死亡映像がユーチューブで流れて波紋(画像の訂正と追加) [状況と歴史]
(米ニューザー 2009/06/21)
「ネダ」とだけ知られる若い女性は、父親とテヘランの抗議行動に参加し、武装組織バシジに射殺された。路上で死んだ彼女の映像はネットを通じて、瞬く間に世界に広まった
元記事:CNN
少なくとも7人が死亡しているとのこと。
1979年のイラン革命後、イラクのフセイン大統領(当時)が仕掛けて
きた戦争で、正規軍の不足を補うために創設されました。
バシジとはペルシャ語で「動員」を意味し、若者たちは愛国心に燃えて
志願し、正規軍の先兵となって地雷原を進むなど、勇敢な「人海戦術」
を対イラク戦争で展開したのでした。その数2000万人という多数に
のぼりました。
basijの都市治安部隊です。
まるで日本の暴走族ですね。
井上清仁さんからいただいた画像です。
イラク革命の指導者ホメイニ師死去後、権力を握った保守派は、
バシジを保守イデオロギーで社会を統制する道具へと変質させたのです。
現在の隊員数は120万人とされるというのです。
さて、そのバシジに射殺された女性の画像が、
YouTubeに流れて、波紋を広げています。
最初見た時には、このブログで取り上げるつもりはありませんでした。
しかし、彼女の死に顔が、目に残り、悲しみが湧いて来ました。
人の死ぬのは悲しいものです。
CNNでは、無修正で死の画像が流れています。
さらに、死ぬ前の父親と歩いている画像も流れました。
警告
以下、クリックして下さると、その画像が見えますが、
残酷な画像ですので、見たくない方は、見ないでださい。
越後妻有イタリア・レストランの現場画像(加筆3改題) [制作]
サントームとしての情報化社会(改題2加筆2) [生きる方法]
住民説明会 [アート論]
トマトの歌 [詩]
第15回アート・スタディーズ [告知]
『第15回アート・スタディーズ 』へのお誘いです。
7月6日(月)午後6時から京橋のINAX:GINZAです。
今日の経済状態を考慮して、参加費を500円に値下げ致しましたので、
ふるってご参加ください。
ディレクター・彦坂尚嘉
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レクチャー&シンポジウム
20世紀日本建築・美術の名品はどこにある?
第15回アート・スタディーズ
1985年〜1994年「『85年革命』期の建築と美術」
「1985年前後に新人類と呼ばれる著名人が登場し日本社会に旋風を巻き起こした」という主張が「85年革命」と呼ぶもの。批評では浅田彰、中森明夫など、 美術では森村泰昌、宮島達男など、建築ではポストモダン建築が流行している。文学では田中康夫、高橋源一郎、島田雅彦、小林恭二などなのだろうが、たしかに1986年のバブル経済の中で、日本の国際化も急速に進展して、1990/2000年代の《根拠なき熱狂》へと登り詰める出発点を形成しています。
ゲスト講師
【建築】テーマ 《日本のポストモダンと装飾》
講師 平塚 桂(建築ライター)
サブテーマ「高松伸とポストモダンの時代」
講師 山田 幸司(建築家)
サブテーマ「ジャジィなポストモダン−石井和紘−」
【美術】テーマ 《「日本の廃虚化」を未来に見て》
講師 白濱 雅也(アーティスト、デザイナー)
サブテーマ
「雑賀雄二『軍艦島』廃墟芸術は予知夢か」
講師 高橋 直裕(世田谷美術館学芸員)
サブテーマ 「宮本隆司−都市の変貌と写真−」
『アート・スタディーズ』とは?
アート・スタディーズは多くの人の鑑賞に資する、歴史に記録
すべき《名品》を求め、20世紀日本の建築と美術を総括的、通
史的に検証、発掘する始めての試みです。先人が残してくれた
優れた芸術文化を、多くの世代の人々に楽しんで頂けるよう、
グローバルな新たな時代にふさわしい内容でレクチャー、討議いたします。
いたします。
◆ディレクター
彦坂尚嘉(美術家、日本ラカン協会会員、立教大学大学院特任教授)
◆プロデューサー
五十嵐太郎(建築史家、建築批評家、東北大学助教授)
◆アドバイザー
建畠晢(美術批評家、国立国際美術館館長)
◆討議パネリスト
◇五十嵐太郎(建築史、建築批評、東北大学准教授)
◇ 伊藤憲夫(元『美術手帖』編集長、多摩美術大学大学史編纂室長)
◇暮沢剛巳(文化批評、美術評論家)
◇藤原えりみ(美術ジャーナリスト)
◇橋本純(編集者)
◇南泰裕(建築家、国士舘大学准教授)
◆司会
彦坂尚嘉(アート・スタディーズ ディレクター)
◆年表作成
橘川英規(美術ドキュメンタリスト)
◆日時:2009年7月6日(月)
17:30開場、18:00開始、21:00終了、終了後懇親会(別会場)
◆ 会場:INAX;GINZA 7階クリエイティブスペース(前回までと異なります)
(東京都中央区京橋3−6−18/地下鉄銀座線京橋駅2番出口徒歩2分)
(当日連絡先は 090-1212−4415 伊東)
◆定員:60名(申込み先着順)
◆参加費:500円(懇親会参加費は別途)
◆お申し込み・お問い合わせは
氏名、住所、所属、連絡先、予約人数を明記の上、下記e-mailアドレスへ
art_studies2004@yahoo.co.jp
詳細情報はこちら
http://artstudy.exblog.jp/
◆主催 アート・スタディーズ実行委員会
◆共催 リノベーション・スタディーズ委員会
◆後援 毎日新聞社
日本建築学会
日本美術情報センター
◆ 協力 ART BYXEROX
映像と絵画/さまざまな人と様々な考え(最後に加筆) [アート論]
長岡まき子さんに、トマトと茄子の加工を手伝ってもらいながら、
彼女の好きな音楽を聴かせてもらいました。
それはゲームのドラゴンクエストの音楽で、
私の聞いてこなかったタイプのものでしたが、
かなりの長時間聞きました。
他人の好きな音楽を一緒に聴くという作業は、
私には、その人を理解する技術として、たいへん重要なテクニック
なのです。
昔ですが、ミュージックマガジンで音楽批評を書いている時に、
思い知らされたのは、同じ音楽を聴いていても、
しかし別の音を聞いているという、差異の問題でした。
分かりやすく言えば、ギター奏者が音楽を聴いていると、
その音楽のギター演奏を主にして聞いていると言った調子で、
同じ音楽でも、何を聞いているかは、人によって違うのです。
それはオーディオ装置の差としても、
大きく出て来ます。
昔ですとレコードなので、カートリジの差は、大きな問題だったのです。
同じレコードでも、カートリジが違うと、音楽は違って現れるのです。
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現在の情報化社会になると、こうした細分化は、異様にまで進んで、
ほとんど同じ体験や、意見を持ち得なくなります。
私のように異様な分裂性を追求して、
広く浅く多様なものを追いかけていても、
他人との接点や共通性を得る事が、むずかしいのです。
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こうなってくると、他者との意見の違いや認識の差というものを、
差があるままに、お互いの立場や意見の差として容認することが
重要になります。
先日のギャラリーARTEのギャラリートークで、
大木裕之さんと、私がぶつかったのは、「平面」という言葉でした。
大木裕之さんは、映像も絵画も「平面」であるという立場で語りました。
それは映像と絵画を、両方とも制作する大木裕之さんとしては
立場として必要な主張なのです。
そして映像も絵画も、平面として共通するという認識は、
世間の常識としても、通用する認識であると思います。
ですから大木裕之さんの立場の認識としては、
平面で映像と絵画を論じて、成立させる事は正しいのです。
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ただ、私の場合は、ある意味でモダニストでありまして、
デカルト/ソクラテス的な懐疑主義の立場を取ります。
世間で流通している認識や常識は、まず、疑ってかかるのです。
たとえば、映像は平面でしょうか?
1960年代後半のサイケデリックの時代には、
人体に映像をプロジェクションしているものはたくさんありました。
3次元の立体や、建築物に映像をプロジェクションしている作家は
たくさんいるのです。
つまり映像を平面芸術とする事には、無理があります。
絵画も同様です。
アルタミラの洞窟の絵画は、岩の上に描かれています。
アフリカのロックペインティングと言われるものも、
平面とは言えないものです。
ナスカの地上絵の中にも、山岳に描かれたものがあって、
平面とは言いにくいです。
ギリシアの絵画には壷絵が重要なものとしてあります。
イタリアのアッシジのサン・フランチェスコ大聖堂には、
聖堂にはチマブーエ、ジョット、シモーネ・マルティーニなどの画家の手になるフレスコが多数描かれていますが、これを平面と言うのには、若干無理があります。
ジョットという大画家を追っかければ、否応も無く、
こうした建築絵画ともいうべき、立体的な画面に絵画を見なければならないのです。
同様のことはミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井壁画も、
平面絵画と言うのには、無理があります。
絵画の歴史を、全人類の中で探していくと、
実は平面を自明にする事が出来ない実例が多くあるのです。
私から考えると、絵画とか映像と言うのは、
実は平面ではないのです。
つまり次元としては2次元ではないと考えます。
それは3次元と言うだけでも不十分なものであって、
1次元、2次元、3次元、4次元、5次元・・・と多次元的に存在している
あるものなのだと、考えるのです。
つまりそれは生物の美術史や、宇宙の美術史を構想し得る広がりの中で、
捉えられるものなのです。
お金を含む人間関係について(再論) [生きる方法]
人間の関係は、基本的には、2つの関係があります。
一つは、お金を介さない関係です。
もう一つはお金を介する関係です。
お金を介さない関係と言うのは、
家族の関係とか、友人の関係です。
お金を介する関係はビジネスの関係です。
この2つが、実は、起源が違うのです。
お金を介さない関係は、初期原始共同体のコスモスに起源があります。
コスモスと言うのは人間の秩序です。
ビジネスの関係は、コスモスとコスモスの間のカオスに起源があります。
ビジネスには、カオスがあるのです。
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ビジネスの関係に、深い意味を見る人たちがいますが、
ビジネスに作動しているのは、カオス空間なのです。
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気体分子ギャラリーの場合、ここにもお金の関係は介在はしますが、
基本にあるのは非営利的な関係です。
営利性そのものは、存在するので、
そのことを無視は出来ませんが、それをむき出しにすると、
関係性は、違うものに変質します。
それはコレクターとの関係や、
批評家との関係、雑誌との関係もそうであって、
美術の関係性そのものが、お金を介しながらも、
微妙に、原始共同体的なコスモスの中で、成立しているのです。
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デザインの業界の方が、ビジネスとしては割り切りが良いと思います。
アートスタディーズなどの仕事や、建築系ラジオなども、
基本はボランティアで成立していて、
その辺を間違えると、関係性が壊れます。
私のブログもそうですが、基本は無償で書いているので、
人間性が壊れると、昔のブログでもダウンして下ろしてしまいます。
作家と作家の関係も、それがカオスであるならば、
礼儀も尊敬もないのであって、
それはつぶし合いの競争関係と言うことになります。
彦坂理論では、自然はカオスであって、
基本的に悪です。
弱肉強食であって、そこには礼儀もなければ、挨拶もない。
無視か殺戮かの世界です。
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若いアーティストの場合、
作家としてどのようにやろうとしているかによるのです。
ビジネスとしてアーティストをやるのならば、
それは画廊の下請けの業者ですから、
その文脈で、つまりカオスの関係で付き合うことになります。
業者は業者同士の競争の中で存在しますので、
そういうビジネスのカオスの関係で、考えて行くと言う事です。
気体分子ギャラリー自体は、
小さなものであって、
作家を契約で拘束するものではありません。
それを必要としなければ出て行けばよいし、
必要とする作家同士が、協力する創造性の面白さの追求なのです。
そこには擬似的ではありますが、コスモスがあるのです。
その辺の擬似的なコスモスの呼吸が分からないのだろうと思います。
そのへんの事も、実は才能なのですよ。
自分が最終的に何をやりたくて、どのようにしたいのかを、
お考えになるのが、良いと思います。
擬似的なコスモスの関係が良いのか、
それともビジネスが持っているカオスの世界が合っているのか、
ということです。
作品画像/明けわたシ(ギャラリーARTE)(加筆画像追加1) [作品と展示]
天井に茄子とトマトの模型を貼り付けた作品。ここでも芸術の特性としての非実体性と、退化性の実現が追及されている。ポップであるが、難解で晦渋な作品と、言えるかもしれません。
昨年の「こんぴらアート2008」で、虎丸旅館の和風天井の木目の上に制作されたものが、最初でした。2009年には東京深川の商店街のアートフェアで、中華料理店の天井にも、同様のインスタレーションが行われて、今回のギャラリーARTEの天井は3作目です。
[フリーアート]
初期作品のラテックスを自宅の床に流した作品を髣髴とさせるような絵具を流した作品。画面に貼りつけられた茄子とトマトは陶器製。天井に付けているのは発砲スチロール性ですが、この作品は陶芸家の横山弦太郎氏に特注で作ってもらった陶器の茄子とトマトが使われています。
\200,000-
[最低入札価格]
左 ¥100,000- 右 ¥120,000-
右作品入札されました。現在の価格120.000
100,000-
[最低入札価格]
¥60,000-
[プライマリープライス]
\150,000-
[最低入札価格]
¥60,000-
「見立て/トマトと茄子」紫 「見立て/トマトと茄子」赤
[プライマリープライス] [プライマリープライス]
\140,000- \120,000-
[最低入札価格] [最低入札価格]
¥60,000- ¥60,000-
ギャラリートーク [日記]
ギャラリーARTEのギャラリートークが昨日ありました。
私の方は、日ごろと違って、きちんとメモも作って
全体の流れを立案して、理性的に進めようという心構えで
望んだのですが、
実際はそうはならなかった。
安倍安人さんも、思いっきり作家というか、好きなように喋り捲り、
大木さんも、自分の意見を強烈に主張する。
止む終えず、私も途中から、いつもの調子になって激論モード。
人数は、大阪から沢山来てくださったこともあって30人を越えて、
小さなARTEがいっぱいになりました。
翌日の今朝は、東京から「時のわすれもの」の建築ツアーの方々22人が
来てくださって、これも画廊がいっぱいになって、
小さな地方画廊の企画展としては成功なのだろうと思います。