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日本美術の《超1流》性 [アート論]

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私のように、日本の画家として教育されてきますと、どうしても中国美術が素晴らしく、日本美術はその影響から出てきた《2流》なのだという考え方がベーシックなものとしてあります。

私は中学生の時から美術館回りをして、東京国立博物館にお弁当を持って行って、とにかく訳の分からないままに国宝や重要文化財を目で暗記しようとしてきたのです。大学生になると京都国立博物館や、奈良の大和文華館、奈良国立博物館に、新幹線に乗って繰り返し行くようになります。なぜにそういうことをしたかといえば、外国に行って本物を見られないので、海外作家の目に対抗するには、自国の最高の美術品を見る事で目を作ろうと思ったのです。ですから私の美意識を育てたのは、日本の国立博物館なのです。そういう伝統的な美意識を吸収していると、中国美術がものすごく素晴らしいものなのだという伝統的な価値観を持つようになります。

私は中学2年のときに、講談社の『日本近代絵画全集』と『日本近代絵画全集』いうものを買っています。中学生段階で最初に見て、それから以降も結構読んでいるのですが、そうすると私が優れていると思う美術家は中国美術の大きな影響を受けている事がわかります。

私一番好きだった作家のうちの一人は靉光でもう一人は富岡鉄斎です。ふたりとも中国美術の影響が強い作家です。靉光ですと宋元院体画というものに大きな影響を受けています。

中国の場合、美術家には二種類あります。ひとつは士太夫といって高級官僚です。軍人と文官という普通の官僚の偉い人で、支配者層。それが文武両官として絵を描くのですが、それが文人画といわれるものです。

もう一方は、宮廷が存在しますから、当時は宮廷の美術装飾品をつくっていく画院というものが当時ありました。画院というのは入るのに試験があって、試験に通った人が職業画家になっていきます。

画院は職業画家で、文人の方は教養として絵を描いているので職業画家ではありません。両方が中国の美術史の中で争っていきます。文人の方はまず高級官僚ですので、教養があります。官僚ですから書道ができます。字を書けないと官僚の役割をしないですから、字を読めて書けないといけない、つまり書はうまいです。ところが絵の具を使うというような職人技術というものはありません。ですから基本的に文人の絵というものは色をつかわず墨だけで描かれています。そして基本的に細かい描写はできませんから竹ばかりで竹の葉をぱっぱっぱと描いていく竹の絵が多いです。(李 禹煥氏の点を打つだけの作品は、こうした竹の葉だけを描く伝統的な文人画の系譜なのです。)

一方、画院の人たちは、絵の具を使って描いていく職業画家ですので、きちっとした絵を描こうとします。職人的と言えば職人的なのですが、その両方が争っていったときに、宋と元の院体画の方が、つまり職業画家の絵描きの作品が非常に高いレベルになるのです。

中国画家で一番有名な一人は、北宋の范寛で、范寛の山水画は超一流の絵画で、台湾の國立故宮博物院にもあって見る事ができます。私も1回だけですが見に行っています。

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渓山行旅図、北宋、范寛

もっとも現存するのは「谿山行旅」という一枚だけです。この人は職業画家であるといわれます。范寛の絵画には多くの日本人が惹きつけられています。けれどもこういう超一流の絵画が中国には実は少ないです。

李成も《超1流》の風景画です。郭煕も超一流ですけども、大和文華館で、この2人が作った李郭派山水画の展覧会が開催されており、私も見にいっています。もっとも李成と郭煕は同時代人ではなくて100年ぐらいの時代差がありますので、「李郭派」というのは、日本で言えば琳派というようなものであって、《系譜的流派》なのです。モダンアートが《同時代的流派》に焦点が会ったのに対して、前近代には《系譜的流派》があったのです。こういう「李郭派」様式は確かに優れた超一流美術で、《超1流》の倒錯した《41流》性も併せ持っています。


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李成 晴巒蕭寺図


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郭煕 早春図

しかし同じ李郭派の中でも六流が結構あります。そしてこの時期の山水画以外に《超1流》《41流》の絵画が中国にはなく、ほとんどが《1流》美術です。

中国は政治性が非常に強い大国家で、《第1次元 社会的理性領域》というものが、社会的に強い様です。絵画の名品の多くは《1流》美術にすぎません。もちろん《1流》が良いという価値観で言えば中国は大絵画がたくさんあります。しかし私のように、《1流》を超えていて、表現として真に自立した《超1流》の絵画を優れているという価値判断に立つと、《1流》というのは社会的理性性ですから、社会的理性性に支えられ、依存した表現ですから、冷めた目で見るとたいしたことはないのです。

ですから社会的理性を越えたものを見ようと思うと中国美術にはそれが少なく、「あ、これはもしかすると日本が多いのかな」という気持ちになるわけです。

つまり《超1流》の絵画に焦点をあわせると、日本美術は中国美術を、量と種類で圧倒的に凌駕しているのです。つまり中国美術はすぐれていて、日本美術は《2流》であるという、小さな時から教え込まれて来た日本人の劣等感は、どうも事実に反するのではないか?と考えるようになったのです。

もっとも青銅器や陶磁器、そして書になると、中国の超一流のものはたくさんあって、凄いです。

しかし日本にも鉄器というか、日本刀は《超1流》《41流》の凄いものが、たくさんあります。書も日本的な《超1流》の作品は多くあります。陶磁器は《超1流》のものは少ないですが、それで日本独自のものがあります。

そういうわけで、《超1流》と、その倒錯領域の《41流》の日本美術を集めてみようと考えて、それらを皇居美術館に展示しようというアンドレ・マルロー的な空想の美術館を構想したのです

《超1流》の日本美術館というのが、皇居美術館で、その世界版で、世界の美術の中から《超1流》の名品を集めた美術館が「帝国美術館」というものなのです。


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