SSブログ

2009-10-10

img2009090705531017467600.jpg

image2067_1.jpg

松本陽子さんは、若いときから大スターで、
天才少女と言われ、私も1960年代の後半から見て来ているので、
ずいぶんと長い。

スポンジを使って制作されたピンクの作品ももちろんだが、
筆を使った最近のシリーズへの転換の最初の個展では、
オープニングに行っている。

数年前の作品集の出版パーティにも行っていて、
ご本人とも、何回もお話ししている。

松本陽子さんご本人は、
明るくて、率直で、大変に良い方で、
私は大好きな画家なのです。

ご主人は美術評論家の藤枝輝雄先生で、
私自身は大きな影響を受けている方です.

悪い意味で、彦坂と藤枝氏は良く似ていると言われた事もあります。
それは本物の芸術を希求して、
偽の芸術を嫌悪する、そういう批判性に強い批評の性格からで
あったと思います。

さて、以上のような個人的な感情から言うと、
松本陽子氏の作品を批評したり、
芸術分析をすることは、
正直言って、かなり、むずかしい事なのです。

やらない方が、人間関係的には良いのです。
人間は社会的な存在なのであって、
何があっても、人間関係を最大に重要な事として、
処世術だけで生きて行くのが、
賢明な生き方であるのです。
その原理からすれば、
松本陽子さんの作品は、見るだけで、
論じるなどという事はしない方が良いのです。

ただ私の場合には、あらゆる犠牲をはらっても、
芸術の問題を論じて行くと言う立場を取ります。
真摯に芸術を正面から追求してみたいのです。
それ以外に生き得ない人生なのです。

しかし現在の新国立美術館での展覧会を
立教大学の学生が見て来て、
質問して来た事もあって、
正面から考えて来た事を書いてみようと思います。

ひとつの視点は《第16次元》という崩壊領域の表現としてです。
もうひとつは「光」の問題です。
しかし、両方ともたいへんなので、
別々に書きます。
しかし、本当に2本書けるかどうかは、自身がありません。
内容は書けますが、手間がたいへんです。
それをかけて行けるのかどうか?

そういう危惧の中で、
先ずは《第16次元》の絵画の問題です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

松本陽子の作品の背後には、アメリカ抽象表現主義の影響があります。
松本陽子自身がアメリカ留学をしています。

実際の制作技法も、
アクリル絵の具をスポンジでこすったり、こね回して、
ピンクの雲のような作品を作って来ています。

そこで、ポロックのドリッピング絵画と比較してみましょう。

6a00d834522c5069e200e54f6355e08833-800wi.jpg

比較する前に、なぜに比較をしなければならないのか?
ということがあります。

その理由は、芸術の趣味判断というのは、
比較において成立しているということがあります。

趣味判断は、もともとは味覚からきています。
うどんを食べた時に、そのうどんの味の比較を考えるという事が、
趣味判断なのです。

その制度性が一番分かりやすいのは、
お酒の品評会です。
利き酒をして、味を比較して、
善し悪しを判断するのです。

だから松本陽子の作品を他の作家のものと比較するということが
される必要があるのですが、
しかし日本の現代美術批評は比較を、ほとんどしません。
比較する事を恐れているのです。

その恐怖の基本にあるのは、
日本の現代美術が、実は偽物で、本物の欧米の作家と比較すると、
偽物であることがばれてしまって、
作家自体も怒るというような、なまなましい事情があります。

しかし芸術作品を、学問として追求して行こうと考えると、
比較することは重要な方法であると言えます。
私の方法の基盤にあるのは

ヤーコブ・ローゼンバーグ著『美術の見かた 傑作の条件』という

研究です。
このローゼンバーグの成果を、私は絵画構造の差異として
明確にすることが出来ているのです。

しかし日本の現代美術批評は、
こうしたローゼンバーグの研究自体を相手にはしません。
彦坂的に言えば《第6次元 自然領域》の作品が何よりも好きな人々が
多くて,《1流》や《超1流》の作品がきらいなのです。

《第6次元 自然領域》が好きな人は、
人格そのものが《第6次元 自然領域》ですので、
この人々に《1流》のものの良さを説得する事は、
極めてむずかしくて、経験的には、出来ないという印象です。

《第6次元 自然領域》の人々は、
人間としては素朴で、良い人々であります。

つまり芸術の趣味判断は、人間としての人格的な成熟度に
大きく関わっているのであって、
天然が好きな野蛮人の良き人々に、
《1流》や《超1流》の芸術を教える事は出来ないのです。

芸術は、つまり素朴で良い人には分からないものなのです。

人数的には20%80%の法則が働いていて、
100人中80人の人は、《第6次元 自然領域》に生きています。
つまり《1流》や《超1流》が分かる可能性のある人は、
100人中20人に限られるのです。

ですから、芸術は、80%の多数の良き素朴な人々を、
本質的には切り捨てることを辞さない態度から生まれます。

さて、長々とした前書きを書いているのは、
松本陽子の作品は、彦坂尚嘉責任の芸術分析では、
《第16次元 崩壊領域》の作品であると同時に、
野蛮な美術作品であるからです。

その原因は、松本陽子氏が、あまりにも素朴に良い人だからです。

画像 015.jpg

それに対してポロックの作品は、
《超次元 崇高領域》の作品で、
しかも文明人の美術作品なのです。
その原因は、ポロックが、あまりにも屈折した悪い人だからです。

Pollock-CGP82g.jpg



松本陽子ポロッ.jpg

こうして見ると分かりますが、ポロックの絵画は、
画面の奥に向って広がっているのに対して、
松本陽子の絵画は、
ポロックに比べて、画面の平面のこちら側に盛り上がって来ます。

この様に、画面のこちら側に盛り上がってくる絵画をどのように、
評価するべきなのかは、実はむずかしい問題なのです。

そのむずかしい問題をこのブログでやることは、ちょっと無理なので、
別の比較をしてみます。



ぱす、ポロックの絵画を、コントラストを41にまで上げてみます。

ポロック2.jpg






















印象として、気持ちが悪くなる様なものではありません。


同様に松本陽子の作品のコントラストだけを41上げてみます。

松本陽子2.jpg






























気持ちが悪い感じが、無いわけではありません。
内蔵のような感じというか、
出産の後、の後産で出てくる胎盤の感後産とは、出産後の胎盤の娩出のことです。分娩後、しばらくして、胎盤がはがれ、子宮口から膣内に下りてきたものを、医師らが娩出させます。痛みはありませんが、出る感覚はあります、完全に胎盤、卵膜が排出されないと、出血感染の原因になるので、しっかりと行われています。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

ウナギ発掘(改題) 。 [日記]

写真.jpg

8月4日にアトリエで小さなパーティをやった時に
ウナギの蒲焼きを買ったのです。
来た人は上岡誠二さん、武田友孝さん、
中川晋介さん、栃原比比奈さん。

所が、ウナギが消えてしまったのです。

ウナギはどこにいったのか?
という話が、それ以後も、このメンバーの記憶に残って、
繰り返し話されて来ていました。

それが今日、出て来ました。

冷蔵庫を買い替えて、
古い冷蔵庫を空にしていたときに、
最新部のへこみの所に落ち込んでいたウナギを発見したのです。

臭いをかぐと、さすがに異臭がして、
食べられませんでした。
残念!

冷蔵庫を買い替えたから見つかったのですが、
買い替えなければ、何年後に発見する事になったことなのでしょうか。
タグ:ウナギ
nice!(3)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

松本陽子の絵画/《第16次元》をめぐって [アート論]

img2009090705531017467600.jpg

image2067_1.jpg

松本陽子さんは、若いときから大スターで、
天才少女と言われ、私も1960年代の後半から見て来ているので、
ずいぶんと長い鑑賞体験を、私はしています。

スポンジを使って制作されたピンクの作品ももちろんですが、
筆を使った最近のシリーズへの転換の最初の個展では、
オープニングに行っています。
雑誌ので発言から、
作品が変化する事を察知していたのです。

数年前の作品集の出版パーティにも行っていっています。
もちろん作品集も購入しています。

matsumoto1.jpg

この出版に尽力したのはhiko画廊の山本孝さんです。
その成果が、今回の新国立美術館の企画展になったと言えます。
ご努力が報われて良かったと思います。

山本孝のhiko画廊は、一度画廊を移転で閉じていましたが、
また新しい画廊を八丁堀の方に開くと言う噂を聞きました。
良かったと思います。

松本陽子ご本人とも、何回もお話ししています。
明るくて、率直で、大変に良い方で、
私は大好きな人柄の画家なのです。

ご主人は美術評論家の藤枝晃雄先生で、
私自身は大きな影響を受けている方です.

悪い意味で、彦坂と藤枝氏は良く似ていると言われた事もあります。
それは本物の芸術を希求して、
偽の芸術を嫌悪する、そういう批判性に強い批評の性格からで
あったと思います。

さて、以上のような個人的な感情から言うと、
松本陽子氏の作品を批評したり、
芸術分析をすることは、
正直言って、かなり、むずかしい事なのです。

やらない方が、人間関係的には良いのです。

人間は社会的な存在なのであって、
何があっても、人間関係を最大に重要な事として、
処世術だけで生きて行くのが、
賢明な生き方であるのです。

その根本の原理からすれば、
松本陽子さんの作品は、見るだけで、
論じるなどという事はしない方が良いのです。
何よりも藤枝晃雄先生と言う怖い方がいます。

こうした処世術で芸術を考えるというのが、
芸術に対するひとつの答えです。
有名な作家、世評の高い作家、高い金額で売れる作家、
そして社会的な地位の高い作家や作品がすぐれていると言う
ことになります。

たとえば国立近代美術館で、つい最近まで展示していた
ゴーギャンは、言うまでもなく有名で、すぐれている作家ということに
なります。

ところが彦坂尚嘉の学問としての芸術学的視点から見ると、
ゴッホはたいへんにすぐれているアーティストですが、
ゴーギャンは、《第6次元 自然領域》の芸術性の弱い作家なのです。

私だけでなくて、実はゴーギャンに対する低い評価は、
昔からあったのです。

しかし芸術もまた社会的な事象であるとすれば、
社会的な視点からの芸術論と言うか、
社会性を重視した論じ方は、あるのです。

そして社会的な成功を求めてだけ制作するという、
作家活動は、正しいと言えます。

ただ私の場合には、あらゆる犠牲をはらっても、
芸術の問題を厳密な学問として論じて行くと言う立場を取ります。
真摯に芸術を正面から追求してみたいのです。
それ以外に生き得ない人生なのです。

何故に、そのようなバカな事をするのか?
この答えは難しいものです。

しかしそれは正しいことなのでしょうか。

私も、それは正しく無いと思います。
どこまでいっても、美術は社会的事象なのですから、
その社会が行く方向に合わせて生きるべきだと思うのです。
つまり日本の戦前のように、軍国主義の時はそれに合わせて右翼に
なっていて、そして戦後になれば民主主義を主張して、
左翼になるというような、社会に合わせて変化するという、
針生一郎や、吉本隆明の生き方こそが、正しいのです。

ですから、人気がある時には、素晴らしいとほめたたえ、
人気がなくなれば、たいした作家ではないと、
離れて行く。
そういう時流に合わせて美術や芸術の評価を変えて行くのが、
正しいのだろうと思います。

こういう社会的な変化を疑って、社会の外で、
芸術を考えようとすると、
どうしても、社会性を失って、
社会的な配慮を捨てて、学問として芸術を考えるという
立場になるのです。

現在の新国立美術館での松本陽子氏の展覧会を
立教大学の学生が見て来て、
質問して来た事もあって、
正面から考えて来た事を書いてみようと思います。

ひとつの視点は《第16次元》という崩壊領域の表現としてです。
もうひとつは「光」の問題です。
しかし、両方ともたいへんなので、
別々に書きます。
しかし、本当に2本書けるかどうかは、自身がありません。
内容は書けますが、手間がたいへんです。
それをかけて行けるのかどうか?

そういう危惧の中で、
先ずは《第16次元》の絵画の問題を書きます。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

松本陽子の作品の背後には、アメリカ抽象表現主義の影響があります。
松本陽子自身がアメリカ留学をしています。

実際の制作技法も、
アクリル絵の具をスポンジでこすったり、こね回して、
ピンクの雲のような作品を作って来ています。

そこで、ポロックのドリッピング絵画と比較してみましょう。

6a00d834522c5069e200e54f6355e08833-800wi.jpg

比較する前に、なぜに比較をしなければならないのか?
ということがあります。

その理由は、芸術の趣味判断というのは、
比較において成立しているということがあります。

趣味判断は、もともとは味覚からきています。
うどんを食べた時に、そのうどんの味の比較を考えるという事が、
趣味判断なのです。

その制度性が一番分かりやすいのは、
お酒の品評会です。
利き酒をして、味を比較して、
善し悪しを判断するのです。

だから松本陽子の作品を他の作家のものと比較するということが
なされる必要があるのですが、
しかし日本の現代美術批評は比較を、ほとんどしません。
比較する事を恐れているのです。

その恐怖の基本にあるのは、
日本の現代美術が、実は偽物で、本物の欧米の作家と比較すると、
偽物であることがばれてしまって、
作家自体も怒るというような、なまなましい事情があります。

しかし芸術作品を、学問として追求して行こうと考えると、
比較することは重要な方法であると言えます。
私の方法の基盤にあるのは

ヤーコブ・ローゼンバーグ著『美術の見かた 傑作の条件』という

研究です。
このローゼンバーグの成果を、私は絵画構造の差異として
明確にすることが出来ているのです。

しかし日本の現代美術批評は、
こうしたローゼンバーグの研究自体を相手にはしません。

彦坂的に言えば《第6次元 自然領域》の作品が何よりも好きな人々が
多くて,《1流》や《超1流》の作品がきらいなのです。

《第6次元 自然領域》が好きな人は、
人格そのものが《第6次元 自然領域》ですので、
この人々に《1流》のものの良さを説得する事は、
極めてむずかしくて、経験的には、出来ないという印象です。

《第6次元 自然領域》の人々は、
人間としては素朴で、良い人々であります。

つまり芸術の趣味判断は、人間としての人格的な成熟度に
大きく関わっているのであって、
天然が好きな野蛮人の良き人々に、
《1流》や《超1流》の芸術を教える事は出来ないのです。

芸術は、つまり素朴で良い人には分からないものなのです。

人数的には20%80%の法則が働いていて、
100人中80人の人は、《第6次元 自然領域》に生きています。
つまり《1流》や《超1流》が分かる可能性のある人は、
100人中20人に限られるのです。

ですから、芸術は、80%の多数の良き素朴な人々を、
本質的には切り捨てることを辞さない態度から生まれます。

さて、長々とした前書きを書いているのは、
松本陽子の作品は、彦坂尚嘉責任の芸術分析では、
《第16次元 崩壊領域》の作品であると同時に、
野蛮な美術作品であるからです。

その原因は、松本陽子氏が、あまりにも素朴に良い人だからです。

画像 015.jpg

それに対してポロックの作品は、
《超次元 崇高領域》の作品で、
しかも文明人の美術作品なのです。
その原因は、ポロックが、あまりにも屈折した悪い人だからです。

Pollock-CGP82g.jpg



松本陽子ポロッ.jpg

こうして見ると分かりますが、ポロックの絵画は、
画面の奥に向って広がっているのに対して、
松本陽子の絵画は、
ポロックに比べて、画面の平面のこちら側に盛り上がって来ます。

この様に、画面のこちら側に盛り上がってくる絵画をどのように、
評価するべきなのかは、実はむずかしい問題なのです。

そのむずかしい問題をこのブログでやることは、ちょっと無理なので、
別の比較をしてみます。



ぱす、ポロックの絵画を、コントラストを41にまで上げてみます。

ポロック2.jpg






















印象として、気持ちが悪くなる様なものではありません。


同様に松本陽子の作品のコントラストだけを41上げてみます。

松本陽子2.jpg






























気持ちが悪い感じが、無いわけではありません。
内蔵のような感じというか、
出産の後、の後産で出てくる胎盤の感後産とは、出産後の胎盤の娩出のことです。分娩後、しばらくして、胎盤がはがれ、子宮口から膣内に下りてきたものを、医師らが娩出させます。痛みはありませんが、出る感覚はあります、完全に胎盤、卵膜が排出されないと、出血感染の原因になるので、しっかりと行われています。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。