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《言語判定法》の実際の手法と訓練法(加筆3画像追加5) [言語判定法]

丁寧な返信ありがとうございます。
ですが他の方もお気づきかもしれませんが、回答になってないと思います。私の質問の仕方が悪かったのかもしれません。

弘田一成の作品を、『格付け』をする事を思いついて、やったところ、《8流》という風に出ました。
《8流》とは何か? とおもって、会場の韓国側の作品を同じように『アートの格付け』をして行くと、伝統的な水墨画が、《8流》でありました。
こうした事例を探して行く中で、《8流》というのは《第8次元 信仰領域》であるという内容の推察ができるようになりました。つまり良いと信じている人には、良く思えるのですが、良いと信じられない人には、良く無く思えるという領域です。

とありますがこれは順番が逆ではないでしょうか。「こうした事例」とする根拠を示してほしいのです。つまり最初に何をもって8流とするのか教えていただきたいのです。私見であるのは勿論分かっております。

「一般的」「マイナー」「ひどい状態」のような言葉の使い方をみますと、それらにご自身の判断の基準が見えず、「良いと信じている人には、良く思えるのですが、良いと信じられない人には、良く無く思えるという領域」という言葉には何の内容も含まれないのではないでしょうか。芸術はすべて「つくりもの」ですし。「一般的」「マイナー」「ひどい状態」に疑問をもって、もう一度リヒターの作品から始めてほしいと個人的には思ってしまいました。

つまり、作品のどこがどうだからこう判断できるという内容そのものが抜け落ちているのです。

丁寧な説明ありがとうございました。
また返答がございましたらお待ちしております。 
by オオクラ (2009-10-28 16:53)  

オオクラ様

踏み込んでのご質問ありがとうございます。

「こうした事例」とする根拠を示してほしいのです。」というのは、
作品を1つあるとすると、順番に、番号を
投げかけて行きます。

たとえば、吉澤美香の作品を例にしてやってみます。
これに数字を投げかけます。
一番良いのは声を出して、言う事です。
繰り返し言います。

yosizawa3_2.jpg
《超1流》
《超1流》
《超1流》
《超1流》
《超1流》

違うと言うこだまが戻ってきます。
言葉と、作品がフィットしないという感覚です。
弱い、ささやかな感覚ですが、
それが感じられるようになるのです。

yosizawa3_2.jpg
《1流》
《1流》
《1流》
《1流》
《1流》

《1流》ではないという、こだまが返って来ます。

yosizawa3_2.jpg

《2流》
《2流》
《2流》
《2流》
《2流》
《2流》

このくらいで、「《2流》ではない」というこだまが返って来ます。


yosizawa3_2.jpg

《3流》
《3流》
《3流》
《3流》
《3流》ではない。

yosizawa3_2.jpg

《4流》
《4流》
《4流》
《4流》ではない。

yosizawa3_2.jpg

《5流》
《5流》
《5流》
《5流》
「《5流》では・・・・」
《5流》
《5流》ではないと、決定します。
近づいてくると、その感覚も生じます。

yosizawa3_2.jpg

《6流》
《6流》
《6流》
《6流》
《6流》
《6流》
《6流》
「《6流》である」
「《6流》である」
「《6流》である」
「《6流》である」
《6流》であるという結論に達します。

以下、同様の作業をいろいろな概念や言葉で、
判定をして行くのが、《言語判定法》による
彦坂尚嘉責任による芸術分析です。

yosizawa3_2.jpg

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、
気体美術

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ことばと、対象物の関係を、分かりやすいものにして、
訓練を、私自身がかなりしています。

私は、小さな時に忍者が好きで、
いろいろな訓練をして来ています。
その延長なのです。

猫を飼っていたので、
猫でも訓練したのは、
今も覚えています。

猫はヒマラヤンでした。
まず、猫を見ます。

cat3.jpg
犬である。
犬である。
犬である。
犬である。
犬である。
「犬ではない。」

cat3.jpg

蛇である。
「蛇ではない。」
蛇は、答えがはやかったですね。

cat3.jpg
コップである。
コップである。
コップである。
「コップで、・・・」
「コップで、・・・」
「コップで、・・・はない」

こういう風に、根気よく言葉を投げかけて行きます。
そしてこだまを、感じとるのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日は立教大学大学院で教えて、
その授業に来ている山口俊郎さんと話をしながら、
構内を、教室から研究室に向って歩きました。

山口さんは、倉敷に有る大学で、非常勤講師をしている油彩画家で、
立教大学大学院で、3の授業を毎週2日、3コマ受講して、
毎週土曜日に倉敷に帰って、という通勤生活をしています。

山口さんも《言語判定法》を習得したがっているのですが、
対象物を、イメージで見てしまって、言葉で見られないと言って、
悩んでいました。

昨日も、その話をしながら、歩きました。
校内には、大きな樹が何本も立っています。
その一本の木を見ながら、次のように説明しました。


tree2.JPG.jpg

目の前の一本の木を見ながら、
木と言う字を、指で、やや大きく、空中に書いてみます。


この文字と、目の前の一本の木は、
ずいぶんとちがうものです。
言葉と言うのは、不思議なものでして、
対象物との差異が、大きいのです。

つまり、ひとつの抽象の関係として、
この目の前の木と、「木」という言葉は、あります。

リアルな物事と,言葉という高度な抽象性との差を、
まず、感じる必要があります。


木の机も「木」ですし、

desk_057.jpg

木の橋も「木」です。

dsc01212.jpg


木の食器も「木」です。

img10584657252.jpg



木の壁も「木」です。

woodwall2.jpg

木の天井も「木」です。

imgp1316.jpg

製材してあるものも「木」ですし、

kansou448.jpg


山に生えているものも「木」です。

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松の木も「木」ですし、

img0a74fd2bvum9io.jpg

柳の木も「木」です。

kinosaki01.jpg

黒檀も「木」です。

4939325007783.jpg

桐も「木」です。

dscf2238.jpg

つまり「木」という言葉は、
いろいろなものを指し示しえるのです。

つまり「木」という言葉は、抽象物であって、
この記号=シーニュの次元と、実際のリアルな存在物の関係というのは、
信じられないほどに、ある、距離があるのです。

リアルな存在物と、シーニュの距離を、
実感する訓練をしていく必要があります。

ものを見た時に、名前をいろいろと考えて行くのです。

例えば木の机を見て、それに付け得る名前を10個上げてみます。

desk_057.jpg

木の机
家具
道具
構造物
製品
木目
《1流》品
有機物
金属製ではない
自然調

こういう調子で、
ひとつのものには、さまざまな名前があるということを、
訓練して行きます。
この多数の名称というのは、老子の言語論で、
私は、大学時代から重視していて、むかし美術家共闘会議(BIKYOTO)を
結成した時に、その理念の中に名称論を入れています。

そういうわけで、老子の名称論を背景にして編み出されたのが、
《言語判定法》なのです。

老子というのは、法家と争います。
法家は、ひとつのものにはひとつの名称があると言って、
名称を、単一に固定することを主張します。

つまり木の机には、「木の机」というひとつの名称だけがあるのであって、
他の呼び方をしてはいけないというのです。

それに対して老子は、ひとつのものには、
さまざまな名称があるのであって、
その多様性を主張しました。

いや、それだけでなくて、
ものにまだ名前がつかない段階を重視しました。
そしてものに、名前がついた瞬間に、「鬼神が泣いた」と書いています。

つまり山に生えているリアルな松の木は、
本来は、名称を付与されていません。

img0a74fd2bvum9io.jpg

これに、「木」という名称がついた時に、
このリアルな木は、「木」というシーニュのレッテルが貼付けられ、
疎外されるのです。
だから「鬼神が泣いた」というのです。

名称そのものの、こうした疎外の構造を見ておかないと、
リアルなものと、シーニュの関係を見損なうことになります。

「言語は現実を語れない」のです。
ところが同時に、人間は「言語でしか現実を語れない」のです。

つまり名称をつけるという事はできるのです。
つまり人間は、より的確な言葉を探したり、
より多くの言葉を重ねていくことによって、
少しでも現実に近いものを描き出そうと奮闘するのです。

《言語判定法》というのは、シーニュ=言葉が、付きえるのか、
付き得ないのか、それを見て行く作業です。

この先に行こうとすると、
言語論になってしまって、難しくなるので、
とりあえず、《言語判定法》の実際の手法の段階に、留めておきます。

その範囲で言えば、
もの松の木をみながら、「金属製である」という言葉を発すると、
違うと言う反応が返って来ます。

さらにこの松の木の画像を見ながら、これを値踏みして、
格付けする事は出来るのです。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《超1流》ではない。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《1流》ではない。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《2流》ではない。

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《3流》
《3流》
《3流》
《3流》
《3流》ではない。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《4流》
《4流》
《4流》ではない。

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《5流》
《5流》
《5流》ではない。

img0a74fd2bvum9io.jpg

《6流》である。

img0a74fd2bvum9io.jpg
《7流》
《7流》
《7流》ではない。

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《8流》ではない。

こうして、この松は、《6流》であると、判定されるのです。

img0a74fd2bvum9io.jpg
《6流》
《第6次元 自然領域》


yosizawa木_2.jpg

この松の木も、吉澤美香の作品も、
細かい差異はありますが、
次元としては《第6次元 自然領域》で、同じと彦坂尚嘉は判定するのです。

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『アートの格付け』と《言語判定法》について(校正1) [言語判定法]

以下の、似たようなご質問を、数本のコメントとしていただいています。
ご質問にまとめてお答えできればと思います。


こんにちは。8次元や41次元などの言葉の意味が分かりません。それらの意味と、それらの言葉を使う根拠を教えてください。 
by オオクラ (2009-10-2703:32)  

こんにちは。何をもって顔を判断しているのか、彦坂さんご自身の根拠を示してください。 
by オオクラ (2009-10-2800:10)  
 
 
上にも出ているのですが、顔判断の根拠を示してください。

by 桑山 (2009-10-28 02:56)  
 
上にコメントを書き終えて気がついたのですが、この「根拠を示せ」という主張はポランスキー監督に対する個人的な好意があったうえでの、感情的な叱責とかでは決してありません。私が指摘したのは格付けそのものの問題です。格付けの根拠が示されない限りは、他人に説明が出来ないのです。感じて共感することは出来ても真の理解は出来ないのです。どうしても、「モナリザがそうだから」とか「真の価値は多くの人には理解されない」とかいう風に逃げているように見えてしまうのです。レスお待ちしております。



by 桑山 (2009-10-28 03:03)  


今ままでも、何回か書いて来ているので、

たぶん、『彦坂尚嘉の《第41次元》アート』の1の方で読んでいただく方が、内容的には、良いものかもしれません。

 

でも、探すのがたいへんかもしれないので、

とにかく、繰り返し、お答えして行きます。

 

私の書いている方法は、基本的に印象批評です。

そもそも芸術の趣味判断というのは、印象批評です。

たとえば小林秀雄の文芸批評の基本的な方法は印象批評です。


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批評や評論というのは、欧米においては、

「(個人が)物事をどう捉えるか・把握するか・判定するかを表明するもの」であるのです。

個人の私感が批評なのです。

昔の印象批評を、今日の情報化社会のものに、

《言語判定法》という方法で、書いているのが、彦坂尚嘉のブログです。


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ですから、彦坂尚嘉という個人の責任で、

私的な判断を示しているのであって、

それ以上のものではありません。



つまりオオクラさんのご質問の「顔判断の根拠」は彦坂尚嘉の私的な判断とその《言語判定法》というものにあります。

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

病院でレントゲン写真をとって、肺の映像の中に、

結核の病状を読み取るという場合、

そのレントゲン写真の、もやもやとしたグレーと黒のネガ画像をどう読み取るかは、

医者によって違います。


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名医とぼんくら医者では、違うのです。

判断というのは、そのように医学の場合にすら印象批評であり、

個人の私性でなされるのです。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

さて、ものごとを判断するには、

3つの方法があると、彦坂尚嘉は考えます。

 

ひとつは『イメージ判定法』です。

もうひとつは「科学的判定法」です。

最後に、《言語判定法》があります。

 

私は日本ラカン協会の幹事をしていますが、

ジャック・ラカンの用語に、

《想像界》《象徴界》《現実界》というものがあって、

これは人間の精神活動が、この3界でなされているものとされています。

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イメージ判定法というのは、《想像界》での判断に対応しています。つまりイメージで見て、判断するのです。そこでの問題は、本物の金と,偽物の金の区別がつかない事です。


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科学的判定法というのは、《現実界》での判断に対応しています。ここでは、比重や、金属分析で、本物の金と、偽物の金は区別がつきます。

 

そして《言語判定法》というのは、《象徴界》での判断力を使ったものなのです。ここでは、イメージでは判断できない様な、いろいろな事象を、言葉への対応の中で、言葉に直す作業がなされます。本物の紳士と、詐欺師を区別する事は出来ます。


ですから、私たちは、

この3つの判定方で、現実を認識する必要があります。

彦坂尚嘉のやっているのは、その内の1/3の《言語判定法》だけなのです。ですからその不十分さはありますので、ご了承ください。 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

私たちは、普通、言語というものを、コミュニケーションの道具と考えています。

 

しかし言語にはもうひとつ別の機能があって、

それは言語によって、人間が自らの環境を認識しているという、

認識の機能です。

 

エスキモーは雪の言葉をたくさん持っていて、

雪の変化を、非常に細かく精密に捉えることができます。


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こういう言語論は宮岡伯人などの少数言語学者から私が影響を受けて、学んだものです。私の《言語判定法》というのは、こうした言語の認識機能を使って、物事を認識し、判断しようというものです。

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《言語判定法》をつかって、いろいろな判断をしていますが、

『アートの格付け』もそのひとつです。

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

《言語判定法》そのものを学んだのは、発端は1974年まで遡ります。その当時、六本木にある小さな印刷屋の営業兼編集の仕事をしていましたが、公官庁の入札を毎日20本くらいしていました。紙代や印刷費を計算して見積もるのですが、何しろ数が多いのと、必ずしも自分の印刷屋で取れるものでないものもあるので、細かい計算をしないで値踏みで入札する必要がありました。そこで値踏みの方法として、《言語判定法》を使いました。つまりその仕事が50万円なのか、100万円なのか、1000万円なのかを、数字を、対象物に向かって発して、そのこだまを受信すると言う方法です。


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 『アートの格付け』というのは、こうした値踏みの方法と経験を拡大したものです。

 

 《言語判定法》を美術に最初に適応したのは、東京国立近代美術館で1995年に『絵画唯一なるもの』という展覧会が開催されていて、その中のゲハルト・リヒターの作品を鑑賞していて、判断に困ったときです。リヒターについては、実は印刷画像で、かなりの詳細な分析をしていたのですが、実物を前にして、どうしても良い作品に見えなかったのです。特に具象画は、評価できなくて、困りました。何回も会場を回って見て,8回目に根を上げて、判断を進める方法として、言葉を投げかけて、こだまを取るという《言語判定法》を実行したのです。その結果、『つくりもの』という言葉がフィットしたのです。リヒターの作品は、「つくりもの」であるというのです。

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『アートの格付け』を初めてしたのは、韓国で開かれたアートフェアでありました。そこに東京画廊から日本人作家が何人か出品していて、私や弘田一成、そして富田瑞穂といった作家たちがソウルに行きました。困ったのは弘田一成の作品の評価でした。日本側の評価は高かったのですが、韓国側は弘田一成の作品を評価しなかったのです。その落差に興味を持った私が、それを明らかにしたくて、弘田一成の作品を、『格付け』をする事を思いついて、やったところ、《8流》という風に出ました。


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8流》とは何か? とおもって、会場の韓国側の作品を同じように『アートの格付け』をして行くと、伝統的な水墨画が、《8流》でありました。日本に帰って、《8流》を探した所、武満徹でした。

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もうひとつ私の大好きな黒人音楽のPファンクでした。こうした事例を探して行く中で、《8流》というのは《第8次元 信仰領域》であるという内容の推察ができるようになりました。つまり良いと信じている人には、良く思えるのですが、良いと信じられない人には、良く無く思えるという領域です。

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《第8次元 信仰領域》というのは、つまり一般的にいうとマイナーな表現の領域です。これは《第6次元 自然領域》の倒錯領域です。絵画でいうと、《第6次元自然領域》の絵画が原始平面に描かれた『ペンキ絵』でありますが、《第8次元》の絵画も、同様に『ペンキ絵』ですが、奇妙に薄暗くて、明度や彩度の差の少ない絵が多く見られます。

 

こうして『アートの格付け』は、多くの作品を芸術分析する中で、次第の構造として理解できるようになったのです。

 

さて人間の顔の分析ですが、これは一人の人間の顔を、一枚の絵画であるかのように見立てて、《言語判定法》による芸術分析をしたものです。

それは柄谷行人や吉本隆明を長い間、つまり30年近く読んで来て、それが思想としては弱く低いものであると知って失望した経験を背景にしています。本を読むのは時間がかかるので、先に顔を分析して、読むに値する人物かどうかを判断してから、読もうという、そういうショートカット手法です。


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《第41次元》というのは、《超1流》の《超次元》の反転した領域です。これについても、すでに何回か書いているのですが、戦争とか、生け贄、処刑といった、ひどい状態のものが、《41流》です。


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美術作品で言うと、運慶快慶の東大仁王像などの、憤怒の仏像です。西洋ではグリューネヴァルドのキリストの十字架での処刑図などです。


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2009-10-28

こんにちは。
8次元や41次元などの言葉の意味が分かりません。それらの意味と、それらの言葉を使う根拠を教えてください。 
by オオクラ (2009-10-27 03:32)  

 

こんにちは。
何をもって顔を判断しているのか、彦坂さんご自身の
根拠を示してください。 
by オオクラ (2009-10-28 00:10)  

桑山

上にも出ているのですが、顔判断の根拠を示してください。

by 桑山 (2009-10-28 02:56)  

桑山

上にコメントを書き終えて気がついたのですが、この「根拠を示せ」という主張はポランスキー監督に対する個人的な好意があったうえでの、感情的な叱責とかでは決してありません。
私が指摘したのは格付けそのものの問題です。
格付けの根拠が示されない限りは、他人に説明が出来ないのです。感じて共感することは出来ても真の理解は出来ないのです。どうしても、「モナリザがそうだから」とか「真の価値は多くの人には理解されない」とかいう風に逃げているように見えてしまうのです。
レスお待ちしております。



by 桑山 (2009-10-28 03:03)  


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

ご質問にまとめてお答えできればと思います。
いままでも、何回か書いて来ているので、
たぶん、『彦坂尚嘉の《第41次元》アート』の1の方で読んでいただく方が、
内容的には、良いものかもしれません。

それでも、とにかく、繰り返し、お答えして行きます。

私の書いている方法は、基本的に印象批評です。
そもそも芸術の趣味判断というのは、印象批評です。
たとえば小林秀雄の基本は印象批評です。

批評や評論というのは、欧米においては、
「(個人が)物事をどう捉えるか・把握するか・判定するかを表明するもの」であるのです。
昔の印象批評を、今日の情報化社会のものに、
《言語判定法》という方法で、書いているのが、彦坂尚嘉のブログです。
ですから、彦坂尚嘉という個人の責任で、
私的な判断を示しているのであって、
それ以上のものではありません。
つまり根拠は彦坂尚嘉とその《言語判定法》というものにあります。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

病院でレントゲン写真をとって、肺の映像の中に、
結核の病状を読み取るという場合、
そのレントゲン写真のもやもやとしたグレーと黒のネガ画像を
どう読み取るかは、
医者によって違います。
名医とぼんくら医者では、違うのです。
判断というのは、そのように医学の場合にすら印象批評であり、
個人の私性でなされるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

さて、ものごとを判断するには、
3つの方法があると、彦坂尚嘉は考えます。

ひとつはイメージ判定法です。
もうひとつは科学的判定法です。
最後に、《言語判定法》があります。

私は日本ラカン協会の幹事をしていますが、
ジャック・ラカンの用語に、
《想像界》《象徴界》《現実界》というものがあって、
これは人間の精神活動が、この3界でなされているものとされています。

イメージ判定法というのは、《想像界》での判断に対応しています。
科学的判定法というのは、《現実界》での判断に対応しています。

そして《言語判定法》というのは、《象徴界》での判断力を使ったものなのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

私たちは、普通、言語というものを、コミュニケーションの道具と考えています。

しかし言語にはもうひとつ別の機能があって、
それは言語によって、人間が自らの環境を認識しているという、
認識の機能です。

エスキモーは雪の言葉をたくさん持っていて、
雪の変化を、非常に細かく精密に捉えることができます。

こういう言語論は宮岡伯人などの少数言語学から、私が影響を受けて学んだものです。
私の《言語判定法》というのは、こうした言語の認識機能を使って、
物事を認識し、判断しようというものです。

《言語判定法》をつかって、いろいろな判断をしていますが、
『アートの格付け』もそのひとつです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


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ポランスキー監督拘束 [状況と歴史]

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アサヒ・コム

ポランスキー監督拘束 

                       32年前の13歳暴行容疑


 2009年9月27日21時2分【パリ=国末憲人】映画「戦場のピアニスト」など

で知られるポーランドのロマン・ポランスキー監督(76)が訪問先の

スイスで警察当局に拘束されたと、スイスのメディアが27日伝えた。

同監督は米国で未成年者を暴行した容疑で77年に拘束されたが、

その後逃亡していた。

チューリヒからの報道によると、24日から始まったチューリヒ映画祭

で作品が回顧上映されるのを機に、同監督は26日現地入り。スイス司

法省の説明では、チューリヒ空港到着と同時に拘束された。同省は、

監督が米国に移送される可能性があると示唆した。

 同監督は77年、写真撮影を名目に連れ出した13歳の少女に暴行

したとして、ロサンゼルスの当局に逮捕された。しかし、翌年欧州に

逃亡。以後、米国に足を踏み入れないまま映画製作を続け、03年には

「戦場のピアニスト」で米アカデミー監督賞を受賞した。米国は05年、

同監督を国際手配していた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

13歳の少女に、アナルセックスによるレイプをした容疑で逮捕され、

逃亡を続けていたポランスキーが拘束されました。

私自身は、レイプをしたいという欲望を持った事もないので、

正直言って良く分からないのですが、

レイプが犯罪であり、ましてや未成年の少女をレイプする事は、

厳しく罰せられる必要があります。

ポランスキーという人物の顔を、絵画の様に見て、

《言語判定法》によって芸術分析をしてみたいと思います。

ポランスキーは、どんな顔をしているのか?

polanski1.jpg

ロマン・ポランスキーの顔
《想像界》の眼で《第21次元》のデザイん的人格
《象徴界》の眼で《第21次元》のデザイん的人格
《現実界》の眼で《第21次元》のデザイん的人格

《想像界》の人格
液体人間
《気晴らし人間》《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。
『平気でうそをつく人たち』


《第21次元 愛欲領域》というのは、《第2次元 技術領域》の
倒錯領域なのですが、エロ写真とかの領域です。
建築で言うとロココですし、写真家ですと荒木経惟、
演歌では小林幸子。
それだけでなくてデザイン的な人格ですので、13歳の少女を
レイプしたことは事実であるように見えます。

事件の経過


国際ニュース : AFPBB News
9月29日 AFP】32年前の淫行事件の容疑者として、映画監督のロマン
・ポランスキー(Roman Polanski)氏がスイスで身柄を拘束された。
以下はこの事件の経過。

■1977年

-3月10日:当時43歳だったポランスキー氏が、米ハリウッド
Hollywood)にある俳優ジャック・ニコルソン(Jack Nicholson
さんの自宅に13歳の少女を誘い、ファッション写真の撮影を行う。
ニコルソンさんは不在。ポランスキー氏は少女に酒と薬物を勧め
性行為に至る。

-3月25日:少女の両親が警察に届け出る。

-4月15日:暴行やアナルセックスなどの罪で起訴されたポランスキー
氏の裁判が開廷。同氏は当初、無罪を主張。

-8月8日:ポランスキー氏は司法取引を行い、未成年との違法な性行為
の罪のみを認める。カリフォルニア(California)州の施設で3か月間の
精神鑑定を受けるよう命じられるが、映画撮影があったため年末まで
延期される。

■1978年

-2月1日:ロサンゼルス(Los Angeles)近郊にあるチノ刑務所
Chino Penal Institution)で47日間過ごしたが、残る容疑に対する
重刑を恐れ米国を出国。出生地であるフランスに移住し、市民権を得
る。以来、同国で暮らす。

 通常、自国民の身柄引き渡しを行わないフランスは、カリフォルニア
州当局からの身柄引き渡し要求を拒否している。

■1994年

-8月:ポランスキー氏が被害者の女性に慰謝料を支払うことで合意す
るも、カリフォルニア州検察当局は起訴取り下げを拒否。

■2003年

-3月23日:『戦場のピアニスト(The Pianist)』でアカデミー賞監督
賞を受賞。

 被害者女性はポランスキー氏を許したというコメントを出し、同氏が
授賞式に出席できるよう訴えたが、逮捕を恐れた同氏は出席せず。

■2008年

-12月2日:ポランスキー氏の弁護士が、事件に誤った処理があったと
して検察当局に対し起訴取り下げを請求。

■2009年

-5月7日:ロサンゼルスの裁判所は、起訴取り下げ請求を棄却。

-9月26日:映画祭出席のため訪れたスイス・チューリヒ(Zurich)で
身柄を拘束される。米国からの身柄引き渡し要求が待たれている。

 


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佐々木薫/超1流の《無芸術》と宗達なるもの [アート論]

 佐々木薫という作家は、1980年代の超少女と言われる《無芸術》時代様式を、ある意味で集約して《超1流》の作品に結実したアーティストです。

 その最初は、多摩美術大学での1981年制作の具象画ですが、指導教授は宮崎進で、ここでもすでに固有性のある《一流》絵画で《芸術》作品を描いています。その後エリザベス・マーレーの影響を思わせる生け花の様な彩色された樹木作品を作りますが、ここですでに《超1流》の良い作品になっていますが、それは手芸性や装飾性を持つ《無芸術》と言うべき秀作です。《無芸術》の作品というのは、美術史上にはいくつもりますが、宗達やアンリールソー、そしてマティスなどの作品です。そこでは官能性に対する大脳皮質的な抑圧が無くて、官能に対して肯定的な美術なのです。

 1986年前後から木枠に張らないキャンバス地の上に中国紙を貼って整形した、有機的なフォルムの外形をもつシェエイブドキャンバスの大型のレリーフ作品を連作して行きます。これらも《無芸術》で、この時代の超少女とか、工作少女といわれた時代の表現様式と質を、高度な《超1流》の作品にまで高めて、しかも現在も保存しています。多くの作品が《6流》で、しかも保存されているものが少ない中で、注目すべき作家なのです。


佐々木薫.jpg

 

 しかし1989年からの作品は、視覚的には類似していますが《反芸術》作品に変貌して1995年まで制作されます。2000年代になると、白いインスタレーションに大幅にスタイルを変えるのですが、そこでは大脳皮質的な抑圧の精神が作動していて《芸術》作品になっています。つまり初期の1981年に《芸術》作品から出発して、《無芸術》作品で1980年代美術の結晶化した作品を作りながらも、《反芸術》に移行して、最後に再び《芸術》作品に回帰しているのです。こうした1980年代の美術作品の変貌は、アメリカの画家テリー・ウインタースにも見られるもので、1980年代という時代の変動性を体現したものだからだと思います。

 回顧してみれば、1980年代様式を結実した宗達的とも言える《超1流》の《無芸術》作品が印象にのこるものであり、歴史的に意味のある作品だと思います。この展開を計るには、しかし《無芸術》だけでは無理で、ジェフクーンズに見られるように《無芸術》《非芸術》《反芸術》《芸術》の4つを統合した、高度に複雑な作品形成に向かうべきなのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

アート・スタディーズ



『第16回アート・スタディーズ 』へのお誘いです。

11月2日(月)午後6時から京橋のINAX:GINZAです。


1980年代は、ニューウエイブ台頭の時代でした。これは

再度、1995年〜2008年の過剰消費の中で

繰り返されたのではないでしょうか。


              ディレクター・彦坂尚嘉


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レクチャー&シンポジウム

20世紀日本建築・美術の名品はどこにある?

第16回アート・スタディーズ 

1980年〜1989年「《想像界》の復活とニューウェーブの台頭」



ゲスト講師


【建築】テーマ ポストモダン建築の時代(仮題)


   

    講師  磯 達雄 (建築ライター)

        サブテーマ「磯崎新/つくばセンタービル−ラディカルな折衷主義」

        

    講師  浜田 由美(会社員) 

        サブテーマ「木島安史の時館『堂夢の世界』」


【美術】テーマ 《女性作家の台頭 佐々木薫/超少女たち》

           

    講師  松永 康(アート・コーディネーター)

        サブテーマ

        「佐々木薫と名品−共時的な視点から」

   

   講師

  

    三上 豊(和光大学教授)        

    サブテーマ 「雑誌感覚。『美術手帳』1986年8月号特集

          〈美術の超少女たち〉の編集をめぐって」


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『アート・スタディーズ』とは?

アート・スタディーズは多くの人の鑑賞に資する、歴史に記録

すべき《名品》を求め、20世紀日本の建築と美術を総括的、通

史的に検証、発掘する始めての試みです。先人が残してくれた

優れた芸術文化を、多くの世代の人々に楽しんで頂けるよう、

グローバルな新たな時代にふさわしい内容でレクチャー、討議いたします。

いたします。


◆ディレクター

彦坂尚嘉(美術家、日本ラカン協会会員、立教大学大学院特任教授)

◆プロデューサー

五十嵐太郎(建築史家、建築批評家、東北大学教授)

◆アドバイザー

建畠晢(美術批評家、国立国際美術館館長)

◆討議パネリスト

◇五十嵐太郎(建築史、建築批評、東北大学教授)

◇伊藤憲夫(元『美術手帖』編集長、多摩美術大学大学史編纂室長)

◇暮沢剛巳(文化批評、美術評論家)

◇新堀 学(建築家、NPO地域再創生プログラム副理事長)

◇橋本純(編集者)

◇藤原えりみ(美術ジャーナリスト)

◇南泰裕(建築家、国士舘大学准教授)

◆司会

彦坂尚嘉(アート・スタディーズ ディレクター)

◆年表作成

橘川英規(美術ドキュメンタリスト)

◆日時:2009年11月2日(月)

17:30開場、18:00開始、21:00終了、終了後懇親会(別会場)


(東京都中央区京橋3−6−18/地下鉄銀座線京橋駅2番出口徒歩2分)

(当日連絡先は 090-1212−4415 伊東)

◆定員:60名(申込み先着順)

◆参加費:500円(懇親会参加費は別途)


◆お申し込み・お問い合わせは

氏名、住所、所属、連絡先、予約人数を明記の上、下記e-mailアドレスへ

art_studies2004@yahoo.co.jp


詳細情報はこちら

 HYPERLINK "http://artstudy.exblog.jp/" http://artstudy.exblog.jp/


◆主催 アート・スタディーズ実行委員会

◆共催 リノベーション・スタディーズ委員会

     

◆後援 毎日新聞社

    日本建築学会

    日本美術情報センター



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☆「アート・スタディーズ」の詳細及びこれまでの情報

http://artstudy.exblog.jp/

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名品とは何か? ポストモダンの考察 [アート論]

名品とは何か? ポストモダンの考察

 

 1975年/1991年と2度の終焉をへて、《近代》という時代は完全に終わったのです。そのときに出現したのは、《芸術》《反芸術》というペアーで展開して来た大文字の芸術の終焉状況でした。

 驚くべき量の《無芸術》と《非芸術》が出現して来ます。しかもそれらは「芸術の名」において跋扈したのです。人々は熱狂して向かい入れて、しかし1980年代の美術作品の多くが淘汰されて消えました。特に《無芸術》という装飾や手芸、そして性的な官能性といった原始的な欲動を肯定した美術が、時間の中で飽きられて急速に消費されていったのです。しかし美術界の中での制度的名声を得たものは、美術市場での人気を得て評価を続けたものもあります。

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 アメリカ美術で見ると、1980年代で生き残ったのはシンディ・シャーマンと、ジェフ・クーンズ、そしてゴーバーと言われます。とりあえずこの俗論を仮定として受け入れると、この3人のアーティストに共通しているのは、《無芸術》《非芸術》《反芸術》《芸術》という、芸術の4分裂をすべて統合して同時表示して持っている事です。つまりポストモダンという情報化社会の中での名品というのは、こうした芸術の高度な統合という関係性を成立させるサントームを形成し得た作品なのです。

 芸術は、時代の中で分裂解体して《無芸術》《非芸術》《反芸術》《芸術》の4つに分かれたのですが、しかしその新たな統合化もまた形成していると言う事実を見損なうと、芸術のデザイン化や簡便化だけに眼を奪われることになります。エジプトに遡る古代芸術から、今日に至るまで、芸術は常に解体崩壊を繰り返しながらも、高度で複雑な統合性を実現するサントームの精神によって成立して来ているのです。

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1980年〜(1989年)の美術(画像追加2) [アート論]

 1975年のアメリカのベトナム戦争敗北によって、自由主義経済圏における《近代》は終わり、《芸術》と《反芸術》の時代は終わって、《無芸術》と《非芸術》の時代となります。

 1980年代に入ると、音楽においては《第41次元》の表現が現代音楽でも現れて来て、新しい時代の台頭を示します。しかし日本の現代美術は、イタリアのトランスアバンギャルドやアメリカの女性作家の台頭の影響もあって、女性作家による生理的な装飾的手芸的なものへと退化した《無芸術》の大量の出現として現れます。その代表は吉澤美香で、ドクメンタに出品してその未来を嘱望されますが、芸術的には《想像界》の《第6次元 自然領域》の《無芸術》作品で、あまりに簡便なイラストに過ぎませんでしたが、しかし気体美術=現代アートの軽さがありました。

 

01.jpg
吉澤美香《無題(茶だんす)》 1982年 千葉市美術館蔵


 

やや遅れて出発した佐々木薫は、《超1流》の作品を作る事で、この時代の《無芸術》の成果を結晶化します。

 

 

佐々木薫.jpg
佐々木薫 1989年

 

 

 

 一方男性作家では、中村一美などの絵画と、戸谷重雄、遠藤利克、黒川弘毅、中原浩大などの新しい彫刻世代が現れます。戸谷のチェンソーを使った木彫と黒川弘毅のブロンズの金属塊を削りだした彫刻、そして激しいストロークを描いた中村一美の絵画は、3者ともに良く似ていて、《真性の芸術》性をもった《無芸術》作品で、しかも《現実界》の作品ですが、絶対零度の原始芸術へと退化したものでありました。遠藤利克の作品は、《想像界》へと彫刻を還元する方向を示して、この時代の潮流を捉えていたと言えますが、その作品は前近代へと退化した固体彫刻で、しかも《真性の芸術》性を欠いたデザイン的エンターテイメントの《無芸術》作品でしかありませんでした。 一方若い中原浩大は、関根伸夫といった前の世代の作品を下敷きにして、石彫で《現実界》の気体美術を作り出して斬新な展開をしたかに見えたのですが、そのレゴを使った立体作品などは《無芸術》のデザイン的エンターテイメントに過ぎなく挫折して行きます。

 1986年のバブル経済の波に乗って、森村泰昌と宮島達男らの《非芸術》グローバルな美術世界に脱出する事で、国内に閉塞した旧勢力の日本現代美術の退化運動は留めを刺されることになります。


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中原浩大の『アートの格付け』 [アート論]

アートスタディーズで1980年代を取り上げるので、
簡単にですが、中原浩大の作品を『アートの格付け』しておきます。

中原浩大については坂上しのぶさんの研究で、
かなりいろいろな秘密が分かって来ていて、
引き込み線のカタログを面白く読ませてもらっていますが、
ここでは論じる事は、時間の関係からもできません。

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《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《現実界》の作品、気体美術。

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。
《原始立体》【B級美術】

《無芸術》

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

このレゴの作品は、大きな衝撃を与えた中原の代表作のひとつですが、
芸術分析的には《6流》のデザイン的エンターテイメントに過ぎません。
《気晴らしアート》であって、《ローアート》であることで、
多くの人に喜ばれたのですが、低いものです。

しかし《現実界》の作品で、しかも気体美術であったこと、
さらにシニフィエの美術であるということが、
新しい現代アートを感じさせたのでした。

しかし、それ以上の内実を欠いていた故に、
アーティストとしては、腰砕けになっていきました。

この時代の《無芸術》の魅力と、弱さを象徴する作家でありました。



090530.jpg

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《現実界》の作品、気体美術。

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。
【B級美術】

《無芸術》

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《想像界》の眼で《第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、液体美術。

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。
《原始平面》【B級美術】

《反芸術》

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

彦坂尚嘉の《言語判定法》で見ると、中原の平面作品は、立体作品とは、
ずいぶんと違うのです。
まず立体が《現実界》の作品であったのに対して《想像界》の作品に、
なっています。
立体が気体美術であったに対して、平面は液体美術になっている。
そして立体が《無芸術》であったのに、平面は《反芸術》になっている。

自分で分析しておいて言うのも何ですが、
この違いには驚かされて、「ほんとうだろうか?」と、
何回かやり直してみましたが、
これ以上に確認しようとすると、本物を見て芸術分析をする必要があります。

タグ:中原浩大
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《無芸術》(加筆1) [アート論]

《無芸術》というのは、人間の官能への欲望を、
抑圧しないで成立させた表現の世界です。

つまり大脳皮質の抑圧が機能していない表現なのですが、
作品そのものに、官能性があるので、
この《無芸術》を、多くの人々は芸術作品として評価しています。

ティツアーノ、ゴヤ、マチス、アンリールソー、宗達など、
そうそうたるアーティストが《無芸術》の作家です。

しかしラファエロは、《無芸術》ではなくて、
《芸術》です。
《芸術》作品としてラファエロを見ると、
その美しさを、改めて見直すものとなります。
つまり大脳皮質による抑圧を持った作品が《芸術》です。

この《芸術》は、ある意味で《近代》において特化されたのです。

ポスト・モダンとなって、《芸術》の時代が終わった時に、
この《無芸術》の大量登場が起きました。

《無芸術》こそが、今日では芸術と信じられるようになったのです。
しかし1980年代、その百花撩乱の《無芸術》の多くは、
あっという間に、淘汰されたのです。

タグ:《無芸術》
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《非芸術》という領域(加筆3) [アート論]

《非芸術》というのは、
文字通り、芸術にあらざる領域で、
普通の日常世界です。

私たちは日常に生きているのですから,
つまり《非芸術》の領域に生きています。
つまり《芸術》の中に生きているのではないのです。

日常世界がすべてであるというのが、
基本なのです。
日常というのは、何よりも超越性が無いということです。
しかし、本当に超越性が無いと言い切れるかというのは、
疑問です。

例えばマックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年-1905年)が解き明かしたように、西洋近代の資本主義を発展させた原動力は、日常の労働とビジネスの実践を通して神への信仰を実現するプロテスタント的宗教倫理から産み出された世俗内禁欲を追求する運動と、生活合理化への追求であったのです。

ビジネスを成立させた資本主義の「精神」とは、単なる拝金主義や利益の追求ではなかったのです。合理的な経営・経済活動を支える精神であり、あるいは行動様式であって、その裏にはプロテスタントの、特にカルヴァン主義の禁欲的な教義があったのです。

このような日常の中での宗教的超越性の追求は、実は仏教にもあって浄土真宗や日蓮宗では、基本と言えるものです。それは禅宗にもあって、日常の生活の中に、宗教的な探究を行おうというものです。

(アーティストの場合、この日常性を媒介しての超越の探究と言う基本を失って、日常生活から逃亡して《芸術》の中に生きてしまうのです。少なくとも本物の画家には、そうした傾向があります。それが今日ではマズいのです。) 
ですから常に日常の生活世界へ回帰して、日常の社会の変化を媒介して芸術の探究と言う超越性を考える必要があります。

無媒介的に日常や社会化する事から逃避して、
《芸術》なるものという非日常に逃避して、
閉じこもる事は、間違いです。

しかもそれが、前時代の《古い芸術観》に閉じこもる事は、
間違いなのです。

ヨーロッパにおけるモダンアートの歴史を見れば、
繰り返し新旧論争を繰り返して来ました。
つまり芸術観というのは、繰り返し刷新されるのであって、
この刷新というイノベーションを、アートの問題として
考えないのであれば、それはコンテンポラリーアートとは
言えないものであって、
現代美術を伝統芸術化することになるからです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

とりあえず宗教的な禁欲的な実践の問題をカッコに入れて、
問題にしなければ、
日常世界の特徴は、浅く、短く、薄いことです。

軽薄短小というのは、この日常世界であり、
同時に、そこに住む人間の人格です。
私たちは軽薄短小なのです。
そのことがカルヴァン主義のみならずキリスト教全般にある認識で
あって、人間は神への反逆によって全面的な堕落をしているのであって、
この堕落した矮小な悪の存在が、すべての人間の基本的な性格なのです。

常に、この矮小な自分自身と、
矮小な生活世界に回帰して、
そこから考えなければなりません。

私たちの日常生活も、そして日常の人格も、
この《非芸術》領域の内側にいます。
私たちの存在それ自身は、《芸術》ではないのです。


そして日常とは、カオスとデザインの世界です。
デザインというのは、自然も含みます。

こう言うと異様に思うでしょうが、
「神が世界をデザインした」という言葉があるように、
神がつくった自然というのは、
デザインの世界で《非芸術》の領域です。


つまり私たちはこの軽薄短小な日常の世界に閉じ込められているのです。
日常の牢獄!
この日常の牢獄を《非芸術》と言うのです。
彦坂尚嘉の『アートの格付け』の中では、
とりわけ《第21次元 愛欲領域》というのが、
この全面的な人間の堕落の領域です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

堕落した矮小な日常世界がすべてなのですが、
この日常の牢獄に徹して生きることによって、
この日常の牢獄に背理することによる脱出を、人間は試みます。
それがカルヴァン主義や浄土真宗、日蓮宗、禅宗に共通する
世俗や日常からの超出の希求なのです。

しかし《近代》になって、
宗教そのものからの離脱が進むと、
芸術が、その超越の方法として登場して来ます。

その試みには3つあったのです。
ひとつが《無芸術》の官能世界です。
二つが《反芸術》の反抗の世界です。
三つめが《芸術》という大脳皮質による抑制の世界です。

そしてこの《無芸術》《反芸術》《芸術》の3つが、
三位一体で、《大芸術》という非日常の構造を作っていたのです。


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つまり《大芸術》と《日常》は、2つの別の世界なのです。
少なくとも昔は、この2つは分離されていたのです。
ところがこれが入り乱れて混合された複雑系の状態に
なったのが現在です。

つまり今日では、
日常というのも美術館に持ち込まれて、
《非芸術》という芸術になっています。

つまり《非芸術》が《芸術》とされている時代が、
今日の時代です。
この混合化ということが、
今日の文明の基本的な性格です。

混合される事による、日常の高度化による変質が、
問題の根幹にあるのです。

だからこそ、すべての問題を、再度日常から組み立て直す事が
重要になって来ているのです。

この日常へのすべての還元という事態が、
多くの旧人類にとっては同意できない事なのですが、
そういう抵抗は、私は意味が無いというか、悪だと思います。

日常を再編し、
すべてを日常から始める事。
軽薄短小から、すべてをやり直すという《非芸術》的革命が
進行してきているのです。

それはエジプト以来の人間の文明の根本的な再編過程であって、
文明や文化のすべての転倒化と言えるものです。

つまり日常が《非日常》化しているのが、現在です。

そして《大芸術》が解体され、日常化しているのです。

だから《大芸術》が、《非芸術》へと還元されていく事態が
進行しているのです。

その時に重要なのは、日常の改変の方が、
大切なのです。

徹底的な軽薄短小化のはてに、
新しいリテラシーの世界が始まるのです。

その新しき世界に向けて、舟を走らせ続ける事!




タグ:《非芸術》
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