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《現実界》の否定として情報化社会(加筆2校正1) [状況と歴史]

《無》について再論します。

川上直哉さんという方から、長文のご質問が来ています。
最後にそのご質問を再録してあります。

ご質問には直接はお答えしないで、
彦坂尚嘉の基本的な考えを述べておきます。

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もともとは《死》の話からはじまりました。

ギャラリーのSさんも、
「彦坂さん、死んでしまえばおしまいですよ」という様な事を
何回も言っていました。

死んでしまえば、無に帰するというような常識が、蔓延しています。
しかし山口光子さんが死んでも、無には帰さないのです。

まず、彼女のつくった負債の3000万円は未処理で残ります。

ギャラリー山口の30年間の活動で、そこで発表した作家の経歴に、
ギャラリー山口の名前は残って行きます。

たとえば大浦信行 の『遠近を抱えて』という作品は、
ギャラリー山口で最初に発表されたものです。

普通に回顧すれば、篠原有司男さんを擁護したギャラリーとして、
記憶に残ります。

我田引水でいえば、彦坂尚嘉も『フェイク・デス』という
良い作品を発表しています。

等々、山口光子さんの人生67年が生み出した様々な波紋は、
今後も継続するのです。

死んだからといって、無にはならないのです。

今のギャラリー関係者は、
常識としての科学的な考えを基盤に生きているように思いますが、
それは厳密さを欠いているのです。

科学的な《現実界》の眼で世界を見ると、
《無》ということが現れます。
しかしそれは虚偽なのです。

そこで無と死が連動して、今日の常識を形成します。
その常識そのものが、虚偽なのです。

《現実界》というのは、意味構成をしないので、
人生の意味も、芸術の意味も解体されてしまうのです。
解体する事自体は良いと思いますが、
そのことが、実は事実を隠して行くのです。
つまり山口光子さんの死の後にも、
多くの事実は連動して動いてくと言う事実を見ない事に、
しているのです。


こういう世界観とか、人生観というのは、
日本だけとは言いませんが、
世界的に見ると、世界常識とは違うところもあります。

たとえば韓国は、朝鮮戦争をくぐって、たくさんの死を経験してから
キリスト教が強くなって、韓国キリスト教は、
日本への布教も果敢に展開しています。
私が今教えている立教大学もキリスト教の大学で、教会があります。
その教会の牧師さんのトップは、韓国人です。

韓国に限らす、キリスト教は世界中でまだ生きています。

もちろんアメリカはキリスト教が強くて、
現在も多くの葬儀は、土葬でなされています。
最後の審判のあとに、復活するために、土葬で埋葬された墓が、
多いのです。

こうしたキリスト教の宗教観というのは、
ラカン的を下敷きにした彦坂流の考えで言えば、
《象徴界》的な価値観が支配している見方であると言えます。

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つまり人間の精神は、《想像界》《象徴界》《現実界》そして
《サントーム》という4つの次元があるので、
《死》について考えたり、《無》について考えたりする時でも、
どこで考えているかで、微妙に内容が違うのです。

科学的に考えるという事は、
《現実界》で考えるという事であって、
それには、実は限界と古さがあるという事です。

ここからは彦坂尚嘉の独特の考えですが、

人類の歴史を見ると、
初期は、自然採取の原始時代でありました。

書き文字も無い無文字社会であったのです。
この時代を主導したのは呪術的な思考で、
これが《想像界》です。

今日の漫画の世界というのは、
この《想像界》を基盤としたものであって、
現代という文明世界の中に出現した野蛮文化なのです。

そこの原理は偶像崇拝です。
キャラクターというのは、この偶像崇拝の原理で作動するのです。

村上隆や奈良美智の描くキャラ芸術というのは、
この野蛮主義の復活と連動した美術の動きなのです。
近代芸術が、野蛮なものへと退化する動きだったのです。

《想像界》の特徴は、『アキラ』や、漫画版の『ナウシカ』が
指し示したように、先送りの戦闘世界で、
それは万華鏡のようにきらびやかで面白いのですが、
最後まで行くと、何もないのです。

《想像界》というのは、意味構成をしないのです。
とりとめもない万華鏡的な戯れの世界です。
同時に心的には、ラカンの明らかにした鏡像世界であって、
私たちの心理的な愛憎や、執着、絶望、苦悩の大半が、
この《想像界》で展開され、それは今も続いているのです。

この《想像界》を否定して抑制したのが《象徴界》なのです。

《象徴界》というのは書き文字の出現で可能になったのです。
書き文字が、法をつくり、そして聖書や仏教教典、コーラン。。
諸子百家の思想、さらにギリシア哲学を形成します。

つまり世界宗教が書き文字という識字によって成立して、
この書き文字が《象徴界》であって、
書き文字が《想像界》の原理である偶像崇拝を否定したのです。

しかし、それは《想像界》が消えてしまう事では
なかったのです。

《象徴界》が成立してもなお、人間は《想像界》制を保持して、
《象徴界》と《想像界》の2住生活をおくります。
そして次第に《想像界》の偶像崇拝が蘇ってくるのです。

そういう中で《象徴界》を再度否定して、
違う次元を切り開くのが禅宗であり、
そして科学であったのです。

ヨーロッパで言えば、17世紀から18世紀に、
この変動が来ます。

これらが《現実界》です。
《現実界》の特徴は、書き文字を否定して、
不立文字を主張して、
科学では、数式で表現する事です。
アインシュタインの相対性理論も、数式で示されたのです。

私が言っているのは、
科学が正しいとか、間違っていると言っているのではありません。

科学のものの見方は、
人間精神の《現実界》の見方であると言う事です。
それは数式で示される世界であって、
それを「死」とか、「無」という書き言葉で示すと、
実は混乱が生じるのです。

しかしもその科学というのは、
物理科学を主体にした単純系の科学であったのです。
今日の情報理論が主導する複雑系の科学ではありません。

自然物理学を中心にした単純系科学の主導した時代が、
《近代》というものであったのです。
それと今日の複雑系の科学とは違うものなのです。
連続性はありますが、原理的に革命があったのであって、
この科学技術の革命を見損なうと、今日の科学を
理解し損ないます。

重要なことは近代の《現実界》というのは、
意味構成をしないのです。

ここからはむずかしいかもしれません。

つまり分離という考えが、なかなか、みなさんに
分かってもらえないのです。

例えば、背の高さを測ることと、
体重を量る事は、別の事なのです。
測定する時に、別々にする必要があります。

背の高い人は、体重も重いという事は、一般にはありますが、
連動して考えると、間違えるのです。
体重が100キロあるから、背の高い人であると言うような
予想は、マズいのです。
身長は低いのに、体重が極端に重い人もいるからです。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を、それぞれの
特徴をつかんで、分離しておかないと、
混乱するのです。

絵画における色の問題も、
彩度、明度、色相の3つをバラバラにして考えて、
コントロールするのが、むずかしいのです。
それなりの理論学習と、訓練と、経験をつまないとできないのです。

分離を踏まえておかないと、
「死」とか、「無」とか言う書き言葉をつかって考えると、
《現実界》と《象徴界》をミックスしてしまって、
混乱を生むのです。

《現実界》では数式で考えるのが基本で、
言語を使ってはいけないのです。

ギャラリーARTEの梅谷幾代さんの中に、
彦坂尚嘉が見ているのは、
そうした《想像界》《象徴界》《現実界》の3界が、
未分離に重なっていて、
しかも単純系の科学へと、還元する形で、
「死」とか「無」の言葉が使われていることです。

思考が団子になっているのです。

問題なのは、それが今日の日本の大多数の常識と、
重なっている事です。
常識の中で思考する事自体が、実は問題なのです。
その虚偽性は、ソクラテス以来の真理であって、
今日の日本社会の常識は、実は虚偽なのです。

今日の日本社会の常識が信じているような形では、
「死」とか「無」というのは存在しないのです。

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コメント 1
こんにちは。
いつも、たくさん学ばせていただいております。
川上直哉と申します。

死をめぐる考察、静かに拝読いたしました。
まずは何よりも、お見舞いを申し上げます。

すこし、考えを整理して、一つの質問をさせてください。

共観福音書(マタイ・マルコ・ルカの福音書)の共通した記載によると、
“神は生きている者の神だ”というのが、
イエスの思想であったようです。
このイエスの思想の特殊なのは、
「神は生けるものの神だ」という発想から、
「死=無化」という発想を退ける方向へ、
論理を進めた点にあります。

「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」と、
そのようにその名を呼ぶところのユダヤの唯一神は、
生ける者の神である、
だったら、アブラハム・イサク・ヤコブは生きている。
それが、福音書に残されたイエスの死生観の展開でした。

「死=無」という概念は、ギリシャ哲学においても大問題で、
たとえば、デモクリトスのアトム論は、
「アトム=分けられないもの」を、世界の構成原理としました。
でも、それは、キリスト教が支配した中世西欧において、
完全に退けられました。
それは、上記のような福音書の思想の枠内に、
人々の思考が支配されていたからでした。
さらにそれは、トマス・アクイナスが、
アリストテレス哲学をキリスト教に大胆に導入して、
神学全体のが理論的補強を施された、結果でした。
トマスが用いたアリストテレスこそ、
アトム論に反対した代表者の一人だったからです。

ここまでが、《象徴界》の主導した時代です。
この後、数式を基盤にした単純系科学の《現実界》が、
主導する時代が始まります。

こうした状況は、17世紀に逆転します。
17世紀に、真空が発見されたことが、
大きなきっかけになります。
背景には、
16世紀の宗教改革=宗教の破綻を受けて、
論理と数学と実証に支えられた科学が、
人々の思考を新しく展開し始めていたことがある。
そのような背景と発見に押し出されて、
アトム論は、17世紀に復活します。
アトム論は、ライプニッツのモナドとして、洗練を加えられます。
「モナドロジー」は、現代の思考の先取りとして読めます。

こうして、アトム論は、実に、現代を支配する思想となりました。
アトム的・モナド的枠組みが出来上がることで、
現代の機械論的世界観が生まれる。
それは、「死=無」とすることを、
自明のこととして疑わない世界観です。

現在の情報革命は、実は近代の単純系科学を、
根本において否定して、別の原理で出現して来ているのです。

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