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マティスのブルー・ヌード(【YouTube画像】追加2加筆2) [アート論]

henri-matisse-blue-nude-ii.jpg

私は、マティスは好きな作家でした。
しかし嫌いな人もいるのです。

マティスという作家は、今日では大衆的な人気が高いので、
誰も批判を言わなくなったという雰囲気があります。

しかし昔は、マティスは批判すべき作家で、
たとえば中原佑介氏の美術批評を展覧会批評まで読んで行くと、
1960年代ですが、このマティス批判の論調にぶつかる。
まあ、批判するのも無理は無くて、団体展の作家たちに大きな影響を
与えていたからです。


MatisseBlueNude.jpg



マティス批判というのは、
マティスの生きている時、特にニースで、小さな絵を書いている時には、
マティスは売り絵だという批判があった様です。

これに対する防御もあって、マティスは文章か書くようになって、
自分が何をしているのかを説明し始めます。
それがマティス著『画家ノート』になります。

私はこの本が好きで、ずいぶんと熱心に読みました。

matbnd3.jpg

私の古い友人に中上清という作家がいます。
彼はセザンヌとマティスを比較して、
マティスが良く無いと言います。

それは本当であったのでしょうか?
彦坂尚嘉の《言語判定法》による芸術分析では、次のようになります。


777px-Paul_Cézanne_179のコピー.jpg
マティス                   セザンヌ
《想像界》の眼で《第1次元》の《真性の芸術》《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1次元》の《真性の芸術》《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1次元》の《真性の芸術》《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の重層表現  《想像界》《象徴界》《現実界》の重層表現
気体/液体/固体/絶対零度の多層表現     気体/液体/固体/絶対零度の多層表現

《シリアス・アート》《ハイアート》     《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術        シニフィアン(記号表現)の美術
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』 《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』
【A級美術】                 【A級美術】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

マティスのこの赤い部屋の作品には、《第1次元 社会的理性領域》
だけしか無いのです。

それは、渋谷陽一というロック批評家が《産業ロック》と、
批判したボストン、、ジャーニー、TOTO、エイジアフォリナー
スティクスREOスピードワゴンスターシップなどのバンドと
同じ構造をしています。
《第1次元 社会的理性領域》しかない音楽だからです。

商業的な成功を目的としたロックを、
渋谷陽一は、批判する目的で、《産業ロック》という言葉を
使ったのです。
今日では、《商業ロックという言葉に置き換わっています。

マティスの作った多くの作品は、
この《商業ロック》と同様の《第1次元 社会的理性領域》だけに
絞り込んだ絵画表現になっています。


Blue_Nude_Skipping_1952.jpg


こうした《産業ロック》の出現を歴史的に検証してみると、
1976年ボストンのファースト・アルバム『幻想飛行』にあります。

アルバムは全米3位を獲得し、同年だけで100万枚を売り上げ、
2003年までに通算1700万枚のセールスを記録しています。
アメリカン・ロックの新しい時代を開く歴史的作品として、
高い評価を受けています。


この【YouTube画像】を、ライブ映像にできないのは、
《第1次元 社会的理性領域》だけという表現になっているのは、
レコードの音だけであるからです。

ライブですと《第1次元〜第6次元》という厚みのある音になって
しまっています。
つまり普通に演奏しては《第1次元》だけに特化することは、
むずかしいのです。

《第1次元》だけにするというのは、
実は洗練技術的にはむずかしいことであって、
ジャーニーのアルバムでこれを発見した時に、
私は驚いたものでした。

そして私はこういうレコードでしか聞けないジャーニーや、
ボストンなどの音楽の洗練性は、好きなのです。 



このボストンの高度な音楽性を、《産業ロック》と批判する渋谷陽一の
センスも、実は私は大好きなのです。矛盾してはいますが、
賛同する気持ちがあるのです。

しかし、芸術学的には、ボストンこそが、
エジプトなどの古代帝国の芸術以来の歴史を
集約して成立した《一流》の芸術というもののエッセンスであると
私は思うのです。

つまり全人類の歴史の中で考えると、
古代帝国の中で成立した《第1次元》の領域こそが芸術の本質であって、
このことを重視すれば、《第1次元 社会的理性領域》だけに特化する
芸術路線は、機械的には否定できないはずなのです。

そしてボストンやマティスの作品というのは、
芸術の難解さが無く、多くの人に受け入れられ、
そして愛されるものとなっているのです。

この《産業ロック》の構造にこそ、
実は情報化社会の芸術の、1つの答えがあるのです。

それはボストンの出現が1976年であって、
この音楽が《第1次元 社会的理性領域》だけであるのですが、
同時に《第6次元 自然領域》だけのセックスピストルズが、
出現している年でもあるのです。


つまり《産業ロック》と、《パンクロック》は同時に
出現しているのです。

そして前年の1975年にはアメリカがベトナムで敗戦して、
ひとつの《近代》は終わっています。

ポストモダンの代表的な音楽の出現として、
ボストンと、セックスピストルズは、あるのです。

そして、1976年以降、
このボストン的な《産業ロック》と、
セクスピストルズ的な《パンクロック》は、
バンドやスタイルを変えながらも、同時並行的に再生産し続けられて
います。
つまり情報化社会の芸術史は、
平行的な流れになっているのです。

hb_2002.456.58.jpg


ボストンの音楽と、マティスの美術が、
ともに《第1次元 社会的理性領域》しかないことから、
マティスの美術が、何故に多くの人から愛され、
そしてまた同時に、美術評論家から、「売り絵でしかないもの」と
批判されたかが、良く分かります。
しかし、単なる「売り絵」ではなくて、
ここには人類の文明の中の芸術の、ある本質があるのです。

言い換えると、芸術作品の基本は、この程度のものなのです。

mpm_71.jpg


マティスの、こうした切り紙の作品がもつ、
あるペラペラさは、《第1次元》しかないという単層性が生み出している
ものなのです。


matisse-henri-blue-nude-with-green-stockings-2107389.jpg

マティスの作品にある稚拙さというのは、
《第1次元》だけの稚拙さであって、そこには《第2次元 技術領域》
というものが無いのです。
だから、稚拙さが表現の質になっています。

同時に《第6次元 自然領域》では無い故に、
稚拙さは、《第6次元》の自然性の稚拙さではないのです。

つまりマティスの稚拙さは、《第1次元》という文明の稚拙さであって、
《第6次元 自然領域》の稚拙さではないことで、
芸術として成立しているのです。

BlueNudeIV52.jpg

マティスを再評価したのは、フランスの美術評論家のマルスラン・プレーネでした。
『絵画の教え』という本が1976年に出版されます。
つまりボストンという産業ロックの出現と、
マティスの再評価の時期は、同じ時代なのです。

マティスは、実は情報化社会の芸術のある本質を示しているように思えます。

それは高度な芸術学の極点の様な作品ではなくて、
芸術社会学的な、何よりも社会の中での多くの社会人に愛される
芸術という、そのような社会性をもった芸術のありようなのです。

マティスや、ボストンを嫌う人々は、多くいます。
その批判の視点の中心は、《第8次元 宗教領域》における、
カンターカルチャーとしての芸術観です。

メジャーな芸術を憎悪して、マイナーな表現に真実を見るという、
そういう価値観です。

メジャーなものは、普通でしかなくて、
軽蔑するのです。

この主張は理解できますが、しかし、
人類史の中で検証すれば、それは特殊な主張なのです。
それは新興宗教と同様の構造であって、
信じる人々だけの中で成立する小さな社会の価値観です。

こうした《第8次元》表現でも芸術であれば尊重はしますが、
しかし空間は小さいし、やたらに薄暗くて、
芸術としては、実はレベルの低いものです。


最終的には、人はそれぞれに好きな芸術を決定すれば良いのですが、
私は、このマティスの平明性にある《第1次元 社会的理性領域》
だけという《産業ロック》的構造を、
むげには、否定できないのです。

今日では通俗化したアートポスターの定番になってはいますが、
私は、マティスのブルー・ヌードは好きであったのです。




タグ:マティス
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大転回(加筆) [日記]

すでに書いているように、
アトリエの整理に、ここ1ヶ月間、明け暮れています。

20年間の乱雑さの堆積を、掘り崩そうとしているのです。
この乱雑さのカオスと原始性、野蛮さは、
私自身の人生の病弱さと、虚偽と、怠惰と、無知無能の産物です。
これを整理しようという不可能に挑んでいると言えます。

昨日は栃原さん、中川さんが手伝ってくれました。


一応の目安が17日なので、余裕が無いのです。

17日は五十嵐太郎さんが、学生を20人連れて、
私のアトリエに来るということがあります。
アトリエで、作品をささやかに展示してみせる必要があります。
彦坂尚嘉個人美術館の建設を、学生に課題として出して下さると
言うのです。

学生への課題ですから、もちろん空想上の建築にすぎません。
それでも、ハチャメチャに多様化している私の作品展開を、
ひとつの美術館建築として構造化して考えてみることの、
そのきっかけとして、大変にありがたいお話です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
フロアイベントのパーマネント展示と写真作品の展示。
トマトアートの部屋

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ウッドペインティングの年代別の展示とウッドペインティングの部屋。

彫刻と皇居美術館模型彫刻と3シーディメンションペインティング。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

アップライトシーの1972年から現在までの展示。


グラフィックワークと版画展示。
グジャグジャ君シリーズから、最近の国宝シリーズまでのドローイング作品。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

51音によるプラクティスと文字作品の展示。






まあ、多過ぎるし、
他人には分からなくなる、この多様性をどのようにするのかを
含めて、考えるのに、良いチャンスをもらったと思います。

しかしアトリエの整理そのものは、五十嵐さんの件だけではなくて、
もっと、根本的な変革に挑んでいるからです。

アトリエ自体は20年前に建てていますが、
初めての大改造で、空間的には複雑に折れ込んで来ていて、
迷路状になって来ています。
栃原さんの果敢な努力が推進力になって、
動線の合理的な追求が、構造の変化を生み出しています。
空間が知的になって来ている事に驚きがあります。

この動線の追求は、
自分の作品の整理と、まとめ方の難問を解く手がかりになります。

アトリエ改造の直接の理由は、気体分子ギャラリーの問題で、
ネットギャラリーで、展示スペースとしての箱は持たないという
原則でやっているのですが、
それでも現実的には、展示会場は必要なので、
その展示会場のひとつとして、
アトリエを改造を目指しています。

藤沢のアトリエに多くの人が見に来てくれるとは思っていませんが、
しかし、目先で、展示スペースが必要なのは、
佐々木薫さんの旧作の展示や、栃原比比奈さんの大作、
そして白濱雅也さんの旧作の回顧などがあります。
もっとも、白濱雅也さんの回顧は、志田さんの所でお願いできないかとも
考えています。

スペースそのものは、天井高5m20㎝あって、
床面積が70畳ある、小さな体育館規なので、
かたずけて、その1/3だけですが、展示をできるようにしようとしています。

そのほかにもう一棟、木工室があります。


それが、しかし半端ではない大改造になっているので、
たいへんなのです。
それは乱雑な私自身の習慣や内面の改造と重なっているからです。

完成は来年の3月を目標にしています。

それが大変であるというだけでなくて、
それを助けてくれる人たちの勢いが必要で、
他の仕事がとどこおおっても、
ここで頑張って変化をしておかないと、
晩年の仕事の組み立てが変わるからです。

伊東直昭‎さん、佐々木薫さん、栃原比比奈さん、山口俊郎さん、
そして中川晋介さんなどが、頑張ってくれていますが、
推進力は栃原さんの建築家的な知性です。
お父さんが建築家で、小さなときからの常識の組み立てが違うのですね。

想像を超えた変化になっていて、
新鮮ではありますが、
私自身が本気にならなければなりません。

そういう変化が,はたして可能なのかどうかは、
疑問が無いわけではありません。

人間は、一方で変化できないという現実があります。
「できない」という心理的な壁は大きいのです。
多くの人が、この不可能性の壁の前で挫折しているのです。

変化できないという現実を認めた上で、
変化するという大転回をするというのが、
実は人生の最大の目標であると言えます。

アウグスティヌスとか、ルター、親鸞にある転換の凄さは、
そういう思いをさせるものをもっています。

芸術とは何か?
という問いの前には、8個以上の様々な答えと次元が存在しますが、
最終的にあるのは、この不可能性の壁の前に立つ事なのです。
そしてささやかでも超える事。
出来ないと不可能性を認めれば、
これを超える方法は見いだせるのです。
それがARTという技術の問題だといえます。



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