SSブログ

栃原比比奈展の0号小品をめぐる議論 [気体分子ギャラリー]



hiina tochihara33.jpg

山口光子さんが亡くなられて、
画廊責任者がいない状態で、ギャラリ―山口が運営されています。

ボランティアの人たちのご努力で開かれている状態で、
私も画廊に詰めていなくてはならなくなっていて、
時間がなくて、小さい作品は画像処理が追いつかなくて、
不手際が多くて、すみません。

画廊にいると、久しぶりに多くの方とお会いして、
お話をしています。
みなさん山口光子さんの訃報には驚いておられます。

しかし、いわゆる接客で、時間が取られて、
なかなかブログ更新が上手く出来なくなっています。

さて、少しでも完成をして行きます。
今晩はがんばります。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

まず、0号の小品です。
すべて油彩です。
制作終了に当たっては、クオリティ・チェックを彦坂が、
《言語判定法》でやっているので、基本的には安定した完成に
なっています。

作品的には《超次元》、つまり《超1流》にすべてしてあるのですが、
しかし0号という小さなサイズの作品で、
この《超1流》性は、観客にとって良いのかどうか?

その疑問は残ります。
作品を紹介しながら、その議論をしておきたいと思います。

0_isu_02.jpg

栃原比比奈 椅子1
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》
《世間体のアート》の全てがある。
定価
:50,000円
最低入札価格
:10,000円

入札されています。
現在の入札価格:10,000円

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

この上に掲載した作品は、最初に売れた作品ですが、
これと草間弥生の0号作品とを比較してみたいと思います。

1082122898.jpg

草間弥生0号小品のカボチャ
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の表現
液体だけの表現

《気晴らしアート》
《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の表現、
原始脳の表現
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》
《世間体のアート》の全てが無い。
つまり芸術の《形骸》である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

この《形骸》の問題は、
実は少なくとも今日のアートシーンや観客の反応を問題にする時に、
重要なのです。

しかし彦坂尚嘉の視点では、歴史的にもさかのぼれるものであって、
《形骸》というのは、今日特有の現象ではありません。

ともあれ、栃原比比奈の0号小品を検討してみましょう。
まず、草間弥生作品と比較してみます。

栃原草間.jpg










草間弥生0号小品のカボチャ               栃原比比奈 椅子1
《想像界》の眼《第6次元 自然領域》のデザイン    《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼《第6次元 自然領域》のデザイン    《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン    《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》

《想像界》の表現                   《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界
液体だけの表現                    気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層表現

《気晴らしアート》                  《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示
《ローアート》                    《ハイアート》と《ローアート》の同時表示
シニフィエ(記号内容)の表現、             シニフィアン(とシニフィエの同時表示
原始脳の表現                      理性脳と原始脳の同時表示
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】        《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、          《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、
《非芸術》、《無芸術》《世間体のアート》の全てが無い。《無芸術》《世間体のアート》の全てがある。
つまり芸術の《形骸》である。

彦坂尚嘉の眼からは、栃原比比奈の作品の方が、圧倒的に
すぐれているのですが、しかし、観客の眼にもそう写るかどうかは、
疑問では有ります。

つまり0号というサイズの問題でもあるのです。
つまり0号というのは、まともなタブローのサイズではなくて、
小さすぎるのです。
つまり安物とか、売り絵というイメージでしかないのです。

そこで、栃原比比奈の作品を、草間弥生と同じように、
《形骸》に、画像操作でしてみます。
シュミレーションです。

試作《21流》.jpg

栃原比比奈0号小品の椅子
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第21次元 愛欲領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第21次元 愛欲領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第21次元 愛欲領域》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の表現
気体だけの表現

《気晴らしアート》
《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の表現、
原始脳の表現
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》
《世間体のアート》の全てが無い。
つまり芸術の《形骸》である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

さて、こうして《形骸》となった栃原比比奈の作品と、
草間の作品を並べて見ます。
この変化を見て下さい。

栃原草間.jpg

《第6次元》の《形骸》     《超次元》の《真性の芸術》 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

試作《21流》草間.jpg


《第6次元》の《形骸》     《第21次元》の《形骸》

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

観客は、草間的な《形骸》を求めているのではないのか?

栃原《超1流》《21流》.jpg


《第21次元》の《形骸》     《超次元》の《真性の芸術》

こう並べると、
《超次元》の《真性の芸術》というのが、
いかに上品であるかが、分かります。

上品では、売れないのかもしれません。

さて、しかし今回は、この《超次元》の上品な作品だけを
制作しています。 

【続きは下記をクリックして下さい】



0_isu_04.jpg


椅子2
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》
《世間体のアート》の全てがある。
定価
:50,000円
最低入札価格
:10,000円

入札されています。
現在の入札価格:10,000円

某美術館の学芸員の方が、買って下さいました。
こういう上品な《超次元》の0号作品の価値を見て下さるというのは、
眼が良い方なのです。
感謝します!

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

0_isu_01.jpg

椅子3
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》
《世間体のアート》の全てがある。
定価
:50,000円
最低入札価格
:10,000円

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

0_isu_03.jpg

椅子4
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》
《世間体のアート》の全てがある。
定価
:50,000円
最低入札価格
:10,000円

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

0_isu_05.jpg

椅子5
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》
《世間体のアート》の全てがある。
定価
:50,000円
最低入札価格
:10,000円

0_isu_06.jpg

椅子6
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》
《世間体のアート》の全てがある。
定価
:50,000円
最低入札価格
:10,000円

0_isu_07.jpg

椅子7
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》
《世間体のアート》の全てがある。
定価
:50,000円
最低入札価格
:10,000円

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

0_isu_08.jpg

椅子8(訂正:最初6と誤植されていましたので、訂正いたします。)
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》
《世間体のアート》の全てがある。
定価
:50,000円
最低入札価格
:10,000円

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


nice!(3)  コメント(15)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

nice! 3

コメント 15

なな

彦坂様
いつも大変興味深く拝見させて頂いております。

栃原比比奈さんの作品を画像操作により《形骸》にされておられますが、とても興味深い試みであり勉強になります。そこで質問です。

額、や空間における展示方法により、最終的な作品の次元の変化は可能でしょうか?
①次元の変化
例えば絵そのものは6次元であったものが、一定の基準により選ばれた額に入れることにより超次元に変化するのか。

②反転領域への変化
21、31、41次元等の作品をそれらの行為により反転領域にまで変化する事は可能であるのか。(例、もとの絵画21→展示後2、31→1、41→超次元)そうなれば逆の反転領域への変化の危険性も考えられうるのか(1→31)

③作品の本質変化
又上記は細かい次元の質問ですが、もう少し大きく捕らえた場合に例えば、デザイン的エンターテーメント作品が最終的に額や展示台等の展示方法の作用により芸術になりうる可能性があるのか。

勿論展示空間、方法含め作品であるという見方とする場合、これらは愚問ですが、完成した作品に直接手を加える以外の展示における最終段階での格変化の可能性について興味があります。

大変お忙しいとは思われますが、お時間ございましたら回答よろしくお願い致します。
by なな (2010-01-28 09:00) 

ナカムラ

椅子6を購入いたしたく。夕方、ギャラリーにうかがいます。
by ナカムラ (2010-01-28 09:14) 

ヒコ

ナカムラ様

ありがとうございます。おまちしております。
by ヒコ (2010-01-28 12:17) 

kasiko

ある程度は理解できるのですが、本音をいうと真性の芸術とPC操作の形骸の差がわかりません。
形骸のがコントラストが強いように見えますが、淡いか強いかだけが
芸術と形骸の差になるのでしょうか?
前後で大した違いはないように思います。
芸術が上品で、形骸が下品ともいえないように思いますが。
そもそもPCごときの簡単ま操作で本質が極端に変わるものでしょうか??
by kasiko (2010-01-28 17:08) 

ヒコ

kasiko様
コメントありがとうございます。

「PCごときの簡単ま操作で本質が極端に変わるものでしょうか?? 」というご質問は、たいへんに良い質問だと思います。

こういう事を説明するのは、実は難しいのです。こういう質問をなさるお気持ちは良く分かるのですが、そういう方を説得する事は不可能だという事を、経験的に知っているのです。

かなり基本的な認識論のご勉強をなさっているかどうかが問題なので、簡単に言えば、荘子を読んでいないと、難しいです。

「本音をいうと真性の芸術とPC操作の形骸の差がわかりません」というのも、良く分かるのです。

たとえば、セブンイレブンの幕の内弁当と、ミニストップの幕の内弁当の、白米の味さというのが、1流と、6流の差があるのですが、白米の味の差が分からない人がいるのです。

現実に差が分からない人がいいて、味の差が、すぐに分かる人もいるのです。

まず、この事を認めて頂きたく思います。

「違いの分かる男」というインスタントコーヒーのコマーシャルがありましたが、差を分かるという事は、実は勉強が必要なのです。

私は学生時代ですが、写真の善し悪しが分かりませんでした。カメラ雑誌を見ていても、どれが良い作品で、どれが悪い作品なのか、分からなかったのです。その当時、写真家の中平卓馬氏とつきあって頂いていて、彼にその事を言ったのです。そしたら、家に遊びおいで、と言ってもらって、逗子の彼の家に泊まり込みで行って、良い写真集のコレクションを沢山みせてもらったのです。良い写真を覚えると、写真の善し悪しが分かる様になりました。

同じ様な経験を幾つもしているのです。

良い作品をきちんと見て覚えると、違いが分かる様になります。味についても同様です。おいしい味を食べて、それを覚えて、基準が出来ると、善し悪しの差が分かる様になるのです。

判断するためには、教養が必要なのです。
ですので、時間をかけて、勉強なさる事をお薦めします。

by ヒコ (2010-01-28 18:41) 

尼崎

彦坂氏、kasiko氏の「淡いか強いかだけが芸術と形骸の差になるのでしょうか」には答えねばならないでしょう。勿論画像処理をした作品に関してのみですが。
荘子に書いてある事と関わってきませんから。

質問の所在自体を根こそぎ否定する超越的な論は捨て真摯に対応される事を願っております。
付け加えて個人的な感想を言いますと、
芸術分析によって作品の価値が著しく落ちているのを感じます。作家が気の毒でなりません。
言葉で芸術を捉えようとするならする、しないならしない。
by 尼崎 (2010-01-28 21:36) 

北村

横やりになりますが昔からの読者から、意見を言わせてください。淡いか強いかという違いだとしたら コントラストを強めたか弱めたかの差になります。 それだと作品の構造は変わらないと思います。過去のblogを見ればわかります。 シンディシャ―マンとやなぎみわの比較をした項目や木村伊兵衛、土門拳、長野重一の比較をした項目を見てみてください。この比較ではフォトショップでコントラストを変えて 作品の構造をわかりやすくして 芸術とデザインの違いについて書いてくださっています。今回のblogでの画像の改変はコントラストを強めた弱めただけではなくて 他の部分も変えて構造を変えていると思われます。絵を描くように光の設定だとか強くする部分だとかを変えているんだと思います。最近のblogだと、B級アイドルがヌ―ドになった事を分析なさっていた日に、同じように光を変えて構造を変えています。今回の改変はかなりどきつい印象になっているように思います。
最近のblogだけではなくて2007年くらいからさかのぼり読んで分からないなら質問するなり 自分がなぜ理解出来ないのかを研究するべきだと思います。

by 北村 (2010-01-28 22:45) 

ヒコ

なな様
ご質問ありがとうございます。
お名前を間違えて、すみません。

ます、1ですが、6次元の作品を、額や編集で操作する事はできます。最近見た具体例では、写真集ですが『浅田家』というものがありますが、写真そのものは6次元ですが、編集デザインをした川名潤氏のしごとが1次元でしたので、写真集としては1次元のものになて、良く売れて6版くらい出ています。

2ですが、1の場合も、6次元の写真作品の内容が変わるのではなくて、それを含むパケージング全体で変化が起きるのです。
組織的にそういう操作をしているものに、シャネルがあります。シャネルの広告や、ウインドーディスプレー、さらには銀座のビルの照明アートなどは、第41次元です。しかしシャネルの商品そのものは、
超一流です。つまり41次元と超一流を組み合わせて、売っている物は超一流なのです。

同様の操作は、安室奈美恵にも見られて、音楽は1次元ですが、広告には41次元で展開しているものがあります。

3ですが、作品の定義によりますが、厳密にはありえません。原理的には操作は無限に可能のように見えますが、人間の感覚や常識などの総力は、分析よりも詳細な項目を無意識に判断しますので、そうした物を操作するのは、かなり難しいのです。「目開き1000人、盲1000人」と言いますが、見える人というのは、いつも存在しているのです。
 ですが、詐欺を含めるのならば、可能です。つまり藝術では無い作品を、あたかも藝術であるかの様に見せかけて、人を騙して金を巻き上げる事は、普通にやられている事です。
 むしろこうしたことが、普通になされているのが現実なのです。
by ヒコ (2010-01-28 15:51)
by ヒコ (2010-01-28 22:50) 

ヒコ

尼崎様
コメントありがとうございます。
ご指摘の箇所にお答えします。
「淡いか強いかだけが芸術と形骸の差になるのでしょうか」という質問は、本質に近いご指摘です。
「淡いか強いか」というのを正確に言うと、コントラストなのです。

これはブログで、図版をつけてお示ししようと考えていたのですが、まず『アートの格付け』とは何か? です。

この『格付け』をPhotoshopだけで示そうと考えてみましょう。
念のためにお断りすると、『アートの格付け』というのは、Photoshopの操作だけですむ領域ではありません。しかし複雑系の実験をいくつも読んで行くと分かりますが、複雑系というのは、単純化したシミュレーションの結果と、現実の測定結果が驚くほどに一致するのです。

具体例としては地震の研究があります。現実の地震は、要素が非常に多いのですが、その要素を単純化してつくった模型のシミュレーションでも、現実と対照すると適中しているのです。

ですので、とりあえず、Photoshopできる範囲の操作で、シュミレーションすることに、一定の意味があるのです。さらにフロイトのストレス理論の科学的な単純さを下敷きにして、コントラストだけを操作して、『アートの格付け』がどうかわるかを見てみます。それはコントラスト/明度/彩度/色相等等を同時に操作すると、複雑になりすぎて、分からなくなるからです。問題を理解するために、コントラストだけを操作して、『アートの格付け』がどのように変わるかを見てみます。

一般的には、デジタルカメラで、普通に撮影してできてくる画像は《第6次元 自然領域》になっています(これは経験的な多数性であって、違う例もありえるので、あくまでも一般論です。)

この《第6次元》の画像を、コントラストだけを11上げると、《第1次元 社会的理性領域》の画像になります。

《第6次元》の画像を、コントラストを21〜31上げると、《超次元》の画像になります。

《第6次元》の画像を、コントラストを41に上げると、《第41次元》の画像になります。

《第6次元》の画像を、コントラストを61に上げると、《形骸》の画像になります。

つまり、コントラストの操作だけで、『アートの格付け』が操作できる事と、コントラストを上げると、61で《形骸》が出現するという事です。

しかも《第41次元》よりも、さらにコントラストを上げたところに《形骸》が出現します。

北村さんのご指摘は、正当では有りますが、作品の制作ではなくて、科学的な実験の問題として、所在を単純化にするためには、手法的にはコントラストの操作に限って、『アートの格付け』を動かす事は必要なのです。

もうひとつ、芸術分析は、作家の作品を正当に評価する機能もあります。したがって、作品をおとしめる事を目的にしているのではありません。

そもそも批評や学問の基本から見る時、尼崎さんのおっしゃる「芸術分析によって作品の価値が著しく落ちているのを感じます。作家が気の毒でなりません。言葉で芸術を捉えようとするならする、しないならしない」という主張は、日本的な処世論の問題になってしまいます。

美術作品というのは、現実には90%が壊される運命にあるものです。そうした現実を直視して、美術作品を対象化しないと、芸術論は成立しえません。

それと芸術論や芸術分析は、ギリシアの古代から、中国では5世紀から、様々な美術家によってされて来ています。彦坂尚嘉は、この歴史の継承者であるに過ぎません。私のやっている事には、歴史的な正当性があるのです。

しかも私が芸術分析をしているのは、限られた数です。

もともと憲法で保証されている言論の自由や、表現の自由は、実は、大切な事なのです。そして言論や学問の自由というのは、不愉快なものなのです。
不快ゆえに学問の自由や、他人の表現の自由を否定することは、世間体的には正しい事ですが、知的ではないのです。

尼崎さんにとって不愉快なら、このブログを読まなければ良いのです。このグログの読者など、たかがしれています。なんの影響もありません。無視すれば良いのです。
しかし私に取って必要で、需要な芸術分析をしているのです。


by ヒコ (2010-01-28 23:32) 

北村

彦坂様 自分は誤読していたようで 解説していただき助かりました。ありがとうございます。
by 北村 (2010-01-29 00:09) 

尼崎

まず、彦坂氏のブログを読んで私は不愉快な思いをしたのではないと言っておきます。北村氏、「自分がなぜ理解出来ないのかを研究するべき」おっしゃる通りです。私は過去の記事も読んだ上で質問をしていますが、結局質問の所在は言語判定法の根拠を問うものです。それは同時に彦坂氏の判定を「理解出来る」ということを問うものです。
彦坂氏「したがって、作品をおとしめる事を目的にしているのではありません。」闇雲な批評は作品の評価を下げるでしょう。作品の正しい価値を判断することですから時として行き過ぎた評価を抑えることもあると思いますが勿論私が言っているのはそういう事ではありまsん。「芸術論や芸術分析は、ギリシアの古代から、中国では5世紀から、様々な美術家によってされて来ています。」おっしゃる通りです。しかし優れた批評もあればそうでないものもあるでしょう。例えば過去の記事に「美術のみかた」という本が紹介されていますが、その本には過去の作品評価法の変遷が見て取れます。そこに書かれていることも絶対のものではなくて、今日の我々は批判的にその評価法を見て取れる内容です。しかしそこから汲み取れる物は多く、問題の多い評価法も意味のある物ですが今日の我々がそれを繰り返しては意味が無いのです。おっしゃるように過去の批評を読んでいるようですが内容的には彦坂氏の方法はきわめて独創的で反省というものが見えないのです。三界、サントームという用語も本来的な意味を汲む事無く、拝借しているだけですね。パフォーマンスとしては面白い物です。けなしている訳ではありませんし、ブログを作品として展開しておられるのでそれで結構です。歴史に残る批評と残らない批評があるはずです。それは未来の人間が判断する事ですが、今のうちにこのブログの敬虔な信者とともに布教してもらいたいと思います。展開が楽しみなのです。「尼崎さんにとって不愉快なら、このブログを読まなければ良いのです。このグログの読者など、たかがしれています。なんの影響もありません。無視すれば良いのです。」これこそ日本的処世術です。
作家が気の毒というのは変わりません。もう一度、作家が気の毒です。彦坂氏自身の作品を判定するのなら何の言葉もないのです。極端な話、「てんてんがきれい」と子どもが言った方が意味がありましょうし、作家も喜ぶのではないでしょうか。
返答ありがとうございました。失礼します。


by 尼崎 (2010-01-29 08:36) 

kasiko

彦坂さま
御説拝聴いたしました。
それでは奈良の6流の画像もPCによるコントラスト調整で、超一流になるのですね。
しかし、これはいくらなんでも単純化しすぎではないでしょうか?
図式的にすぎますので、読者を馬鹿にしていることになります。
わかりやすすぎてつまらない。
今後はもう少しわかりにくく解説してくださることを期待いたします。
by kasiko (2010-01-29 12:24) 

ふしぎちゃん

御議論の途中に、横から失礼します。しばらく前から彦坂さんのブログを読ませてもらっています。

>三界、サントームという用語も本来的な意味を汲む事無く、拝借しているだけですね。

尼崎さんのこのご意見を読んで。実は、私もそこが気になっていました。特に三界の内の「象徴界」の彦坂さんの捉え方について。彦坂さんは文明の以前と以後を区分けし、以前を自然状態、以後を象徴界の機能の始まりとして捉えているように私には読めるのですが、精神分析はそもそも、人間というものが時間上存在したと同時に象徴界の機能もすでにある、と考えていると思うので、彦坂さんの「象徴界」の使用は、恣意的にすぎるのではないか?との疑問があるのです。

「象徴界」の機能の低下(たとえば家庭の中での父親の権威がなくなったとか、国家の市場経済への介入の縮小など)を言う前に、そもそも「象徴界」の機能が全くない人間社会というのはありえない、という精神分析の立場が、重要に思うのです。統合失調症患者は、たしかに精神分析においては象徴界の機能の働いていないケースとして考えられているとは思いますが、ではわれわれの社会または文化が、象徴界の機能がはずれて「気体化」したと比喩表現する場合に、「われわれはみな統合失調症患者になった」と言えるのかどうか。言えないと思います。たとえば「神経症的」はわれわれの多くに比喩表現が可能だと思いますが、「統合失調症的」または「分裂病的」の比喩表現はというと、これはなかなか難しい問題になると思います。ネットのようにサイバー空間が匿名性に溢れいかに多様に錯綜しようとも、誤解やすれちがいを含みつつも、一応、「普通」の会話ができる、ということは。
象徴界の機能の有る無しは、それぐらい決定的な違いであると思うのです。人間の成長過程で、なんらかのミスにより象徴機能がうまく働かない場合に、統合失調症(=精神病・分裂病)または倒錯者になると精神分析では考えられています。そこで重要なのは、ではそれを治療するという場合に、分析医が患者に対し、失われたその父性機能を回復しようとして、たとえば威厳のある命令口調を突然に発した場合にどうなるかというと、「むしろそれが原因となり本格的に発症する」と、ブルース・フィンクの臨床論『ラカン派精神分析入門』には書かれてあります。統合失調症患者には象徴機能が働く「場所」がそもそも無いと考えられるのです。無いところに無理にそれを働かせようとすると、むしろ危険だと。

芸術に関しては、私は「精神分析的なアート」ということには関心があるのです。それはラカン派の「精神分析的」という意味です。
ラカン派においては患者のことを「分析主体」と言います。これは、芸術、臨床、または教育などの場においても同じことが言えるのだと思いますが、その場の主役、主人公はあくまで観客・患者・生徒・(または宗教の場合、信者)なのだと私は考えます。分析主体は分析医の道具ではなく、むしろ逆で、分析医が分析主体である患者の道具(いろいろな像を投影する真っ白なスクリーンという意味で)ではないのかと。

ちなみに芸術家が後の世代と(擬似)転移関係の中で、対話の場を持つと試みとして私が興味深く感じているのは、うまくいったかどうかは別として、一つは1970年の三島由紀夫の全共闘学生との討論集会と、同じく70年の工藤哲巳による「若い世代への讃歌・繭は閉じる」です。

長々とコメント、失礼しました。
by ふしぎちゃん (2010-01-29 13:41) 

なな

彦坂様
お忙しい中、質問に答えて頂きありがとうございました。
解説内容、又その後の議論ともにとても興味深く大変勉強になりました。

by なな (2010-01-29 17:10) 

通りすがりの福岡

彦坂様

ブログの更新いつもお疲れ様です。

一昨年ぐらいから拝読させていただいているのですが、
今回の美術評論は非常に理解しにくくありました。

絵の、近視眼的な見難さで、遠くから見たり近くから見たりしておりました。
「作品は生で見ていかなきゃいかん!」
という彦坂様の訓戒に反するようで非常にびくびくしておりますが、
現在表示されてるサイズは実際のF0号よりちょっと大きいですよね。
イラレで55パーセントぐらいに縮小して
やっと安心して見られるぐらいになりました。

個人的な眼球に対する感想だけかもしれませんが、
パソコンと言う媒介で何かを見る難しさを誤解を感じました。

横からすみませんでした。
by 通りすがりの福岡 (2010-01-29 22:01) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

日本美術の《超1流》性栃原未完 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。