ネオテニー・ジャパン展をめぐる論争2 [アート論]
メジャーアートは、すべてがフェイクではないし、やはりその時代の流れを
汲んでいるのだとおもいますよ。世界で幼形というものが受け入れられるのは、資本主義社会の歪からくる、心の攻撃性を柔和にする作用があると思われます。 美術専門家ではない一般の人々は難解な自慰行為のような現代美術(過去の表現の繰り返しでもうアイデアは飽和状態ですね)はすでに必要ないものかもしれません。人々に何の感動も与えないインディーアートの方が筵フェイクなのかも知れませんね。
汲んでいるのだとおもいますよ。世界で幼形というものが受け入れられるのは、資本主義社会の歪からくる、心の攻撃性を柔和にする作用があると思われます。 美術専門家ではない一般の人々は難解な自慰行為のような現代美術(過去の表現の繰り返しでもうアイデアは飽和状態ですね)はすでに必要ないものかもしれません。人々に何の感動も与えないインディーアートの方が筵フェイクなのかも知れませんね。
滝口修造先生コメントありがとうございます。ご説はごもっともです。メジャーアートはすべてがフェイクではありません。評価はいろいろではありますが、私はジェフ・クーンズは評価していますし、好きではあります。
世界で幼形というものが受け入れらたという言い方も、結構ではありますが、20年経って、同様に言って、どの程度の生き残り作家がいるのかが問題なのであります。
1980年代の美術も、実は熱狂的でありました。これは難解な美術ではなくて、馬鹿にでもわかる幼形美術でした。例えば、前本彰子です。この時代多くの工作少女と言われるアーティストが登場し、これらは幼児に退化した美術を発表していたのであって、2000年代だけの現象ではなかったのです。そして1980年代の幼児美術のほとんどは、今日では無効化しているのです。
日本では京都の出版社の、名前を忘れましたが(たぶん光琳出版)、そこが日本を含む、世界中のニューウエーブ/ネオジオ系の作家の本を200冊くらい出しています。その多くが、今日忘れられています。その出版社もつぶれました。
もっと簡単にみられるのは美術手帖の特集号ですが、バックナンバーで1980年代のものを見て行くと、いかに多くの若手作家が、華々しく登場し、消えて行ったかが、わかります。
この1978年くらいから1980年代に華やかに登場する素人が熱狂する美術の中心地は、アメリカと、ドイツ、イタリアでした。これらの多くの作家が消えます。
アメリカ美術で残ったのは、シンディシャーマンと、ゴーバー、そしてジュフ・クーンズと言われます。
それこそ消えた代表は、イタリアの3Cなどの幼形アートは、今日では忘れられているのです。この3Cの2の舞いに、日本や中国、そしてインドの自虐的オリエンタリズム美術がならないという確実な保証はないのです。
音楽で考えると、こうした現象は、1976年くらいからのパンクムーブメントに似ています。特にイギリスの動きに似ています。ロンドンのパンク/ニューウエーブの音楽シーンは、この後消えてしまいます。そしてロンドン以外の所で、パンク音楽の新手が登場してきます。
つまりこれを美術の反映させて考えると、1980年代は欧米中心に展開されたニューウエーブ/シュミレーショニズムの動きが、1990/2000年代には、アフリカ・インド・中国・日本といった現代美術の後進地域で波及的に、欧米のオリエンタリズムに媚びる形で花が咲いた、という風に見えます。
つまり1980年代のニューウエーブ/シュミレーショニズムの、波及的な反復が、1990/2000年代の後進国現代オリエンタリズム美術の台頭であるように見えるのです。
それは中心部のアメリカ/イタリア/ドイツの作家の過半が消えたように、今日の中国/インド/日本の作家の多くが、欧米の評価から消える可能性はあるのです。
この後、どうなるのかは、実は予測できないところがあります。滝口修造先生の「美術専門家ではない一般の人々は難解な自慰行為のような現代美術」という理論は、実は既にあるクリシェイの論理の焼き直しです。実際に、そのような難解な美術とは何であったのか、具体的な作家名と作品で論じてご覧なさい。多分、それはポロックなどのアメリカ抽象表現主義や、もっとさかのぼるとセザンヌの絵画を指し示しているのですよ。
実際の美術史の具体的な観察と、調査を抜きに、流通する風説を繰り返しても、それは有効性を欠いています。
まあ、滝口先生は死んでいる方ですから、風説の繰り返しをただ反復している天国の日々でも良いではありますが・・・。正直に言って、滝口先生はもう過去の人です。古すぎるのです。お前は、お消えなさい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。成仏なさい!
タグ:ネオテニー・ジャパン
いつも楽しく拝見させていただいております。
私のような一般人にとって、彦坂さんという芸術の専門家の意見が無料で見られるこのようなサイトは非常に貴重です。
私のような素人の言葉が励みになりはしないと、十分自覚していながら、恥ずかしながら、その淡い希望を捨てきれずに、どうしてもお礼をいいたいと思い、ここに書かせていただきます。
これからもがんばってください。
by 牧野 (2009-06-05 20:49)
牧野様
コメントありがとうございます。
彦坂史観ですと、1975/1991年の近代という時代がおわります。ですから最も長く見ると、1975年から脱近代という情報化社会という別のリテラシーの時代が始まっています。
そうすると約35年の歴史が流れてきていますが、そこで2回、ある種のニューウエーブが、繰り返された事になります。
第一回目のニューウエーブは、驚くほど、作家が短命でした。、イタリアのトランスアヴァンギャロドや、シュナーベルやキファーといった作家が、失速するのが早かったのです。
根本では、全く違う時代が始まっていて、従来の抽象画の基本教養が失われて、会田誠さんはそのように、正直に表明していましたが、私の周りにいる若い作家でも、同様の現象が見られます。リテラシーがかわったと言えるのだと思います。
このリテラシーというか、芸術の基本をつくる教養の変化を、どう考えるのか、考えていきたいと思うのです、
私の意見に賛同しない人は多くいると思います。現在の1991年以降の現代アートの傾向を、1980年代美術の変形された反復として見る事、つまり1980年代のニューウエーブ/主ミレー諸ニズムが、地域を変えて、アフリカ/インド/中国/日本で、繰り返されたと見る見方は、あまりにも彦坂的で、違和感があるのかもしれませんが、しかし説明のつくことが多い視点だと、私は思っています。
by ヒコ (2009-06-06 06:29)