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アーティストと職人の違い/Skyepとアンディ・ウォーホル(改題校正2最後に加筆2) [生きる方法]

Messenger_skype.png
遅まきながら、Skyepを始めました。
ずいぶん前から、いろいろな人に言われながら、
なかなか踏み切れなかったのですが、
数人の若い人に助けられて、開通です。

無料、あるいは低額での電話がかのうということは、
驚きがあります。
昔、電話は本当に高額であったのですが、
それが現在では無料に近いものまでなってきた。

先日は、若いアーティストのAさんと、4時間を超える長電話を、
このスカイプでやりましたが、
そこで何をしゃべっているのかと言うと、
アーティストというものと、普通の市民との違いを説明する事でした。

たとえば、このソネットのブログの中で、
アートの枠組みで、常にトップを走っているROUTE616のブログです。
きれいな写真と、しゃれた文章で、多くの支持を集めていて、
ナイスが、500を超えて獲得しているのも、たびたびあります。

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こうしたすぐれたブログを展開しているにもかかわらず、
このROUTE616の主催者のshinさんは、本名も顔写真も伏せています。

ピクチャ-19.jpg

これは彼だけでなくて、上位のブログを見て行くと、
ほとんど全部が、匿名であるのです。

1回で500ものナイスを集められるブログを書く人が、
何故に匿名で、顔写真も伏せるのか?


こうした匿名性こそが、人間の本性であって、
人間の自然性としては、こうして匿名に隠れているものなのです。
それは自然の中にいるうさぎのような小動物が、常に物陰に隠れて、
安全を確保する事が大切である事と似ています。

500ものナイスを集められるという事も、
実は、アーティストの特性ではなくて、
職人の特性なのです。
職人というのは、例えばシルクスクリーンの刷り士の場合、
きれいに刷って、誰にも「きれいだね」とほめられるように、
刷ります。

それに対して、アンディ・ウォーホルの刷は、
ムラがあって、汚いのです。

artwork_warhol_double_elvis.jpg

「こんなので良いのですか?」と聞くと、
アンディ・ウォーホルは、「良いの」と答えるのです。
作家の責任で汚くムラムラに刷っているのであって、
それを「良し」と答えるのは、
そのアンディ・ウォーホルという作家一人で責任を負う事で、
成立するのです。
つまり万人の賞賛や肯定を得ない所で、
たった一人で、《良し》とする所で成立するのです。
これがアーティストの仕事です。

つまり職人の刷りは、万人の賞賛と肯定を得るのが前提で
成立して、これが匿名性というものなのです。
そしてそれがデザインワークなのです。

ブログで上位を占めている人々が、ほとんど全員が匿名であるのは、
こうした職人性とデザインワークによる、
多数の支持を集めているからです。

逆に言うと、アンディ・ウォーホルのような
アーティストというのは、500人のナイスではなくて、
500人のブーイングを浴びる事を引き受けて成立するのです。
500人からのブーイングを浴びる事を覚悟する事で、
実はアーティストが成立するのです。

しかし多くの現実に存在するアーティストは、
500のブーイングを浴びる事を選択しようとはしていません。
むしろ他人にほめられて、ナイスをもらう事を目的に
作品をつくり、発表しているのです。
つまりそれは職人的であり、そしてデザインワーク的なのです。
アーティストと名乗って、本名も明らかにしているにもかかわらず、
多くのそれはデザイナーであり、職人なのです。

若い作家のAさんも、根本において、
多くの常識的な人を読み込んで、
リアルな反応を空想して、物事を決めるのです。
これはアーティストとしては間違いです。
職人であり、デザイナーの心性を示しています。

芸術の基本は、500人のナイスを獲得する所には無いのです。
500名のブーイングに芸術の基本があるのです。

自分の名前を出して、自分の顔をさらして、
万人のブーイングに身をさらして、
一人で責任をとって、腹を切って、無意味に犬死していくのが、
アーティストなのです。
アーティストが狂人や犯罪者に近いのは、こうした無意味な死に
向って行く生き方からです。
何故にこの悲惨な生き方を選べるのか?

それは不幸だからです。
普通に直接的な幸せを追って生きて行く事が出来ないからです。
だから芸術という、別の秩序/学問の厳密さの中に、
自分の満足を追って生きて行く。
それは直接的には、普通の人が肯定する結果を追いかける生き方とは、
別の基準の生き方なのです。

500人がナイスを投票するような次元というのは、
匿名性と職人性で成立する世界であって、
芸術の世界ではないのです。

このように、普通の80%の人が追いかけているナイスに結果する生活世界というものの、外の世界が存在するのです。その外の世界に芸術や、学問や、哲学や、真理が存在しているのです。このことを認めないと、人類の文明における文化そのものの巨大さは、理解できません。

見の丈という日常的リアリティの中にあるのは、500人のナイスであり、匿名の世界であり、職人の世界であるのです。それは工芸や、デザインや、手芸、そしてイラストや、漫画です。

では、その生活世界や、自然的な世界の外に出て行く事は、
いかにして可能なのでしょうか?

その基本は、ナイスをくれるような500人が生きている社会の外に、
出る事です。
裸足で、砂漠の中に出て行って、砂漠の空の向こうにあるものと出会って、
語り合って、帰ってくる事が必要です。

多くの人々が生活する街からでて、砂漠や、山岳といった、
他人のいない所に出て行くのです。
そこで自分以外の普遍的な他者に出会う必要があります。

芸術というものをささえているのは、
市井の人々の生活世界の外の、荒野のはるか彼方にある普遍的な他者です。
それは自分自身以外の普遍的な他者です。
街の人々の直接的な生活世界から出て、離れ猿になって、
普遍的な他者と出会うことが、基本なのです。

今日のアートをこのようにしては語り得ないと思われる方々が多いのは
知っていますが、
しかし離れ猿の存在は、原始時代から、今日のアンディ・ウォーホルまで、
そしてジェフクーンズに至まで、
一貫して続く普遍的他者と向き合う構造なのです。

自分の名前を名乗り、
そして職人性を捨て、
500人のナイスを拒絶して、
一人、人々と離れて、普遍性に出会って行く事。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

そして
もう一度、
人々が生きる生活世界に
戻ってくる事。

日本の現代美術が戻ってこないで、
行ったきり帰らない
神風特攻隊の様であると書いた
フランスの美術評論家がいました。

もう一度
人々の中に帰ってくる事が、芸術を成立させるのです。
そのためには、
学習が必要です。
音楽家になるためには楽譜を読んだり書いたりすることができるリテラシーが必要なように、色彩について学び、構図について学び、プロポーションを使いこなすように学び、美術史を学び、空間構造論を学び、クオリティコントロールの方法というような、さまざまなリテラシーを学ぶ必要があるのです。それは音楽や、建築や、文学と同様に、高度の専門職だからであります。美術家は、単なる精神障害者や、野蛮人ではなくて、高度な芸術学を学び使いこなせる美術リテラシーの専門職なのです。


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ブラヂル

こんにちは。
職人とアーティストの違いは非常に興味深いものですね。
アーティストは非常に孤独を強いられる作業なんですね。
なので、このblogを読んだ人はみんな職人になりたいと思うでしょうね(笑)

ところで、過去のblogに束芋さんの評価が出ていましたが、
彦坂さんは高木正勝さんについてはどのような評価をされているのでしょうか?
日本人で数少ない有名な映像作家の1人と思うのですが、どうなんでしょうか?

映画の話題はたまに出てきますが、芸術としての映像についてどのようなお考えをお持ちなのでしょうか!?
ナムジュン・パイクとかビルヴィオラなど、世界には有名な映像作家もいますが、日本ではアニメなどが目立っていて、こういう分野は影が薄い気がします。
by ブラヂル (2009-09-04 14:33) 

ヒコ

ブラヂル 様
コメントありがとうございます。
高木正勝さんは、彦坂的には《第6次元 自然領域》の映像作家で、音楽家で、評価は低いのです。きれいだと思いますが、こうした自然領域への還元というのは、私には《第6次元》なのです。
ナムジュン・パイクは昔から多く見て来ていなすが、これも《第6次元》です。
ビルヴィオラは、《超次元》から《第41次元》まであるすばらしいアーティストですね。激賞です。
 
by ヒコ (2009-09-04 15:26) 

あまのじゃく

アンディーウォーホルを分析を読むと草間弥生を思い出しました。妻有の作品ではむしろ芸術というよりもバサラと発言されましたけど、ウォーホールも芸術ではなかったように思えます。どなたかがどこかで優れた歴史的な作品は同時代の批評のなかからではなく泥まみれの市場やヒットチャートからうまれてくるといっていました。僕は彦坂さんの批評を読むのは好きなのですが正確であればあるほど批評でしかなく何かむなしくなって作品に戻ってしまうのです。
by あまのじゃく (2009-09-06 01:32) 

ヒコ

あまのじゃく様

アンディ・ウォーホルは、彦坂尚嘉の芸術分析では下記のように、なります。
《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第41次元〜第7次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【B級美術】

批評から作品が生まれないと考える事は良いですが、そうすると美術史の中に有る美術家の数々のすぐれた画論をどうするのでしょうか。つまり、あまのじゃくさんの言う批評というのは、通俗的な批評を意味しているだけで、ギリシアや中国から始まる美術家の画論の数々を無視しているのではないでしょうか。私には、ですから、そう言う論は、俗論に過ぎないと思えます。
レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿はすぐれているし、マチスの画家ノートも、大変にすぐれています。ゴッホの手紙もすぐれているし、宋炳の「画山水序」もすぐれています。『画家・彫刻家・建築家列伝』を書いたジョルジョ・ヴァザーリもまた美術家でした。
 あるいはミニマルアートの代表作家であるドナルド・ジャッドは、もともと美術評論家でした。
 さらにはポロックと、グリンバーグの関係は重要で、グリンバーグの批評は、今日でも重要な批評文献です。
 さらにはロザリンドクラウス『オリジナリティと反復』の中の「展開された場における彫刻」のような批評は、新しい眼を開くものです。上げて行ったら切りがないですが、デューラーの芸術論の諸著作の凄さにまで戻って考えても、私には、あまのじゃく さんの言う事は、単なる無知無能な人の俗論に過ぎなく思います。 
by ヒコ (2009-09-07 01:20) 

あまのじゃく

無知無能な人の俗論に過ぎないなどと言われて困りました。そういうコトバはあなたの心の奥から発せられているようで悲しく思います。さようなら。
by あまのじゃく (2009-09-07 19:03) 

中野輝也

辛辣なバッシングを受け続けても、発信を止めないでいられる人間はほんの一握りです。そのようなクリエイターの精神には「他者」を感じるし、畏怖します。バッシングを受け、社会現象になることを狙ったオリビエーロ・トスカーニの広告キャンペーンを想起しました。よろしければ、オリビエーロ・トスカーニの広告の芸術分析をお願いします。

オリビエーロ・トスカーニによるベネトンの広告
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/benettonad.htm

ベネトンの広告
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/benetton.htm

Oliviero Toscani /
http://www.youtube.com/watch?v=gGRcy-59TAU


彦坂尚嘉さんの以前の記事を読むと、アンディ・ウォーホルはクオリティコントロールが一定しない美術家という印象を受けました。「クオリティコントロールが一定しない」という点に関しては、オリビエーロ・トスカーニもそのようなクリエイターであると思います。

アンディ・ウォーホル(加筆1写真追加)
http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/2008-10-05

アンディ・ウォーホルの宗教性or信仰性(改題) [アート論]
http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/2008-10-08-1

村上隆の壁紙 [アート論]
http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/2008-10-10
by 中野輝也 (2009-09-08 04:45) 

中野輝也

オリビエーロ・トスカーニによるベネトンの広告(時系列)
http://www.youtube.com/watch?v=7BN2JS9025c&feature=related
by 中野輝也 (2009-09-08 13:17) 

ヒコ

中野様
ベネトンの広告、ありがとうございます。
遅れていますが、リクエストに応えて書きます。
by ヒコ (2009-09-11 19:51) 

ガモ川口

はじめまして。
私は文章を書いて暮らしているので、ものすごく売れたい。文章で家が建つなら何でもやると思っていますが、世間が読みたいであろう文章が私の書きたい、あるいは書ける文章とえらく違う。ほぼ真逆です。おかげさまで編集者のウケはいいんですが、業界人にウケるものが売れた試しはない。
悩ましいものです。
いっそ私が詩人であれば、諦めも人生のうちですが、詩人どころかコメディアンの方が近いので困ったものです。
中途半端には本人も世間も困ってしまいますよねえ。
by ガモ川口 (2011-09-29 09:39) 

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