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彦坂尚嘉の2つのミス [アート論]

2つのミスをしていて、
その事を、橋本達哉さんにご指摘を受けています。

ミスをしたのは、事実です。
2つのミスの原因は、違いますが、
両方とも大きな原理上の問題を潜めていましたので、
すぐにはお答えができませんでした。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

一番目のミスは、
小泉純一郎の顔に関する判断が、2つ出た事です。

b_picのコピー.jpg

《想像界》の人格       《現実界》の人格

小泉純一郎の人相判断として、
私が、2つの違った判断を書いた不一致で、
そのことを橋本達哉さんから、ご指摘を受けたのです。

以前ブログ1のほうで、「小泉純一郎は現実界の人格」との表記があったのですが、「首相当時の小泉純一郎」ということですか? 
by 浮き舟 (2010-01-24 04:30)  

浮き舟

あと、ついでになってしまうのですが、芥川・太宰・三島の分析(顔だけでも)をぜひお聞かせ願いたいとおもいます。 
by 浮き舟 (2010-01-24 04:42)  

ご指摘を受けて、見直すと、確かに食い違っていました。

間違いを犯す危険性は、いつも意識していたし、
覚悟はしていましたが、
《言語判定法》の段階で間違えたのではなくて、
これは、選んだ写真で、人格が変わって見えるという実例の
最初の発見でも、ありました。

フロイトの精神分析が指摘しているように、
間違いというのは、実は単なるミスではなくて、
本質的な問題であり、構造を指し示しているのです。

とすると、このミスは、いかなる問題や、構造によって、
起きたのか?

ジャック・ラカンの理論ですと、
人間は《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもっています。
人間にとっての世界の在り方に3つあるのであって、その分類なのです。
一人の人間の中でくるくると入れ替わって行くというのです。

これは最初に読んだ時に、
非常に納得がいったというか、
自分の精神が不安定で、分裂している事の実感を、
良く説明してくれたと思った事でした。

実例を挙げますと、
「ダイエットをしよう」と決意しても、
食事を始めると忘れていて、ガツガツと凄いスピードでむさぼり食って、
しかも必要以上に過食して、お腹がいっぱいで苦しいくらいになると、
突然に「ダイエットしなければならなかったのだ! 忘れていた・・・」
と思い出して、自己嫌悪することになる。
しかも、これを性懲りも無く毎回返してしまう。

意思が弱いなどという段階ではなくて、
精神そのものが分裂していて、一貫した連続性が無いのですね。
ですから、自分自身を統合的にコントロールができない。
このことをラカンの《想像界》《象徴界》《現実界》の3界理論は、
見事に説明してくれているように思ったのです。

ところが、彦坂尚嘉の《言語判定法》によって、
つまり言葉で、現実の人間を測定すると、
必ずしも、3界がない人々がいるように見えて来たのです。
例えば、朝青龍です。


mrt0711301815016-p1.jpg

《言語判定法》的には、《現実界》しかないと判断で来ます。
しかしラカン理論では、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持っている
はずなのです。

しかしラカンの場合には、臨床医ではありますが、
哲学系の思考家で、原理的に語っていて、
私のような測定家ではないのです。

アインシュタインの相対性理論の場合のように、
測定は別の人がやって、理論を実証して行くというのがあるわけで、
理論家と、測定家は違っている事があります。

私の場合には、《イメージ判定法》《現実判定法》《言語判定法》の
3つが、人間の測定技術であると言う設定で、
自分は、《言語判定法》で測定してみようという事を、やって来ています。

顔の分析の場合、下敷きにあるのは、
絵画のように人間の顔を芸術分析をするということなので、
写真による分析にたよります。
生の人物を目の前にして《言語判定法》を使うのは、
できないというか、かなりむずかしいのです。

《言語判定法》は、言葉をひとつひとつ投げかけながら、
木霊をひろっていくので、非常に微弱な反応をひろうので、
精神集中が無いとできないのです。
作業的には、若干の苦痛もあって、なるべくはやりたくないという
作業なのです。

自分がどうしてもやりたいというものであると、
発見への欲望があって、精神集中ができますが、
ひとつひとつ言葉を投げて行くので、
一挙に判断できるというものではないのです。

朝青龍の場合には、トラブルの中での振る舞いからも、
どうも《想像界》や《象徴界》が、無いか、弱くて、
自分の置かれている立場が理解できないようだということは、
分かります。

さて、小泉純一郎元首相の場合、演説しているような写真の場合には、
《現実界》だけであるかのような人格を示し、
おだやかにインタビューを受けている場合には、
あたかも《想像界》だけの人格をしているかの様に、判断されたのです。
これ自体は、ですから3界を持っているというラカン理論には、
合っている実例となります。

このミスからの教訓は、
人の顔を判断する場合には、
違うシチュエーションの複数の写真をチェックする必要がある
という事です。

このミスの指摘を受けた直後、自分自身の顔写真を、
何枚か集めて、分析をしたところ、
やはり写真によって違う結果が出る事を発見しました。

煩雑なので、最近開発の《原芸術》分析を流用した《原人格》の
分析だけをやります。


彦坂尚嘉顔ブログ.jpg
撮影:斉藤ちさと
《原人格》が有る
《人格》が有る
《反人格》が有る
《非人格》が有る
《無人格》が有る
《世間体の人格》が有る

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
ただしサントームは無い。

彦坂尚嘉とまと顔3 72.jpg
撮影:佐々木薫

《原人格》が無い
《人格》が無い
《反人格》が無い
《非人格》が無い
《無人格》が無い
《世間体の人格》が無い
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
人格の《炎上》である。

《想像界》の人格


彦坂尚嘉顔写真/佐々木薫撮影72.jpg
撮影;佐々木薫

《原人格》が有る
《人格》が有る
《反人格》が有る
《非人格》が有る
《無人格》が有る
《世間体の人格》が無い

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
ただしサントームは無い。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

自分の顔写真の分析で分かった事では、
「人格論」という論理枠の外部に有る《形骸》《炎上》《崩壊》
といったものが出現するのは、演技すると出現してくるらしい
という事です。

【続きは下記をクリックして下さい】
さて、もうひとつのミスです。
奈良美智さんの作品写真の新しいのが欲しくて、
奈良美智さんのブログから、少し違う面白い感じの作品を見つけて、
文書を読まずに掲載したら、それが贋作だったのですね。

exhb_125のコピー.jpg
贋作             奈良美智の真作

彦坂さま

この奈良作品とされている絵は贋作だと記憶しています。
以前に贋作として奈良氏のブログに登場していたと思います。
参考まで。 
by ffi23 (2010-02-03 20:25)  

 

ヒコ

 




ffi23様
ご指摘ありがとうございます。
私も奈良さんのブログから見つけたのですが、不注意で、贋作と言う記事を読まずに、少し変わっているのを面白いとおもって、拾ってしまいました。
贋作は、別のブログで奈良の真作と比較してみます。違いがどこにあるのか、興味深いです。
作家にとっては、贋作は悩みのタネなのですが、アンディ・ウォーホルのような簡単に贋作ができる場合、結局、死後の管理組織を残したのですね。そこが鑑定料金をとって鑑定書を発行しています。奈良さんも、そういう問題が起きないとは言えないところですね。 
by ヒコ (2010-02-03 20:41)  

 

ヒコ

 




ffi23様
奈良美智さんの作品と、その贋作を比較すると、大変に重要なことが分かりました。とりあえず書いた記事を削除して、別の時期に改稿してアップするつもりです。 
by ヒコ (2010-02-03 21:01)  

 


こう比べると、ずいぶん違うので、ミスを起こした原因があるにしろ、
ご批判を受ける事は当然だと言えます。


つまり芸術的な教養の無いひとが、
無教養で判断する、そういう鑑賞眼が、《外部の眼》です。

つまり《素人の眼》です。
この場合、先ほどの美術館の館長の場合と同様に、
作家の多くもまた《素人の眼》なのです。

レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンを悪いというのが、
会田誠さんや辰野登恵子さんという東京藝術大学を代表する
アーティストの眼の水準なのです。             

奈良作品を、海外製の贋作という事に気がつかず、取りあげて日本の世間体を説明しようとしたミスに気がつき削除された様ですが、そうすれば上記の文章やこの記事自体を削除されるべきではないでしょうか?
以前他の方がされた質問ですが、二度の小泉純一郎の人相判定に関する質問も答えていただきたいと思っています。

お忙しいと思いますがお待ちしております。いつも興味深く拝見しております。 
by 橋本達哉 (2010-02-03 21:07)  




橋本達哉様

コメントありがとうございます。
ご注文の件遅れてすみません。

すぐやります。
by ヒコ (2010-02-04 04:25)   


私の場合、間違いが起きれば認めます。
少なくとも、そういう風にしようと努力はしています。

ヤーコブ・ローゼンバーグの作った真贋の判定画像を、多くの人に見せて来た
経験でいえば、多くの人は間違いを指摘されると、
傷つくか、怒ります。

A画廊のBさんは、激怒して、
「彦坂さんは答えをしっているのに、ずるい!」と怒りだして、
それ以後の関係が切れてしまいました。

なぜに怒ったり、傷つくのか?

私の場合には、傷つきもしません。
予想の範囲だからです。
あらゆる目利きは、間違えます。
それほどに、芸術分析や『アートの格付け』は、むずかしいのです。

それと一人の人間の感覚の限界というものがあります。

勉強をしていない人は傷つき怒るのです。
勉強をし探究している人は、
ミスは当然起こる事を知っているのです。

つまり、この差にはなにがあるのか?

勉強しない人は、実は自分が神であるという万能感を持っているのです。
万能感に支えられている人は、間違いを指摘されると、
傷つき、怒るのです。

しかし勉強し探究している人は、
自分が無能で、無知で、不完全であることを知っています。
人間は神ではないのです。
万能感を否定し、自分がダメである事を受け入れないと、
勉強は始まらないのです。

私が一見すると傲慢に見えても、
彦坂尚嘉は謙虚であって、傲慢ではないのです。
彦坂がなじっているのは、
日本の美術家の万能感に満ちた貧しさです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

exhb_125のコピー.jpg

今回の奈良美智さんの作品も、二つを並べて、
どちらが奈良美智か?
と聞かれれば間違いはしなかったでしょう。

しかし私が、新しい奈良美智の画像が欲しくて、
前にも採取したことのある奈良美智さんのブログを探して、
けっこう、後ろの方から見つけて、
少し違う雰囲気を、喜んで、採取したからです。
こういう導入の条件があると、疑うのを忘れるのです。

ただ、今回のミスは、それ以上の構造を含んでいたのです。

私の芸術分析は、最初、『アートの格付け』だけでした。
これでみると、実は、贋作と奈良美智の真作では、
あまり区別がつかないのです。

exhb_125のコピー.jpg

贋作             奈良美智の真作
《想像界》の眼で《第6次元》《真性の芸術》  《想像界》の眼で《第6次元》《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元》《真性の芸術》  《象徴界》の眼で《第6次元》《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第6次元》《真性の芸術》  《現実界》の眼で《第6次元》《真性の芸術》

《想像界》だけの表現         《想像界》だけの表現

気体の表現           気体だがプラズマ化した表現

《気晴らしアート》《ローアート》   《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術     シニフィエ(記号内容)の美術
《原始平面》『ペンキ絵』       《原始平面》『ペンキ絵』
【B級美術】                                     【B級美術】



この『アートの格付け』では、差がなかったことを反省して、
新たにプラズマ化という項目を増設しました。

従来の気体/液体/固体/絶対零度の4様態という視点では、
差を生み出し得なかったのです。

プラズマ化というのが、増設されると、H2Oの水の様態変化の理論は、
発展する事になります。

温度が上昇すると,物質は固体から液体に,
液体から気体にと状態が変化しま す。

さらに気体の温度が上昇すると、気体の分子は解離して原子になり,
さらに温度が 上昇すると原子核のまわりを回っていた電子が
原子から離れて,正イオンと電 子に分かれます。
この現象は電離とよばれています。
そして電離によって生じ た荷電粒子を含む気体を
プラズマとよびます。

1990年代の表現は、気体を超えて温度が上がっており、
プラズマ化していたのです。
奈良美智の作品は、このプラズマ化した気体であるという視点で、
把握する必要があったのです。

私の真贋判断のミスの根底にあった構造は、
このプラズマ化を、把握していなかった事です。

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諸味沢

あと、よく年寄りの方が間違いますが、「シュミレーション」ではなく「シミュレーション」が正しいですよ。
by 諸味沢 (2010-02-04 09:38) 

浮き舟

小泉純一郎の件、納得がいきました。場に応じて、人格を使い分けるということになるのでしょうか。
演技という言葉が出ましたが、人生において自らを律する、あるいは環境を操作することで自らに及ぼす作用を操作する(自他を明確に区別した上での話ですが)といったことは、多くの人が日常的に行っているように僕には思われます。しかし彦坂さんの判定によると、2次元技術領域の人格を有する人はあまり多くない。6~8次元ばかり。「本来の自分」という表現は不適切でしょうが、素の自分に落ち着いている状態、ということでしょうか。あるいは、新興宗教的な規則・思考の下に律している、人に怒られたから律している、ということでしょうか?彦坂さんのいう「技術(技術領域における)」の定義をお聞かせ願いたいと思います。
by 浮き舟 (2010-02-04 13:14) 

ヒコ

諸味沢様
ご指摘、ありがとうございます。「シミュレーション」は、いままでも何度も間違えていて、ご指摘に感謝します。これで、これに関する間違いを打ち止めにしたいですね。

浮き舟様
コメントありがとうございます。
《第2次元 技術領域》というのも、面白いところなので、できればブログを新たに1本立てたいと思います。
by ヒコ (2010-02-04 15:59) 

橋本達哉

最も単純な命題には最後に到達する、とはソクラテスだったでしょうか、
選んだ写真によって人格が変わって見えるのではという問題は私をはじめおそらく多くの読者が感じていたことかもしれません。老いは勿論、日毎の体調による人間の顔は変化が格にどう表れるか興味のあるところです。政治家はその最たるものかもしれません。
フィルムに代わってヴィデオが登場してくると、人間はより撮られることに意識的になりましたし、作家からそうでないものまで、カメラの前で自殺する人間が大勢出ました。自意識が強くなりました。
カメラを向けられた人間は無意識に何かを演じてしまうはずで、オフの顔は知りようもないので、常に欠損を抱える分析が複数の写真から何を目指すのかは疑問に思いますし、個人的には顔の判定は撮られたコンテクストを考慮しつつ単一の写真毎にしか効果を発揮しないように思います。2人の小泉純一郎は別人なのでしょうし、本来の小泉純一郎など知ることはできないはずです。
今回、芸術の分析が個人の志向性に左右されるといういわば当然のことを再確認しました。個人的には作品に限って分析されるほうが、傲慢(に見える)を回避できるように思います。奈良の真作と贋作が格付けではほとんど変わらないという所に格付けの不可能性を感じますし、贋作を「少し違う雰囲気を、喜んで、採取した」という言葉にこそリアリティを感じました。

対応ありがとうございました。

余談ですが形骸という概念で思い出されるのは江藤淳の遺書です。「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。」
by 橋本達哉 (2010-02-05 00:05) 

ヒコ

橋本達哉様

コメントありがとうございます。ご指摘は、ごもっともと思います。考えてみます。ただ、私自身の探究というのは、もともと《脱-領土化》の運動なのです。破綻しないとこを最初から選んでいるのではなくて、破綻することを重要な方法として追求しているのです。フッサールの影響は極めて大きいと言えます。

江藤淳からは、大きな影響を受けています。
by ヒコ (2010-02-05 10:25) 

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