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アートフェア東京2010の初日VIP内覧会 [日記]

4月1日は、ラカンの読書会で、立教大学でやりました。
非常に充実していて面白かったのですが、
その帰り、夜の11時半頃に藤沢市の日産レンタカー屋に行って、
2トンのアルミ・トラックを借りて、アトリエに帰りました。

それからまた制作で、結局朝の6時過ぎまでかかって、
ようやく滑り込みで間に合って、
トラックを運転して、有楽町の東京国際フォーラムへ滑り込みです。

一番の事故は、印刷屋の機械が不調で、チラシがこの日には届かなかった
ことです。
初日のにぎわいも大きかったので、
チラシは欲しかったのですが、
無くて残念でしたが、しかし逆に、今、糸崎公朗さんと、
それとオージュンの作品などが持っている大衆普遍主義について、
強烈に体感しました。

小山登美夫ギャラリーに代表される大衆普遍主義の美意識というのは、
強烈に時代の精神としてあって、
凡庸なものを普遍であると錯誤する確信の強さが、
今日においては突出しているのです。

これが崩れるのは、
日本の経済が破綻して、日本の預金が吹き飛んで、
ただの貧乏人に転落するまで続くでしょう。
金を握った大衆凡庸主義というのは、
その限りのものです。

しかし、それはただのアクタイをついたに過ぎない事であって、
哲学的な事実で言えば、この大衆の凡庸普遍主義こそが、
ソクラテスを殺した中心なのです。
フッサールが「自然的な態度」と呼んだ無反省な直接性の感覚と
精神が、今日の美術を強烈に成立させています。
その強さを体感できた事は、良かったと思います。

それは同時にソヴィエトのあった時の社会主義リアリズムの
美意識なのです。
これは日記として書いているので、論証の手間を飛ばして言えば、
社会主義リアリズムの根底にあった基盤は、
オルテガの大衆論が指し示した凡庸普遍主義なのです。
この社会主義リアリズムが、1991年以降は、
世界の全体を浸すようになった。

この問題も含めて、またブログで、出来るだけ丁寧に書ければと
思いました。

さて、とにかく作品は展示されましたが、
あまり、内輪の事情を書けませんが、
たとえばギャラリー手の杉山旭さんには不評で、
ウッドペインティングだけが良かったと言われました。

タマダプロジェクトの玉田俊雄さんにも、
どうやら不評で、沈黙だけでした。

ふるい人間関係が全て不評であったかというと、
そうでもなくて、
東京画廊の山本豊津さんには好評でありました。

美術評論家の峯村敏明さんにも、
あの会場で、まったく別の仕事であったと、
アートフェア東京2010の会場での異質性を指摘して下さいました。

まあ、実際孤独ではあります。

今回の制作をボランティアで助けてくださった、若いアーティスト
達に感謝します。山口俊郎さん、中川晋介さん、松下和歌子さん、
栃原比比奈さん、田嶋奈保子さん、ありがとうございました。

最後になりましたが、
ギャラリーARTEの梅谷幾代さんに、感謝します。
アートフェア東京2010への出品は経済的に、まず大変な
出費をようします。
特に、四国の本島という離島からの出品は、たいへんなのです。

作品は昨日1点は売れましたが、
とても、この経費が出るわけではありません。
今後の『空想 皇居美術館』の展開の中で見ていただくしか
ありませんが、日本経済の破綻状況の中で、
しかしアートフェア東京2010への出品をされたことは、
スピリチャルで、尊敬できるものであります。

これをバネに本島でのギャラリー活動にご協力できればと
思います。



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制作に追われて(加筆1) [日記]

いくつかの仕事が重なって、
仕事に追われています。
携帯で撮影した良くない写真ですが、
ご報告をかねてアップしておきます。

ひとつは、80号変形程度ですが、4点制作しています。
皇居美術館シリーズで、宗達の風神雷神図グジャグジャシリーズです。

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次の
も同様の皇居美術館グジャグジャシリーズで、写楽です。
サイズは20号Fで油彩とアクリルの併用です。
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次も同様のシリーズで阿修羅像です。
サイズ技法は写楽と同様で20号。

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あと、ウッドペインティングの20号の正方形くらいのもの。

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同じくウッドペインティングの10号くらいのもの。

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あと、小さなウッドペインティングです。

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それと皇居美術館シリーズで、10号Fと8号Fで、8点制作しようと
しています。

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日本刀グジャグジャシリーズ

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餓鬼草紙グジャグジャシリーズ

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北斎グジャグジャシリーズ

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鳥獣戯画グジャグジャシリーズ

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書道グジャグジャシリーズ

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金閣寺グジャグジャシリーズ

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那智の瀧グジャグジャシリーズ

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雪村グジャグジャシリーズ

どこまで、間に合うか分かりませんが、
頑張っております。

4月2日〜4日には、有楽町の東京フォーラムのアトフェア東京に、
ギャラリーARTEから出品しますが、
皇居美術館のシリーズと、
出版の宣伝をやります。

5月10日から、
東京月島のタマダプロジェクトで、
『空想 皇居美術館』出版記念展をお願いしています。
そこでは皇居美術館シリーズをさらに増やして展示できればと思います。






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バサラ・メモ(画像追加 加筆) [日記]

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糸崎公朗さんの、フォトモという作品が、
バサラであるとわかって、長年の秘密を解いた気がしています。

なぜに、ああいうペラペラの紙の小さな作品を作りえるのか?
という謎は、
高度の芸術に対するコンプレックスが強くあって、
これを摸倣しつつ、なぞり、複雑に屈折しながら、
原始的で、レベルの低い下層文化に還元して行こうと言う
情熱であったのではないでしょうか。

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それが、ある意味で正直に過激に展開されたところに、
糸崎公朗さんの魅力と人気の秘密があったと、私見ですが、
思った次第です。

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こういう視点で見ると、
例えば北野武の映画もバサラであったと思います。
バサラものは、最初には高度な文化を摸倣してなぞるので、
その段階は魅力があります。
しかし次第に低いものに還元して、
還元し切ると、エネルギーを失ってつまらなくなるのです。

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同じ事はティムバートンにも言えて、
あれもアメリカのバサラであったと思います。
最初面白いのですが、次第につまらなくなって、
見るのも嫌になってしまう。

こういう私の私見に異議を唱える方は多いと思うので、
その異議は理解できます。

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しかし北野武やティム・バートンさらにはエディ・マーフィー、
、さらにはスティヴ・マーティンなどが、次第につまらなく
なっていったという理由を説明するのには、
バサラ理論は、ひとつの回答ではあるのです。

貶める(落としメル)ことの面白さというエネルギーは、
実は限界があるのです
落としメルのには、落とすべきものの高さが必要なのですが、
その高さが、本人が成功して偉くなる事で、
次第に失われてくるのです。

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糸崎公朗さんの作品も、立派な美術館で、
デュシャンと並んで展示されると、面白くは見えてこないのでした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

しかし、文化というものは、
そもそもがバサラの部分があって、
常に落下する喜びにあるのではないでしょうか。

しかしギャクもあるのです。
下層のものが上昇して行く喜びです。

どちらにしても下降と上昇の相矛盾するエネルギーの織りなす
不可思議な渦巻きの中で芸術は生まれ、死んで行くのです。



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たまたま8/大木裕之のイベント [日記]

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彦坂尚嘉(左)と映像作家・大木裕之さん

たまたま8/大木裕之のイベントに参加しています。
3月16日(火)が初日で、搬入をかねてオープニングに参加しました。

たまたま展示アクション

彦坂尚嘉/美術家、ブロガー
能勢伊勢雄(岡山PEPPER LAND主宰)/写真
半田真規/マイクロポッポ
たけむら千夏/いんど 
森美千代/ネオキュビスム写真 + 書 from 札幌
落合多武(アーティスト)/ from ニューヨーク
中島大輔/写真
悠鵜飼/写真 
北岡稔章/エロ写真
ヌケメ/ファッション 
majimaji/セッサタクマノシガイ
岡澤浩太郎/求職中
ACUTE/グラフィティ
渕上義哉/セイショクシャ from 香川
泉太郎 + 美術妙論家 池田シゲル
Aokid/Rape
鷹取雅一/変態
竹崎和征/絵画 
高橋トオル/お遊戯家
小田島等/たぶん、おもしろイラストレーター
竹田篤生/ちくわ彫刻
m2c/SPY
河口梨奈/SPICE
藤本哲明/詩
梅津庸一/ビジュアル系愛好家
東くん/ジロニアン
YUTAKA/新入社員GOGO
竹川宣彰/オオタファインアーツ
和田昌宏/JEANS FACTORY ART AWARD大賞作家
山田菜緒/東京学芸大学大学院 1年
斎藤玲児/映像
濱田公望/ from 高知沖ノ島メディアアクション
佐々木玄/北九州HANG
unko/整体
Chim↑Pom/たまたまアクション?
片山かおる(小金井市議会議員)/演説
Lala/汗と吐息~3月の8日間

新潟への原爆投《41流》たまたま8.jpg

彦坂尚嘉の原爆シリーズについて

 

新潟が、原爆の投下候補地で、それを知った新潟市が、

政府の静止を無視して独自に疎開訓練をしたということを知って、始まったシリーズです。

市民の命を守ろうとした新潟市長の英断に対するリスペクトの作品です。


私が、キッチンの壁に両面テープで展示したのは原爆シリーズの
出力作品です。

 

 

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武蔵小金井アートランドというライブハウスのようなスペースでの
8日間のイベントです。
映像作家の大木裕之さんらしいアンダグラウンドぽい雰囲気でした。


大木裕之作品上映「超全体主義的性交」
2000→2006/40min/制作:ワタリウム美術館) 
という映画をみることができました。

40分という大作で、彦坂が言う気体分子映画でした。
断片化されたイメージが、万華鏡のように華麗に続くもので、
一切の意味構成を排除した過激な《第16次元 崩壊領域》映画です。




タグ:大木裕之
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ヒノギャラリーの新装オープン [日記]

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hinoギャラリーが、移転して、1年ぶりにオープンしました。

中上清氏の個展です。

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中上清氏は、私のふるい友人で、
1972年のデビューが一緒で、
その時の美術手帖の展覧会批評欄にも、一緒に載っています。

このオープニングに行って、
2次会にも出ました。

作品論で言えば、中上清氏の作品は《想像界》だけの作品で、
固体美術で、《第6次元 自然領域》のものです。
最近の作品は、芸術的には《世間体のアート》だけになっています。
そういう意味では芸術的には評価はしません。

しかし中上清氏は、職業美術家として、アルバイトも拒否して、
美術制作だけで押し通して来た、私の数少ない友人なのです。

技法は工芸的で、そういう意味でも商品性はあって、
パリにも上陸していて個展を開いていますし、
鎌倉近代美術館でも回顧展を開いています。
その頑張りは驚異的で、根性の有る人物です。

そして《世間体のアート》というものの本質を考える上でも、
興味深い作家であります。

オープニングには1970年代の古い美術界の多くが集まり、
まるで同窓会のようであり、
そしてまたタイムスリップのようでありました。

厳しい時代ですが、
hinoギャラリーには、頑張ってもらって、
1970年代美術の最後の砦として機能してもらえればと思います。
オーナーの山本孝さんには、息子さんも娘さんもいて、
画廊経営に参加しているので、
生き残るエネルギーはあると思います。

さて、2次会の居酒屋でのスナップ写真です。

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左が中上清氏 正面に須賀昭初氏、となりが芝章文氏

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左が 鉄彫刻の多和圭三氏

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hinoギャラリー オーナーの山本孝氏

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左の黄緑の方が楠本正明氏、正面が松下和歌子と栃原比比奈氏

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右が、森美術館の林牧人氏

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山本藍子氏と日本画家・内田あぐり氏

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左が美術評論家・藤枝晃雄氏、山本孝、ネオダダの田中信太郎氏

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左が内田あぐり氏、美術家の高見沢文雄氏、美術評論家の峯村敏明氏

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左が宇都宮美術館館長の谷新氏、山本藍子氏

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正面奥が国立近代美術館の松本透氏


ここには写真で写っていない方々もたくさんいて、
久しぶりに多くの旧知の方々にお会いしました。




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糸崎公朗/(京都/本島)高松と駆け足旅行【4】(改題1改稿1加筆2画像追加) [日記]


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【注意:上記映像は彦坂尚嘉のコラージュで、高松市美術館に展示された作品ではありません】

本島まで行ったついでに、高松まで行って、
高松市美術館での企画展を見て来ました。

コレクション+(プラス)メタモルフォーゼ!!!!! 変身アート
(高松市美術館×丸亀町アートプロジェクト連携企画)
会期  2010年2月20日(土)~3月28日(日)

糸崎公朗さんが出品なさっていたからです。

糸崎公朗 Itozaki Kimio

「非人称芸術」のコンセプトを提唱し,写真を素材とした立体作品「フォトモ」などを製作。

今回は「変身は言葉から-デュシャンと対話するフォトモ」と題し,美術館コレクションと自作を組み合わせた展示を自らキュレーションする。


 

正直言って、私にはつまらなかったのです。

デュシャンと並べると、デュシャンの作品の良さばかりが見えてしまった。

図式すると次のような構造です。


    糸崎公郎           デュシャン

  《原芸術》が無い。      《原芸術》が有る。

  《芸術》が無い。       《芸術》が有る。

  《反芸術》が無い。      《反芸術》が有る。

 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆     ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  《非芸術》が有る。      《非芸術》が無い。 

  《無芸術》が有る。      《無芸術》が無い。 

《世間体のアート》が有る。  《世間体のアート》が無い。

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【注意:上記映像は彦坂尚嘉のコラージュで、高松市美術館に展示された作品ではありません】


糸崎さんの作品は、《ローアート》であって、

あくまでも《世間体のアート》であるに過ぎないのです。

糸崎さんには、デュシャンの芸術性の高さというものが

見えていないように、私には見えたのです。


一番ひどいのは、デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」(1941)

に対して、その展示の形態への類似から、リカちゃん人形の

ボックスセットを対置しているものです。

解釈は自由ですから、かまいませんが、馬鹿馬鹿しく

私には見えてしまいました。


糸崎デュシャン3.jpg

【注意:上記映像は彦坂尚嘉のコラージュで、高松市美術館に展示された作品ではありません】

 

 

デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」を展示する開帳の形は、

この作品の本質ではないからです。

本質は、自分の作品のレプリカで、小型のレプリカコレクションを

つくって、美術館と称して、美術制度の外に出ている事です。

 


しかしあらためてデュシャンの作品を見直す機会としては、

刺激的であったのです。

特にデュシャンの作品に、鑑賞構造がないという事です。

 糸崎公朗さんのフォトモには、《愛玩》という鑑賞構造があります。


鑑賞構造がない作品というのは、日本人ではすでに何人か見つけて

いますが、そういう作品の系譜というものを、改めて考えたく

思いました。

少なくともネオダダのラウシェンバーグや、ジャスパー・ジョーンズ

には、鑑賞構造はありますし、コスースにもあります。

シンディシャーマンにも、ジェフクーンズにもあります。

鑑賞構造を放棄するという制作論が、現代美術の主流を形成して

来たようには見えないからです。


これについてはもう少し考えて、改めて書きたいと思います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

糸崎さんの作品について考えようとすると、

どうしても《世間体のアート》とか、《骨董》性とかにぶつかります。

それについて考えようとすると、

思考的には出来ますが、厳しいのです。


《世間体のアート》論というのは、むしろミケランジェロとか、

ティツアーについて論じる形がよいのです。

おそらく糸崎公朗さんを論じるには、別の視点が必要な

なのだろうと思います。

作品的には論じなくても面白さがストレートに

伝わってしまうからです。

そういう直接性が、糸崎公朗さんの作品の魅力です。


デュシャンはまったく逆でありまして、論じないと、

何がなんだかわからない作家であるのです。


その意味で、2人の組合わせは、ミスマッチの企画だったのです。



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(京都) 本島/高松と駆け足旅行【2】 [日記]

ギャラリーARTEさんが拠点を移した本島に行って来ました。
いろいろなことを考えさせられましたが、
情報化社会の情報ギャラリー活動として、私は考えました。

その辺を含めて、まず、ささやかな動画を見て下さい。




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京都/本島/高松と駆け足旅行 [日記]

旅行をしてきました。
ブログを更新しようとコンピューターは持って行ったのですが、
ケーブルを忘れて出来ませんでした。
まあ、こういう忘れ物の問題を含めて、自己管理の時代であって、
そういう意味でも管理社会であると思いました。

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京都学生之会に呼ばれて、合同卒業設計展を見に行って来ました。

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150くらいの建築プランが並ぶ会場を3回まわって、
3つの作品を選びました。
私の興味はプラズマ建築を探す所にあって、
5つくらい見つけて、その内の《ハイアート》のものを推薦したのです。

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シンポジウムがあったのですが、
2日がかりで開かれたもので、たいへん立派なのでありました。

ピクチャ 5.png

カタログのフルカラーの厚いもので、
なんとも贅沢です。

JALが破産し、トヨタ自動車が危機にひんして、
日本の産業家社会が大崩壊をしている時に、
学生たちは響宴とも言うべき大合同卒業展を開いているのです。

スポンサーを大口から小口まで数多く集めています。

これだけの規模に組織化する事自体が、凄いのです。

新幹線の乗客までアメリカの過剰消費で増えていたのですから、
ここまで京都学生之会が成長して来た事自体が、
実はここ20年間のアメリカの過剰消費の波に乗っていたと、
言えないわけではないのです。

凄すぎて、そして贅沢すぎる故に、カタストロフィーの臭いを
感じざるを得ませんでした。

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五十嵐さんと、建築家の菊池宏さん。
菊池さんは、コンピューターを早くから建築設計に取り込んだ方です。

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鈴木 謙介さんとのツーショットです。
シンポジウムでの鈴木 謙介さんのお話は、
私の考えている事、特に気体分子ギャラリーの活動と重なるところが、
多くて興味深く聞かせていただきました。

ただ鈴木 謙介さんは、学生の建築プランを
視覚的には自分は判断できないと言って、コンセプトを読む形で、
判断していました。

私の場合には、どうしても視覚が優先するので、
その意味でも、興味深い事でありました。


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建築系学生の女性陣。
左の方が担当の横井仁美さん。
やいへんにしっかりした方で、お世話になりました。

学生たちの活動は、非常にしっかりしたもので、
これだけの規模の合同卒業展を組織していて、感心するものですが、
同時に、その根底には甘えや、傲慢さも感じざるを得ませんでした。

講師の控え室で、講師の間で出ていた苦言は、
大人である講師の人たちは、多忙なのですが、
その多忙な人たちに、注文が多すぎる事でした。
メールも長過ぎる。

最後になって、実は私ともトラブルになったのですが、
これも普通に社会常識で流しておけば、
トラブルにはならなかったのですが、
学生的な甘えと傲慢さが出るから、こちらが怒ることになったのです。

東大教授で建築家の難波和彦さんならば、
こうしたトラブルをあけすけにブログに書かれるかもしれません。
まえにアートスタディーズというシンポジウムに出演をお願いした時に、
私が責任者であったのですが、痛烈なご批判を浴びて、
お詫びに伺った事があります。

美術界と建築界だと、社会常識に少しズレがあって、
甘えの差が、怒りを生むのです。
美術界では普通に通っている甘えが、建築界には通用しないし、
今回は反対に、
建築学生の甘えが、美術界の常識に通用しなかったのです。

どちらにしろ大人で活動しているというのは、
仕事に追われ、お金に追われ、時間と人間関係に締め上げられている
中で生きているので、学生の勝手な甘えには怒りを感じざるを得ません。

しかし一方では、建築学生も、美術系の学生も、
別ではありますが、しかし社会が分からないという意味で、
同じような幻想的な存在であると分かって、安心しました。
この150人ほどの学生の中でも、建築家になるのは、
一割りの15人もいないでしょう。
建築家になるのには、理性では無理で、ある種の狂気が必要です。

そういう意味で、この卒業展というのは、
多くの学生が建築を諦めていくという意味での卒業展であります。

(つづく)









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誤読に耐えて [日記]

最近3つ、誤読事件が起きた。

私の書いた文章を、自分のことを書かれたと思って、
傷つく人が現れのです。
次のようなメールが来ました。

彦坂様



お疲れ様です。

たびたびのメールを申し訳ありません。



昨日もツイッター更新されていたのですね。

今日になって拝読しました。



思い過ごしかもしれないけれど、「これはわたしのことかなあ」と思い、

反省をしているところです。


この誤読に対して、私は次のようにメールを返しています。


○○○まる様


まったく、違います(笑)。

「次郎物語」の1節を使いながら、

自分の娘を思い出しながら書きました。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


もうひとつは、

電話がかかってきて、

「私のことか」と聞かれたのです。

次のような文章です。


ギャラリーのSさんも、
「彦坂さん、死んでしまえばおしまいですよ」という様な事を
何回も言っていました。



このSさんは、ギャラリー手の杉山旭さんで、

昔から、こういう言い方を良くしていた方なのです。


他にもこの手の被害者が出ていて、

考えさせられますが、

しかし、こちらの考えもしない波及なので、

具体的な対処は、私は考えません。


そもそもで言うと、コミュニケーションというものは、

誤解において成立しているので、

人間関係は誤解を避けがたいのです。

ですから、私は誤解されても、それはそのままにしておきます。


それと文章というものは、書くと回りの人間関係を傷つける

ものなのです。

これも原理的なものであって、もともと書き言葉というものが、

人工的なものであって、自然性を引き裂いて行くものなのです。

つまり無文字社会こそが、人間の自然性ですから、

文字で書かれると、多かれ少なかれ、人は傷つきます。



人間関係にあまりに配慮すると、文章は面白く無くなって

いきます。

私は、ですから、その辺は諦めています。

まったく配慮しないわけではありませんが、

できるだけ、配慮しないように努力しているのです。


ですから、傷ついた方には、お詫び申しあげますが、

その多くは、誤解です。

人間の鏡像関係というのは、

多くの妄想と誤解と恐怖を生み出すのです。


それが《想像界》なのであって、

それは逃げ切れるものではないのです。


 





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ルーカスの死 [日記]

長く飼っていたラブらドールのルーカスが、

1月15日に死んだ。

この日は実はギャラリー山口の山口光子さんが亡くなった日でもあって、

ちょっとブログに書く気にならなかった。

ルーカスの晩年は、遺伝病で後ろ足2本がだめになって、

しかも一本を自分でかじる習慣がついてしまって、

介護はかなり大変だった。

普通は安楽死をさせる状態だったのですが、

目がしっかりしていて、生きる意欲はあって、

食欲も衰えなかったので、医者とも相談して、

安楽死は先延ばしをした。

後ろ足2本だめと言う不自由な足で、前足2本だけの力で、

後半身を引きずって

驚くべきもかなりのスピードで遠距離を移動した。

油断すると道路に出てしまって、

近所の人が通報するので、3回警察が来るという騒ぎになった。

 

足をかむ癖が出来て、いろいろなことをしたが、止められなかった。

首にカラーをしても、最初は良いのだが、そのうちにカラーを超えて、

首を出して、後ろ足をかじって、ついには骨まで出てきてしまった。

医者に連れて行って、短期入院させて、一度はなおったのだが、

また同じことを繰り返す。

麻痺しているので、かじっても痛くないようで、

かじるのを止めるために、ガムテープでカラーの前をがんじがらめにして、

鉄仮面のようにすると、しばらくは良かったのだが、

なにしろ頭も良くて鉄仮面を突破する方法を、

根気良く編み出してしまう。

そこで私の長靴を後ろ足にはかせるという方法をとった。

これもしばっらくは良かったが、いつのまにか脱ぐコツを覚えてしまって、

最後は、この長靴を脱いで、足を噛んで、動脈を切って、

血が水道の蛇口柄出るように流れでて、血の池をつくった。

気が付いたときは手遅れで、止血はしたけれども、

急速に意識を失って、眠るように死んだ。

自殺と言うべきかどうかは判断が難しいけれども、

とにかくこの1月15日は、二人の知人が亡くなったのです。

死者というのは、亡くなって無くなるのですが、しかし記憶の中では生きていて、

繰り返し思い出されてくる。

人間は死者と一緒に生きていくのであって、

死んだら御仕舞いというものではない。

祖母も、母も、義父も、そして私の長男も死んだが、

しかし私は彼らと一緒に生きているのであって、

無ではないのです。

ルーカスのことも、山口光子さんのことも繰り返し思い出しています。


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