アートフェア東京2010の初日VIP内覧会 [日記]
制作に追われて(加筆1) [日記]
バサラ・メモ(画像追加 加筆) [日記]
たまたま8/大木裕之のイベント [日記]
能勢伊勢雄(岡山PEPPER LAND主宰)/写真
半田真規/マイクロポッポ
たけむら千夏/いんど
森美千代/ネオキュビスム写真 + 書 from 札幌
落合多武(アーティスト)/ from ニューヨーク
中島大輔/写真
悠鵜飼/写真
北岡稔章/エロ写真
ヌケメ/ファッション
majimaji/セッサタクマノシガイ
岡澤浩太郎/求職中
ACUTE/グラフィティ
渕上義哉/セイショクシャ from 香川
泉太郎 + 美術妙論家 池田シゲル
Aokid/Rape
鷹取雅一/変態
竹崎和征/絵画
高橋トオル/お遊戯家
小田島等/たぶん、おもしろイラストレーター
竹田篤生/ちくわ彫刻
m2c/SPY
河口梨奈/SPICE
藤本哲明/詩
梅津庸一/ビジュアル系愛好家
東くん/ジロニアン
YUTAKA/新入社員GOGO
竹川宣彰/オオタファインアーツ
和田昌宏/JEANS FACTORY ART AWARD大賞作家
山田菜緒/東京学芸大学大学院 1年
斎藤玲児/映像
濱田公望/ from 高知沖ノ島メディアアクション
佐々木玄/北九州HANG
unko/整体
Chim↑Pom/たまたまアクション?
片山かおる(小金井市議会議員)/演説
Lala/汗と吐息~3月の8日間
彦坂尚嘉の原爆シリーズについて
新潟が、原爆の投下候補地で、それを知った新潟市が、
政府の静止を無視して独自に疎開訓練をしたということを知って、始まったシリーズです。
市民の命を守ろうとした新潟市長の英断に対するリスペクトの作品です。
ヒノギャラリーの新装オープン [日記]
糸崎公朗/(京都/本島)高松と駆け足旅行【4】(改題1改稿1加筆2画像追加) [日記]
「非人称芸術」のコンセプトを提唱し,写真を素材とした立体作品「フォトモ」などを製作。
今回は「変身は言葉から-デュシャンと対話するフォトモ」と題し,美術館コレクションと自作を組み合わせた展示を自らキュレーションする。
正直言って、私にはつまらなかったのです。
デュシャンと並べると、デュシャンの作品の良さばかりが見えてしまった。
図式すると次のような構造です。
糸崎公郎 デュシャン
《原芸術》が無い。 《原芸術》が有る。
《芸術》が無い。 《芸術》が有る。
《反芸術》が無い。 《反芸術》が有る。
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《非芸術》が有る。 《非芸術》が無い。
《無芸術》が有る。 《無芸術》が無い。
《世間体のアート》が有る。 《世間体のアート》が無い。
【注意:上記映像は彦坂尚嘉のコラージュで、高松市美術館に展示された作品ではありません】
糸崎さんの作品は、《ローアート》であって、
あくまでも《世間体のアート》であるに過ぎないのです。
糸崎さんには、デュシャンの芸術性の高さというものが
見えていないように、私には見えたのです。
一番ひどいのは、デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」(1941)
に対して、その展示の形態への類似から、リカちゃん人形の
ボックスセットを対置しているものです。
解釈は自由ですから、かまいませんが、馬鹿馬鹿しく
私には見えてしまいました。
デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」を展示する開帳の形は、
この作品の本質ではないからです。
本質は、自分の作品のレプリカで、小型のレプリカコレクションを
つくって、美術館と称して、美術制度の外に出ている事です。
しかしあらためてデュシャンの作品を見直す機会としては、
刺激的であったのです。
特にデュシャンの作品に、鑑賞構造がないという事です。
糸崎公朗さんのフォトモには、《愛玩》という鑑賞構造があります。
鑑賞構造がない作品というのは、日本人ではすでに何人か見つけて
いますが、そういう作品の系譜というものを、改めて考えたく
思いました。
少なくともネオダダのラウシェンバーグや、ジャスパー・ジョーンズ
には、鑑賞構造はありますし、コスースにもあります。
シンディシャーマンにも、ジェフクーンズにもあります。
鑑賞構造を放棄するという制作論が、現代美術の主流を形成して
来たようには見えないからです。
これについてはもう少し考えて、改めて書きたいと思います。
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糸崎さんの作品について考えようとすると、
どうしても《世間体のアート》とか、《骨董》性とかにぶつかります。
それについて考えようとすると、
思考的には出来ますが、厳しいのです。
《世間体のアート》論というのは、むしろミケランジェロとか、
ティツアーについて論じる形がよいのです。
おそらく糸崎公朗さんを論じるには、別の視点が必要な
なのだろうと思います。
作品的には論じなくても面白さがストレートに
伝わってしまうからです。
そういう直接性が、糸崎公朗さんの作品の魅力です。
デュシャンはまったく逆でありまして、論じないと、
何がなんだかわからない作家であるのです。
その意味で、2人の組合わせは、ミスマッチの企画だったのです。
(京都) 本島/高松と駆け足旅行【2】 [日記]
京都/本島/高松と駆け足旅行 [日記]
誤読に耐えて [日記]
彦坂様
お疲れ様です。
たびたびのメールを申し訳ありません。
昨日もツイッター更新されていたのですね。
今日になって拝読しました。
思い過ごしかもしれないけれど、「これはわたしのことかなあ」と思い、
反省をしているところです。
この誤読に対して、私は次のようにメールを返しています。
○○○まる様
まったく、違います(笑)。
「次郎物語」の1節を使いながら、
自分の娘を思い出しながら書きました。
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もうひとつは、
電話がかかってきて、
「私のことか」と聞かれたのです。
次のような文章です。
このSさんは、ギャラリー手の杉山旭さんで、
昔から、こういう言い方を良くしていた方なのです。
他にもこの手の被害者が出ていて、
考えさせられますが、
しかし、こちらの考えもしない波及なので、
具体的な対処は、私は考えません。
そもそもで言うと、コミュニケーションというものは、
誤解において成立しているので、
人間関係は誤解を避けがたいのです。
ですから、私は誤解されても、それはそのままにしておきます。
それと文章というものは、書くと回りの人間関係を傷つける
ものなのです。
これも原理的なものであって、もともと書き言葉というものが、
人工的なものであって、自然性を引き裂いて行くものなのです。
つまり無文字社会こそが、人間の自然性ですから、
文字で書かれると、多かれ少なかれ、人は傷つきます。
人間関係にあまりに配慮すると、文章は面白く無くなって
いきます。
私は、ですから、その辺は諦めています。
まったく配慮しないわけではありませんが、
できるだけ、配慮しないように努力しているのです。
ですから、傷ついた方には、お詫び申しあげますが、
その多くは、誤解です。
人間の鏡像関係というのは、
多くの妄想と誤解と恐怖を生み出すのです。
それが《想像界》なのであって、
それは逃げ切れるものではないのです。
ルーカスの死 [日記]
長く飼っていたラブらドールのルーカスが、
1月15日に死んだ。
この日は実はギャラリー山口の山口光子さんが亡くなった日でもあって、
ちょっとブログに書く気にならなかった。
ルーカスの晩年は、遺伝病で後ろ足2本がだめになって、
しかも一本を自分でかじる習慣がついてしまって、
介護はかなり大変だった。
普通は安楽死をさせる状態だったのですが、
目がしっかりしていて、生きる意欲はあって、
食欲も衰えなかったので、医者とも相談して、
安楽死は先延ばしをした。
後ろ足2本だめと言う不自由な足で、前足2本だけの力で、
後半身を引きずって
驚くべきもかなりのスピードで遠距離を移動した。
油断すると道路に出てしまって、
近所の人が通報するので、3回警察が来るという騒ぎになった。
足をかむ癖が出来て、いろいろなことをしたが、止められなかった。
首にカラーをしても、最初は良いのだが、そのうちにカラーを超えて、
首を出して、後ろ足をかじって、ついには骨まで出てきてしまった。
医者に連れて行って、短期入院させて、一度はなおったのだが、
また同じことを繰り返す。
麻痺しているので、かじっても痛くないようで、
かじるのを止めるために、ガムテープでカラーの前をがんじがらめにして、
鉄仮面のようにすると、しばらくは良かったのだが、
なにしろ頭も良くて鉄仮面を突破する方法を、
根気良く編み出してしまう。
そこで私の長靴を後ろ足にはかせるという方法をとった。
これもしばっらくは良かったが、いつのまにか脱ぐコツを覚えてしまって、
最後は、この長靴を脱いで、足を噛んで、動脈を切って、
血が水道の蛇口柄出るように流れでて、血の池をつくった。
気が付いたときは手遅れで、止血はしたけれども、
急速に意識を失って、眠るように死んだ。
自殺と言うべきかどうかは判断が難しいけれども、
とにかくこの1月15日は、二人の知人が亡くなったのです。
死者というのは、亡くなって無くなるのですが、しかし記憶の中では生きていて、
繰り返し思い出されてくる。
人間は死者と一緒に生きていくのであって、
死んだら御仕舞いというものではない。
祖母も、母も、義父も、そして私の長男も死んだが、
しかし私は彼らと一緒に生きているのであって、
無ではないのです。
ルーカスのことも、山口光子さんのことも繰り返し思い出しています。