パリ個展の村上隆作品をめぐって [アート論]
人間の生きる目的が何であるのか?
村上隆のパリ個展作品に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》の作品、
という問いは難しいのですが、
ひとつは成長して行く事です。
いつまでもお母さんのお腹の中にいるのは、
良く無いのです。
お母さんのお腹の外に出なければなりません。
同じように、いつまでも母親と同居しているのも、
良く無いのです。
母親を捨てて、自立する必要があります。
その結果として母親が孤死しても、
良いのだと私は思います。
こうして自立して、
さらに成長をして行く必要があります。
成長を必要とするのは、
人格も同様です。
人格的に成長して、高度な人格になると、
人生の楽しみは深くなって行きます。
さて、前書きが長いですが、
村上隆のパリ個展の作品を批評するのですが、
人格の《象徴界》が《第6次元 自然領域》であるという天然の人には、
私の、これから言う差が見えない可能性があります。
私には明確に見える事が、
《第6次元 自然領域》しか象徴界が無い人には、
明確に見えないのです。
ですから、その辺は、ご了解ください。
眼が有るか無いかというのは、
極めてリアルでして、人格上の問題でもあるのです。
さて、パリの個展です。
特徴的なのは、まず、村上隆の顔です。
コムデギャルソンのスカートに身を固めた村上隆の顔は、
田中角栄や、麻生三郎のように歪んでいるように見えます。
その意味でも、日本を代表する首相の様に偉くなったのです。
これはウンコ、つまり糞(くそ)の絵です。
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》の作品、
液体美術(=近代美術)。
《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】
《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】
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作品は《第6次元 自然領域》の【B級美術】で、ずいぶんと普通のものに
なってしまっています。
昔の作品と見比べてみましょう。
村上隆の東京都現代美術館の作品に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析
《想像界》の眼で《第13次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第13次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第13次元》の《真性の芸術》
《想像界》の作品、
液体美術(=近代美術)。
《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】
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一番大きな変化は、《第13次元 喜劇漫画領域》であった村上作品が、
《第6次元 自然領域》になってしまったことです。
《第13次元》というのは、漫画としてはありふれていましたが、
しかし芸術作品としては、今までに無いもので、
その意味で500号を超える絵画化は、評価できる創造性を
持っていたのです。
それに《第13次元》というのは倒錯領域であって、
こうした倒錯領域の表現が情報化社会特有の表現なのですが、
普通の《第6次元 自然領域》になって、凡庸化したのです。
《第6次元 自然領域》デザイン的エンターテイメント 《現実界》の眼で《第13次元》の《真性の芸術》
凡庸 エキセントリック
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村上隆のパリ個展作品に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》の作品、
液体美術(=近代美術)。
《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。
《原始立体》『人形』【B級美術】
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立体作品でも、《第6次元 自然領域》になって、
凡庸化が進んでいます。
遊園地にあるようなお人形になってしまったのです。
ここでも昔の作品と比較してみましょう。
村上隆の初期フィギュアの作品に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析
《想像界》の眼で《第13次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第13次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第13次元》の《真性の芸術》
《想像界》の作品、
液体美術(=近代美術) 。
《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。
《原始立体》『フィギュア』【B級美術】
《第6次元 自然領域》デザイン的エンターテイメント 《現実界》の眼で《第13次元》の《真性の芸術》
凡庸 エキセントリック
村上隆の生きる目的が何であるのか?
という問いは難しいのですが、
ひとつは芸術家として成長して行く事のはずでした。
退化し、美術家として凡庸化して行く事が、
作家活動の目的であるはずはありませんでした。
芸術家として成長し、独創性を増大する必要があったはずです。
村上隆の人格も同様です。
人格的に成長して、高度な人格になると、
芸術としての作品は深くなって行きます。
しかし、結果として、村上隆作品は凡庸化しました。
村上隆の凡庸化は、
どのように結果するのでしょうか?
その答えは、今から6年後の2015年に、
出るのでしょう。
よりメジャーになっているのか、
あるいは破綻として出現するのでしょう。
どちらなのか?
タグ:村上隆
いつも楽しみに拝見させていただいています。
すこし引っかかったのですが、最後の2015年というのはどういった意味を持つ年なのでしょうか?もし、前にも扱ったことがおありならすみません。
by motoki (2009-10-05 13:33)
motoki様
ご質問ありがとうございます。
俗説かもしれませんが、経済は6年単位で動くという言い方を読んだ事があります。
自分の見た実例としては、1973年に石油ショックがあって、その前に絵画ブームがあるのですが、石油ショックから6年後の1979年に、確か南画廊の清水さんが亡くなったと思うのです。そのこともあって、6年後をひとつの目安にしています。つまり6年後の2015年前後に今の世界金融危機の影響が、誰にも見える形で、日本の美術構造の変動として見えるかもしれないと言う、そういう、とりあえずの目安を申しあげてみたのです。
by ヒコ (2009-10-05 16:02)
なるほど、6年単位で経済が動くと考えた場合、2015年は1973年の石油ショックから数えると7周目になりますね。
今までの節目がそれぞれどんな年だったのか気になるので調べてみたいと思います。
お答えありがとうございます。
by motoki (2009-10-05 22:11)
こんにちは。
冒頭で「人間の生きる目的が何であるのか?」という少し難しい問いかけとされていますが、彦坂様はあの世や霊的なもの、また輪廻転生などは信じておられるのでしょうか?
信じる、信じないで冒頭の考えかたが随分違うように思いましたもので。芸術家の方はどのように捉えておられるのでしょうか?
by もちもち (2009-10-06 13:06)
もちもち様
むずかしいご質問です。こういう質問には答え様がありません。
by ヒコ (2009-10-06 23:18)
昨年のガゴシアンロンドンでに続きテートギャラリーではPop Lifeという展覧会が開催されており村上氏の作品が展示されています。米国崩壊後をリードする美術館としてテートは注目されておりましてなかなか評判高い展覧会でした。村上氏も歴史的なコンテキストで批評対象になればいいですね。テートモダンでは数年後にある日本人作家の個展がアジア作家として初めて開催される予定で業界のサプライズです。ヒコさんも制作&発表に集中されてご活躍ください。
by ロンドン帰り (2009-10-07 20:57)
ロンドン帰り様
コメントありがとうございます。
私もテート・モダーン最初の企画展である『センチュリーシティー』展に出品しています。この展覧会の宣伝のチラシには、私の『反覆/新興芸術の位相』の表紙デザインが、使われました。デザイナーは故・木村恒久氏でした。
テートが、時代を」リードするのは不可能だと、私は思います。イギリス美術は、芸術的に低いものです。テート・モダーンそのものが、近代美術館としてのコレクションが、あまりにも遅くスタートしていて、近代芸術の歴史の中での重要な作品を集められていません。ターナー賞もレベルが低いです。イギリスの美術家そのものの作品が、芸術的にはなっていません。眼が無いのです。イギリス美術史は、例外的にすぐれているアーティストはいますが、おおむねはダメです。
アメリカ美術は高さを失えば、人類は、世界レベルで芸術そのものは事実上終わるでしょう。新しい中世の始まりです。もう時代は中世化して来ているのです。
芸術という今日の概念そのものが近代の産物であって、《大文字の芸術》は終わったのです。
そして美術館そのものも、近代の産物であって、美術館が隆盛する時代は終わって、骨董化して行くでしょう。
そもそも近代美術そのものが、アメリカの美術館、特にMOMAのリード以外では、それほど芸術そのものの展開には寄与していないのです。
情報化社会の芸術はフリーアート化して、根本的に違う時代になって行くのではないでしょうか。その中でも、近代的な物流芸術は生産され続けて行くでしょうし、私の気体分子ギャラリーでも、その面は追求して行きますが、芸術の本質的な展開は、むしろ情報アートの側にシフトして来ているのです。
by ヒコ (2009-10-08 11:18)
美術プロパーではないある批評家が世界の富裕層や美術館に収められた戦後アメリカ美術はサブプライム証券と同等でありアメリカの美術館はS&Pのような格付け会社としてながらく機能したと述べています。一種の洗脳ともいえるアメリカらしい方策でした。昨今のドルの暴落が象徴するようにNYを中心としたアートシーンは終焉を迎えるようです。おっしゃられるように、いわゆる教養的な芸術は本当に終了するはずです。
「ウィンブルドン現象」をご存じでしょうか。イギリス美術云々ではなく彼らが今後の帝国を組織しようとする意思があるのです。今後、ゲームの規則を彼らが提示していくはずです。イギリス美術の質とかターナー賞といった個別の事象とは違うのです。
終焉は1968年より始まっています。いま一度、ここ400年くらいの文化と経済の流れを検証する必要がありそうです。芸術とかアートとかで指示されるものが滅びても、それでも残るカタチとはどのようなものでしょうか。
by ロンドン帰り (2009-10-08 19:50)
気侭な所感でお許しいただきたいですが、彦坂様の現代美術観は、限定的なアメリカ中心主義のように思えます。美術史に対する了見にはグリーンバーギアンの残滓を感じられ、彦坂様はアメリカの文脈での近代のみを注視しておられるが余り、パリ或いはドイツ等は現代美術の規準の箸にも掛からないとおっしゃっているかの印象です。戦後、欧州では美術史教育においてもグリーンバーグのごとき米国の美術史観は波及せずその中で発展をしています。英国美術が卓抜していないという御意見には賛同ですが、彦坂様のいう情報アートが世界を覆おうと、西洋世界では今後も新たな歴史が共有の価値観とともに築かれてゆくでしょう。だがそれもまた一種の貴族趣味として膠着するには違いはありませんが。彦坂様にとり、戦後〜70年代米国、また日本という文脈にしか現代美術の重要性は見られないとすれば、正直それは偏狭なものと言わざるをえないのでしょうか。
by 武蔵 (2009-10-08 21:28)
ロンドン帰り様
コメントありがとうございます。ブログでお答えします。
武蔵様
コメントありがとうございます。これもブログでお答えします。
by ヒコ (2009-10-12 20:47)