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2010-02-03


さて、競っていただいた上に掲載した作品に関して、

書きかけの文章を貼付けて、加筆しておきます。


それと、せっかく入札いただいたのに、
作品が加筆のために、大幅に変わってしまって、
しかも入札価格が高くなった作品があります。

IMG_6937.jpg

《原芸術》はある。
《芸術》はある。
《反芸術》はある。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は無い。
《無芸術》は無い。
《世間体のアート》は無い。


この未完の作品は、昔の現代美術=モダンペインティングの構造を
していました。
代表的な作品は、ポロックの最高傑作とグリンバーグが評価した
五尋の深み(1947)(ニューヨーク近代美術館)などの構造です。

fathom.jpeg

《原芸術》はある。
《芸術》はある。
《反芸術》はある。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は無い。
《無芸術》は無い。
《世間体のアート》は無い。


それがソヴィエトの崩壊1991年以後になると、
次のような作品構造が、日本では一般的になります。


《原芸術》は無い。
《芸術》は無い。
《反芸術》は無い。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は有る。
《無芸術》は有る。
《世間体のアート》は有る。

こういう下部構造だけの芸術構造の、
代表的な作品としては奈良美智があります。

3b05b0acad65a0e45b66a670f3b05f52.jpg

奈良美智の作品

《原芸術》は無い。
《芸術》は無い。
《反芸術》は無い。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は有る。
《無芸術》は有る。
《世間体のアート》は有る。

この奈良美智の作品とポロックを並べて見ましょう。

奈良ポロック.jpg

《原芸術》は無い。          《原芸術》はある。
《芸術》は無い。           《芸術》はある。
《反芸術》は無い。          《反芸術》はある。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆      ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は有る。          《非芸術》は無い。
《無芸術》は有る。          《無芸術》は無い。
《世間体のアート》は有る。      《世間体のアート》は無い。



それに対して、栃原比比奈の作品は、
芸術の上部構造と下部構造を両方とも持っている、
次のような形を取っています。

《原芸術》は有る。
《芸術》は有る。
《反芸術》は有る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は有る。
《無芸術》は有る。
《世間体のアート》は有る。

芸術の上部構造と下部構造を併せ持つというのは、
果たして良いのかどうか?
そういう疑いが無いではありませんが、
しかし、あり得ると考えます。

hiina tochihara2.jpg

栃原比比奈 黄緑色の花

《原芸術》は有る。
《芸術》は有る。
《反芸術》は有る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は有る。
《無芸術》は有る。
《世間体のアート》は有る。


 

奈良栃原ポロック.jpg

 

《原芸術》は無い。         《原芸術》は有る。         《原芸術》はある。
《芸術》は無い。          《芸術》は有る。          《芸術》はある。
《反芸術》は無い。         《反芸術》は有る。         《反芸術》はある。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆                        ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は有る。         《非芸術》は有る          《非芸術》は無い。
《無芸術》は有る。         《無芸術》は有る。         《無芸術》は無い。
《世間体のアート》は有る。     《世間体のアート》は有る。     《世間体のアート》は無い。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

さて、そういう中で、未完成状態としてあった、
シンプルな単純モダニズムの作品も、
あっても良いのではないか?

実は2人の方から、買いたいという注文があったことと、
私自身が、好きであったからなのですが、
再制作を始めました。
つまり点だけ打った作品として完成ささせるポロック型の作品です。

両面作戦というよりも、
栃原比比奈の作品の実力を、
古い現代美術の人々にも知ってもらうためです。

完成したら、またアップしますので、ご期待ください。








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競り/入札がありました(期限2月7日24時) [気体分子ギャラリー]

hiina tochihara2.jpg

作品名:黄緑色の花

入札金額:45000



コメント:

京橋での展示で、一番気になった作品でした。

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

○○様

 

ご入札ありがとうございました。

承りました。

ブログで告知します。

 

コメント:

京橋での展示で、一番気になった作品でした。

 

同感です。

栃原比比奈の今回の制作でも、最後の到達点のひとつで、

良い作品だと思います。

 

 



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まとめ [アート論]

このところ、ずいぶんと認識が進んだので、
実はブログで書くのが、間に合っていません。

ですので、簡単なまとめを書いておきます。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

人間には、《内部の眼》と《外部の眼》があります。

外から見るのと、内から見るのでは、違うのです。

例えば、ピカソの代表作というのを考えた場合に、

美術の本当の専門家では無い人々は、
「ゲルニカ」をピカソの代表作と考えます。

gerunika.jpg

《原芸術》は無い。
《芸術》は無い。
《反芸術》は無い。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》はある。
《無芸術》はある。
《世間体のアート》はある。



この場合、例えば某美術館の館長が、
「ゲルニカ」をピカソの代表作と考えていたことを知っていますが、
美術館の館長クラスであっても、日本の場合、芸術的には素人は、
たくさんいると言えるのであって、
彦坂尚嘉が専門家と言う意味は、かなり厳しいのです。

本当の専門家の多くは、
普通は、「アビニヨンの娘たち」をピカソの代表作と
考えます。

Les_Demoiselles_d'Avignon.jpg

《原芸術》は有る。
《芸術》は有る。
《反芸術》は有る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は無い。
《無芸術》は無い。
《世間体のアート》は無い。

少なくとも藤枝照雄先生は、そう考えておられるはずです。
まちがっても「ゲルニカ」をピカソの代表作と考えてはおられないのです。

この事が何故に起きるのかという事を、
簡単に言うと、
ピカソはモダニズムペインティングの作家ですので、
彦坂尚嘉が言う《世間体のアート》というのを、削除して制作
する事で、全てと言って良いほどの作品を成立させています。

ところが、ピカソの原則に反して「ゲルニカ」には、
《世間体のアート》があるのです。
「ゲルニカ」には、制作過程の記録写真が残っているので、
これを見ると、完成の2段階前くらいから、《世間体のアート》が
出て来ます。

つまり《世間体のアート》が有る故に、
《外部の眼》から見た時に、
「ゲルニカ」はピカソの代表作になるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

この《世間体のアート》という問題を、
一番鮮明に突き出している劇団が、劇団四季です。

img_889255_23268647_0.txt.jpeg

《原芸術》は無い。
《芸術》は無い。
《反芸術》は無い。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は無い。
《無芸術》は無い。
《世間体のアート》はある。


この芝居は、彦坂尚嘉とっては退屈極まりもない駄作なのですが、
世評的には、入場者数が多く、唯一の黒字劇団と言って良いほど、
日本では成功している劇団です。

NHKの大河ドラマも、彦坂尚嘉にとっては退屈なものですが、
これも劇団四季と同じ水準でドラマが展開していて、
成功しているのです。

ryoumaden_01.jpg

《原芸術》は無い。
《芸術》は無い。
《反芸術》は無い。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は無い。
《無芸術》は無い。
《世間体のアート》はある。

そこにあるのは日本社会の中の《世間体のアート》という
基準をクリアーしている事です。

『赤信号、みんなで渡れば怖く無い』というのが《世間体のアート》
です。
そうやって軍事力で3000倍違うアメリカに戦争をしかけたのが、
日本なのです。
みんなで渡っても、赤信号には、ダンプカーが突っ込んで来て、
皆死ぬのです。

皆で死ぬという集団自殺の方法であるにしても、
《世間体のアート》というのは、
日本社会の中で芸術を考える時のひとつの基準なのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

芸術には、根本的な基盤として、
《原芸術》に基礎を置いている作品と、
《世間体のアート》に基盤を置いているものの2種類あるのです。

つまりダブル・スタンダードなのです。

その混乱があると、思います。

たまたまなのですが、昔、板橋美術館で
尾崎真人という、個性の強い学芸員が開いた『線について』という
展覧会がありました。
このカタログを見ていたのです。

出品メンバーは、
現代日本美術を代表する38人の作家です。
その作品写真を見て、
彦坂尚嘉の《言語判定法》で、《原芸術》の有無をチェックすると、
唯一あったのは、斉藤義重だけだったのです。

私自身も意外な結果だったのですが、
日本の現代美術の困難さを示していると思いました。

一方、ホイットニー美術館の『アメリカン・センチュリー展』の
カタログでチェックすると、多くのアーティストが、
《原芸術》を持っているのです。

この差の大きさは、驚くほどで、
日本を基準で現代アートを考えるのか、
それとも国際基準で考えるのかで、
実は、芸術に対する常識が変わるのです。

昨日のこの話を、丸亀のギャラリーarteの梅谷幾代さんと話すと、
彼女は、東洋と欧米の違いがあるのであって、
日本は日本で芸術を定義すれば良いという考えでした。

私は、全人類の美術史というものを前提に考えていて、
その中で、レオナルド・ダ・ヴィンチが日本人ではなくても
重要な作家であると考えますし、
キュビズムや、デュシャンや、ポロックを、
日本人ではないから関係がないと排除する事はできないと考えます。

しかし梅谷幾代さん的な、日本中心の考え方は、
それはそれでリアリティがあるのであります。

そう考える事は《世間体のアート》的には正しいのです。

つまり考え方にはいろいろなものがあるのであって、
原則的には、各自かってに考えて、
信じる事をやって行くしか無いのです。

私は、梅谷幾代さんの日本人的な考えを尊重しますし、
それに合わせて、コラボレーションを実現して行きたいと思います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《世間体のアート》というのは、
しかしNHKや、劇団四季に限らないのです。
つまり基本にあるのは、《外部の眼》です。

つまり芸術的な教養の無いひとが、
無教養で判断する、そういう鑑賞眼が、《外部の眼》です。

つまり《素人の眼》です。
この場合、先ほどの美術館の館長の場合と同様に、
作家の多くもまた《素人の眼》なのです。

c0012902_23243981.jpgc0012902_23242699.jpg

もう、何度もやっているので、
知っている人は飽きていると思いますが、
このどちらのデッサンが良い作品か?

その問いに対して、会田誠さんも辰野登恵子さんも、
左が、良いデッサンだと言うのです。

日本人の美術関係者の多くが、左が良いと言います。

じつはヤーコブ・ローゼンバグのつくった比較作品リストが
40ほどあるのですが、私はこのリストをいろいろな人に
見せてテストを繰り返して来ていますが、
全部当てたの2人の女性だけで、
一人が村松画廊の川島良子さんでした。

全部外したのは、アーティストの前本彰子さんでした。

この2枚のデッサンで言えば、右がレオナルド・ダ・ヴィンチです。

レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンを悪いというのが、
会田誠さんや辰野登恵子さんという東京藝術大学を代表する
アーティストの眼の水準なのです。

実は会田誠さんの作品というのは、
《世間体のアート》なのです。


20071211213620.jpg

281335424.gif

《原芸術》は無い。
《芸術》は無い。
《反芸術》は無い。
《非芸術》は無い。
《無芸術》は無い。
《世間体のアート》はある。


たぶん多くの人は、その反対だと思っているのでしょうが、
実は会田誠は、《世間体のアート》の代表なのです。

会田誠さんは、《世間体のアート》のアーティストであるが故に、
レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンも、見分けられないのです。

日本のアーティストの多くはレオナルド・ダ・ヴィンチも、
雪舟も、ろくに見てはいないのです。

こういう日本の素人受けする会田誠的な《世間体のアート》と、
少数の玄人に受ける《原芸術》的な芸術が、分裂しているのです。

この分裂を、どうするのか?

というのが、ひとつの問題なのです。

彦坂尚嘉の結論は、
気体分子ギャラリーで、追求していくのは、
基本として、
《原芸術》と《世間体のアート》の同時表示という方向です。


この下敷きにしているのは、
狩野派の基礎を築いた2代目の狩野元信の仕事です。

これも、多くの人には人気のない仕事です。

hanatori.jpg

sikikacyou.jpg

《原芸術》はある。
《芸術》はある。
《反芸術》はある。
《非芸術》はある。
《無芸術》はある。
《世間体のアート》はある。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

もうひとつは、情報革命とグローバリゼーションの結果、
世界は、
実は、完全に別のステージになってしまって、
従来の《芸術論》の範囲を超えてしまったのです。

ですから、従来の《芸術》を超えた、《形骸》《炎上》《崩壊》
という領域の表現が跋扈するのです。

これをどうするのか?

ここが、最近の私の制作上の問題でしたが、
これは、解決できました。

詳細をお見せしても良いのですが、
細かすぎて、
煩雑だと思います。

結論だけ言えば、
古い《芸術》の外にでて、
【芸術−外−作品】を作る。
その後に、その作品に《原芸術》を復活させるという作業です。
これができるという事です。

つまり情報革命後の新しい状況の中でも、
《原芸術》性を持った、《真性の芸術》というのは
成立が可能なのです。

そういう意気込みでつくった画像を最後にお見せして、
終わります。
これもみなさんの趣味には合わないとは思いますが・・・。
『空想 皇居美術館』に収録する口絵のひとつです。

写楽炎上変形2.jpg

《原芸術》はある。
《芸術》はある。
《反芸術》はある。
《非芸術》はある。
《無芸術》はある。
《世間体のアート》はある。



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