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特集展示/岡崎乾二郎 [建築系美術ラジオ]

建築系美術ラジオ

特集展示|岡﨑乾二郎

収録日時:2010年02月21日
収録場所:東京都現代美術館/江東区
収録時間:28分25秒
ファイル形式:MP3形式
ファイルサイズ:13.0MBPLAY出演者:新堀学+栃原比比奈+田嶋奈保子+彦坂尚嘉+天内大樹

東京都現代美術館・常設展示室での「特集展示|岡﨑乾二郎」(前期:2009.10.31-2010.04.11/後期:01.26-04.11)の批評です。新堀さんは「TO邸」における建築家・長田直之さんとの「協働」に着目。海市展(NTT ICC、1997年)や奈義町現代美術館などから、文脈に介入するアーティストという岡﨑さんの特徴に言及されまます。一方「あかさかみつけ」シリーズや絵画作品において、同一の形態やタッチに異なる色彩やタイトルを施す岡﨑さんの手法に対し、装飾やインテリアを超えた「絵画としての造形」を問う美術家陣。展示会場のコントロールは美術家の戦いだという彦坂さん。「建築系美術ラジオ」第2回収録シリーズです。(D. Amanai)

*番組中思い出せなかった名前は「Atopic Site + On Camp/Off base」展(東京ビッグサイト、1996年)と、画面に白いタッチを施す画家ロバート・ライマンです。

・出演者プロフィール
新堀学(しんぼり・まなぶ)
1964年生まれ。建築家。安藤忠雄建築研究所を経て、新堀アトリエ一級建築士事務所主宰。NPO地域再創生プログラム副理事長。「明月院桂橋」「小金井K邸」 「天真館東京本部道場」「松田邸」など。著書に、『建築再生の進め方』(共編・共著、市ヶ谷出版、2008年都市住宅学会賞受賞)「リノベーション・スタディーズ」(共著、INAX出版)「リノベーションの現場」(共著、彰国社)。

田嶋奈保子(たじま・なほこ)
1982年生まれ。05年武蔵野美術大学/工芸工業デザイン学科ガラス専攻卒業。03年「メランコリア」展パフォーマンス、04年This Gray(AURORAパフォーマンスユニット)出演。同年個展「Float Dream」(Pepper's Loft Gallery)、05年「あんにゅいか」展(喫茶シントン)、08年「燃えゆる家」展(深川ラボ、個展とロングヘアーパフォーマンス)。「燃えゆる家」を主題に絵画、パフォーマンス、ガラス作品を展開。 

栃原比比奈(とちはら・ひいな)
1977年生まれ。2001年多摩美術大学絵画学科油画専攻卒業。2000年より中野区の知的障害者施設のスタッフとして、ダウン症や自閉症、重度の知的障害者などが絵を描くプロセスと作品を研究。2001年よりサンエックス(株)勤務、2004年退社。2010年彦坂尚嘉アトリエ(気体分子アトリエ展)、ギャラリー山口にて個展。

・関連項目
東京都現代美術館
岡﨑乾二郎
長田直之

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《形骸》について [アート論]

 無線LANを使っていたのですが、一番安い機械を買ったせいか、
このブログを書く時のスピードがあまりに遅くなって苦しんでいたので
す。研究の結果、無線を止めて有線でつないだ所、スピードが回復
しました。

《形骸》について

100円ショップに売っている様な雑貨類は、《形骸》品であると言えるのでしょうか?
同じ様な問題ですが、コンビニエンスストアーのマニュアル通りのしゃべり方で「ありがとうごじました」と言われる時の腹立たしさというのも、挨拶の《形骸》化であると言えるでしょうか。

DSC02420.JPG.jpeg
 
しかし同時に、機能だけあれば良いのであって、精神や生命は要らないという主張もあるのです。
 
つまりこれらには《機能》としては、有用性があるのですが、その有用性という骨格だけであって、その中に生命や精神が欠けているのです。
 
《形骸》という言葉で、私が語って来たものが、
何であるのか、ようやく、少しより厳密になってきています。
 
昨日はフランフラン(FrancFranc) というインテリア/雑貨のショップ
に行って来たのですが、ここの美しくかわいらしい雑貨を見ていると、
この《形骸》という言葉に対応するものを見いだしたのです。

511jWEj7LtL.jpg
 
つまり私が《形骸》という言葉で対応させていたものは、
決して「百円ショップ」に並んでいるような安物というのではなくて、
お洒落で、付加価値をもったデザイン製品も含まれることになります。
 
《形骸》化しているのは100円ショップだけの問題ではなくて、実は産業化社会の最初から、量産品にはついてきた問題でありました。
 
今日では高い品質のブランドとして信じられているシャネルにしても、シャネルの5番という香水は人工香水であって、本物の香水の《形骸》から始まったし、シャネルの宝石は、偽物の宝石から始まったのです。
 
もともと産業革命そのものが、《形骸》の発生源であったのではないのか?
 
いやそれ以上に、書き言葉を発明した文明にこそ、人間の生命を《形骸》化する起源があったのではないのか?  
少なくともこのことを老子は指摘しているのです。
 
つまり文明が進むことは、《形骸》化の進展として現れるのです。それは機能や有用性の拡大と引き換えに、本来の人間生命の意味や精神を《形骸》化して行く。さらにはその《形骸》化を引き受けることによってのみ、新しい文化を生産しえるという、こと。
 
つまり《形骸》という言葉から始まったにしろ、
他の言葉に置き換える必要さえある概念装置であると言えるのです。
そこで簡単に連想できるのは《レプリカ》とか、
《イミテーション》という言葉の連想です。
 
《形骸》という言葉を、広辞苑という辞書で引いてみると、
次のようにあります。
 
「①からだ。肉体。むくろ。生命や精神のないからだ。建物のさらされた骨格のみ。②中身が失われ外形だけのこっているもの」
 
100円ショップに並んでいるチープな雑貨類というのは、取りあえず使用する機能としては役にたつので、機能とか使用価値という面で見ると《形骸》とは言えないものであるはずですが、にもかかわらず彦坂尚嘉の《言語判定法》では、「形骸」という言葉に対応するものです。
 
つまりこの場合で言うと、《機能》という部分が広辞苑の定義にある「からだ」とか「骨格」というものに対応していると考えられます。そこで、次のように言い換える事が出来るのではないでしょうか。
 
《形骸》の拡大的意味
 
「①機能。使用価値。有用性。生命や精神のない有用性や使用機能。有用性のさらされた機能のみ。②中身が失われ機能性、有用性だけのこっているもの」
 
つまりそれはロボット的なものであるのです。「生命や精神のない有用性や使用機能」というのは、ロボットによる作業や、あるいはコンビニエンスストアーでのマニュアル通りの挨拶がもっている腹立たしさを示しているのです。
 
レストランでいうとサイゼリアの食事の様なものです。サイゼリアのメニューは驚くほどに安い値段です。食べている時は、安さの割にはましな食事に思えるのですが、終わって外に出てくると、異様なまでの軽さや空虚さにとらわれて、食事の中身が無かった事に気がつくのです。

saizeriya.jpg
 
このような《形骸》性というのは、何なのでしょうか?
 
逆に言えば、形骸化していないものの、「生命や精神」に満ちたものとは何なのでしょうか?
 
例えば、飛行機で東京から四国に旅行に行きます。そうすると1時間ほどであまりに簡単についてしまい、どこにいるのか分からないといった空虚感にとらわれます。
 
飛行機を使わないで、新幹線で行くと、それなりの時間が使われて、四国大橋を汽車で渡って行く時の美しい風景の満足と合わさって、充実した旅行気分になるのです。
 
さらに自動車で四国まで走ったことがありますが、植物の形状が次第に変わって行くと言う変化を面白く味わう事ができて、旅行の面白みを満喫することが出来ました。
 
ですから江戸時代のように、歩いて東京から四国まで行くと、旅の面白さはもっと豊かに体験できるようになるでしょう。
 
つまり旅行の《形骸》化というのは、飛行機や鉄道といった近代的な機械の有用性によって生み出されているのです。こうしたことから敷衍して、文明そのものが、実は《形骸》化を生み出しているのではないか? という疑いになります。
 
私は子供の頃に、薪でご飯を炊いていたことがあります。薪の煙の臭い、そして炎を見つめながらご飯を炊く体験は、辛いものであって、今、繰り返したいとは思いません。私は現在の電気釜で、簡単に玄米を炊くことが出来る事を喜んでいるのです。つまり炊飯の《形骸》化を享受しているのです。
 
ですから《形骸》化の出現には両面性があって、これは生きる意味の重要な喪失であると同時に、生きる事の簡便化や、快適さも生み出しているのです。どちらを積極的に評価するかで、文明にたいする評価は変わるのです。
 
さて、こう考えてくると、芸術やアートに見られる《形骸》化も、否定的にだけではなくて、肯定的にも考えるべきなのではないか? という反省に至ります。
 
つまり現在の現代アートの《形骸》性というのは、コンピューターやインタネット、デジタル映像化、携帯電話の普及などの情報技術や、工業生産のコンピューターによる高度化などの様々な総合的な変化の結果によって生み出されて来たものであって、マイナス化もあるにしても、プラス化も大きくあると言う面を見失っての判断は、間違いではないのか?
 
鎌倉には竹をつかった塀をよく見かけるのですが、
竹を紐で編んで塀をつくるのは、職人の労賃が高くなっていることもあって、贅沢なものなのです。しかも竹はすぐに腐ってくる。したがって数年に1回、作り直して行かなければならない。そこで人工のプラスティック竹の塀が出現しています。はじめはこの《形骸》化を嫌に思ったのですが、だんだんなれてくると、しかたがないと思うようになってきています。

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さて、こう考えてくると、建築で言えば最近のプラモデルのような高層建築も良しとしなければなりません。それは単なる現状の追認なのですが、遅まきながらでもそれを追認して、現実を現実として認める必要があるのです。
 
それはしかし同時に、古い建築の価値を認める事なのです。欧米では、大学の《格》というのは、大学の校舎の古さなのです。一番高い評価の大学の校舎は、石造りです。次がレンガ作りです。コンクリートの大学は、《格》としては落ちるのです。

OxfordBuilding.JPG.jpeg

オックスフォード大学 大学設立11世紀
 
欧米の図書館でも同じ様な《格》付けがあります。グーテンベルクがつくった最初の活版印刷の本を持っている図書館が、《格》が高いのです。

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アメリカ合衆国議会図書館収蔵のグーテンベルク聖書
 
否応もなく文明化が進み、《形骸》化が進むから、古いものが《形骸》化の度合いが少ないのであって、その本来的な保存や所有が重要なのです。
 
つまり《形骸》化を避けないと同時に、本来の生命や精神の存在する美術作品の重要性は、今の情報化社会でも、変わらずに存在しているのです。しかしそれらの《真性の芸術》は、今日の流通にはなかなか乗らないという事です。世界的な流通に乗せようとすれば、芸術の《形骸》化はされなければ不可能であると言う事です。
 
 美術作品の制作において、《形骸》化は避け得ないものであると、私は遅まきながら、現状を追認する所まで至りました。しかし《形骸》化の少ない美術作品の価値が、高いという事を、改めて強調しておきたいと思います。


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