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内藤礼と歴史の不在

内藤礼の個展を、鎌倉近代美術館でみた。

《現実界》の作品で、《第8次元 信仰領域》の作品。

良いと思う人には、良いと思える作品だが、
しかし良いとは思えない人には、良いとは思えない作品。

イワシの頭も信心からと言いますが、
そういう信仰領域の作品で、
新興宗教のような作品です。

とは言っても《現実界》の作品なので、
宗教と言っても《象徴界》の宗教ではなくて、
禅宗ですね。
禅宗がアートという名前になったのです。

禅の言う、「空」とか「無」といった作品。
日本人は「空」とか「無」というものに、深い意味を見ますが、
実際には、雲ひとつ無い青空であって、何の意味も無いものです。
禅宗というのは、ニヒリズムであって、無意味です。
無意味というのは、意味を構成しないという事です。

内藤礼の作品も、実は何も無い《無意味性》の作品です。
《無意味性》の作品を、見る方がかってに深い意味を深読みで見ている様です。

見る方が勝手にというよりも、内藤礼自身が、
その深い意味をレクチャーで語っている様です。
巫女さんですね。
内藤礼のご神託の言葉によって、深い意味があるかのように錯覚されて成立する作品です、

驚いたのは、彦坂尚嘉的に言うと、
何も無い事です。

《原芸術》は無い。
《芸術》も無い。
《反芸術》性も無い。
《無芸術》性も無い。
《非芸術》性も無い。
《世間体のアート》性も無い。

まったく、何も無いのですね。

では、何なのか?

たとえば「なにものでもないもの」なのです。

つまり重要なのは、美術館という芸術の制度性の中での美術展ですが、
芸術的には何も無くて、「なにものでもないもの」が展示されているのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
内藤礼を美術館がやるのですから、
内藤礼の個人史をきちんと展示して、
武蔵野美術時代の初期作品や、最初のテント作品。
そして林容子氏プロデュースの最初のニューヨーク展とその批評など、
学問的な検証と、研究の成果を展示して欲しかったのですが、
そういう実証的な学問性は、無い展覧会でした。

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