦坂尚嘉

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《批評の自由》を追求してみたいと思います。
今回はその手始めですが、将来は作品のシリーズ制作のレベルで実現
を考えています。

どの作品を良しとするかという《批評》を、コレクターにゆだねる
という事をやりたく思います。
その判断の参考として彦坂尚嘉責任の『アートの格付け』は
付けます。これに関しては非妥協的であって、厳密な学問としての
芸術判断を追いかけたく思います。

つまり一人一人のコレクターにとって、どの作品が良いかは、
色々の判断があるのです。
《現実界》の作品を芸術として評価する人もいれば、
逆に《想像界》の作品だけに評価を絞るコレクターもいるのです。
《超1流》が好きな人も入れば、《1流》の方が好きなコレクター
もいます。《第6次元 自然領域》だけを認めるという人もいます。

現実に存在する《芸術の趣味判断の多様性》に、
気体分子ギャラリーは、《批評の自由》として対応していこうと
考えます。

目指すのは、作品価格をオークションという形で、
コレクターにゆだねるように、
《批評》をコレクターの一人一人の判断にゆだねて行くという事です。

将来的には、ひとつのシリーズを、多様な質で制作することを
実現したく思います。
その第一回目として9月のマキイマサルファインアーツでの
彦坂尚嘉の個展を予定しています。

今回は山本藍子さんの個展ですので、そこまではできませんが、
『アートの格付け』をご参考に、自分の好きな趣味領域を探すことを
模索して下さい。

理解できない項目へのご質問はコメント欄を復活しましたので、
そこに書き込んで下さい。

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小品/見る力・シリーズ
(山本藍子撮影写真の出力画像の上に、アクリル/色鉛筆などによるドローイング)
すべて
最低入札価格5,000円
定価10,000円


山本藍子11.jpg
山本藍子 見る力(3) 2010 

彦坂尚嘉責任による山本藍子作品の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第21次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
《サントーム》は無い。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現
 
 
《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ローアート》。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》が無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》が有る。

大衆の芸術

作品空間の意識の大きさが《村》である。

鑑賞構造が無い。
模様である。



山本藍子12.jpg

山本藍子 見る力(2) 2010 

彦坂尚嘉責任による山本藍子作品の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第21次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
《サントーム》は無い。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現
 
 
《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ローアート》。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》が無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》が有る。

大衆の芸術

作品空間の意識の大きさが《村》である。

鑑賞構造が無い。
模様である。


山本藍子小品30.jpg

山本藍子 見る力(6) 2010 

彦坂尚嘉責任による山本藍子作品の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第21次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
《サントーム》は無い。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現
 
 
《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ローアート》。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》が無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》が有る。

大衆の芸術

作品空間の意識の大きさが《村》である。

鑑賞構造が無い。
模様である。


山本藍子小品20.jpg

山本藍子 見る力(4) 2010 

彦坂尚嘉責任による山本藍子作品の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第21次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》の《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
《サントーム》は無い。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現
 
 
《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ローアート》。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》が無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》が有る。

大衆の芸術

作品空間の意識の大きさが《村》である。

鑑賞構造が無い。
模様である。




山本藍子展の『アートの格付け』(全面改稿、校正2) [気体分子ギャラリー]

1、山本藍子作品の難解性について

諸事情で遅れてお詫びいたしますが、
山本藍子展の作品プライスと『アートの格付け』を流して行きます。

先ずは大作です。
取りあえず画像を見て下さい。
芸術分析は、最近は研究が進んで、
やたらに細かくなっていますので、飛ばして、読まないでも結構です。

山本藍子大作3.jpg
ただ ここにいる 2009〜2010年 1818×2590㎜(200号P)

定価:1,600,000円
最低入札価格:1,100,000円

彦坂尚嘉責任による山本藍子作品の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
《サントーム》は無い。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現
 
 
《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。
ただし《世間体のアート》が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《村》である。

鑑賞構造が《驚愕》である。

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山本藍子1.jpg
生きる為にがんばるのではなく、死なないように注意する
2009〜2010年 1818×2590㎜(200号P)

定価:1,500,000円
最低入札価格:1,000,000円

彦坂尚嘉責任による芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜70次元》《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜70次元》《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
《サントーム》は無い。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現
 
 
《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。
ただし《世間体のアート》が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《村》である。

鑑賞構造が《驚愕》である。


豚のイメージが見えますし、山本藍子が愛するレース模様が執拗に描かれています。分かりやすい作品だと思うのですが、何人からか、分かりにくいという声を聞きました。

その辺を配慮しつつ文章を書きます。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

2、法華経の美術/芸術の大乗化

執拗に描き込む事に、山本藍子は執念を燃やします。
この執念は工芸的な画工性なのか、画工を超えたものなのか?
その疑いは、あります。

画工の根性というのは、現代では村上隆の作品の仕上げの
クオリティの高さが突出しています。

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彦坂尚嘉責任による村上隆の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第13次元 漫画喜劇領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第13次元 漫画喜劇領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第13次元 漫画喜劇領域》のデザイン的エンターテイメント
 
 
《想像界》だけの表現
液体美術=近代美術
 
 《気晴らしアート》
《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術
原始脳の美術

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》がある。
《世間体のアート》が無い。

大衆の芸術

グローバルな世界帝国の美術。


モコットとした胡粉の盛り上がりのような、
そしてむんむんとした、官能に満ちた女の肌の熱さのような仕上げの
密度が村上隆の絵画にはあります。
絵画というより工芸品です。

そういう仕上げへの執着の高さは、山本藍子の絵画にはありません。

しかし村上隆の絵画には仕上げの美しさは有るにしても、
《原芸術》性もなければ、現代の美術の特徴であるはずの
プラズマ性もありません。本質的に村上隆は古い液体の美術です。
つまりモダンアートの工芸品とも見えるものです。

それに対して山本藍子の作品には《原芸術》性と、
プラズマ性があるのです。
古い要素をたくさん持ちながらも山本藍子本人の自覚を超えた新しさが、
山本藍子の絵画には宿っているのです。
それは若さの特権で、3年くらいの寿命で、すぐに枯れてしまうものかもしれませんが、それでも今、山本藍子の作品には、ある新しさがあるのです。

山本藍子村上隆.jpg
村上隆               山本藍子

重要な事は、絵画を平面だと考えるグリンバーグ的イデオロギーは、
古い単純系モダニズムであって、今日の情報化社会では古いのです。
今日の情報化社会のバーチャルな空間は、決してフラットではないのです。
超紐理論のリサランドールの主張を見ると良く分かるように、
今日の空間は多次元の深みに満ちているのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

山本藍子には、村上隆とは正反対の反ー画工的な汚さや荒さがあります。この汚さや荒さにこそ、山本藍子の絵画の核があるのです。

それは一時代前のモダニズム絵画の、反ーアカデミー的なものとも言えるし、エスタブリッシュな高品質への反逆性とも言えます。それは単なる表面的なものではなくて、彼女の存在の闇から出て来ているものであって、本質であるかのように見えます。

この存在の闇からの反逆性が面白いのですが、同時にそこには自己満足的で、マスターベーションに過ぎない日本の現代美術の《村》的な愚劣さの伝統もあるように見えます。しかし古い現代美術の《村》の世界は縮小し、老いて、死を待つのみなのです。

つまり制作した作品が、コレクターという他者の欲望と切り結ぶ以前に、自己完結してしまっているところが、山本藍子の思考の中心にあるように見えます。そのくせ、制作への情熱は、逆のものを示していて、コレクターと切り結んで行こうとしているようにも見えます。昨年のマキイマサルファインアーツでの個展の過剰性は、そのようにも見えるものなのです。

DSC_0532 のコピー.jpg

しかし、この過剰性は、実は他者を見ていなくて、自己満足に収斂して終わっているものなのではないのか? という疑いも、持たせられるところがあります。思考や欲望が、他者や社会に向って開かれていないのではないか? 
あるいは現代美術の《村》の中での世間体のなかで、完結してしまう者の特性のようにも見えるのです。《村》に安住していて、一度も外部の誰もいない空間に出て行かない。つまり作品を買いもしないで文句だけ言う無責任な現代美術界の閉塞した人びとの顔色との対応の追われて、現実の世界社会の欲望と迷妄に切り込んでいかない。

衰弱から破綻に向う日本共同体の外部には、決して出ていかない人々.こういう人々と集団自殺に向って行く事を良しとしているかのようにも見えるのです。

さらにはこの地球の外部、そしてこの宇宙の外部に出て行こうとしない。誰もいない外部に出て行って、戻ってこない限り、自分の存在の闇の岩に刺さる聖剣=エクスカリバーを抜く事は出来ないのですが、この聖剣を抜こうとしない精神を感じるのです。

そういうぬるさが、しかし反転して、面白い形骸性を生み出しているのが山本藍子の作品なのです。一人の悟りではなく、苦の中にある全ての生き物たちを救いたいという大乗仏教的な絵画を、山本藍子は描いているのです。

その結果として山本藍子の作品は、単なる装飾画ではなくて、装飾の形骸ともいうべきものになっています。しかし「装飾の形骸」とは何でしょうか?

山本藍子が見ている豚は、これは本物の豚の死体を大阪の鶴橋で買って来たものです。豚の死体は、顔を持っています。お尻もあります。目玉もある。そして参照しているレースは、古典的なレースの写真本なのです。生肉の豚の死体とレースの写真の組み合わせです。

豚とレース.jpg


レースの写真を参照しながら、やや乱暴で、やや汚い線で執拗に摸倣され引き写されて行くレースの装飾性は、描かれる事で、レース本来の構造や美しさ、繊細さや、緊張感は失われて、形骸化して行きます。なぜに、山本藍子は、こうしたレース模様の形骸化の作業をやり続けるのでしょうか? まるで自分の形骸化した人生をなぞるかのような執着に満ちた作業です。

そのひとつのこたえは《21流 愛欲領域》的な自己満足の追求のように見えますが、しかしそれだけではありません。法華経を根拠に、装飾を肯定した俵屋宗達の絵画と共通したものを私は、山本藍子に感じるのです。

俵屋宗達.jpg
俵屋宗達 舞楽図屏風

つまり法華経の大乗仏教の教えを背景とする俵屋宗達の絵画には、すべての人びとが必ず救われ仏になるという一切衆生=万人救済の祈念があるのです。ここにおいて装飾を肯定する意匠が、芸術へと屹立する希有の現象が成立しています。

法華経は、万人に、人間の生きることの《苦》を認め、この救済を説いているのです。

つまり芸術の基本は、装飾の否定にあるのですが、万人の救済のために、装飾の否定を反転させた所に、俵屋宗達の芸術の革命性があったのです。

それは単なる装飾ではなくて、装飾を否定することで成立する芸術の精神において反転して、否定する事と同位性において装飾性が肯定されるのです。つまり単なる装飾への埋没ではなくて、装飾の充実から身を引き離した所からの装飾の肯定なのです。その必要性は万人の救済であり、人生の《苦》との対峙性なのです。

同様の姿勢を、私は山本藍子に感じます。

山本藍子宗達.jpg

装飾の向こうに、人間の《苦》があって、この《苦》の救済として装飾性を持つレース模様の絵画が執拗に描かれている。

人間が生きるということの《苦》を救済する絵画!

3、アメリカの
    パターンペインティング

さて、話は飛びますが、1975年アメリカがベトナム戦争に敗れて傷つくと、右翼であるネオコンが登場するとともに、装飾を肯定するパターンペインティングという流行が登場します。1970年代のアメリカのパターンペインティングを批判的に知っている私には、山本藍子の作品は、宗達の絵画との関係とともに、分かりやすい絵画であったのです。

パターンペインティングの多くは、装飾の官能性に溺れて、すぐに行き詰まり、短命に終わります。しかし、その中に例外はいて、それがフィリップ・タフです。1980年代アメリカの画家の中で、尊敬に値する人物です。タフは、装飾的パターンを肯定することで、《苦》からの脱出の絵画を描いたのです。

山本藍子とフィリップ・タフを比較して見てみましょう。

Devonian-Lan.jpg
彦坂尚嘉責任による芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現
 
 
《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。
ただし《世間体のアート》が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《近代国家》である。

鑑賞構造が《愛玩》である。

16gall600.2.jpg

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Philip_Taaffe_Caligraphic_Study.jpg

さて、タフの顔を見ておきましょう。



portrait_taaffe.jpg
フィリップ・タフの顔の分析

《想像界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
ただし《サントーム》はない。
気体人間のみの人格
《気晴らし人間》と《シリアス人間》の同時表示
《ローアート的人間》と《ハイアート人間》の同時表示
シニフィエ的人間とシニフィアン的人間の同時表示。
『真実の人』

《原人格》《人格》《反人格》《非人格》《無人格》はある。
《世間体人格》は無い。

意識の大きさが《近代国家》である。


さて、山本藍子の顔も見ておきましょう。

山本藍子 顔写真190.jpg
撮影:糸崎公朗

山本藍子の顔の分析

《想像界》の眼で《41次元〜50次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《41次元〜50次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
ただし《サントーム》は無い。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な人格

《気晴らし人間》と《シリアス人間》の同時表示
《ローアート的人間》と《ハイアート人間》の同時表示
シニフィエ的人間とシニフィアン的人間の同時表示。
『真実の人』

《原人格》《人格》《反人格》《非人格》《無人格》《世間体人格》のすべてがある。

意識の大きさが《村》である。

山本藍子タフ顔.jpg




























山本藍子の顔の分析                                                            フィリップ・タフの顔の分析

《想像界》の眼で《41次元〜50次元》の《真性の人格》  《想像界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》   《象徴界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《41次元〜50次元》の《真性の人格》  《現実界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界重層的な人格      《想像界》《象徴界》《現実界》の3界重層的な人格
ただし《サントーム》はない。                                             ただし《サントーム》はない。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ         気体人間のみの人格
多層的な人格

《気晴らし人間》と《シリアス人間》の同時表示                  《気晴らし人間》と《シリアス人間》の同時表示
《ローアート的人間》と《ハイアート人間》の同時表示         《ローアート的人間》と《ハイアート人間》の同時表示
シニフィエ的人間とシニフィアン的人間の同時表示。             シニフィエ的人間とシニフィアン的人間の同時表示。
『真実の人』                                                                        『真実の人』

《原人格》《人格》《反人格》《非人格》         《原人格》《人格》《反人格》《非人格》《無人格》はある。
《無人格》《世間体人格》のすべてがある。        《世間体人格》は無い。
意識の大きさが《村》である。              意識の大きさが《近代国家》である。

彦坂尚嘉の理論では、作品とアーティストの人格は深い構造関係にあります。そして人格と言うのは、意識の構造なので、意識のありようを変える事で、変化しうるのです。つまり誰でも意識を変えて、人格を変え得ると、彦坂尚嘉は考えます。

山本藍子とフィリップ・タフの顔を比較すると、つまり意識の面で、山本藍子の方がプラズマ化まであって新しく、そして重層的な人格構造をしています。
しかし意識の大きさが《村》の空間であって、ここは古いと言うか、退化しています。そのために作品が小さく縮んでいます。世界はグローバル化して、空間的には世界帝国の時代になっている時代です。しかし山本藍子の空間意識は《村》でいるというのは、小さく生きているという事です。それで本人は幸せとは思いますが、現代アートの作家としては大きなハンディです。しかしそれは山本藍子だけの問題ではなくて、日本社会の多数の人々の意識の縮小化/退化に重なる問題です。

山本藍子の《想像界》《現実界》が《41次元〜50次元》という、《超次元》の多型倒錯構造なのは、山本藍子が、そのような嗜好性を持っているからです。これも変えようと思えば変えられるというふうに、彦坂尚嘉は考えます。しかし、山本藍子は、そうした《超1流》の倒錯領域が、好きなのだろうと思います。同様のことが、先ほどの意識の《村》性についても言えます。《村》を生きる事が好きなのです。ですから、それは個人の自由であって、尊重すべき事なのです。それには立ち入ってはいけないのです。個人の自由と自己責任によって、その作家の芸術は成立するのです。

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nice!(4) 

毎日オークションをめぐって [気体分子ギャラリー]

諸事情で遅れてお詫びいたします。
一番は、『空想 皇居美術館』の出版の余波です。

山本藍子展/オークション情報を流しそうとしているのですが、
そのデーターを忘れてきています。

マキイマサルファインアーツでやっている事もあって、
従来の貸し画廊のシステムも尊重するので、
山本藍子と、マキイマサルファインアーツと、私の三者のあいだに齟齬が
あって、かんじんの私が調整を逃げているのです。

私自身が心理的に問題があります。

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くどくどしくって恐縮ですが、その辺のことを書きます。

私自身は、オークションシステムの展開を追求したいと思っています。
それを「毎日オークション」という形で、
売れても、売れなくても、毎日制作をして、毎日アップして、
オークションをしていくというシステムを立ち上げたく思っています。

実はそれはこのブログの最初の段階からある課題だったのです。
このブログは、毎日ドローイングをアップするという形で、
始まったからです。

それは制作の現場そのものと、
オークションシステムにある価格の自由というものを
組み合わせる事で、
制作の現場そのものを変革する事です。

つまり「価格の自由」を、作品制作の現場で追求したく思っています。

そしてもうひとつ「批評の自由」も追求したく思っています。
彦坂尚嘉的な『アートの格付け』を示しつつ、
観客の芸術の趣味判断の多様性を、リアルに存在する現実として
とらえた制作システムを作り出したいのです。

こうした思いは観念的なものです。
つまりコンセプチュアルアートとしての追求心なのです。

しかし現実と、そして自分も含めて具体的な作家がいると、
なかなかその軋轢はたいへんなもので、
そう簡単にはいかないのです。

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現実にアートマネージメントをやって行くと、
美術家の内面と、作品の内面が、より深く見えて来ます。
それは人間の内部の深い闇の世界でもあります。

こういう作業をしていると、
その中から到達するのは、最短で問題を押し進めようとする結論です。

自分自身と、そして私の追求しようとしている美術とギャラリー活動に
連動できる作家だけに絞り込んで行くということです。

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先日のタマダプロジェクトでの『空想皇居美術館出版記念展』でも、
実は自分の作品のオークションまでもやりたかったのですが、
現実の制作と、そして玉田俊雄さんとの調整にエネルギーが使われて、
届きませんでした。

今回も含めて玉田俊雄さんには深く感謝していますが、
しかし玉田俊雄さんと私では、感覚も思考も、そして行動の基準も
違い過ぎて、無理が大きすぎるのです。

古い現代美術の常識や価値観とは、私は実はいままでも熾烈にぶつかって
きています。
そういうものの外に出る闘いをしてきていても、
なかなか現実は、完全に外に出る事ができません。

それは私の心理上の問題でもあります。

しかし私の準備も進んできているし、
同時に、2010年代に入って、現実の変化も急速に展開してきています。
もはや猶予の時間はありません。

今年の9月に、私自身の個展をマキイマサルファインアーツで予定
しています。
前に『建築と美術のあいだ』という展覧会をお願いしたことの
連動した個展です。
ここでは自分の個展ということもあるので、
売れても売れなくてもオークションを追求します。


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