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無芸術論/クレメント・グリーンバーグとクレンバッシング(加筆1) [アート論]

気侭な所感でお許しいただきたいですが、彦坂様の現代美術観は、限定的なアメリカ中心主義のように思えます。美術史に対する了見にはグリーンバーギアンの残滓を感じられ、彦坂様はアメリカの文脈での近代のみを注視しておられるが余り、パリ或いはドイツ等は現代美術の規準の箸にも掛からないとおっしゃっているかの印象です。戦後、欧州では美術史教育においてもグリーンバーグのごとき米国の美術史観は波及せずその中で発展をしています。英国美術が卓抜していないという御意見には賛同ですが、彦坂様のいう情報アートが世界を覆おうと、西洋世界では今後も新たな歴史が共有の価値観とともに築かれてゆくでしょう。だがそれもまた一種の貴族趣味として膠着するには違いはありませんが。彦坂様にとり、戦後〜70年代米国、また日本という文脈にしか現代美術の重要性は見られないとすれば、正直それは偏狭なものと言わざるをえないのでしょうか。 

by 武蔵 (2009-10-08 21:28)  

 

武蔵様

コメントありがとうございます。

 

ご指摘を真面目に受け止めると、

かなり考えさせられます。

 

私の意見を、「限定的なアメリカ中心主義」と感じられるお気持ちは、良く分かります。そのように受け取られる事もしかたがない発言を、確かにしています。

 

しかし多くの日本人は、アメリカが嫌いで、アメリカの現代アートの真の高さを直視しようとしません。一番驚いたのは、国立国際美術館の館長をなさっている建畠哲さんが、1年間、ニューヨークのチェルシーに住まわれた時で、途中で一度日本の帰ってこられてお会いしてお話をしていますが、その時に新聞に文章も書かれていますが、私の感じた事は、建畠哲氏の異様に強いアメリカへの嫌悪とアメリカ美術の凄さを見ないようにしている態度でした。こうした私感だけで建畠哲氏を規定するつもりはありませんが、しかし私にはそう感じられる屈折を建畠哲氏はもっておられたのです。

 

こうしたアメリカ嫌悪は、日本人の現代アートや現代美術の人の中に強くあって、それがロンドンやパリ、さらにドイツへの夢を生み出しています。

 

ニューヨークを見ないで、ロンドンに憧れて行くのです。同様にアメリカを見ないで、ドイツを素晴らしいと言って、ベルリンの可能性を賛美するのです。

 

つまり世界最大の軍事力を誇るアメリカ帝国の美術から逃れるために、ドイツやイギリス、フランスの美術へと、夢を抱いて逃亡しているように見えるのです。

 

こうした風潮を逆なでする発言を私はするので、「パリ或いはドイツ等は現代美術の規準の箸にも掛からないとおっしゃっているかの印象です」という、反応を生み出してしまっていると思います。1945年以降のフランス現代美術の多くはひどいと思いますが、ドイツの、例えばボイスは、《5流》で、ちょっと良いと思います。第5次元というのは、優良品という次元なのです。

ともあれ、ドイツやイギリス美術に夢を抱く日本人の根底には、アメリカへの嫌悪があると思います。 

そうした嫌悪の感情が、さらに中国現代美術の《非芸術》、インド現代美術の《無芸術》に、

過大な期待の夢を流し込んでいるのです。アジアの現代美術の多くは、《芸術》でないばかりか、

《反芸術》ですらないのです。

 

私は機械的に、中国やインドの現代美術を否定しているのではないのです。

これらは《芸術》ではないのです。

重要な事は《芸術》そのものが解体されて、《反芸術》《非芸術》《無芸術》として、展開し、散乱して来ている事です。にもかかわらず、これらを「《芸術》の名において評価する習慣」が存在していることです。

 

私の立場は、アメリカ賛美ではなくて、真面目に芸術を考えみようと言うものです。つまり嫌いなアメリカ軍事帝国であっても、まずアメリカ美術を初期から見てみる事、その歴史も研究してみる事、そうすると少なくとも1940年代から1975年までは、圧倒的にアメリカ現代美術が芸術としてすぐれているものを作っているのが分かります。

 

第2次世界大戦後の時代の芸術としては、アメリカ合衆国以外は、かなり落ちるのです。日本はひどいものです。

 

2001年以後で言えば、私は、例えばアフリカの現代アートのすぐれたものを評価していますし、

中国の作家の中でも、東京画廊の田畑行人さんに教えられた女性作家のものを良いと思っています。名前は覚えられていませんが、漢字を使う作品のシューピン? という中国人アーティストの奥さんだったと思います。

フランスにも、認められない作家の中に良い作家がいると考えています。

つまり、私の考えでは、才能のある作家は夏草のように生えてくるのであって、

しかしそれが育つのには様々な要素があるので、極めてむずかしいのです。多くはすぐに凡庸なものに変貌して行きます。

 

私自身は、小学校1年から、後年日展理事になる清原啓一先生に洋画を習って、20歳まで師事しておりましたので,基本は日本洋画の美意識の系譜にあります。日本洋画の大半は、芸術的には貧困で、悲惨ですが、その中にでも、すぐれた作品はありました。日本洋画で曲がりなりにも形成されて来た系譜は、有元利夫が1981年に安井賞を受賞した時点で滅びたと考えています。それは1975年にアメリカがベトナム戦争に負けると、ひとつの《近代》が終わって、ポストモダンの時代になるからです。グリンバーグを批判するクレンバッシングというのは、こうした《近代》の終焉という時代変化と深く結びついていて、

その意味では正統だと思いますが、しかし多くのクレンバッシングに同調する日本人は、グリンバーグを読んでいない人々だと思います。

武蔵さんも、もしかするとグリンバーグを読まないでグリンバーグ的なるものを、批判している事に同調しているのではないでしょうか?

それはそれで仕方がないと思いますが、私は正確に、たとえば1980年代美術の芸術分析をすることをして行きたいのでって、その多くは《無芸術》です。《無芸術》と混在していた《芸術》作品が、実は生き延びて行くと言うポストモダンの芸術の複雑な構造を把握する事に重点があるのであって、《無芸術》に過大な期待や夢を見る立場とは違うのです。

真面目に芸術作品と向き合って、芸術分析を厳密にすること。私の主張はこうしたものです。

 

日本人の多くは不真面目です。

 

例えばBゼミという美術学校2代目校長の小林晴夫さんは、

私のジャスパー・ジョーンズ批判を批判して、

ジャスパーのポストモダン的な《無芸術》評価の波に乗った主張をしましたが、

しかしジャスパー・ジョーンズの東京都現代美術館で開催された回顧展を

見ていないのです。

 

現在のように多忙な時代に、すべてを見られないので、

見ないで議論する事も止も終えないとは思いますが、

ジャスパー・ジョーンズの評価の問題は、

実は現代美術を論じる時に重要な試金石なのです。

 

グリンバーグは、ジャスパー・ジョーンズも、

ラウシェンバーグも評価しないのです。

実はジャスパー・ジョーンズの作品は、彦坂尚嘉的に言えば《無芸術》

であって、芸術ではないのです。

ジャスパー・ジョーンズを評価しないという事では、グリンバーグと彦坂尚嘉は意見を一致させています。

しかしラウシェンバーグに対しては、彦坂尚嘉は《反芸術》として高く評価するのです。その理由は《反芸術》でありながらも《超1流》の作品だからです。しかしグリンバーグは、ラウシェンバーグを評価しません。《芸術》に支点を置くグリンバーグには、《反芸術》を評価する事は不可能だったのです。それに対して彦坂尚嘉の芸術観は、ジークムント・フロイト/ジャック・ラカンの理論を背景に、サントームにおいて《芸術》の成立を見る故に、逆説的ですが、《近代》の《大文字の芸術》というものが、《反芸術》《非芸術》《無芸術》に分裂して行く事もまた、容認するものなのです。

ですからジャスパージョーンズを《無芸術》として高く評価するというのも、

あり得ないのではないのですが、ジャスパージョーンズの場合には《6流》なのです。だから私は評価しないのです。つまり『アートの格付け』による高さを重視するところがあって、高みへの意思を、《芸術》精神の基本としてみるのです。

 

つまりポストモダンの状況の中で、

芸術そのものが分裂して行って、《反芸術》《非芸術》《無芸術》と

並列化して行きます。

《反芸術》については語られていますが、

実は《無芸術》の作品が大量に出現してくるのですが、

その先駆けとしてジャスパー・ジョーンズはありました。

 

《無芸術》を擁護すれば、グリンバーグを批判するしかないのですが、

しかし、多くの《無芸術》作品は短命に終わって行きます。

《反芸術》と《無芸術》というのは、実は同一ではなくて差があるのです。

《無芸術》が無意味なのでは決してありません。

美術史の中で《無芸術》作品の巨匠を見てみると、

一人は、宗達です。

西洋では、アンリ・ルソーです。

 

《無芸術》というのは、

装飾の肯定の態度です。装飾や手芸的なるものの延長に、

表現を組み立てていこうという態度です。

ジャスパー・ジョーンズの星条旗の制作分析が、本に掲載されていますが(書名を今、思い出せません、さまざま名画の制作分析の本です)、

手芸や工芸と言うべき緻密さと手順を持ったものです。

 

 

さて、話は戻りますが1960年、

私は中学2年生の時に、講談社判の『日本近代絵画全集』と、

同『世界美術全集』を買っていて、ここでの教養が、

私の基本を作っています。

この時期、岡本太郎の『今日の芸術』も読んでいます。

 

初めてグリンバーグを読むのは大学に入ってからで、

アートナウという現代美術全集が講談社から出版されますが、

ここのグリンバーグの「近代絵画」という批評が収録されていました。

【続きは下記をクリックして下さい】

以上素描しましたが、

実は私の基本はグリンバーグではありません。

私の展開している価値観も、グリンバーグとはかなりずれます。

 

しかしご指摘のように、

ドイツやイタリア、そしてイギリスの第2次世界大戦後の美術作品や、

その美術館のコレクションを、それほど、評価しないと言うか、

かなり落ちたものと考えています。

 

1975年以降の作品も、

真面目に見て追求研究を、有る程度してきていますが、

芸術としては、高く評価できいるものは、

極めて少ないと思います。

 

だからといってアメリカ美術も多くの問題を持っているのであって、

その指摘や、批判も不十分ながらもして来ています。

 

私から見ると武蔵さんの美術観は、

今の日本の時代風潮を疑わない範囲のものであると

思います。

私自身は、実はたいへん孤立した論理を主張しているのです。

ですので、クレンバッシングとの関連で、

私の論理を捉えたいお気持ちは分かりますが、

グリンバーグは、私のような詳細な《言語判定法》による芸術分析は

やっていません。

 

私のやっている事は、現実を出来るだけ正確に測定する事です。

 

近代美術史のコレクションをしている美術館として、

ポンピドーも、テートモダンも、そしてドイツ、イタリアの美術館も

極めて不十分であるという事実を認めなければ、

モダンアートの歴史そのものの構造を理解できません。

 

モダンアートを生み出したのはヨーロッパですが、

それを系統的に真摯に収集したのはアメリカであったのです。

この事実を認めないで、眼をそらして議論する事は、

事実そのものに対して不誠実です。

 

私が忠誠を誓っているものは、芸術に対する厳密な学問であって、

他のものではないのです。

それでも、世評とはぶつかるでしょうね。ファンタジーとしてアートを追いかける人や、通説や風評として芸術を考える人とは、どうしても食い違いが起きるのです。

厳密な学問としての芸術を、追求しているのです。

◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

情報化社会の中では、《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》という、4種類のアートが混在していると言えます。

しかし1980年代のアメリカ美術で生き残ったのは、シンディシャーマンと、ジェフクーンズと、ゴーバーと言われ、これらが《芸術》であて、他のものではないとき、同様の事が起きる可能性があるのです。

すくなくとも《反芸術》《非芸術》《無芸術》の《超1流》の作品は、歴史に生き残り、感動を生み出す事を継続する可能性はありますが、《第6次元 自然領域》でしかない作品の90%以上は、評価が極度に弱くなる可能性があるのです。

 こうした事実を観測して行きたいと言うのが、私の立場です。

 


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nana

毎日興味深く拝見させて頂いております。
今回のボイスの第5次元という芸術判定も、なるほどと勉強になりました。

そこで宗達についての一つ質問です。
装飾の肯定の態度の上成り立つ芸術との事、今回《無芸術》との判定なのですが、以前の尾形光琳について書かれた回で宗達は《超1流》の芸術
との評価がありました。

その回での彦坂様のコメントによると以下の様にあります。
「宗達の作品が、装飾芸術である事です。
普通の常識的美学では、装飾は下級のものであって、
装飾を否定して、《真性の芸術》は成立するのであって、
ですから、宗達を軽んじるという評価は、
この常識的な美学からは、必然であるのです。」


このように、装飾性において成り立つ芸術としての観点で美術史を見た時、宗達は巨匠であるのもかかわらず、《無芸術》との判断になるという意味でしょうか。
つまり、退化性、非合法性、非実体性がない装飾芸術の上に成り立つ物にもかかわらず芸術と呼べるもの、それが《無芸術》という定義にあるものという解釈でよろしいでしょうか。

それとも宗達の芸術はジャスパー・ジョーンズの作品等の様に「手芸や工芸と言うべき緻密さと手順を持ったものであり、やはり《無芸術》と呼べるものなのでしょうか。

以前、尾形光琳の回で彦坂様がおっしゃっていた宗達論ですが
もしお時間ございましたら、是非教えて頂きたいです。お願い致します。

by nana (2009-10-24 03:42) 

ヒコ

nomo様
コメントありがとうございます。
以前に光琳に続いて,宗達論を書く事を構想しながら、その時に、何となく出来なかったのは、この装飾の問題でした。

芸術というのは、基本は、装飾と言う大地を前提にしながら、これを抑圧して逆立する事で成立するのです。

芸術だけでなくて、人間そのものが、こうした抑圧と逆立で社会的に成立しているのです。一番重要なのは性欲です。性欲はあるのですが、これを抑圧する事で、社会と言うものが成立するのです。ですからレイプの欲望は禁止されるのです。こういう構造と同じように、装飾の欲望の存在は、抑圧されて芸術は成立するのです。

所が宗達やアンリー・ルソーは、この構造を反転させて、装飾を意識的に肯定して《無芸術》を確立し、そうする事で高度な《超1流》の《超次元》性を成立してみせたのです。それは同時にそのような領域があると言う事を示しているのです。同様の事は、性欲を肯定した表現に見られるもので、篠山紀信の女性写真は、《無芸術》なのです。古典的にはゴヤの裸のマハが、《無芸術》です。ルーベンスの女性ヌードが中心を占める様な表現も《無芸術》です。つまり美術の中には、人間の初原的な欲望を肯定した表現である《無芸術》の領域があると言う事です。
《芸術》にも凡庸なものがあるように、《無芸術》にも凡庸なものはあるのです。しかし傑出した《超1流》や《41流》の《無芸術》作品は、美術史からは抹殺する事のできない存在性を示しているのです。


by ヒコ (2009-10-24 07:40) 

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