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《言語判定法》の実際の手法と訓練法(加筆3画像追加5) [言語判定法]

丁寧な返信ありがとうございます。
ですが他の方もお気づきかもしれませんが、回答になってないと思います。私の質問の仕方が悪かったのかもしれません。

弘田一成の作品を、『格付け』をする事を思いついて、やったところ、《8流》という風に出ました。
《8流》とは何か? とおもって、会場の韓国側の作品を同じように『アートの格付け』をして行くと、伝統的な水墨画が、《8流》でありました。
こうした事例を探して行く中で、《8流》というのは《第8次元 信仰領域》であるという内容の推察ができるようになりました。つまり良いと信じている人には、良く思えるのですが、良いと信じられない人には、良く無く思えるという領域です。

とありますがこれは順番が逆ではないでしょうか。「こうした事例」とする根拠を示してほしいのです。つまり最初に何をもって8流とするのか教えていただきたいのです。私見であるのは勿論分かっております。

「一般的」「マイナー」「ひどい状態」のような言葉の使い方をみますと、それらにご自身の判断の基準が見えず、「良いと信じている人には、良く思えるのですが、良いと信じられない人には、良く無く思えるという領域」という言葉には何の内容も含まれないのではないでしょうか。芸術はすべて「つくりもの」ですし。「一般的」「マイナー」「ひどい状態」に疑問をもって、もう一度リヒターの作品から始めてほしいと個人的には思ってしまいました。

つまり、作品のどこがどうだからこう判断できるという内容そのものが抜け落ちているのです。

丁寧な説明ありがとうございました。
また返答がございましたらお待ちしております。 
by オオクラ (2009-10-28 16:53)  

オオクラ様

踏み込んでのご質問ありがとうございます。

「こうした事例」とする根拠を示してほしいのです。」というのは、
作品を1つあるとすると、順番に、番号を
投げかけて行きます。

たとえば、吉澤美香の作品を例にしてやってみます。
これに数字を投げかけます。
一番良いのは声を出して、言う事です。
繰り返し言います。

yosizawa3_2.jpg
《超1流》
《超1流》
《超1流》
《超1流》
《超1流》

違うと言うこだまが戻ってきます。
言葉と、作品がフィットしないという感覚です。
弱い、ささやかな感覚ですが、
それが感じられるようになるのです。

yosizawa3_2.jpg
《1流》
《1流》
《1流》
《1流》
《1流》

《1流》ではないという、こだまが返って来ます。

yosizawa3_2.jpg

《2流》
《2流》
《2流》
《2流》
《2流》
《2流》

このくらいで、「《2流》ではない」というこだまが返って来ます。


yosizawa3_2.jpg

《3流》
《3流》
《3流》
《3流》
《3流》ではない。

yosizawa3_2.jpg

《4流》
《4流》
《4流》
《4流》ではない。

yosizawa3_2.jpg

《5流》
《5流》
《5流》
《5流》
「《5流》では・・・・」
《5流》
《5流》ではないと、決定します。
近づいてくると、その感覚も生じます。

yosizawa3_2.jpg

《6流》
《6流》
《6流》
《6流》
《6流》
《6流》
《6流》
「《6流》である」
「《6流》である」
「《6流》である」
「《6流》である」
《6流》であるという結論に達します。

以下、同様の作業をいろいろな概念や言葉で、
判定をして行くのが、《言語判定法》による
彦坂尚嘉責任による芸術分析です。

yosizawa3_2.jpg

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、
気体美術

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ことばと、対象物の関係を、分かりやすいものにして、
訓練を、私自身がかなりしています。

私は、小さな時に忍者が好きで、
いろいろな訓練をして来ています。
その延長なのです。

猫を飼っていたので、
猫でも訓練したのは、
今も覚えています。

猫はヒマラヤンでした。
まず、猫を見ます。

cat3.jpg
犬である。
犬である。
犬である。
犬である。
犬である。
「犬ではない。」

cat3.jpg

蛇である。
「蛇ではない。」
蛇は、答えがはやかったですね。

cat3.jpg
コップである。
コップである。
コップである。
「コップで、・・・」
「コップで、・・・」
「コップで、・・・はない」

こういう風に、根気よく言葉を投げかけて行きます。
そしてこだまを、感じとるのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日は立教大学大学院で教えて、
その授業に来ている山口俊郎さんと話をしながら、
構内を、教室から研究室に向って歩きました。

山口さんは、倉敷に有る大学で、非常勤講師をしている油彩画家で、
立教大学大学院で、3の授業を毎週2日、3コマ受講して、
毎週土曜日に倉敷に帰って、という通勤生活をしています。

山口さんも《言語判定法》を習得したがっているのですが、
対象物を、イメージで見てしまって、言葉で見られないと言って、
悩んでいました。

昨日も、その話をしながら、歩きました。
校内には、大きな樹が何本も立っています。
その一本の木を見ながら、次のように説明しました。


tree2.JPG.jpg

目の前の一本の木を見ながら、
木と言う字を、指で、やや大きく、空中に書いてみます。


この文字と、目の前の一本の木は、
ずいぶんとちがうものです。
言葉と言うのは、不思議なものでして、
対象物との差異が、大きいのです。

つまり、ひとつの抽象の関係として、
この目の前の木と、「木」という言葉は、あります。

リアルな物事と,言葉という高度な抽象性との差を、
まず、感じる必要があります。


木の机も「木」ですし、

desk_057.jpg

木の橋も「木」です。

dsc01212.jpg


木の食器も「木」です。

img10584657252.jpg



木の壁も「木」です。

woodwall2.jpg

木の天井も「木」です。

imgp1316.jpg

製材してあるものも「木」ですし、

kansou448.jpg


山に生えているものも「木」です。

FI2616312_3E.jpg

松の木も「木」ですし、

img0a74fd2bvum9io.jpg

柳の木も「木」です。

kinosaki01.jpg

黒檀も「木」です。

4939325007783.jpg

桐も「木」です。

dscf2238.jpg

つまり「木」という言葉は、
いろいろなものを指し示しえるのです。

つまり「木」という言葉は、抽象物であって、
この記号=シーニュの次元と、実際のリアルな存在物の関係というのは、
信じられないほどに、ある、距離があるのです。

リアルな存在物と、シーニュの距離を、
実感する訓練をしていく必要があります。

ものを見た時に、名前をいろいろと考えて行くのです。

例えば木の机を見て、それに付け得る名前を10個上げてみます。

desk_057.jpg

木の机
家具
道具
構造物
製品
木目
《1流》品
有機物
金属製ではない
自然調

こういう調子で、
ひとつのものには、さまざまな名前があるということを、
訓練して行きます。
この多数の名称というのは、老子の言語論で、
私は、大学時代から重視していて、むかし美術家共闘会議(BIKYOTO)を
結成した時に、その理念の中に名称論を入れています。

そういうわけで、老子の名称論を背景にして編み出されたのが、
《言語判定法》なのです。

老子というのは、法家と争います。
法家は、ひとつのものにはひとつの名称があると言って、
名称を、単一に固定することを主張します。

つまり木の机には、「木の机」というひとつの名称だけがあるのであって、
他の呼び方をしてはいけないというのです。

それに対して老子は、ひとつのものには、
さまざまな名称があるのであって、
その多様性を主張しました。

いや、それだけでなくて、
ものにまだ名前がつかない段階を重視しました。
そしてものに、名前がついた瞬間に、「鬼神が泣いた」と書いています。

つまり山に生えているリアルな松の木は、
本来は、名称を付与されていません。

img0a74fd2bvum9io.jpg

これに、「木」という名称がついた時に、
このリアルな木は、「木」というシーニュのレッテルが貼付けられ、
疎外されるのです。
だから「鬼神が泣いた」というのです。

名称そのものの、こうした疎外の構造を見ておかないと、
リアルなものと、シーニュの関係を見損なうことになります。

「言語は現実を語れない」のです。
ところが同時に、人間は「言語でしか現実を語れない」のです。

つまり名称をつけるという事はできるのです。
つまり人間は、より的確な言葉を探したり、
より多くの言葉を重ねていくことによって、
少しでも現実に近いものを描き出そうと奮闘するのです。

《言語判定法》というのは、シーニュ=言葉が、付きえるのか、
付き得ないのか、それを見て行く作業です。

この先に行こうとすると、
言語論になってしまって、難しくなるので、
とりあえず、《言語判定法》の実際の手法の段階に、留めておきます。

その範囲で言えば、
もの松の木をみながら、「金属製である」という言葉を発すると、
違うと言う反応が返って来ます。

さらにこの松の木の画像を見ながら、これを値踏みして、
格付けする事は出来るのです。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《超1流》ではない。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《1流》ではない。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《2流》ではない。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《3流》
《3流》
《3流》
《3流》
《3流》ではない。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《4流》
《4流》
《4流》ではない。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《5流》
《5流》
《5流》ではない。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《6流》である。

img0a74fd2bvum9io.jpg
《7流》
《7流》
《7流》ではない。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《8流》ではない。

こうして、この松は、《6流》であると、判定されるのです。

img0a74fd2bvum9io.jpg
《6流》
《第6次元 自然領域》


yosizawa木_2.jpg

この松の木も、吉澤美香の作品も、
細かい差異はありますが、
次元としては《第6次元 自然領域》で、同じと彦坂尚嘉は判定するのです。

 【続きは下記をクリックして下さい】


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

こういう作業を、延々と、やって行きます。
先日は、携帯電話をiphoneに代えようと、
初めてですが、ソフトバンクのショップに行きました。
ずいぶんと店内の様子がちがっていて、
初めてのせいかもしれませんが、どこのお店に来ているのかが
分かりませんでした。

6063aa1c.JPG.jpg1387438248_e1388de215.jpgbig.jpg
softbank-shop.jpg

例のように、順繰りに番号を口の中で言いながら、探して行くのですが、
けっこう、手間取ります。
意識を集中していないと、こだまが、感じられないからです。
一緒に行ってくれた若い人は、笑ってみています。

結局、《第20流》ということが分かります。
これは初めてです。

採取し、測定して行くと、
いろいろな事が分かるのですが、
ひとつは倒錯領域があると言う事です。

《第2次元 技術領域》というのが、
倒錯して、《第21次元 愛欲領域》があります。

一方《第1次元 社会的理性領域》が倒錯すると、
《第31次元 犯罪領域》になります。

そしてその間が、多型倒錯なので、非常に細かいのです。

マクドナルドは、《第21次元》ですが、
ロッテリアは、《第23次元》です。

マックとロッテリア.jpg

《第23次元》          《第21次元》

味覚的にもロッテリアは《第23次元》で、
コーヒーも《第23次元》で、
マクドナルドの《第21次元》よりも、不味いです。

6a1823d2.JPG.jpg

《第23次元》      《第21次元》

《第23次元》というのは、他に秋葉原のメード喫茶のメードの
写真集を見た時に、見つけています。
レディ・ガガというのは《第23次元》ですので、
《第23次元》というのは、萌え領域といえると思います。
そうやって、《第23次元 萌え領域》という風に、次元の性格を
確定して行くのです。

ですから、あくまでも現実を観測しているのであって、
勝手に決めているのではないのです。



そしてこのソフトバンクのショップが、《第20次元》ということで、
ひとつ発見したのです。

この日、もうひとつ見つけたのが、
ダイソーに行って、その店内が《第25次元》でした。
この《第25次元》というのも、初めての発見です。

sP1060925.jpg

f0111750_21572050.jpg


ダイソーとソフトバンクショップを並べて見ます。


6063aa1c.JPGのコピー.jpg

ダイソーは《第25次元》 ソフトバンク・ショップは《第20次元》



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中野輝也

おそらく《言語判定法》というのは、その人がこれまでの人生を通して蓄積してきた無意識・暗黙知のデータベースを根拠に、「その言葉」と「そのもの」を対応させているのだと思います。

対象を見る(彦坂尚嘉さんが飼っていたヒマラヤン) → 言葉(犬である)を口に出して投げかける →  「“その言葉”は“そのもの”に対応しているか?」という質問に無意識が自動変換する → 無意識・暗黙知のデータベースから検索する → 無意識・暗黙知の人格「いいえ、犬ではありません」 → 別の言葉(蛇である)を投げかける → 無意識・暗黙知の人格「いいえ、蛇ではありません」 → 別の言葉(猫である)を投げかける → 無意識・暗黙知の人格「はい、そうです」 → 「猫」という言葉と「彦坂尚嘉さんが飼っていたヒマラヤン」の対応関係を「意識的」に認識する


手順をふむことによって、ある種の「ひらめき」を誘発できる、という方法論になっています。発想法・アイデア法を勉強したことがあるビジネスマン・研究者などは、この手の方法論に馴染みやすいかもしれません。「アイデア」と「認識」という点において目的は異なりますが、アイデア法も《言語判定法》という認識法も、無意識を刺激していますし、「無意識・暗黙知データベース」に経験・知識の貯蔵がない人間にとっては、あまり有効な方法ではない、という点で共通
しています。まず経験・知識が必要です。


①「犬」や「猫」というリアルな存在物
②「犬」や「猫」という言葉
③「犬」や「猫」というリアルな存在物と、「犬」や「猫」という言葉を対応させる一定かつ多様なパターン。


①②③の情報を「無意識・暗黙知データベース」に貯蔵していない人間であれば、①に「いぬ」や「ねこ」という音・声を投げかけても、ひらめき・新たな認識が出てくる可能性はありません。


“山口さんも《言語判定法》を習得したがっているのですが、対象物を、イメージで見てしまって、言葉で見られないと言って、悩んでいました”

油彩画家である山口俊郎さんが、ここで言及している《言語判定法》とは、「犬」とか「猫」とかの水準ではなくて、〈超次元〉~〈41次元〉にわたってアートを格付けする方法論の水準だと思います。

たとえば私が、〈超次元〉~〈41次元〉にわたってアートを格付けする方法論の水準を目指して、《言語判定法》を学び始めたとします。その時には、ある問題が発生するでしょう。私が「超1流」「41流」などの言葉をつぶやいて《言語判定法》を実践しても、それは私の「無意識・暗黙知データベース」を根拠にしているのだから、彦坂尚嘉さんの「無意識・暗黙知データベース」を根拠にした『アートの格付け』とは、ズレた格付けになるはずです。

そのズレが致命的に広がる危険を回避するためには、彦坂尚嘉さんの経験・知識を、私の「無意識・暗黙知データベース」にできるだけ投入しておく必要があります。そのため、ささいな日常を描写した文章も含めて、彦坂尚嘉さんのブログはすべて読み、気になる過去の文章は何度も読み返しています。私の勉強法は、ひたすら読み、彦坂尚嘉さんの「発言・頻出キーワード」と「紹介された作品」の関係から「共通点」「法則性」「一貫性」を抜き出して、自分なりに彦坂尚嘉さんの「思考パターンを分類」していく、というものです。やや受動的な勉強法とも言えるので、積極的に質問しているオオクラさんの姿勢には、学ぶものがありました。

前回の記事のコメント欄において、いわゆる「擁護」のような発言をしてしまいましたが、私の責任で個人的な解釈をオオクラさんに説明しただけですので、私が間違った発言をしたときは、どうぞ遠慮なく「私の間違った認識」を彦坂尚嘉さんが糾弾してください。「話題の対象となっている人物」を背中から撃つのに等しい、「間違った認識による解釈・説明」を、私は時々してしまいますし、その時に指摘してもらえなければ、反省の機会も失ってしまいます。
by 中野輝也 (2009-10-29 16:23) 

猪俣和也

お話を伺っていて、《言語判定法》は、文学、特に詩の創作過程にも似ていると思いました。特に本文の、

 つまり人間は、より的確な言葉を探したり、
 より多くの言葉を重ねていくことによって、
 少しでも現実に近いものを描き出そうと奮闘するのです。

という記述からです。

僕は授業やプライベートで詩を書いているのですが、その際に、実際に見た物や感情と、言葉との間の距離・ズレに、いつも悩み、推敲します。そうすると、次第にその距離・ズレが近づいていきます。

しかし、その作業だけではズレが埋まらない場合もあります。ボキャブラリーに加え、物・感情と言葉を対応させる仕方(詩の構造や文体、語のコロケーションの事例など)を学んでいないと、言葉はそもそも人類が作り上げてきた人工物ですから、自分独りで言葉を創ることはできないからです。
したがって、先人の作品をより多く読んで、自分の中にストックさせていく必要があります。

「無意識・暗黙知のデータベース」への蓄積を基盤に、言葉と物との呼応を手段とするのが《言語判定法》の骨子ならば、それは文学(詩)の創作にも似ているし、そういう所に、彦坂先生が詩やツイッター小説を書く根拠もあるのだなと思いました。

もちろん、《言語判定法》という批評法と、詩の創作法が似ていると指摘することで、彦坂先生の方法が厳密性を欠くと言いたい訳ではありません。むしろ、優れた詩人ほど、例えばレイモンド・カーヴァーは、物・感情と言葉との呼応関係の厳密性を主張して、熟慮された言葉遣いをしています。さらに、1度出版した作品までも再度書き直して、幾つもの別バージョンを創る、「書き直し」にとり憑かれた人としても有名です。それくらい、厳密性に気を配っているのです。
そうした姿勢は、何と何を呼応させるかが違うだけで、偉大な学者、画家、評論家にも言えることだと思います。

《言語判定法》と詩の創作について僕が考えたことは、本題に直接関わっているか分かりませんが、とても刺激になりました。
間違えている箇所や、混同している箇所があったら、どうぞ御指摘ください。
by 猪俣和也 (2009-10-29 23:35) 

ヒコ

中野様
コメントありがとうございます。
本編のブログで書かせていただきます。

猪俣様
コメントありがとうございます。
詩のとの関連のご指摘は、私にも刺激的です。
by ヒコ (2009-10-30 09:08) 

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