《原芸術》と《社会芸術》の統合という新しいアート(改題加筆2) [アート論]
佐藤大輔さんから、コメントをもらいました。
佐藤大輔さんは、多摩美術大学絵画科油彩の4年生の学生で、
立教大学大学院の彦坂の講義を聴きに来てくれている人です。
昔の作品よりも意識の幅が拡張されているのがわかる気がします。
質問があります。
クオリティーコントロールがより細かくなってきているように見受けられますが、超次元を3点ともに抜いているのはやはり買う人のことを意識してのことですか?
タイトルにボストンとかオレンジレンジとか入ってるのは、音楽を聴いてインスピレーションを得ているんですか?
佐藤大輔様
コメントありがとうございます。
《超次元》を抜いている理由ですが、私の芸術観の根本の問題です。
私自身は、《超1流》の作品が好きです。《超1流》というと、「私には関係がない」と思う人も多いとは思いますが、しかし阿修羅像は《超1流》で、しかも多くの人々に愛されています。現在のシャネルのブランドものも《超1流》です。ですから《超1流》は、多くの人々の欲望でもあるのです。私のアトリエの近くには山岸 一雄の大勝軒系のつけ麺のラーメン屋があって、そこは《超1流》ですが、毎日列ができています。
《超次元》や、その反転した領域である《第41次元》が彦坂尚嘉は好きなのだから、《超次元》や《第41次元》だけの作品を彦坂は作るべきである、というのが、分かりやすいとは思います。しかし、そう単純には考えないのが、彦坂尚嘉の分かりずらさなのです。
つまり《超次元》《第41次元》であれば、何でも良いのか?という疑問はあって、このブログでも、実は何回か、論争的に書いて来ています。
私の芸術史観では、《第6次元 自然領域》の原始美術の時代を、文字という道具=リテラシーを発明する事で抑圧して、《第1次元 社会的理性領域》の芸術が生まれます。
ですから芸術史的には、《第1次元》の芸術の成立が重要であって、私の私見では、《第1次元》を欠く事が出来ないのです。
マティスは、ほとんどが《第1次元 社会的理性領域》の作品で、約5点程度しか《超1流》の作品はありません。日本美術史上、最高の世界評価を得ている葛飾北斎も、実に多くの《第1次元 社会的理性領域》の作品を作っています。
全人類の歴史的に見て行くと、芸術であることの基本は、《第1次元》に有る事が観測されるのです。このオーソドックスな事実を、私は無視できないのです。
つまり《第1次元》を欠いて、《超次元》を成立させる菊竹清訓の建築や湯浅譲二、さらには小谷元彦や籔内 佐斗司のような芸術方法には、その魅力や成果を少しは認めはしますが、根本において同意できないものを感じます。
菊竹清訓『九州国立博物館』
《想像界》の眼で《超次元》だけの《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元》だけの《真性の芸術》
《原芸術》《芸術》《非芸術》《無芸術》は無い。
《反芸術》《社会芸術》の建築。
ここで、最後に出てくる《社会芸術》という概念は、
その名称からも分かりずらいのですが、《原芸術》という概念の
反対のものです。
内容的には、現在の社会性において成立する芸術であって、
歴史的な遡行性を欠いているものです。
「真昼の芸術」と言うべきもので、社会的常識に明確にはまる、
明瞭な表現です。そこには闇や、わからなさや、外部性がないのです。
芝居で言えば劇団四季のような、表現です。
湯浅譲二の実験音楽
《想像界》の眼で《超次元》だけの《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元》だけの《真性の芸術》
《原芸術》《芸術》《非芸術》《無芸術》は無い。
《反芸術》《社会芸術》の音楽。
小谷元彦の作品
《想像界》の眼で《超次元》だけのデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元》だけのデザイン的エンターテイメント
《原芸術》《芸術》《非芸術》《無芸術》は無い。
《反芸術》《社会芸術》の音楽。
籔内 佐斗司の作品
《想像界》の眼で《超次元》だけのデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元》だけのデザイン的エンターテイメント
《原芸術》《芸術》《非芸術》《無芸術》は無い。
《反芸術》《社会芸術》の音楽。
あるいは反対に意識的に《第1次元 社会的理性領域》を抜いて表現するスージー&バンシーズや、清志郎のようなカンターカルチャー系の芸術構造も、その成果は評価しますが、私自身は歴史家ですので、自分の作品としては取り得ません。
日本という極東の僻地で芸術を追求しようとすると、ひとつは原始美術への退化を示す婆娑羅主義なのです。岡本太郎の『重工業』(1949年)という作品から始まる敗戦後の日本現代美術の流れも、私はも否定的に見るので、そうするとむしろ《第1次元 社会的理性領域》を中心に据えて、さらにそこに《第41次元》という闇の世界を同時表示して行くことを、戦略として取ります。
もうひとつの理由は、カスヤの森現代美術館に出品したのは、小さくて安い作品ですので、早く、効率よく制作しないと、赤字になってしまいます。そういう場合、《第1次元 社会的理性領域》というのは、実は早く効率よく制作できる領域なのです。それに対して《超次元》というのは、手間のかかる領域です。《超次元》までの制作は、高額の作品でないとできません。
それと《第1次元 社会的理性領域》というのは、人々が愛する領域なのです。《愛》というのは《第1次元 社会的理性領域》にしかありません。人々の愛する作品を作りたければ、《第1次元 社会的理性領域》が一番重要なのです。
長々と書きましたが、《第1次元 社会的理性領域》というものを忌避する人々がいる事も知っているし、そういう表現が持つ面白さや深い意味を評価はしますが、私自身は、《第1次元 社会的理性領域》を受け入れた上での《超次元》や《第41次元》の表現の自立性を追求します。
さらにそれは《原芸術》と同時に、《原芸術》とは対極にある《社会芸術》とも言うべき自然的態度の視覚をも視野に入れる事で、この正反対の《原芸術》と《社会芸術》の統合としての情報界社会の【サントーム・アート】を、新しさとして制作して行きたいと思います。
したがって、小さな作品ですが、芸術概念の6形態すべてを統合したものとして作品を制作しえるようになったのです。
【彦坂尚嘉責任の芸術分析】
《原芸術》《芸術》《反芸術》
《非芸術》《無芸術》《社会芸術》のすべてがある。
ご質問の最後の音楽の事ですが、音楽を聴いて考えるのは大好きです。オレンジレンジも、子供が聴いていたからですが、《第3次元》と《第6次元》の2種類を混ぜたバンドで、音楽的にはデザイン的エンターテイメントですが、結構真面目に聞いて分析しています。
ボストンは、音楽評論家の渋谷陽一が批判した《産業ロック》を始めたバンドです。プログレッシブロックが、《第1次元 社会的理性領域》だけに特化することで、商業化するという道を切り開いたバンドです。しかし、その音楽性の高さと完成度は、決して否定する事のできないものです。私は高く評価するものです。
線の太さや表情を操るだけで次元を変えていける技術がすばらしいと思います。
普通は線を塗るとか絵具を塗るという行為に音楽との共通性のような深さは見出せないと思います。
数を描いていると思い込みや惰性で制作してしまいがちだと思うのです。
何より継続して、発展させていかれているところに敬服します。
by 佐藤大輔 (2009-12-15 12:26)
佐藤大輔様
コメントありがとうございます。
制作は、自分でも良い状態だと思っていますが、
アトリエに整理が、何よりもたいへんなのと、ホームページや原稿などの仕事が出来きれていなくて、そちらを含めて、もうひとつ上のコントロールを獲得したいと思います。
by ヒコ (2009-12-15 15:32)