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山本藍子展の『アートの格付け』(全面改稿、校正2) [気体分子ギャラリー]

1、山本藍子作品の難解性について

諸事情で遅れてお詫びいたしますが、
山本藍子展の作品プライスと『アートの格付け』を流して行きます。

先ずは大作です。
取りあえず画像を見て下さい。
芸術分析は、最近は研究が進んで、
やたらに細かくなっていますので、飛ばして、読まないでも結構です。

山本藍子大作3.jpg
ただ ここにいる 2009〜2010年 1818×2590㎜(200号P)

定価:1,600,000円
最低入札価格:1,100,000円

彦坂尚嘉責任による山本藍子作品の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
《サントーム》は無い。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現
 
 
《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。
ただし《世間体のアート》が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《村》である。

鑑賞構造が《驚愕》である。

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山本藍子1.jpg
生きる為にがんばるのではなく、死なないように注意する
2009〜2010年 1818×2590㎜(200号P)

定価:1,500,000円
最低入札価格:1,000,000円

彦坂尚嘉責任による芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜70次元》《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜70次元》《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
《サントーム》は無い。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現
 
 
《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。
ただし《世間体のアート》が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《村》である。

鑑賞構造が《驚愕》である。


豚のイメージが見えますし、山本藍子が愛するレース模様が執拗に描かれています。分かりやすい作品だと思うのですが、何人からか、分かりにくいという声を聞きました。

その辺を配慮しつつ文章を書きます。

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2、法華経の美術/芸術の大乗化

執拗に描き込む事に、山本藍子は執念を燃やします。
この執念は工芸的な画工性なのか、画工を超えたものなのか?
その疑いは、あります。

画工の根性というのは、現代では村上隆の作品の仕上げの
クオリティの高さが突出しています。

d0131874_1810506.jpg

彦坂尚嘉責任による村上隆の芸術分析
 
《想像界》の眼で《第13次元 漫画喜劇領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第13次元 漫画喜劇領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第13次元 漫画喜劇領域》のデザイン的エンターテイメント
 
 
《想像界》だけの表現
液体美術=近代美術
 
 《気晴らしアート》
《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術
原始脳の美術

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》がある。
《世間体のアート》が無い。

大衆の芸術

グローバルな世界帝国の美術。


モコットとした胡粉の盛り上がりのような、
そしてむんむんとした、官能に満ちた女の肌の熱さのような仕上げの
密度が村上隆の絵画にはあります。
絵画というより工芸品です。

そういう仕上げへの執着の高さは、山本藍子の絵画にはありません。

しかし村上隆の絵画には仕上げの美しさは有るにしても、
《原芸術》性もなければ、現代の美術の特徴であるはずの
プラズマ性もありません。本質的に村上隆は古い液体の美術です。
つまりモダンアートの工芸品とも見えるものです。

それに対して山本藍子の作品には《原芸術》性と、
プラズマ性があるのです。
古い要素をたくさん持ちながらも山本藍子本人の自覚を超えた新しさが、
山本藍子の絵画には宿っているのです。
それは若さの特権で、3年くらいの寿命で、すぐに枯れてしまうものかもしれませんが、それでも今、山本藍子の作品には、ある新しさがあるのです。

山本藍子村上隆.jpg
村上隆               山本藍子

重要な事は、絵画を平面だと考えるグリンバーグ的イデオロギーは、
古い単純系モダニズムであって、今日の情報化社会では古いのです。
今日の情報化社会のバーチャルな空間は、決してフラットではないのです。
超紐理論のリサランドールの主張を見ると良く分かるように、
今日の空間は多次元の深みに満ちているのです。

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山本藍子には、村上隆とは正反対の反ー画工的な汚さや荒さがあります。この汚さや荒さにこそ、山本藍子の絵画の核があるのです。

それは一時代前のモダニズム絵画の、反ーアカデミー的なものとも言えるし、エスタブリッシュな高品質への反逆性とも言えます。それは単なる表面的なものではなくて、彼女の存在の闇から出て来ているものであって、本質であるかのように見えます。

この存在の闇からの反逆性が面白いのですが、同時にそこには自己満足的で、マスターベーションに過ぎない日本の現代美術の《村》的な愚劣さの伝統もあるように見えます。しかし古い現代美術の《村》の世界は縮小し、老いて、死を待つのみなのです。

つまり制作した作品が、コレクターという他者の欲望と切り結ぶ以前に、自己完結してしまっているところが、山本藍子の思考の中心にあるように見えます。そのくせ、制作への情熱は、逆のものを示していて、コレクターと切り結んで行こうとしているようにも見えます。昨年のマキイマサルファインアーツでの個展の過剰性は、そのようにも見えるものなのです。

DSC_0532 のコピー.jpg

しかし、この過剰性は、実は他者を見ていなくて、自己満足に収斂して終わっているものなのではないのか? という疑いも、持たせられるところがあります。思考や欲望が、他者や社会に向って開かれていないのではないか? 
あるいは現代美術の《村》の中での世間体のなかで、完結してしまう者の特性のようにも見えるのです。《村》に安住していて、一度も外部の誰もいない空間に出て行かない。つまり作品を買いもしないで文句だけ言う無責任な現代美術界の閉塞した人びとの顔色との対応の追われて、現実の世界社会の欲望と迷妄に切り込んでいかない。

衰弱から破綻に向う日本共同体の外部には、決して出ていかない人々.こういう人々と集団自殺に向って行く事を良しとしているかのようにも見えるのです。

さらにはこの地球の外部、そしてこの宇宙の外部に出て行こうとしない。誰もいない外部に出て行って、戻ってこない限り、自分の存在の闇の岩に刺さる聖剣=エクスカリバーを抜く事は出来ないのですが、この聖剣を抜こうとしない精神を感じるのです。

そういうぬるさが、しかし反転して、面白い形骸性を生み出しているのが山本藍子の作品なのです。一人の悟りではなく、苦の中にある全ての生き物たちを救いたいという大乗仏教的な絵画を、山本藍子は描いているのです。

その結果として山本藍子の作品は、単なる装飾画ではなくて、装飾の形骸ともいうべきものになっています。しかし「装飾の形骸」とは何でしょうか?

山本藍子が見ている豚は、これは本物の豚の死体を大阪の鶴橋で買って来たものです。豚の死体は、顔を持っています。お尻もあります。目玉もある。そして参照しているレースは、古典的なレースの写真本なのです。生肉の豚の死体とレースの写真の組み合わせです。

豚とレース.jpg


レースの写真を参照しながら、やや乱暴で、やや汚い線で執拗に摸倣され引き写されて行くレースの装飾性は、描かれる事で、レース本来の構造や美しさ、繊細さや、緊張感は失われて、形骸化して行きます。なぜに、山本藍子は、こうしたレース模様の形骸化の作業をやり続けるのでしょうか? まるで自分の形骸化した人生をなぞるかのような執着に満ちた作業です。

そのひとつのこたえは《21流 愛欲領域》的な自己満足の追求のように見えますが、しかしそれだけではありません。法華経を根拠に、装飾を肯定した俵屋宗達の絵画と共通したものを私は、山本藍子に感じるのです。

俵屋宗達.jpg
俵屋宗達 舞楽図屏風

つまり法華経の大乗仏教の教えを背景とする俵屋宗達の絵画には、すべての人びとが必ず救われ仏になるという一切衆生=万人救済の祈念があるのです。ここにおいて装飾を肯定する意匠が、芸術へと屹立する希有の現象が成立しています。

法華経は、万人に、人間の生きることの《苦》を認め、この救済を説いているのです。

つまり芸術の基本は、装飾の否定にあるのですが、万人の救済のために、装飾の否定を反転させた所に、俵屋宗達の芸術の革命性があったのです。

それは単なる装飾ではなくて、装飾を否定することで成立する芸術の精神において反転して、否定する事と同位性において装飾性が肯定されるのです。つまり単なる装飾への埋没ではなくて、装飾の充実から身を引き離した所からの装飾の肯定なのです。その必要性は万人の救済であり、人生の《苦》との対峙性なのです。

同様の姿勢を、私は山本藍子に感じます。

山本藍子宗達.jpg

装飾の向こうに、人間の《苦》があって、この《苦》の救済として装飾性を持つレース模様の絵画が執拗に描かれている。

人間が生きるということの《苦》を救済する絵画!

3、アメリカの
    パターンペインティング

さて、話は飛びますが、1975年アメリカがベトナム戦争に敗れて傷つくと、右翼であるネオコンが登場するとともに、装飾を肯定するパターンペインティングという流行が登場します。1970年代のアメリカのパターンペインティングを批判的に知っている私には、山本藍子の作品は、宗達の絵画との関係とともに、分かりやすい絵画であったのです。

パターンペインティングの多くは、装飾の官能性に溺れて、すぐに行き詰まり、短命に終わります。しかし、その中に例外はいて、それがフィリップ・タフです。1980年代アメリカの画家の中で、尊敬に値する人物です。タフは、装飾的パターンを肯定することで、《苦》からの脱出の絵画を描いたのです。

山本藍子とフィリップ・タフを比較して見てみましょう。

Devonian-Lan.jpg
彦坂尚嘉責任による芸術分析
 
《想像界》の眼で《第41次元〜50次元》《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜50次元》《真性の芸術》
 
 
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現
 
 
《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。
ただし《世間体のアート》が無い。

貴族の芸術

作品空間の意識の大きさが《近代国家》である。

鑑賞構造が《愛玩》である。

16gall600.2.jpg

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Philip_Taaffe_Caligraphic_Study.jpg

さて、タフの顔を見ておきましょう。



portrait_taaffe.jpg
フィリップ・タフの顔の分析

《想像界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
ただし《サントーム》はない。
気体人間のみの人格
《気晴らし人間》と《シリアス人間》の同時表示
《ローアート的人間》と《ハイアート人間》の同時表示
シニフィエ的人間とシニフィアン的人間の同時表示。
『真実の人』

《原人格》《人格》《反人格》《非人格》《無人格》はある。
《世間体人格》は無い。

意識の大きさが《近代国家》である。


さて、山本藍子の顔も見ておきましょう。

山本藍子 顔写真190.jpg
撮影:糸崎公朗

山本藍子の顔の分析

《想像界》の眼で《41次元〜50次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《41次元〜50次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
ただし《サントーム》は無い。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な人格

《気晴らし人間》と《シリアス人間》の同時表示
《ローアート的人間》と《ハイアート人間》の同時表示
シニフィエ的人間とシニフィアン的人間の同時表示。
『真実の人』

《原人格》《人格》《反人格》《非人格》《無人格》《世間体人格》のすべてがある。

意識の大きさが《村》である。

山本藍子タフ顔.jpg




























山本藍子の顔の分析                                                            フィリップ・タフの顔の分析

《想像界》の眼で《41次元〜50次元》の《真性の人格》  《想像界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》   《象徴界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《41次元〜50次元》の《真性の人格》  《現実界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界重層的な人格      《想像界》《象徴界》《現実界》の3界重層的な人格
ただし《サントーム》はない。                                             ただし《サントーム》はない。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ         気体人間のみの人格
多層的な人格

《気晴らし人間》と《シリアス人間》の同時表示                  《気晴らし人間》と《シリアス人間》の同時表示
《ローアート的人間》と《ハイアート人間》の同時表示         《ローアート的人間》と《ハイアート人間》の同時表示
シニフィエ的人間とシニフィアン的人間の同時表示。             シニフィエ的人間とシニフィアン的人間の同時表示。
『真実の人』                                                                        『真実の人』

《原人格》《人格》《反人格》《非人格》         《原人格》《人格》《反人格》《非人格》《無人格》はある。
《無人格》《世間体人格》のすべてがある。        《世間体人格》は無い。
意識の大きさが《村》である。              意識の大きさが《近代国家》である。

彦坂尚嘉の理論では、作品とアーティストの人格は深い構造関係にあります。そして人格と言うのは、意識の構造なので、意識のありようを変える事で、変化しうるのです。つまり誰でも意識を変えて、人格を変え得ると、彦坂尚嘉は考えます。

山本藍子とフィリップ・タフの顔を比較すると、つまり意識の面で、山本藍子の方がプラズマ化まであって新しく、そして重層的な人格構造をしています。
しかし意識の大きさが《村》の空間であって、ここは古いと言うか、退化しています。そのために作品が小さく縮んでいます。世界はグローバル化して、空間的には世界帝国の時代になっている時代です。しかし山本藍子の空間意識は《村》でいるというのは、小さく生きているという事です。それで本人は幸せとは思いますが、現代アートの作家としては大きなハンディです。しかしそれは山本藍子だけの問題ではなくて、日本社会の多数の人々の意識の縮小化/退化に重なる問題です。

山本藍子の《想像界》《現実界》が《41次元〜50次元》という、《超次元》の多型倒錯構造なのは、山本藍子が、そのような嗜好性を持っているからです。これも変えようと思えば変えられるというふうに、彦坂尚嘉は考えます。しかし、山本藍子は、そうした《超1流》の倒錯領域が、好きなのだろうと思います。同様のことが、先ほどの意識の《村》性についても言えます。《村》を生きる事が好きなのです。ですから、それは個人の自由であって、尊重すべき事なのです。それには立ち入ってはいけないのです。個人の自由と自己責任によって、その作家の芸術は成立するのです。

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山本藍子展/オークション

諸事情で遅れてお詫びいたしますが、
山本藍子展/オークション情報を流して行きます。

先ずは大作です。
新人とは言っても、大作は力作であることもあって価格も高いです。
この価格の高さについても、何人かから間接的に批判を頂いていますが、
しかし価格は私の責任で付けているのであって、
批判か甘受しますが、私はこうした人びとを敢然と無視するのです。

文句があるのなら、自分の責任で、かってに美術展をやって、
自分の責任で値段をつければ良いのです。
今日の社会は自己責任の社会なのです。
責任も取らず、匿名で、安全な所で文句だけいう人は、
文句だけ自由に際限なく言えば良いのです。

さて、
取りあえず画像を見て下さい。

山本藍子2.jpg

豚のイメージが見えますし、
山本藍子が愛するレース模様が執拗に描かれています。

執拗に描き込む事に、山本藍子は執念を燃やします。
この執念は工芸的な画工性なのか、画工を超えたものなのか?
その疑いは、あります。

しかし作られた作品は、単なる装飾画ではなくて、
装飾の形骸ともいうべきものになっています。
しかし「装飾の形骸」とは何でしょうか?

山本藍子が見ている豚は、これは本物の豚を大阪の○○で買って来たもの
ですが、参照しているレースは、古典的なレースの写真本なのです。
レースの写真を参照しながら、やや乱暴で、やや汚い線で執拗に摸倣され
引き写されて行くレースの装飾性は、描かれる事で、レース本来の
構造や美しさ、緊張感は失われて、形骸化して行きます。
なぜに、山本藍子は、こうした形骸化の作業をやり続けるのでしょうか?

法華経を根拠に装飾を肯定した宗達や、
1970年代のアメリカのパターンペインティングを批判的に
知っている私には、分かりやすい絵画ですが、何人かの私の友人は、
分かりにくい作品だと言います。、

この作品を具象画と見る人もいるかもしれないし、
具象画と了解しない人もいるのです。

さらには執拗なレース模様を、豚に描かれた刺青と見る人も入れば、
この絵画の中に、ポロックのオールオーバーの絵画の木霊(こだま)
を聞く人もいるのです。

私にとっては、ポロックのオールオーバーというのは、1950年代の
古い美術の木霊(こだま)であって、これを聞いてはいけないとも思いま
せんが、しかし、レース模様に置き換えられて行った時に出現してくるものは、
実は、ポロックのドリッピングを糸にうおって編まれたレースの装飾性に
置き換えたものとは違うものなのです。

この絵画は、豚が描かれているせいもありますが、
200号という大作でありながら、鑑賞構造としては〈対話〉という
中規模の絵画に多く見られる作品となっていました。


〈対話〉というのは、ピカソに代表されるような絵画構造で、
絵画=人物画という定義で成立しています。事実ピカソは、
セザンヌを摸倣している時のいくつかの風景画や静物画がありますが、
作品の圧倒的な多くは人物画なのです。
それはヨーロッパの中に絵画=人物画という定義が存在するからです。

つまり《対話》構造の中で描かれる豚というのは、イコール人物画
であり、さらにはトレースでれるかのように描かれるやや汚い線の
レースは、人物の暗喩なのかもしれないのです。

しかし《対話》にしては、この作品は大作過ぎるし、なによりも
「群像」になってしまっています。
人物画が群像画になると、その絵画はラファエロの群像画のように、
建築絵画がもつ《驚愕》という鑑賞構造に変貌します。

つまり山本藍子の大作は、《対話》という鑑賞構造をはみ出して、
群像画という建築美術に変貌する要素を持っていたのです。

それだからからかもしれませんが、
搬入された時は加筆がされて、作品構造は激変し、
作品は、《驚愕》という建築美術の大作の構造に変貌していました。

下に掲載される画像は、撮影はiPhoneでの撮影ですので、
あくまでも仮の写真として見て下さい。


山本藍子大作3.jpg

(つづく)


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