『アートの格付け』と《言語判定法》について(校正1) [言語判定法]
こんにちは。 何をもって顔を判断しているのか、彦坂さんご自身の 根拠を示してください。 by オオクラ (2009-10-2800:10)
上にコメントを書き終えて気がついたのですが、この「根拠を示せ」という主張はポランスキー監督に対する個人的な好意があったうえでの、感情的な叱責とかでは決してありません。 私が指摘したのは格付けそのものの問題です。 格付けの根拠が示されない限りは、他人に説明が出来ないのです。感じて共感することは出来ても真の理解は出来ないのです。どうしても、「モナリザがそうだから」とか「真の価値は多くの人には理解されない」とかいう風に逃げているように見えてしまうのです。 レスお待ちしております。 by 桑山 (2009-10-28 03:03)
今ままでも、何回か書いて来ているので、
たぶん、『彦坂尚嘉の《第41次元》アート』の1の方で読んでいただく方が、内容的には、良いものかもしれません。
でも、探すのがたいへんかもしれないので、
とにかく、繰り返し、お答えして行きます。
私の書いている方法は、基本的に印象批評です。
そもそも芸術の趣味判断というのは、印象批評です。
たとえば小林秀雄の文芸批評の基本的な方法は印象批評です。
批評や評論というのは、欧米においては、
「(個人が)物事をどう捉えるか・把握するか・判定するかを表明するもの」であるのです。
個人の私感が批評なのです。
昔の印象批評を、今日の情報化社会のものに、
《言語判定法》という方法で、書いているのが、彦坂尚嘉のブログです。
ですから、彦坂尚嘉という個人の責任で、
私的な判断を示しているのであって、
それ以上のものではありません。
つまりオオクラさんのご質問の「顔判断の根拠」は彦坂尚嘉の私的な判断とその《言語判定法》というものにあります。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
病院でレントゲン写真をとって、肺の映像の中に、
結核の病状を読み取るという場合、
そのレントゲン写真の、もやもやとしたグレーと黒のネガ画像をどう読み取るかは、
医者によって違います。
名医とぼんくら医者では、違うのです。
判断というのは、そのように医学の場合にすら印象批評であり、
個人の私性でなされるのです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
さて、ものごとを判断するには、
3つの方法があると、彦坂尚嘉は考えます。
ひとつは『イメージ判定法』です。
もうひとつは「科学的判定法」です。
最後に、《言語判定法》があります。
私は日本ラカン協会の幹事をしていますが、
ジャック・ラカンの用語に、
《想像界》《象徴界》《現実界》というものがあって、
これは人間の精神活動が、この3界でなされているものとされています。
イメージ判定法というのは、《想像界》での判断に対応しています。つまりイメージで見て、判断するのです。そこでの問題は、本物の金と,偽物の金の区別がつかない事です。
科学的判定法というのは、《現実界》での判断に対応しています。ここでは、比重や、金属分析で、本物の金と、偽物の金は区別がつきます。
そして《言語判定法》というのは、《象徴界》での判断力を使ったものなのです。ここでは、イメージでは判断できない様な、いろいろな事象を、言葉への対応の中で、言葉に直す作業がなされます。本物の紳士と、詐欺師を区別する事は出来ます。
ですから、私たちは、
この3つの判定方で、現実を認識する必要があります。
彦坂尚嘉のやっているのは、その内の1/3の《言語判定法》だけなのです。ですからその不十分さはありますので、ご了承ください。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
私たちは、普通、言語というものを、コミュニケーションの道具と考えています。
しかし言語にはもうひとつ別の機能があって、
それは言語によって、人間が自らの環境を認識しているという、
認識の機能です。
エスキモーは雪の言葉をたくさん持っていて、
雪の変化を、非常に細かく精密に捉えることができます。
こういう言語論は宮岡伯人などの少数言語学者から私が影響を受けて、学んだものです。私の《言語判定法》というのは、こうした言語の認識機能を使って、物事を認識し、判断しようというものです。
《言語判定法》をつかって、いろいろな判断をしていますが、
『アートの格付け』もそのひとつです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《言語判定法》そのものを学んだのは、発端は1974年まで遡ります。その当時、六本木にある小さな印刷屋の営業兼編集の仕事をしていましたが、公官庁の入札を毎日20本くらいしていました。紙代や印刷費を計算して見積もるのですが、何しろ数が多いのと、必ずしも自分の印刷屋で取れるものでないものもあるので、細かい計算をしないで値踏みで入札する必要がありました。そこで値踏みの方法として、《言語判定法》を使いました。つまりその仕事が50万円なのか、100万円なのか、1000万円なのかを、数字を、対象物に向かって発して、そのこだまを受信すると言う方法です。
『アートの格付け』というのは、こうした値踏みの方法と経験を拡大したものです。
《言語判定法》を美術に最初に適応したのは、東京国立近代美術館で1995年に『絵画唯一なるもの』という展覧会が開催されていて、その中のゲハルト・リヒターの作品を鑑賞していて、判断に困ったときです。リヒターについては、実は印刷画像で、かなりの詳細な分析をしていたのですが、実物を前にして、どうしても良い作品に見えなかったのです。特に具象画は、評価できなくて、困りました。何回も会場を回って見て,8回目に根を上げて、判断を進める方法として、言葉を投げかけて、こだまを取るという《言語判定法》を実行したのです。その結果、『つくりもの』という言葉がフィットしたのです。リヒターの作品は、「つくりもの」であるというのです。
『アートの格付け』を初めてしたのは、韓国で開かれたアートフェアでありました。そこに東京画廊から日本人作家が何人か出品していて、私や弘田一成、そして富田瑞穂といった作家たちがソウルに行きました。困ったのは弘田一成の作品の評価でした。日本側の評価は高かったのですが、韓国側は弘田一成の作品を評価しなかったのです。その落差に興味を持った私が、それを明らかにしたくて、弘田一成の作品を、『格付け』をする事を思いついて、やったところ、《8流》という風に出ました。
《8流》とは何か? とおもって、会場の韓国側の作品を同じように『アートの格付け』をして行くと、伝統的な水墨画が、《8流》でありました。日本に帰って、《8流》を探した所、武満徹でした。
もうひとつ私の大好きな黒人音楽のPファンクでした。こうした事例を探して行く中で、《8流》というのは《第8次元 信仰領域》であるという内容の推察ができるようになりました。つまり良いと信じている人には、良く思えるのですが、良いと信じられない人には、良く無く思えるという領域です。
《第8次元 信仰領域》というのは、つまり一般的にいうとマイナーな表現の領域です。これは《第6次元 自然領域》の倒錯領域です。絵画でいうと、《第6次元自然領域》の絵画が原始平面に描かれた『ペンキ絵』でありますが、《第8次元》の絵画も、同様に『ペンキ絵』ですが、奇妙に薄暗くて、明度や彩度の差の少ない絵が多く見られます。
こうして『アートの格付け』は、多くの作品を芸術分析する中で、次第の構造として理解できるようになったのです。
さて人間の顔の分析ですが、これは一人の人間の顔を、一枚の絵画であるかのように見立てて、《言語判定法》による芸術分析をしたものです。
それは柄谷行人や吉本隆明を長い間、つまり30年近く読んで来て、それが思想としては弱く低いものであると知って失望した経験を背景にしています。本を読むのは時間がかかるので、先に顔を分析して、読むに値する人物かどうかを判断してから、読もうという、そういうショートカット手法です。
《第41次元》というのは、《超1流》の《超次元》の反転した領域です。これについても、すでに何回か書いているのですが、戦争とか、生け贄、処刑といった、ひどい状態のものが、《41流》です。
美術作品で言うと、運慶快慶の東大仁王像などの、憤怒の仏像です。西洋ではグリューネヴァルドのキリストの十字架での処刑図などです。
丁寧な返信ありがとうございます。
ですが他の方もお気づきかもしれませんが、回答になってないと思います。私の質問の仕方が悪かったのかもしれません。
弘田一成の作品を、『格付け』をする事を思いついて、やったところ、《8流》という風に出ました。
《8流》とは何か? とおもって、会場の韓国側の作品を同じように『アートの格付け』をして行くと、伝統的な水墨画が、《8流》でありました。
こうした事例を探して行く中で、《8流》というのは《第8次元 信仰領域》であるという内容の推察ができるようになりました。つまり良いと信じている人には、良く思えるのですが、良いと信じられない人には、良く無く思えるという領域です。
とありますがこれは順番が逆ではないでしょうか。「こうした事例」とする根拠を示してほしいのです。つまり最初に何をもって8流とするのか教えていただきたいのです。私見であるのは勿論分かっております。
「一般的」「マイナー」「ひどい状態」のような言葉の使い方をみますと、それらにご自身の判断の基準が見えず、「良いと信じている人には、良く思えるのですが、良いと信じられない人には、良く無く思えるという領域」という言葉には何の内容も含まれないのではないでしょうか。芸術はすべて「つくりもの」ですし。「一般的」「マイナー」「ひどい状態」に疑問をもって、もう一度リヒターの作品から始めてほしいと個人的には思ってしまいました。
つまり、作品のどこがどうだからこう判断できるという内容そのものが抜け落ちているのです。
丁寧な説明ありがとうございました。
また返答がございましたらお待ちしております。
by オオクラ (2009-10-28 16:53)
最初の質問の「何をもって」の部分です。いろいろと言ってもらいましたが彦坂さんご自身の基準は作品にある眼に見える「事実」をあげてもらわねば他者は共有できないのです。共有できないものを私見とおっしゃるのなら何もいうことはありませんが。
by オオクラ (2009-10-28 17:02)
横から失礼します。
オオクラさんの言う“作品にある眼に見える事実”を知る方法は、「8次元と格付けされた一連の作品群」から「共通点」を自分の眼で確かめることだと思います。ブログの中にあるすべての8次元作品をチェックするのは骨が折れる作業です。
そういう意味において、「8次元」という言葉には、「科学的判定法」のような「共有しやすさ」は存在しないのだと思います。しかしながら、いくらかの共有は可能でしょう。
“エスキモーは雪の言葉をたくさん持っていて、
雪の変化を、非常に細かく精密に捉えることができます”
ここで言う「雪の変化を、非常に細かく精密に捉えることができます」にも「科学的判定法」は使われていません。現地の人々は「雪の言葉」を「科学的な分類」としてではなく、《言語判定法》の水準で共有しています。つまり、現地で生活する彼らにとっては不便なく共有できますが、よそ者が「雪の言葉」を聞いても、どんな雪なのか理解することは難しいのです。現地の人々に「何をもって」と質問してみても、言葉のやりとりだけでは、十分な理解はできないでしょう。まず、「雪の言葉」と対応している状態の雪そのものを、時間をかけて自分の眼で確かめる必要があります。よそ者は勉強しないと理解できません。
「8次元」という言葉は、彦坂尚嘉さんの造語です。彦坂尚嘉さん以外の人間は、その言葉を自明に理解することができない「よそ者」だと言えます。もちろん、私も「よそ者」です。「その言葉」と対応している「そのもの」を見た経験が乏しい人間。あるいは、「そのもの」をたくさん見たけれど「その言葉」と対応させて認識したことがない人間。彼らは、ここで私が言う「よそ者」に該当します。
よそ者は「8次元」と対応している作品をたくさん見ないと、「8次元」を理解できないのだと思います。だから「“8次元”の根拠について説明してださい」と質問するよりも、「彦坂尚嘉さんが“8次元”だと判断する作品をたくさん紹介してください」と依頼したほうが、「8次元」を理解するための近道になるでしょう。「急がば回れ」という言葉は、こういう状況にあてはまります。ただし、「8次元」を理解するために、時間をかけて勉強するほどの価値があるかどうかの判断は、個人的な問題です。
by 中野輝也 (2009-10-28 19:15)
客観的に思える数学であっても、なぜ、解法が分かるのか、正解に至る道筋が正解を知らないのに分かるのか、実は客観的には分からないですね。バックに相応の経験の蓄積と、言語化できないセンスといったものがある訳です。
解けないけれども解を見て初めて「ああそうだったのか」と思う人と解を見ても正解かどうか分からない人といて、解に至る道筋を示してもなぜその解法を選んだのかはやっぱり分からない、と言う事はあると思います。
by 丈 (2009-10-29 00:25)
わかります。ただ私はまだ雪の言葉を聞いてもいないと思っていますし、言葉で分かり合えるものだと思うのです。言葉によって雪を詳細に切り分けるにはも曖昧かもしれませんが基準はあるでしょうし、何よりエスキモー達は共有しているでしょう。「8次元」には私一人の言語である可能性が残されていると思うのです。
数学の話は本論から外れているでしょう。「客観的には分からない」という言い方があるのですか?
by オオクラ (2009-10-29 01:44)
8次元の作品をいくつか見てその共通点を探ることは可能ですが、それが彦坂さんの基準と同じと誰が言えるのでしょうか。
うまく言葉にならないならそれでもいいですし、(すこし極端な言い方をしますが)形にしなければ何も考えてないと同じということをアーティストであればわかっているはずですから。回答をお待ちしております。
by オオクラ (2009-10-29 01:53)
横から失礼します。
>8次元の作品をいくつか見てその共通点を探ることは可能ですが、それが彦坂さんの基準と同じと誰が言えるのでしょうか。
と、ありますが、言えないでしょう。それは彦坂さんの私見だからです。それは彦坂さんが既に上に書いています。
一番上の質問に、
>つまり、作品のどこがどうだからこう判断できるという内容そのものが抜け落ちているのです。
と、ありますが、欠けているでしょう。それは印象批評だからです。彦坂さんが既に上に書いています。
なるべく失礼のないように、書かせていただきますが、なにか気に障る発言がありましたら、お詫びします。
話を見ていると、どうもオオクラさんのおっしゃっていることは、科学的な根拠を求めているように思うのです。一体なぜ、そう思ったのか、なぜそうなるのか、それを提示しろとおっしゃっています。しかし、彦坂さんの言うように、彦坂さんの批評の根底、基本は、印象批評です。それはこう感じたです。感じたことに、科学的な根拠を求めるのでしょうか?この根底にある、印象批評、という部分を了解せずに、オオクラさんは質問しているように見えるのですが。彦坂さんの批評のすべての根底にあるのが、印象です。印象の上にさまざまな理論や8流という言葉が乗っかっているのではないでしょうか。8流という言葉がいったいどこからやってくるのかしきりに気になさっておられるようですが、印象ではないでしょうか。
>8次元の作品をいくつか見てその共通点を探ることは可能ですが、それが彦坂さんの基準と同じと誰が言えるのでしょうか。
ここにもう一度立ち返らせていただきますが、
こんなことは可能なのでしょうか?無知でもうしわけないのですが、
たとえば、僕が「寒い」と感じることと、他人が「寒い」と感じることを厳密に同じだと判断することは可能なのですか?
可能だとすれば申し訳ないですが、しかしそれは科学ではないですか?彦坂さんは科学判定法を用いないとおっしゃっています。科学を用いずに他人と自分の感覚を厳密に同じだとする方法があるのか、僕にはわかりません。オオクラさんはその方法を知っていて、それを彦坂さんに求めておられるのですか?それはどういった方法なのでしょうか。
横からの突然の発言にお詫びします。的外れな発言ですが、ご勘弁願います。
失礼します。
by みち (2009-10-29 08:58)
オオクラ様
ご質問の趣旨は理解できますので、また1本、本編でお答えします。ご不審は、ご遠慮なく、ぶつけて下さい。出来る限り誠意を持って、、お答えして行きます。
みち様
中野様
丈 様
擁護いただき、ありがとうございます。
by ヒコ (2009-10-29 12:35)
みちさん
「>8次元の作品をいくつか見てその共通点を探ることは可能です が、それが彦坂さんの基準と同じと誰が言えるのでしょうか。
と、ありますが、言えないでしょう。それは彦坂さんの私見だからです。それは彦坂さんが既に上に書いています。」
だから、そうです。
「>つまり、作品のどこがどうだからこう判断できるという内容そのものが抜け落ちているのです。
と、ありますが、欠けているでしょう。それは印象批評だからです。彦坂さんが既に上に書いています。」
だから、そうなんですよ。
「>しかしそれは科学ではないですか?彦坂さんは科学判定法を用いないとおっしゃっています。」
そこに問題を投げかけているのですよ。
印象というものはそれぞれにあって、それがどうであろうと私はいいのです。8次元という言葉でいくつかの印象を束ねる思考は科学(科学判別法とは別)だと言えませんか。人参が2本あったとして目の前にある赤い色の二つの物体を人参や野菜として同じものとして言う(認識する)のはその背景にそれを共通とする何らかの要素が抽出されているからでしょう。この分類が極私的だとしてもそこに言葉が生まれているといいたいのです。それを聞きたいのです。
私の説明がわるかったのだと思います。
by オオクラ (2009-10-30 08:01)
彦坂さんは科学的判断をおこなっています。なぜなら過去の記事をみる限り、「現実界の眼」で「〜次元」の作品という判定をしているからです。現実界は数や量で計ることのできる世界のことです。しかし、彦坂さんがメインで使い、また信用をおいているのが「象徴界の眼」での判定法なのだと思います。象徴界の判定法の詳細についてはすでに書かれていますので、これはとくに問題がないと思われます。おそらく、象徴界の判定法とは、言葉を用いた統計学なのだと思います。個人的な経験の積み重ねの上に成り立つ方法です。だから、この方法は相対的なのであって、彦坂さん以外の人物が異なったスタイルでおこなうことも、ことばを用いた方法なら可能なのだと思います。もし、オオクラさんが彦坂さんの方法論に疑問を感じるのならあなたの「象徴界の眼」を彦坂さんにぶつけてみるべきだと思います。おそらくそれが一番効果的なのでは?
ただ、現実界の判定法についてはまだ扱われてはいないようなので一度、とりあげて欲しいと思います。
by motoki (2009-10-30 09:10)
再度失礼します。
>印象というものはそれぞれにあって、それがどうであろうと私はいいのです。8次元という言葉でいくつかの印象を束ねる思考は科学(科学判別法とは別)だと言えませんか。人参が2本あったとして目の前にある赤い色の二つの物体を人参や野菜として同じものとして言う(認識する)のはその背景にそれを共通とする何らかの要素が抽出されているからでしょう。この分類が極私的だとしてもそこに言葉が生まれているといいたいのです。それを聞きたいのです。
8流と、「受けた印象を束ねる根拠」を尋ねておられるのですか?てっきり8流と「印象を受けた根拠」を尋ねておられるのだと思っていました。勘違いしていたようです、お詫びします。
根拠に対する信頼性についてですが、それは事例を見る数を増やせば解決する問題ではないですか?確かにAとBという二つしかないものの共通項目は沢山あるでしょう。しかし、それをBCDEFGと限りなく増やしていけば、共通する項目は限りなく少なくなっていきます。8流である作品をたくさん見れば見るほど、8流と束ねる根拠に対する信頼性も増すと思うのですが。
8流に分類する根拠については次の記事に彦坂さんが書かれています。このへんで失礼します。勉強になりました。ありがとうございます。では。
by みち (2009-10-30 10:43)
薄っぺらな赤色のコメント欄で行われている論壇プロレスにおいては何から何まで問題があると思いますが、それを打破するために繰り返し投げかけられている「科学的根拠を求める」という言葉では擁護されてる方々にはその伝えんとすることが届かないでしょう。
論理批評と印象批評の違いは、印象批評には結論へ至るまでのプロセスをどうしても説明しきれない部分があまりに大きすぎるということ(このことから現代の批評の場においては論理批評が圧倒的に主流となっていることは、誰の目にも自明でしょう)、論理批評はそのプロセスを「論理的に」「順を追って」説明できる部分が印象批評に比べ大きい、という違いです。
そして「科学的根拠を求める」という言葉でオオクラ様が繰り返しおっしゃっていることは、そういうことでしょう。
それは普通の健康的な感性から来る「~次元」とか「~流」とか「~界」とかいう、唐突で、敢えて意図的に(ラカンからの引用と弁解しながら)(その印象批評をあたかも論理批評のように見せかけている)(科学的根拠があるように見せかけている)それによって印象を論理武装しているように見せかけている言葉への違和感からくる、ごくごく普通の言葉でしょう。
ただこのブログではそういった投げかけはこれまでもごくたまに投げかけられていて、そのたびに言葉尻を捕まえて(あげ足をとって)議論を曖昧にする論壇プロレスが行われてきて、さらにそこで擁護者(=固定メンバー/少数メンバー)が登場、一方で彦坂さんはしたり顔で新たな記事をアップし結論を先送りにする、見事に逃げ切ってきて、且つこの小さなブログ上で支配者みたいにふるまってきました。
今回のコーヒーの記事でしたり顔でニヤニヤする写真なんかはその典型でしょう。
ただ、そうしている間にこの場はみるみる自己破産へ向かうでしょう。
何を言っても無駄です。
by 桑山 (2009-10-30 12:24)
桑山様
おいしいコーヒーを、久しぶりに飲んで、ニヤケて、どこが悪いのですか。あなたはたぶん、コーヒーのうまいもマズいも分からない味盲の人なのかもしれませんね。
私の論理は、印象批評であると同時に、理論批評でもあります。基本にあるのは、むしろ芸術そのものや、絵画を巡る理論的な問題であるのです。芸術作品は、理論批評という事だけでは、問題はすまないのですよ。理論的な整合性と、芸術の鑑賞というものが、同時に展開されなければなりません。
人を批判する場合、有る程度は勉強をしないと、
マズいのですね。
彦坂尚嘉を批判する場合、全部読めとは言いませんが、著作を出しているので、少しは読んでから出ない、マズいのです。
私の批評を、その最初の『李 禹煥批判』から読めば、理論的な文章である事は、分かります。もっとも、むずかしいですから、桑名さんには読めないかもしれません。長いですよ、400字で80枚あります。あるいは最近の『椹木野衣批判』や、『柄谷行人批判』を
読んでも、それは分かるはずです。
まあ、2ちゃんねる系の人は、自分の先入観や妄想だけで、批判するので、桑名さんも2ちゃん系なのでしょう。それはそれで好きにおやりになれば良いですが、
ご希望なら、理論的な論争をしてもかまいませんので、ぜひ、何か論点を挑んでいただければと思います。もっとも、かみ合うかどうかは、やってみなければ、分かりませんが。
もともと私は、キルケゴール、フッサールと読んで来た人なので、それこそフッサールのデビューは論理学研究ですので、そのへんからやりますか?
さて最後に『この場はみるみる自己破産へ向かうでしょう』と、呪いの言葉をいただきましたが、『人を呪わば穴二つ』という古いことわざを知っていますか?
平安期、加持祈祷を生業とした陰陽師は、人を呪殺しようとするとき、呪い返しに遭うことを覚悟し、墓穴を自分の分も含め二つ用意させたことに由来するのです。桑名さん自身の自己破産を、呪い返して差し上げます。桑名よ、滅びよ! あなたは呪われた!
by ヒコ (2009-10-30 13:25)
by ヒコ (2009-10-30 14:40)
名前を記入せずに投稿してしまったので、上のコメントは削除してください。お手数をおかけします。
すいません、盗作くさいって根拠は、スタジオボイスの2007年4月号、29ページに出ていた「小山泰介」さんの「気配を見る写真」です。
by こひ (2009-10-30 16:12)
さっそく調べてみました。
http://www.tiskkym.com/gallery/darkmatter/content/Water_Tank_large.html
「こひさんから指摘があった写真」は上記のURLにある写真だと思います。「気配を見る写真」が作品のタイトルかと勘違いしましたが、そうではないんですね。小山泰介さんの写真集『Dark Matter』に関する評論記事のタイトルでした。
『小濱亮介「気配を見る写真」STUDIO VOICE 2007年4月号』
小山泰介さんの写真集『Dark Matter』に収録されている作品群
http://www.tiskkym.com/gallery/darkmatter/index.html
小山泰介さんのサイトにあった出版物一覧
http://www.tiskkym.com/blog/02book/
小山泰介さんの写真集『Dark Matter』の内容説明
“庭のコード、白い球体、オレンジの光、水の泡、航空写真のような、26.5、グラフィティーテスト、ビニールヒモ、オイル、カモフラージュ、捕まった蠅、タオル、剥製、流れるインク、クマバチ。2006年にいくつかのエキシビジョンで発表した作品を中心とした作品集です”
この『水の泡』がタイトルなのかもしれませんが、確たる証拠はありません。もしタイトルを知っている方がいるのなら、教えていただけると助かります。
議論しやすい状況をつくるために、情報を取り急ぎ整理してみました。
そこから先の判断・評論は、それぞれが推し進めていけば良いと思います。
by 中野輝也 (2009-10-30 17:13)
タイトルは『Water Tank 』でした。
by 中野輝也 (2009-10-30 17:20)
もしよろしければ、小山泰介さんの写真作品『Water Tank 』に対する《言語判定法》による『アートの格付け』、斉藤ちさとさんの写真作品との相違点・共通点に対する評論、「“盗作”と批判された時、アーティストはどのように考えるべきか」、この3点をテーマにした記事を作成していただけないでしょうか?もちろん、1点だけでも十分です。
お忙しいでしょうから、一ヵ月後でも二ヵ月後でも、さらに後でも、喜んで待たせてもらいます。
小山泰介さんへのインタビュー
インタビュー:近藤ヒデノリ(TS編集長)
日時:2008年12月27日
場所:渋谷、宇田川カフェ
前半
http://www.tokyo-source.com/interview.php?ts=45
後半(『Water Tank』の写真掲載)
http://www.tokyo-source.com/interview.php?ts=45&p=2
by 中野輝也 (2009-10-30 18:34)
>あなたはたぶん、コーヒーのうまいもマズいも分からない味盲の人なのかもしれませんね。
そうかもしれませんね。
しかし彦山さんに桑名の何が分かるのでしょうか。
>桑名さん自身の自己破産を、呪い返して差し上げます。桑名よ、滅びよ! あなたは呪われた!
こういう演技的なやり取り自体が2ch的であると言葉を返しましょう。
こうした他愛もない口喧嘩が何を生み出すのでしょうか?彦山さん。
何を言っても無駄というのはこういうことです。
by 桑田 (2009-10-30 18:56)