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ネオテニー・ジャパン展をめぐる論争 [現代美術史論]

ここは2です。

彦坂尚嘉の《第41次元》アート1の記事を読みたい方は、
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http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/


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ネオテニー・ジャパン展について書いた私のブログ記事への、
NO NAMEさんのコメントに対する、反論です。

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BANKARTで原口展をやっていますがポストもの派と呼ばれている一群の作家も今以上に信仰だと思います。信仰と言えばNYで見たクイーンズ美術館でのコンセプチュアル展もNY初の概念芸術の教義が辺境にある極東の小国にまで影響したというコンテキストで構成されていました。少なくとも
ネオテニーの作家たちは欧米の出店でない点が好感が持てます。 

by NO NAME (2009-06-01 00:17)  


NO NAME様

 原口をポストもの派というのは、違います。彼は《もの派》というべきものです。しかし正確には関根伸夫の影響では無い面が1960年代後半の横須賀グループにはあって、活動そのものも早さがあります。すくなくとも、原口を「ポストもの派」と書く NO NAMEさんの議論は粗雑です。

 クイーンズでの『グローバル・コンセプチュアリズム展』の趣旨は、NO NAMEさんの言うのとは逆の主張の展覧会でした。
 
 《コンセプチュアリズム》は、世界の中で、独自に多方面で始まっていて、ニューヨーク発の影響ではないと言う、グローバルな同時多発性を主張した展覧会でした。展示面でも、アメリカは、世界の中の一地方と言う扱いで、過小評価されたものでした。すくなくともカタログに残されている主張はそう言うものでした。
 
 NO NAMEさんは、きちんと展覧会のカタログも読まずに、「NY初の概念芸術の教義が辺境にある極東の小国にまで影響したというコンテキストで構成されていました」と、かってな妄想を、まるで事実かの様に捏造して書く、悪質な議論を、私に仕掛けています。
 こうした2ちゃんねる的やりくちは、卑劣なものです。

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 NO NAMEさんが言う様な展覧会であれば、なぜに、『グローバル・コンセプチュアリズム展』のカタログの表紙が、コスースではなくて彦坂尚嘉のフロア・イベントなのですか?
 彦坂尚嘉の畳のある自宅での美術展を表紙にした『グローバル・コンセプチュアリズム展』の主張は、各地域の《コンセプチュアリズム》の根源的な独自性を認めて評価した展覧会であったのです。

 しかし私の意見は、実は『グローバル・コンセプチュアリズム展』を組織した人々とは、意見が違います。むしろNO NAMEさんに近いものです。1916年のデュシャンやダダイズムの活動抜きには、その後のコンセプチュアリズムの多様な展開は無かったと思うからです。

 1990年代、2000年代のアフリカ、中国、インド、そして日本における似た様な美術の乱立を、各地域の独自性として囲い込み、固有性を主張する意見は強くあります。
 しかし、そもそも、こうした美術そのものが1980年代のアメリカ美術のニューウェーブや、シュミレーショニズムの波及を抜きには、出てこない内容のものです。これらの焼き直しが、世界中で、しかもセルフ・オリエンタリズムを伴って発生しているという共通のパターンが存在します。
 
 さらに細かく見て行くと、具体的な影響関係を探す事は、不可能ではありません。
 たとえば村上隆もネオテニー展に出ていましたが、村上隆とアンディ・ウォーホル、そしてジェフ・クーンズの関係は、読み取れるものです。実際本人がアメリカに行っているだけでなく、どのようにしたらジェフ・クーンズのようになれるかという発言をしていて、それは小山登美夫の本にも書かれている事です。
 
 奈良美智の場合にも、ドイツに留学して、ペンクに師事していた事、さらにキース・へリングなどのグラフィティとの関係、ロックで言えばラモーンズとの関係など、海外のポップアート系との関係は強くあります。
 
 鴻池朋子の、女の子の足の出ている図像は、アメリカの写真画像を使った作家・・・今、名前を思い出せませんが、その作家の模倣であって、鴻池朋子の独自とは言いにくいものであります。
 
 つまり私見を申しあげれば、福田和也ばりの日本独自の表現を強調して評価するやり口は、右翼を自称する以上しかたが無いにしろ、美術史的には客観性は薄いものです。
 問題なのはNO NAMEさんにある日本独自の表現を求めようとする福田和也的な心性そのものがもつ、先入観に、欺瞞性の問題があると言う事です。なにに「好感」を持つかは、各自の勝手でありますが、それが粗雑な妄想と先入観に支えられたものに過ぎないように私には見えると言う事です。
 
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 もう一つ別の議論を提起すれば、国内史的に言えば、1990年代美術を強く押し出したのは椹木野衣ですが、彼の『日本・現代・美術』を読むと、彦坂尚嘉の名前が冒頭から、繰り返し出てくる事です。彦坂尚嘉が畳を使い、コタツを使っている早いアーティストであって、日本の独自性を強調するネオ・ジャポニズムの源流の一つが彦坂尚嘉にあって、1990年代の椹木野衣自虐派の美術家たちの先駆者としての存在を持っている事です。 

 これは自慢をして言っている事ではなくて、不愉快な事実を言っているのです。

by ヒコ (2009-06-01 03:53)  


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