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《原-彦坂尚嘉》(加筆4) [アート論]

《原芸術》というものを考えると、
いままでの芸術に対する不可思議さが
驚くほどに解けて来ています。

そのついでに、《原彦坂尚嘉》というものも考え始めたのです。

《原彦坂尚嘉》というような言葉が、
何を指し示しているのか?
「自分探し」というようなアイディンティを求める事自体が、
古いとは言えますが、
たぶん《原-彦坂尚嘉》そういう事ではないのです。

《原-彦坂尚嘉》
《彦坂尚嘉》
《反-彦坂尚嘉》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《無-彦坂尚嘉》
《非-彦坂尚嘉》
《世間体の彦坂尚嘉》


一人の人間は、実に多様な存在なのですが、
このブログ執筆の、かなりの部分は、《反-彦坂尚嘉》という面で、
やっているように思います。

学問的厳密さの追求は、《非-彦坂尚嘉》の部分です。

《無-彦坂尚嘉》というのは、美的なもののこだわりです。

《世間体の彦坂尚嘉》というのは、あるにしても、
かなり無視して来ているように思います。


この2010年代という過酷な時代をサバイバルする時に、
もう一度、自分自身を考え直す言葉として、
《原彦坂尚嘉》というのは、あるのように思えたのです。

《原-彦坂尚嘉》というのは、リアルな自分というのではなくて、
理想的と言うか、観念的と言うか、
欲望です。
自分が成し遂げようとする、ある欲望です。

学生時代から「彦坂は観念的だ」と言われて、
嫌われて来ているのは、成し遂げようとする目的=欲望が
あるからです。

その欲望は芸術そのものの学問的な探究なのですが、
それが友人たちの嫌われて、
美術の話をすると、
美術家である元・親友たちから「そういう話はしたくない」と
はっきりと言われてきたのです。

美術家が美術や芸術の話をしたく無いと言うと、
不思議がられたり、信じてくれないかもしれませんが、
事実はそうであって、「芸術至上主義」というものではなくて、
今日では「自分だけ好き至上主義」という自己中毒の人というのが、
アーティストたちであるのです。

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正直に言うと、「深川いっぷく」での関わりの中で、
これ以上できないと感じた事は、結構ショックだったのです。

養老孟司の言葉を借りれば「バカの壁」が存在するという事ですが、
それ以上の伝達の不可能性があるのです。

認識的には《世間体のアート》というのが、強力に作動していて、
世間体を気にする眼でしか、作品は理解されないのです。

「深川いっぷく」で試みたのは、作品の値段を下げるために
安い価格の額縁を使ったのです。
中身の作品はきちんと描いたのですが、
人々は額縁しか見ていないのです。


ようやく理解したのは、人々は作品を見ているのではなくて、
額縁や、名声や、価格や、虚名、風評だけを見ているのであって、
作品その物は見ていないし、作品は理解できないのです。

こういう《世間体のアート》を無視する形でモダンアートは
展開して来たのですが、
1975/1991年にモダニズムが完全に終わると、
《世間体のアート》は、強力に展開して、すべてを飲み込んだのです。

言い換えると、《世間体のアート》であることと、
《原芸術》の同時表示を成し遂げる以外には、
芸術は、生き残れなくなったし、
同時にこの同時表示という表現は、新しい達成としてあるのです。

それは同時に、個人の人格の組み立ての変化も要請するものです。

彦坂尚嘉という個人で言えば、
《原-彦坂尚嘉》《世間体としての彦坂尚嘉》の統合が要求されて
いるのです。

そう考えているうちに、
ブログのデザインを久しぶりに、変える気になりました。

「君子は豹変す」という言葉がありますが、
これは『易経』の言葉です。

豹の毛は秋になると抜け変わり、美しい模様に一変するという。そのように、君子は変わるべきときは鮮やかに変化すべし。

上記の意味ですが、この場合変化を肯定的に言っています。
私は『易経』は大好きで、易をたてることもします。

日本人は変化を嫌いますが、
私は、『易経』の教えの方を信じます。そこには叡智があります。

『易経』の言葉をもうひとつ引用しておきます。

「変を通じて民を倦(う)まざらしむ」

変化することで、人びとに新たな期待と希望を持たせ得る」という
意味です。常に変化をして行く事で、作家は、観客を飽きさせない事が、
必要なのです。

《原-彦坂尚嘉》と《世間体としての彦坂尚嘉》の同時表示を目指す
方向に、この2010年代は再編しますし、
同時にブログもまた、この同時表示を目指して、再編して行きます。

地味なデザインにして顔写真も新しいものに換えました。
新しい顔写真は、皇居の二重橋を背景にして撮影したものです。
撮影は白濱雅也さんです。

3月に朝日新聞出版から出す予定の
『空想 皇居美術館』という本に向けての準備です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

正月そうそう電話があったのは、
山口光子さんからで、考えさせられるお話を聞きました。
電話の話は、画廊を1月31日で閉めるということでした。
ギャラリー山口は、
栃原比比奈展が最後になります。
閉廊するのです。

ここ1年、いくつもの画廊から同じ話を聞いていますが、
画廊に人が来なくなっているのです。
ギャラリー山口を閉じられる事は、誠に残念ですが、時代の激流の、
なせるわざです。

他の画廊も苦境に立っています。
この一年、いろいろな画廊と話していますが、どこも苦しい様です。
画廊の時代が終わるのです。
ひとつの時代が終わるのです。

ギャラリー山口を活動の基盤にしていたアーティストは、
大変だと思います。


建畠覚造、野見山暁治、篠原有司男、百瀬 寿
堀 浩哉、岡本敦生、根岸芳郎、水上嘉久
津田亜紀子、古池潤也、坂上ちさと、青木 惠

画廊が閉じると、そこにいた作家たちは、行き場を失って、

みな、かなり苦労をします。

私が具体的にウオッチングして来たのは、

南画廊さんが1979年に自殺なさってからの、

元南 画廊さんの作家たちの苦労でした。


ですから私自身は、自分が画廊を失う事を常に考えて来ていました。

それでもギャラリー手が倒産すると、

私自身は、金銭的な問題と作品発表の場を失う事で、危機に陥ります。

その結果は、アートフロントさんに助けを求めた事です。

アートフロントさんは、彦坂尚嘉のウッドペインティングと版画には、

興味を示してくれたのです。

一方、四国ですがギャラリーarteさんは、彦坂尚嘉の皇居美術館と、

トマトアートなどのコンセプチュアルな作品に興味を持って下さって、

契約をしてくれました。

今年はマキイマサルファインアーツからも声をかけていただいているので、

9月に1階2階の両方をつかって個展をやる予定ですが、

これは気体分子ギャラリーとの共同開催です。

ギャラリーarteさんとは話し合いをする必要があります。


私自身は、しかし、もうひとつステージをスッキリとさせたいと

思っています。

今年はカスヤの森現代美術館とか、ギャラリー由芽などにも、

お付き合いして作品を並べましたが、それは今年いっぱいに

しようと思います。

年齢的にも無理で、できるだけ自分の仕事を絞り込みたいと

思って来ています。


【続きは下記をクリックして下さい】
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画廊はたいへんになって行きます。

しかしそれでも生き残る画廊もあります。

「窮すれば変じ、変ずれば通ず」

これも『易経』の言葉です。

」というのは、「奥深くまで行きつくす。つきつめる。きわめる。 にっちもさっちもいかなくなる。動きがとれない。」という意味です。

つまり「行くところまで行けば事態は変化する。そして変化すれば新しい道が開ける」という意味です。

この2010年代という時代をどのように展開して行くのか?

時代はこの2010〜2015年に「」して行きます。
そして新しい変化が起きるのです。

そう考えた時に、彦坂尚嘉のアトリエの垢とゴミを整理しながら、
きれいな新たな展示スペースをつくることは、
《原彦坂尚嘉》の問題としては、重要であるように思えます。

なんやかんや言っても、自分の求めるものを追い続けて、
それなりの手応えに達したという思いがあって、
作品の量を作りたいのです。

晩年、もう一塊の作品を作りたいという気持ちに
絞り込まれて来ているので、
その制作意欲をかき立ててくれる変化が、
このアトリエの20年ぶりの改装だったのです。

村松画廊、そしてギャラリー山口が閉じる時代に、
私が作家の運営する画廊をオープンさせるというのも、
奇妙な符合ではあります。

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