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映像と絵画/さまざまな人と様々な考え(最後に加筆) [アート論]

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様々な人がいるのは、当たり前なのですが、
それでも昔は、それほどに分裂はしていませんでした。

昔というのは1970年代の「現代美術」と言われる時代ですが、
そこでは画廊の数も少なくて、だいたい1日で、すべての画廊の発表を
見ることが出来ました。
画廊も神田地域と、銀座の数軒でした。

見終わると飲み屋で意見交換をして、
だいたい評価は落ち着いていたのです。

学芸員も評論家も、作家も、編集者も一緒に話をし、飲んでいました。

銀座にはガストロというバーがあって、
そこに批評家も学芸員も編集者も、
アーティストも集まって飲んでいました。

そういう狭い世界と言うのは、
文学で言えば文壇といったものであって、
実際に、そうした狭さで成立していた時代があったのです。

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音楽も同様で、昔はロックを聴いていると言えば、
同じアルバムを同じように聞いていて、
同一の文化の中で話が出来たのです。

今日では、ロックを聴いていると言った言い方は無理であって、
音楽も細分化が激しいのです。

それこそ、たとえばラウドロックを聞いている人でも、
実は細分化されていて、
同じアルバムを聴いているという保証はありません。
第1回めのラウドパークには私は行きましたが、
2日間の最終トリがスレイヤーでしたが、
スレイヤーが始まると、2割りくらいの人々が帰ってしまったのには、
驚きました。

ことほど左様に、細分化は進んでいて、
そのくせ、音楽の趣味の共通性が、
人間関係を大きく規定してくるのです。

音楽の趣味が、まったく合わない人とは関係が切れやすいのです。

最近ギャラリーARTEのおつきあいで知り合った大木裕之さんとは、
オーネット・コールマンと、ジェルジ・リゲティがダブっていて、
安心したというか、
大木裕之さんの映像と絵画、ドローイングへのシンパシィが
増大したのでした。


◆◆3◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

私の音楽の幅は、広いので、
今回のギャラリーARTEでも、
ARTE主要メンバーは画廊主の梅谷幾代さんと
もう一人長岡まき子さんがいて、彼女が実は戦力として大きいのです。

長岡まき子さんに、トマトと茄子の加工を手伝ってもらいながら、

彼女の好きな音楽を聴かせてもらいました。

それはゲームのドラゴンクエストの音楽で、

私の聞いてこなかったタイプのものでしたが、

かなりの長時間聞きました。


他人の好きな音楽を一緒に聴くという作業は、

私には、その人を理解する技術として、たいへん重要なテクニック

なのです。


昔ですが、ミュージックマガジンで音楽批評を書いている時に、

思い知らされたのは、同じ音楽を聴いていても、

しかし別の音を聞いているという、差異の問題でした。

分かりやすく言えば、ギター奏者が音楽を聴いていると、

その音楽のギター演奏を主にして聞いていると言った調子で、

同じ音楽でも、何を聞いているかは、人によって違うのです。


それはオーディオ装置の差としても、

大きく出て来ます。

昔ですとレコードなので、カートリジの差は、大きな問題だったのです。

同じレコードでも、カートリジが違うと、音楽は違って現れるのです。


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現在の情報化社会になると、こうした細分化は、異様にまで進んで、

ほとんど同じ体験や、意見を持ち得なくなります。


私のように異様な分裂性を追求して、

広く浅く多様なものを追いかけていても、

他人との接点や共通性を得る事が、むずかしいのです。


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こうなってくると、他者との意見の違いや認識の差というものを、

差があるままに、お互いの立場や意見の差として容認することが

重要になります。


先日のギャラリーARTEのギャラリートークで、

大木裕之さんと、私がぶつかったのは、「平面」という言葉でした。


大木裕之さんは、映像も絵画も「平面」であるという立場で語りました。

それは映像と絵画を、両方とも制作する大木裕之さんとしては

立場として必要な主張なのです。


そして映像も絵画も、平面として共通するという認識は、

世間の常識としても、通用する認識であると思います。


ですから大木裕之さんの立場の認識としては、

平面で映像と絵画を論じて、成立させる事は正しいのです。


◆◆6◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


ただ、私の場合は、ある意味でモダニストでありまして、

デカルト/ソクラテス的な懐疑主義の立場を取ります。


世間で流通している認識や常識は、まず、疑ってかかるのです。


たとえば、映像は平面でしょうか?

1960年代後半のサイケデリックの時代には、

人体に映像をプロジェクションしているものはたくさんありました。


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3次元の立体や、建築物に映像をプロジェクションしている作家は

たくさんいるのです。

つまり映像を平面芸術とする事には、無理があります。


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絵画も同様です。

アルタミラの洞窟の絵画は、岩の上に描かれています。


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アフリカのロックペインティングと言われるものも、

平面とは言えないものです。


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ナスカの地上絵の中にも、山岳に描かれたものがあって、

平面とは言いにくいです。


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ギリシアの絵画には壷絵が重要なものとしてあります。


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イタリアのアッシジのサン・フランチェスコ大聖堂には、

聖堂にはチマブーエジョットシモーネ・マルティーニなどの画家の手になるフレスコが多数描かれていますが、これを平面と言うのには、若干無理があります。

ジョットという大画家を追っかければ、否応も無く、

こうした建築絵画ともいうべき、立体的な画面に絵画を見なければならないのです。

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同様のことはミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井壁画も、

平面絵画と言うのには、無理があります。


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絵画の歴史を、全人類の中で探していくと、

実は平面を自明にする事が出来ない実例が多くあるのです。


私から考えると、絵画とか映像と言うのは、

実は平面ではないのです。


つまり次元としては2次元ではないと考えます。

それは3次元と言うだけでも不十分なものであって、

1次元、2次元、3次元、4次元、5次元・・・と多次元的に存在している

あるものなのだと、考えるのです。


つまりそれは生物の美術史や、宇宙の美術史を構想し得る広がりの中で、

捉えられるものなのです。


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生物というのは、キリンが首を長くしたり、
象が鼻を長くしたりという身体変形で進化して来ています。

人間の場合には、大脳皮質まで大きくして、
それ以上の生物としての身体変形が出来ない所まで、
進化してしまったのです。

そこで、身体の一部を道具として身体の外部に出して、
道具を進化させ、その道具を使いこなす事で、
進化をして来ているのです。

他の生物を攻撃して食べるための歯や、爪を、
石器として、道具を作りました。
それがさらに青銅器や鉄器、さらには鉄砲から、原爆にまで
発達したのです。

同様なことは美術作品にも言えて、
美術という道具は、もともとは身体の内部にあったものが、
外部に道具として出たものなのです。

つまり美術というもの、絵画や映像も、もともとは身体の内部であった
ものが外部に出たものですから、
それの源流は実は生物の身体の中にあるのです。

美術の生物学というのは、美術というものの起源として
重要なのです。

生物の身体性としての美術が、人類の初期に外部に出たものとして、
ネアンデルタール人が、死体を赤く染料で塗っていたと言った事が
あります。
つまりボディペインティングというのは、
美術作品の原初性があるのです。
それはですから、私たちが平面というものとは、ズレがある事なのです。

そして、このボディペインティング自体が、
もともとは生物の身体の内部にあったものの外在化ですから、
美術そのものの起源は、生物の身体変形性の中に存在しているのです。

そしてもっと言えば、生物以前の無生物の内部に、
美術は内在化されていたと考えられますから、
美術の宇宙学や、美術の物理学と言うものも、
思考としては可能なのです。

それはもはや平面に限定しえるものではないのです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

グリンバーグの平面理論を知っていますので、私のこうした考えが、
いかに常識に反しているかは、自覚しています。

私はグリンバーグを高く評価しますが、しかし、その理論が、
機械的に今日も適用されるものではないのです。
グリンバーグはコンピューターも使っていない時代の知性であり、
その理論の多くは、実は今日の現代アートを指し示す事は出来ないのです。





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