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芸術鑑賞ライセンス/中野輝也さんへ [アート論]

 
私のリクエストに答えて記事を書いてくださり、ありがとうございます。また、しつこいぐらいに宣言しておきますが、今回の騒動は私が「主犯格」です。私が「最低限の調査」をする「労力を回避」して、「質問・批判」という低コストの行動を選択し、しかもそれが「盗作問題」という「無用の波風」を立てる、客観的に見て「悪意」を感じさせる、「過激な論点」の立て方であったことが、私が理解している範囲の「罪・犯行」です。この騒動によって、「斉藤ちさとさん」「彦坂尚嘉さん」「小山泰介さん」に多大な迷惑をかけてしまいました。申し訳ございません。「主犯格としての説明責任」は継続させていきますので、私に対する「質問・批判」があれば、できるだけ「返答・調査」させてもらいます。
 
すでに書きましたが、Aさんも同様な反応をして来ていますので、
《想像界》から見ると、そういう反応を呼ぶように見えるという
ことが、あるのだろうと思います。
 そういう意味で、特に中野輝也さんの責任ではありません。

事件としては、私にも、読者にも面白かったものです。
一生懸命に書いて下さったみなさんに感謝します。

作家や私、そして友人の美術史家や作家たちかにとっては、
まったく盗作の次元ではない作品の類似関係が、
そのような騒ぎにされる理解を超えた現象そのものが、
興味深いものであったのです。

作家にとっては、スキャンダルそのものが、常にプラスですので、
私にとっても、斉藤ちさとさんにとっても、
今回の事は感謝するべきことであって、
迷惑に思っていることではありません。
 
類似性については、藤枝晃雄氏が、以前に批評家数人を
連続して読んでするシンポジウムを渋谷でやった時に、
スライドを上映しながら、
何人かのアーティストの問題作品を列挙したことがあります。
 
私も読売新聞で、あるアーティストと、模倣や類似の問題を、
激烈に往復書簡で、論争した事があります。
 
現実に、影響や模倣、下敷き、さらにはシュミレーションといった
形で、作品は、相互影響の網の中で作られているのも、
事実です。
 
文化というものは、基本は共有なのです。
つまり言語そのものは自分で作り出したものではないのと
同様に、美術や写真そのものは独自に作ってはいなくて、
共有を前提にして、その基盤の中での、独創性の、
競争です。

独創してもすぐにコプーされて、実は、常に次の
独創を要求されると言う、過酷な競争ゲームなのです。
 
その辺の事が、《想像界》から見ると、
うまく分類や整理が出来なくて、
過剰な反応を連鎖させるのでしょう。
 
 
そして、私がコメント欄のなかで公開した、私の責任による『アートの格付け』は「偽物」です。「次元」に関する見きわめは「選択肢が多いので、難しそうだ」と覚悟していたので、不正解にはショックを受けていません。しかし比較的に自信のあった、
 
《現実界》の美術(3択問題、同時表示も考慮にいれると7択問題)
《シリアスアート》(2択問題、同時表示も考慮にいれると3択問題)
シニフィアン(記号表現)の美術(2択問題、同時表示も考慮にいれて3択問題)
 
のすべてにおいて、彦坂尚嘉さんの『アートの格付け』と相違、「ペケ」がついてしまいました。彦坂尚嘉さんの思考パターンをトレースできる能力を、現時点において、私が保有していない事をここに宣言します。「特訓」すれば身に付く性質の、「共有可能な言語」という「仮説」は、今でも捨てていませんが、すぐにでも証明しようとした、「あくまでも私個人の挑戦」は失敗です。引き続き、「仮説」を検証するために勉強していく予定です。
 
とりあえず3択問題から挑戦して、次は7択問題に挑戦、というように、少しずつ、受験英語の例文をパターン暗記をするつもりで、勉強計画を立てています。
 
私の《言語判定法》や、『アートの格付け』というのは、
他の人にもできるものだと、私は考えています。
娘に教えて出来ていたのですが、娘が思春期になると、
出来なくなりました。
 
つまり思春期になって、大人になるということ、
つまり世間体を気にするようになると、出来なくなる方法なのです。
 
ギャラリストや、批評家、学芸員の多くも、
他人の意見を模倣して自分の意見を作っています。
 
模倣の連鎖の中を生きているのです。
 
私自身も模倣の連鎖をくぐり抜けています。
私は、中学生の時に、東京国立博物館で見る国宝や、重要文化財の
美術品を眼で暗記しようとする所から始めています。
ですから、私の眼の基本は、国宝/重文という評価システムのコピー
から始まったものです。
 
西洋美術史にしても同様で、すでにある高い評価をコピーする
所から始めています。
たとえばカンディンスキーも高く評価する意見を受け入れて、
膨大な数を見て来ています。
その結果として、現在は反転して、低い評価になっているのです。
 
ケネスクラークといった評論家に対しても同様で、
はじめは、鵜呑みにして大きな影響を受けていますが、
その内に反転して、ケネスクラークの眼を批判するようになって
います。
 
建築でも、学生時代には磯崎新から膨大な影響を受けています。
それが現在は批判的になっていて、先日のアートスタディーズでも、辛辣は意見を言っています。

つまり模倣から始めて、
それを超える自分の私的な感覚を切り出して行くという
プロセスが必要です。
 
 
今回の挑戦は、失敗してしまいましたが、勉強と言うのは「失敗」から学ぶものです。「勉強してから模試を受ける」という態度の受験生は「挫折」することが多く、「まず模試を受けて、自分の実力を理解したうえで、勉強を始める」という態度の受験生は「成功」することが多いと、個人的には感じています。彦坂尚嘉さんは、『アートの格付け』に関する講義を大学でなさっていると思うのですが、「試験問題」というのはあるのでしょうか。あるとすれば、「その試験」をいつか私も受けてみたいと思います。
 
試験は、今学期のシラバスには書いていないので、出来ませんが、来学期には考えても良いです。
 
もともと芸術鑑賞ライセンスというのを実現したく思っていました。
漢字検定とか、色彩検定に当たるものです。
 
芸術鑑賞ライセンスの基本は、丸暗記です。
すぐれた作家や、作品を、とにかく丸暗記して、
覚えて、その記憶をテストするというのが基本です。
 
先日『美術手帖』での座談会で、レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンを見せましたが、辰野登恵子さんも会田誠さんも分かりませんでした。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、残された作品数が少ないので、全部暗記していないといけません。
 
レオナルド・ダ・ヴィンチやヴァンアイク、雪舟、宗達などから始めて、だんだんと難しくしながら、人類史上の偉大なアーティストや、傑作作品を丸暗記してしまうという、そういう芸術鑑賞ライセンスが必要です。
 
彦坂尚嘉的には、そのときに、世俗的に有名なものではなくて、《超1流》のものを優先して行く必要があると考えます。つまり芸術の専門家の中で評価の高い作品を眼で丸暗記する試験にしたいのです。
 
つまり彦坂尚嘉が考える芸術鑑賞の基本は、すぐれた作品を丸暗記することです。ですから基本的には誰でも出来る事です。しかし日本の現在の美術館学芸員や作家、評論家は、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品するも、暗記していないのです。なぜなら《超1流》の作品が嫌いだからです。
 
芸術鑑賞ライセンスは、《超1流》の作家と作品を優先して丸暗記を強いるシステムです。そうして、丸暗記をした後に、自分の判断を、その中から生み出して行く事が必要です。その結果が彦坂尚嘉批判や否定に至って良いのです。
 
中野さんのご提案に刺激されたので、来年の立教大学院の授業では、そういうライセンスシステムの試みにトライしても良いですね。私自身は仕事が多すぎてていっぱいですので、手伝ってくれる人がいれば、ありがたいのです。芸術ライセンスのシステム構築に興味のある人は、ご連絡をください。
彦坂尚嘉 
hiko@ja2.so-net.ne.jp


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丈

人の視覚的記憶の膨大なデータベースは側頭葉の辺りにしまい込まれていて、意識に昇らせるとあまりにデータ量が多いので発狂してしまうために通常は臨死の時や特殊な状態以外にアクセスできないようになっている、と聞いた事があります。

優れたシャーマン・芸術家・予言者たちは無意識という形のデータベースにアクセスするさまざまな方法を開発してきていると考えられますが、私は「言語判定法」もそうした方法の一つであろうと考えています。

彦坂さんの美術体験のデータベースは、通常の人間が家庭用の浴槽くらいであるとすると、ダムくらいの規模であるために精神的な水力発電が可能なので、私等の脳の小部屋にも明かりがともるようなブログ・芸術分析と言う形をとっているのではないか。とすると余人に模倣・反復できるものではない。

先日来の議論も「発電の仕組み」の議論であって、風呂桶程度の無意識量であればポンプで残り湯を汲んで洗濯くらいは出来ようが、発電機をポンプと間違えて「洗濯ではなく発電までするのはけしからん」と抗議しているような気がして、読む気になれませんでした。。

ただ普通の人でも無意識領域の知覚は意識に上るより遥かに多いために、良い鑑賞のためには無意識の知覚へのアクセスが重要でありましょう。

その点「言語判定法」を技化出来れば素人が既成概念や風評の先入観を克服するのに有効であろうと思います。

by (2009-11-05 13:37) 

中野輝也

私のコメントを記事に取り上げていただき、ありがとうございます。また、これからも「主犯格としての説明責任」は継続させていきますので、私に対する「質問・批判」があれば、できるだけ「返答・調査」させてもらいます。


“つまり模倣から始めて、それを超える自分の私的な感覚を切り出して行くというプロセスが必要です”

“芸術鑑賞ライセンスは、《超1流》の作家と作品を優先して丸暗記を強いるシステムです。そうして、丸暗記をした後に、自分の判断を、その中から生み出して行く事が必要です。その結果が彦坂尚嘉批判や否定に至って良いのです”


「守・破・離」の精神と「共通」するものがあると、感じました。「守・破・離」の精神に関しては「学問」として知っているだけで、「能」「武道」などの「道」の実践者の水準ほどには理解していません。ひどく「安易な勉強法」ですが、ネットで「3分だけ」検索して、それらしい「説明」を見つけました。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1229453

における回答者:sophia35さんの説明が、短くまとまっていて、私の感性にフィットしていたので引用します。


“「守」・・・疑問を持たず、清濁併せ呑み、師の教え(型)を忠実に「体現」出来る様に取得する。
(確実に、「当たり前」のように「体現」出来ねば「守」にあらず)

「破」・・・その「型」を確実に「体現」出来る様になった時、初めてその基本に則して応用し、自分自身のスタイルを模索する期間。
(「型」はどんなに洗練された「完成品」であっても、それをこなす人間のスタイルや資質、若しくは経験に合致するとは限らない。それを踏まえて、自分自身の「型」を模索する時期である。)

「離」・・・その試行錯誤して見えてきた「自分の型」を、経験に基づき肉付けし、若しくは削り磨き上げて、師の「型」から「前進」し、「独自の型」を「創る」段階。
(「前進」せねば「離」にあらず。また、ここは到達点にはあらず)”


哲学の歴史においては、「弟子」が「師匠の哲学論」と真っ向から対立する「独自の哲学論」をぶつけるという事例が多数あります。「弟子」が「師匠」を批判するのは、哲学の歴史において、よくある光景です。その切磋琢磨がなければ、「哲学の発展」はなかったでしょう。私も「彦坂尚嘉さんの理論」の「中心部を射抜く“高水準”の批判」に到達できる「段階」をめざして、現在の「“守”の段階」の勉強をがんばっていく予定です。生涯にわたって「“守”の段階」に留まるつもりはないので、できるだけペースをあげて勉強しなければ、と危機意識を持っています。


“レオナルド・ダ・ヴィンチやヴァンアイク、雪舟、宗達などから始めて、だんだんと難しくしながら、人類史上の偉大なアーティストや、傑作作品を丸暗記してしまうという、そういう芸術鑑賞ライセンスが必要です”


そこが「基本」ですか。それならば、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「ヴァンアイク」「雪舟」「宗達」などのアーティストの作品群の「丸暗記」を、私の「勉強メニュー」の中に追加しておきます。



“中野さんのご提案に刺激されたので、来年の立教大学院の授業では、そういうライセンスシステムの試みにトライしても良いですね。私自身は仕事が多すぎてていっぱいですので、手伝ってくれる人がいれば、ありがたいのです。芸術ライセンスのシステム構築に興味のある人は、ご連絡をください。
彦坂尚嘉 
hiko@ja2.so-net.ne.jp”


私の「質問」から発展させて、「ライセンスシステムの試み」を検討してくださり、ありがとうございます。私自身は、「芸術ライセンスのシステム構築」にとても興味を持っていますが、おそらく「手助けできる水準」の「芸術的知識・能力」が皆無です。わたしのような「素人」でも、「何か役に立ちそうな」状況が発生すれば、そのときは私にも声をかけてください。


丈さんへ

“彦坂さんの美術体験のデータベースは、通常の人間が家庭用の浴槽くらいであるとすると、ダムくらいの規模であるために精神的な水力発電が可能なので、私等の脳の小部屋にも明かりがともるようなブログ・芸術分析と言う形をとっているのではないか。とすると余人に模倣・反復できるものではない”

“とすると余人に模倣・反復できるものではない”

困難であることは理解しているのですが、その「困難さ」を「突破」したいと、私は考えています。「困難」を、「不可能」と言い換えて、あきらめたくないのです。「模倣・反復」には至らなくとも、ある程度「類似」している地点までは「私の認識」を向上させていく勉強計画を立てています。

「稚拙」ではありますが、彦坂尚嘉さんの《言語判定法》による『アートの格付け』を、「真似するための方法論」を私なりに「仮説」として「提示」させてもらいます。

『アートの格付け』を「真似」するための「中野輝也“式”方法論」(仮説)


彦坂尚嘉さんの《言語判定法》の「特殊な独自表現」にもとづき「同じ表現」が使用されている、一見まったく異なった「アート作品の画像」を最低限10例ぐらい見て「共通点」を探す。「その共通点」から「その同じ表現」の意味を考える。


「41次元」「気晴らしアート・シリアスアート」などの分類の意味について、「共通点」から類推していくことで、「仮説」を立てる。


その「仮説」が正しいか、自分でも『アートの格付け』をやってみて、彦坂尚嘉さんの『アートの格付け』と比較する。その相違点から、「仮説」と彦坂尚嘉さんの『アートの格付け』との「距離」を計算する。


さらなる「アート作品群の鑑賞・分析」「共通点の収集」「仮説の修正」「格付けの実践」「“本家”との比較」をくりかえして、自分の『アートの格付け』をじりじりと、「本家」に近づけていく。
by 中野輝也 (2009-11-05 15:39) 

nana

こんにちは
いつも興味深く拝見させて頂いております。

以前、皇居美術館関連の回で超一流日本美術作品のリストが公開されていましたが、帝国美術館に展示される世界超一流美術作品の公開はしていただけるでしょうか?


彦坂様の

「レオナルド・ダ・ヴィンチやヴァンアイク、雪舟、宗達などから始めて、だんだんと難しくしながら、人類史上の偉大なアーティストや、傑作作品を丸暗記してしまう」

という学習方法にとても興味があります。

人類史上の美術作品という概念があまりにも膨大な作品を指す事は承知しておりますので、重要作家リストだけでも公開して頂けると大変ありがたいです。

日々お忙しい事と思います。もしお時間があればで結構ですのでよろしくお願い致します。

by nana (2009-11-05 16:26) 

丈

中野様
チャレンジのお志は壮といたしますが、並大抵ではないです。
彦坂さんの方法は基本的に実物を見ての鑑賞体験ですので、

ブログですと、ネットから画像を落としてと勘違いされる方がいるようですが、有名人の画像などは別として主たる鑑賞と言うのは「はるばる」と称されるような旅行を普通に、国内・海外で重ねて観てこられています。

他の事を犠牲にすれば、愉しい事でもありますので、ぜひがんばって下さい。
by (2009-11-05 16:58) 

中野輝也

丈さんへ

丈さんの言う「現実」を、私は十分に把握していませんでした。無視されても仕方のない「水準」の「私の反論」にも関わらず、相手していただきありがとうございます。丈さんの「誠実な指摘」により、私の「認識」を一歩前に進めることができました。

また、丈さんの指摘によって、「困難だけど、努力すればできる」という意見と「努力しても困難な要素が多い」という意見が「切磋琢磨」して上昇していく、「建設的な議論」の流れが生まれました。その点においても、丈さんの指摘に感謝します。

現時点においては、丈さんの言う「努力しても困難な要素が多い」とする意見の方がとても「優勢」ですから、2つの意見が「拮抗」する地点まで努力していきたいと思います。
by 中野輝也 (2009-11-05 18:17) 

ヒコ

丈様
コメント、ありがとうございます。確かに、私はおかしいのです。美術の記憶は作れるのですが、日常生活の記憶が驚くほど無くて、空無になるのです。美術作品を記憶しようと言うのは、そういう問題を引き起こす事なのでしょうか? 


by ヒコ (2009-11-06 09:35) 

ヒコ

中野様
別のブログで、提案を書いていますので、読んで下さい。
by ヒコ (2009-11-06 10:32) 

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