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死亡映像がユーチューブで流れて波紋(画像の訂正と追加) [状況と歴史]

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イラン女性「ネダ」の死、インターネットを席巻
(米ニューザー 2009/06/21)
「ネダ」とだけ知られる若い女性は、父親とテヘランの抗議行動に参加し、
武装組織バシジに射殺された。路上で死んだ彼女の映像はネットを通じて、瞬く間に世界に広まった
元記事:CNN

大統領選の結果をめぐる混乱が衝突に発展したイランの首都テヘラン(Tehran)で、十代の少女が胸部を銃で撃たれ死亡する映像が動画共有サイト・ユーチューブ(YouTube)に投稿され、世界に波紋を広げている。死亡したのは「ネダ(Neda)」という名前の16歳の少女で、20日にテヘランであった抗議行動の際に銃撃を受けたという。この映像に、米ロサンゼルス(Los Angels)などでは、イラン系米国人らが「イラン政府による人道と民主主義に対する罪だ」と非難の声を強めている。

写真は、動画共有サイト・ユーチューブ(YouTube)に21日投稿された、テヘランでの抗議行動の最中に胸を撃たれて負傷し、介抱される「ネダ(Neda)」という名の16歳の少女の映像(2009年6月20日撮影、21日提供)。(c)AFP/YouTube

(この16歳というのは、間違いで、27歳らしいです。) 
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朝日新聞の報道によると、この写真は間違いとの事です。

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これが本物のネダさんとのことです。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

このデモを弾圧するは、かなりひどいものです。
6月15日の改革派デモでは、バシジの発砲で
少なくとも7人が死亡しているとのこと。

強硬派の民兵組織、バシジ(人民動員軍)は

1979年のイラン革命後、イラクのフセイン大統領(当時)が仕掛けて

きた戦争で、正規軍の不足を補うために創設されました。


バシジとはペルシャ語で「動員」を意味し、若者たちは愛国心に燃えて

志願し、正規軍の先兵となって地雷原を進むなど、勇敢な「人海戦術」

を対イラク戦争で展開したのでした。その数2000万人という多数に

のぼりました。


basijの都市治安部隊です。

まるで日本の暴走族ですね。

井上清仁さんからいただいた画像です。


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イラク革命の指導者ホメイニ師死去後、権力を握った保守派は、

バシジを保守イデオロギーで社会を統制する道具へと変質させたのです。

現在の隊員数は120万人とされるというのです。


さて、そのバシジに射殺された女性の画像が、

YouTubeに流れて、波紋を広げています。

最初見た時には、このブログで取り上げるつもりはありませんでした。

しかし、彼女の死に顔が、目に残り、悲しみが湧いて来ました。

人の死ぬのは悲しいものです。

CNNでは、無修正で死の画像が流れています。

さらに、死ぬ前の父親と歩いている画像も流れました。


警告

以下、クリックして下さると、その画像が見えますが、

残酷な画像ですので、見たくない方は、見ないでださい。


【続きはここをクリックして下さい】


タグ:Neda 樺美智子
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越後妻有イタリア・レストランの現場画像(加筆3改題) [制作]

画像提示が、どうも遅れて申しわけありませんが、
今回の越後妻有の画像を見ていただきます。

◆◆イタリアレストラン◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

まず、建築家の手塚貴晴さんとのコラボレーションの
イタリアレストランの現場です。

古い廃屋を、本格的にリノベーションしています。
当然、かかる費用も美術家の普通使う費用の範囲ではありません。

■廃屋全景

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■外観細部

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現場を見て、想像を超えていたので、
憮然としている顔です。


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■打ち合わせと議論

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女性は担当のアートフロント・ギャラリーの岡本さんです。
一番向こうは手塚事務所の北村岳大さんです。

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右は奥野恵さん。左は北村岳大さん。
背中は岡本濃さん
私はかなり不愉快な顔をしています。

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彦坂が、なかなか先が見えなくて、いらいらしながら、
話しています。
態度が悪いです。

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怒っているのです。

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しかし、最後は、持って来た未完成の作品の実物合わせが、想像以上に巧く
はまって、めでたしめでたしでした。
反省として言えば、自分の反応とか感情とか判断は、
かなり当てにならないものです。
むしろ他人の欲望を忌避しないで取り組む方が、
結果は良い方向に向かいます。
そこから先は、私自身の欲望と実現の問題なのです。
だから入り口段階で、とにかく他者を拒否しないで、
語る合う事が重要です。

■レストラン建築の内部

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イタリアレストランと、妻有の廃屋と言うのも奇妙だが、
彦坂尚嘉と手塚貴晴さんとのコラボレーションというのも、
意外な取り合わせと、言われています。

基本的なプロデュースは北川フラムさんで、
その方向で動いていて、
私は、小ぶりのウッドペインティングを5点用意することになりました。

現場を見てから制作すると言う意味では、
かなりスリリングな経験となりました。

現場合わせで、ようやく見えて来て、
面白くなりましたが、それまでに至りつくまでは、
かなりの緊張がありました。


建築史美術史と言う関係では、
建築から美術が、醜悪な装飾として排除されたのがモダニズムであったので、
もう一度、それが組合わさると言うのは、
実は、離婚した夫婦が、もう一度隣どおしに座る様な、
居心地の悪さがあるのです。

しかしこのような、分離の後に再度くっつくというところに、
今日の情報化社会の表現の現場があるのです。


その関係性の再構築の現場には、
新しい関係性を作り出す何かが必要であると言えます。

北川フラム氏、そして手塚貴晴、彦坂尚嘉という3人が恊働するという
関係性も、実は、それほど単純なものではなくて、
多層的で、複雑な関係性の、しかも間接性中でされていて、
極めて高度であると言えます。

単純な直接的なものではないのです。
その中で、間を取り次ぎながら作業や議論を形成して行くという、
それが奥野恵さん岡本濃さん、そして北村岳大さんたち
マネージメントの現場の人々がいます。
こういうマネージメントの仕事が、いかに大切か、
改めて実感した現場でした。







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サントームとしての情報化社会(改題2加筆2) [生きる方法]

最近、私の見に降り掛かった大きな問題は、
実は小沢一郎の顔の問題でした。

最近の私の芸術分析が細くくなってきていて、
小沢一郎が民主党党首を辞任して首相になれなくなった時点で、
小沢の顔を詳細に分析すると、
ある事に気がついたのです。

私の芸術分析は、
想像界、象徴界、現実界という人間精神を3界でできているとする
ジャック・ラカンの用語を下敷きして行っています。
しかしラカンの言っている事は、
かなりずれてきているので、それはご了承ください。

小沢の顔を、言語判定法で分析すると、
想像界と現実界は、超次元から41次元まであるのです。
つまり全領域に精神が展開していて完璧なのです。

ところが象徴界は、超次元から6次元までしかないのです。

これは不完全というよりは、昔の人の精神構造です。

たとえばバッハの音楽を聴くと、
超次元から6次元までしかありません。
バッハの時代に、第7次元から41次元までが
無かったというのではないのですが、
意識領域としては抑圧されていたのです。
その原因は、一つはキリスト教という宗教の問題でしょうが、
もう一つは、もっと大きな文明としての意識構造です。

同様のことが小沢の象徴界にあるのです。
ネットで見ると、小沢にまつわる批判は多くあって、
その真偽を確認することは私にはできませんが、
人相見的には、小沢は善人です。
善人であるからこそ、問題があるのです。

電車などに乗っていて、
普通の多くの成人、それも中高年の顔をすばやく分析してみると、
多くの人の象徴界は、6次元、7次元、8次元でできています。
つまり6次元というのは自然領域、
7次元はビジネス領域、
8次元は信仰領域です。

つまり普通の成人の多くは、
自然性と、金と、そしてある事を疑わないでいる事で、
生きているのです。

それに対して、小沢の象徴界は、
7次元、8次元を欠いていて、
普通の多くの人の気持ちを理解する事ができないのです。

小沢の金脈が問題にされながら、
何故に第7次元というビジネス領域が無いのかが問題ですが、
もしも小沢が7次元の意識領域を持っていたら、
もっと巧くビジネスをやっていて、
追究を受けるような事にはならなかったでしょう。

しかしこの象徴界が超次元から6次元までしかないというのは、
小沢の問題だけではなくて、
私の顔の問題でもある事だったのです。


そこで、サイコトリップを繰り返して、
人格改造を試みたのが、
ギャラリーARTEの時の顔写真の3回にわたる撮影でした。

彦坂理論では、芸術分析の超次元から41次元までの広がりというのは、
意識だけという事になっています。
ですから意識を広げることを意識すれば、変化はできるのです。

意識だけを変えれば良いのですから、
それは物質性や、お金、時間をあまりかけないで、
可能な事なのです。

普通の意味で使われる意識の広い、狭いということを、
正面から42段階の階層構造でとらえている作業なのです。

それで、一応急遽ですが、私の象徴界を、
超次元から41次元まで拡張すると、
身体にまでくる、大きな変化を被ったのです。

便秘が治ったようなもので、
自分が口から肛門まで一本の空洞のパイプとして、
通ってしまうのです。
そうすると、この空洞のパイプである事の
空虚さが、、身にしみるのです。

聴く音楽の趣味も、大幅にかわります。
エンターテイメント的な軽い音楽は、
子供だましのばかばかしいものとしてしか聴こえてこなくて、
話にならなくなるのです。

人間の生きていくときの目標の一つは、
実は人格のこうした拡張の問題であると思います。

芸術の趣味判断というのは、
つまりその人の人格が、いかなる成長を遂げているのか、
そのことを示します。

つまらない作品しか、美術でも音楽でも、文学でも理解できない人は、
精神的に幼稚で、単純で、狭い構造をしているのです。

つまり芸術の話をすれば、その人の精神の構造規模が、理解できるのです。

だから人は、自分を偉そうに見せるために、
高級そうな美術や、音楽や、文学や、哲学を、
理解したようなふりをするのですが、
しかし、本当に理解している人の精神は、
彦坂的に言えば、
超次元から41次元までの全領域にわたって、
空洞の空いている人という事になります。
それは顔に表れるのであって、その規模は偽装はできないのです。

さて、自分の精神改造をすると、
正直言って、かなりまいると言えます。
生活の仕方から、変える必要を生じているからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人間の文明は、情報革命を経て、意識の領域の拡張に達しているのです。
先ほどバッハの音楽を言いましたが、
バッハの音楽と、シュトックハウゼンとか、リゲティの音楽は、
意識の広さが違うのです。
現代の音楽は、精神の倒錯領域を大量に含んでいるのです。

つまり意識を拡大するというのは、
一方で見れば破壊活動に似ているのですが、
しかしそうでは無くて、広範囲での意識そのものの
多様性を同時に立ち上げて、空無の中に、
真の意味構成を壮大に立ち上げる事なのです。

この総合的で高度で、多様多重の意味構成をなし得るのか?
おそらく芸術が、晩年のラカンの唱えたサントームという
第4の構造として出現してくるのは、
こうした高度な空無との対峙によるのです。

彦坂流に人類史を区分すれば次のようになります。

自然採取の原始時代・・・・想像界の時代(偶像崇拝の呪術の時代)
農業化社会・・・・・・・・象徴界の時代(世界宗教の時代)
産業化社会・・・・・・・・現実界の時代(物理科学の時代)
情報化社会・・・・・・・・サントームの時代(情報科学の時代)

こう考えると、
情報化社会は、決して原始的な想像界への回帰の時代ではないのです。

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住民説明会 [アート論]

昨晩は、武田友孝さんの所に、また泊めていただいて、
朝、出発して越後妻有に来た。

今回は、恐ろしい事に2カ所でやる事になっていて、
最初に、松之山の下の坂下にある廃屋に行った。
ここを建築家の手塚貴晴さんと大学の学生たちが、
リノベーションと作品をつくって、
イタリア料理屋さんにする。
そこに私が作品をいれるというプランを、
北川フラムさんがたてた。

という訳で、北川フラム氏のプロデュースにそって、
ウッドペインティングの小型の作品を4〜5点展示する様子を見る
ために、
作品の未完成品を車に積んで持ってきて現場に来たのです。

現場を仕切っているのは北村さんという若い建築家で、
彼と話して、実際のための決定をした。
想像以上に現場が、工事になっているというか、
美術家の考える範囲をはるかに超える規模の改造になっていた。

こちらの準備したウッドペインティングの作品が、巧くはまって、
予定は立ったと言える。
現場合わせが一番なので、
作品制作と、建築の改造が進んだら、もう一度現場合わせをしようと
思っています。

夜は、田麦という山村に入って、市役所のお役人も2人が来て、
村の総代の司会で、住民説明会をした。

一応私はパワーポイントを作っていって、
自分のやることを説明するとともに、
現在のコンピューター・リテラシィの話をした。

現在の識字の変化が、暴力的な社会再編をしていて、
村のサバイバルのためには、コンピュターをやる必要があるという
話をして、
ネットでひろった米を画像をたくさん見せた。

気体分子ギャラリーで、米を売る事を模索したいのです。

ギャラリーで米とか、トマトを売りたいと思っているのです。

それがアートと関連があるというのがミソなのです。


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トマトの歌 [詩]

『さんげ』という詩集がある。

広島で被爆した正田篠枝という歌人の歌集です。

正田篠枝は、「ヒロシマの童女」と呼ばれた有名な方です。

彼女の私家版歌集『さんげ』は、
昭和21年3月、
米軍のCIC(占領軍民間情報局)監視を逃れて、非合法出版されました。

印刷した場所は、広島刑務所印刷部。
印刷部数は100部

収録された和歌は100首。

その中にトマトの歌があります。

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第15回アート・スタディーズ [告知]

『第15回アート・スタディーズ 』へのお誘いです。

76日(月)午後6時から京橋のINAXGINZAです。

今日の経済状態を考慮して、参加費を500円に値下げ致しましたので、

ふるってご参加ください。 

              ディレクター・彦坂尚嘉

======================================================
レクチャー&シンポジウム
20
世紀日本建築・美術の名品はどこにある?
15回アート・スタディーズ 

1985年〜1994年「『85年革命』期の建築と美術」

 

1985年前後に新人類と呼ばれる著名人が登場し日本社会に旋風を巻き起こした」という主張が「85年革命」と呼ぶもの。批評では浅田彰、中森明夫など、 美術では森村泰昌、宮島達男など、建築ではポストモダン建築が流行している。文学では田中康夫、高橋源一郎、島田雅彦、小林恭二などなのだろうが、たしかに1986年のバブル経済の中で、日本の国際化も急速に進展して、19902000年代の《根拠なき熱狂》へと登り詰める出発点を形成しています。

ゲスト講師

 

【建築】テーマ 《日本のポストモダンと装飾》

   

    講師  平塚 桂(建築ライター)
        サブテーマ「高松伸とポストモダンの時代」

        

        講師  山田 幸司(建築家) 

        サブテーマ「ジャジィなポストモダン−石井和紘−」

 

【美術】テーマ 《「日本の廃虚化」を未来に見て
           

    講師  白濱 雅也(アーティスト、デザイナー)
        サブテーマ

        「雑賀雄二『軍艦島』廃墟芸術は予知夢か」

   

 

 講師  高橋 直裕(世田谷美術館学芸員)

     サブテーマ 「宮本隆司−都市の変貌と写真−」

 

『アート・スタディーズ』とは?

アート・スタディーズは多くの人の鑑賞に資する、歴史に記録
すべき《名品》を求め、20世紀日本の建築と美術を総括的、通
史的に検証、発掘する始めての試みです。先人が残してくれた
優れた芸術文化を、多くの世代の人々に楽しんで頂けるよう、
グローバルな新たな時代にふさわしい内容でレクチャー、討議いたします。
いたします。

 

◆ディレクター

彦坂尚嘉(美術家、日本ラカン協会会員、立教大学大学院特任教授)

◆プロデューサー

五十嵐太郎(建築史家、建築批評家、東北大学助教授)

◆アドバイザー

建畠晢(美術批評家、国立国際美術館館長)

◆討議パネリスト

◇五十嵐太郎(建築史、建築批評、東北大学准教授)

伊藤憲夫(元『美術手帖』編集長、多摩美術大学大学史編纂室長)

◇暮沢剛巳(文化批評、美術評論家)

◇藤原えりみ(美術ジャーナリスト)

◇橋本純(編集者)

◇南泰裕(建築家、国士舘大学准教授)

◆司会

彦坂尚嘉(アート・スタディーズ ディレクター)

◆年表作成

橘川英規(美術ドキュメンタリスト)

 

 

 

◆日時:200976日(月)

1730開場、1800開始、2100終了、終了後懇親会(別会場)

会場:INAXGINZA 7階クリエイティブスペース(前回までと異なります)

(東京都中央区京橋3618/地下鉄銀座線京橋駅2番出口徒歩2分)

(当日連絡先は 090-12124415 伊東)

◆定員:60名(申込み先着順)

◆参加費:500円(懇親会参加費は別途)

◆お申し込み・お問い合わせは

氏名、住所、所属、連絡先、予約人数を明記の上、下記e-mailアドレスへ

art_studies2004@yahoo.co.jp

 

詳細情報はこちら
http://artstudy.exblog.jp/

 

◆主催 アート・スタディーズ実行委員会

◆共催 リノベーション・スタディーズ委員会

     

◆後援 毎日新聞社

    日本建築学会

    日本美術情報センター

 

協力 ART BYXEROX  


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映像と絵画/さまざまな人と様々な考え(最後に加筆) [アート論]

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◆◆1◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

様々な人がいるのは、当たり前なのですが、
それでも昔は、それほどに分裂はしていませんでした。

昔というのは1970年代の「現代美術」と言われる時代ですが、
そこでは画廊の数も少なくて、だいたい1日で、すべての画廊の発表を
見ることが出来ました。
画廊も神田地域と、銀座の数軒でした。

見終わると飲み屋で意見交換をして、
だいたい評価は落ち着いていたのです。

学芸員も評論家も、作家も、編集者も一緒に話をし、飲んでいました。

銀座にはガストロというバーがあって、
そこに批評家も学芸員も編集者も、
アーティストも集まって飲んでいました。

そういう狭い世界と言うのは、
文学で言えば文壇といったものであって、
実際に、そうした狭さで成立していた時代があったのです。

◆◆2◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

音楽も同様で、昔はロックを聴いていると言えば、
同じアルバムを同じように聞いていて、
同一の文化の中で話が出来たのです。

今日では、ロックを聴いていると言った言い方は無理であって、
音楽も細分化が激しいのです。

それこそ、たとえばラウドロックを聞いている人でも、
実は細分化されていて、
同じアルバムを聴いているという保証はありません。
第1回めのラウドパークには私は行きましたが、
2日間の最終トリがスレイヤーでしたが、
スレイヤーが始まると、2割りくらいの人々が帰ってしまったのには、
驚きました。

ことほど左様に、細分化は進んでいて、
そのくせ、音楽の趣味の共通性が、
人間関係を大きく規定してくるのです。

音楽の趣味が、まったく合わない人とは関係が切れやすいのです。

最近ギャラリーARTEのおつきあいで知り合った大木裕之さんとは、
オーネット・コールマンと、ジェルジ・リゲティがダブっていて、
安心したというか、
大木裕之さんの映像と絵画、ドローイングへのシンパシィが
増大したのでした。


◆◆3◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

私の音楽の幅は、広いので、
今回のギャラリーARTEでも、
ARTE主要メンバーは画廊主の梅谷幾代さんと
もう一人長岡まき子さんがいて、彼女が実は戦力として大きいのです。

長岡まき子さんに、トマトと茄子の加工を手伝ってもらいながら、

彼女の好きな音楽を聴かせてもらいました。

それはゲームのドラゴンクエストの音楽で、

私の聞いてこなかったタイプのものでしたが、

かなりの長時間聞きました。


他人の好きな音楽を一緒に聴くという作業は、

私には、その人を理解する技術として、たいへん重要なテクニック

なのです。


昔ですが、ミュージックマガジンで音楽批評を書いている時に、

思い知らされたのは、同じ音楽を聴いていても、

しかし別の音を聞いているという、差異の問題でした。

分かりやすく言えば、ギター奏者が音楽を聴いていると、

その音楽のギター演奏を主にして聞いていると言った調子で、

同じ音楽でも、何を聞いているかは、人によって違うのです。


それはオーディオ装置の差としても、

大きく出て来ます。

昔ですとレコードなので、カートリジの差は、大きな問題だったのです。

同じレコードでも、カートリジが違うと、音楽は違って現れるのです。


◆◆4◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


現在の情報化社会になると、こうした細分化は、異様にまで進んで、

ほとんど同じ体験や、意見を持ち得なくなります。


私のように異様な分裂性を追求して、

広く浅く多様なものを追いかけていても、

他人との接点や共通性を得る事が、むずかしいのです。


◆◆5◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


こうなってくると、他者との意見の違いや認識の差というものを、

差があるままに、お互いの立場や意見の差として容認することが

重要になります。


先日のギャラリーARTEのギャラリートークで、

大木裕之さんと、私がぶつかったのは、「平面」という言葉でした。


大木裕之さんは、映像も絵画も「平面」であるという立場で語りました。

それは映像と絵画を、両方とも制作する大木裕之さんとしては

立場として必要な主張なのです。


そして映像も絵画も、平面として共通するという認識は、

世間の常識としても、通用する認識であると思います。


ですから大木裕之さんの立場の認識としては、

平面で映像と絵画を論じて、成立させる事は正しいのです。


◆◆6◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


ただ、私の場合は、ある意味でモダニストでありまして、

デカルト/ソクラテス的な懐疑主義の立場を取ります。


世間で流通している認識や常識は、まず、疑ってかかるのです。


たとえば、映像は平面でしょうか?

1960年代後半のサイケデリックの時代には、

人体に映像をプロジェクションしているものはたくさんありました。


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3次元の立体や、建築物に映像をプロジェクションしている作家は

たくさんいるのです。

つまり映像を平面芸術とする事には、無理があります。


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絵画も同様です。

アルタミラの洞窟の絵画は、岩の上に描かれています。


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アフリカのロックペインティングと言われるものも、

平面とは言えないものです。


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ナスカの地上絵の中にも、山岳に描かれたものがあって、

平面とは言いにくいです。


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ギリシアの絵画には壷絵が重要なものとしてあります。


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イタリアのアッシジのサン・フランチェスコ大聖堂には、

聖堂にはチマブーエジョットシモーネ・マルティーニなどの画家の手になるフレスコが多数描かれていますが、これを平面と言うのには、若干無理があります。

ジョットという大画家を追っかければ、否応も無く、

こうした建築絵画ともいうべき、立体的な画面に絵画を見なければならないのです。

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同様のことはミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井壁画も、

平面絵画と言うのには、無理があります。


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絵画の歴史を、全人類の中で探していくと、

実は平面を自明にする事が出来ない実例が多くあるのです。


私から考えると、絵画とか映像と言うのは、

実は平面ではないのです。


つまり次元としては2次元ではないと考えます。

それは3次元と言うだけでも不十分なものであって、

1次元、2次元、3次元、4次元、5次元・・・と多次元的に存在している

あるものなのだと、考えるのです。


つまりそれは生物の美術史や、宇宙の美術史を構想し得る広がりの中で、

捉えられるものなのです。


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お金を含む人間関係について(再論) [生きる方法]

人間の関係は、基本的には、2つの関係があります。

一つは、お金を介さない関係です。


もう一つはお金を介する関係です。



お金を介さない関係と言うのは、

家族の関係とか、友人の関係です。


お金を介する関係はビジネスの関係です。


この2つが、実は、起源が違うのです。


お金を介さない関係は、初期原始共同体のコスモスに起源があります。

コスモスと言うのは人間の秩序です。


ビジネスの関係は、コスモスとコスモスの間のカオスに起源があります。

ビジネスには、カオスがあるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


ビジネスの関係に、深い意味を見る人たちがいますが、

ビジネスに作動しているのは、カオス空間なのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


気体分子ギャラリーの場合、ここにもお金の関係は介在はしますが、

基本にあるのは非営利的な関係です。

営利性そのものは、存在するので、

そのことを無視は出来ませんが、それをむき出しにすると、

関係性は、違うものに変質します。


それはコレクターとの関係や、

批評家との関係、雑誌との関係もそうであって、

美術の関係性そのものが、お金を介しながらも、

微妙に、原始共同体的なコスモスの中で、成立しているのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


デザインの業界の方が、ビジネスとしては割り切りが良いと思います。


アートスタディーズなどの仕事や、建築系ラジオなども、

基本はボランティアで成立していて、

その辺を間違えると、関係性が壊れます。


私のブログもそうですが、基本は無償で書いているので、

人間性が壊れると、昔のブログでもダウンして下ろしてしまいます。

作家と作家の関係も、それがカオスであるならば、

礼儀も尊敬もないのであって、

それはつぶし合いの競争関係と言うことになります。


彦坂理論では、自然はカオスであって、

基本的に悪です。

弱肉強食であって、そこには礼儀もなければ、挨拶もない。

無視か殺戮かの世界です。


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若いアーティストの場合、

作家としてどのようにやろうとしているかによるのです。


ビジネスとしてアーティストをやるのならば、

それは画廊の下請けの業者ですから、

その文脈で、つまりカオスの関係で付き合うことになります。

業者は業者同士の競争の中で存在しますので、

そういうビジネスのカオスの関係で、考えて行くと言う事です。


気体分子ギャラリー自体は、

小さなものであって、

作家を契約で拘束するものではありません。

それを必要としなければ出て行けばよいし、

必要とする作家同士が、協力する創造性の面白さの追求なのです。

そこには擬似的ではありますが、コスモスがあるのです。


その辺の擬似的なコスモスの呼吸が分からないのだろうと思います。

そのへんの事も、実は才能なのですよ。


自分が最終的に何をやりたくて、どのようにしたいのかを、

お考えになるのが、良いと思います。

擬似的なコスモスの関係が良いのか、

それともビジネスが持っているカオスの世界が合っているのか、

ということです。




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作品画像/明けわたシ(ギャラリーARTE)(加筆画像追加1) [作品と展示]

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ギャラリーARTEの梅谷幾代さん

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彦坂の現代音楽鑑賞の先生:柏原孝昭さん

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展覧会は、予想以上に3人の作品が、
《超次元》性があるせいか、良く似ていて、面白い展示になりました。
その面白さは写真では写らない面白さでした。
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【作品解説】 「トマトアート/3枚のガラス

ガラスをキャンバスの画布ように絵画の支持体に使ったので有名な作品は、デュシャンの「大ガラス」です。この彦坂尚嘉の「3枚のガラス」は、ガラスを使うところだけを引き継いで、ガラスに発泡スチロールのトマトの模型を貼り付けた作品。赤いトマトの模型という実態的でデザイン的なものを使いながら、彦坂が考える芸術の特性である《非実体性》と《退化性》を実現させています。この赤い玉は、実は日の丸の作品から始まりました。戦後に日の丸を連想させる作品が氾濫して、それを藤枝輝雄さんが批判したのです。日の丸絵画が批判です。そこで彦坂尚嘉は、日の丸アートで、なんとかして非実体性と《退化性》性を付ける方法を考えて、日の丸を模した円グラフの作品を作っています。そう言う問題意識から、それがトマトアートに展開したのです。
なお、ガラスという透明な面を使うと言うのは、1969年の初期作品であった木枠に透明ビニールを張った作品への回帰性を示す新作と言えます。[フリーアート]
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大木裕之さん

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「トマトと茄子のアート/天井の音楽

天井に茄子とトマトの模型を貼り付けた作品。ここでも芸術の特性としての非実体性と、退化性の実現が追及されている。ポップであるが、難解で晦渋な作品と、言えるかもしれません。
 昨年の「こんぴらアート2008」で、虎丸旅館の和風天井の木目の上に制作されたものが、最初でした。2009年には東京深川の商店街のアートフェアで、中華料理店の天井にも、同様のインスタレーションが行われて、今回のギャラリーARTEの天井は3作目です。
[フリーアート]

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「トマトと茄子のレリーフ絵画」

初期作品のラテックスを自宅の床に流した作品を髣髴とさせるような絵具を流した作品。画面に貼りつけられた茄子とトマトは陶器製。天井に付けているのは発砲スチロール性ですが、この作品は陶芸家の横山弦太郎氏に特注で作ってもらった陶器の茄子とトマトが使われています。
 芸術的には、置かれた位置関係で成立している作品。2点。

 


[プライマリープライス]

 

\200,000-

[最低入札価格]

左 ¥100,000-     右 ¥120,000-


右作品入札されました。現在の価格120.000


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トマト絵
赤い額縁の中に、ドローイングに水彩の着彩の作品。
非常にきれいな透明性を持った作品。
何でも無く見えるが、彦坂尚嘉の小品における力量をみせています。

[プライマリープライス]               
100,000-                  
[最低入札価格]                    
¥60,000-   

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「ブラック・トマト」

現実にブラックトマトといわれる品種は、ロシア原産のもので存在する。そのブラックトマトを、トマトアートシリーズの作品として制作する。ここでもアートとしての根拠は、非実体性と退化性を重視するところにあります。
 

    [プライマリープライス]

\150,000-

[最低入札価格]

¥60,000- 


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「見立て/トマトと茄子」            「見立て/トマトと茄子」

    [プライマリープライス]                 [プライマリープライス]

\140,000-                   \120,000-

[最低入札価格]                     [最低入札価格]


¥60,000-                    ¥60,000- 


【続きはここをクリックして下さい】


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ギャラリートーク [日記]

ギャラリーARTEのギャラリートークが昨日ありました。

 私の方は、日ごろと違って、きちんとメモも作って

全体の流れを立案して、理性的に進めようという心構えで

望んだのですが、

実際はそうはならなかった。

安倍安人さんも、思いっきり作家というか、好きなように喋り捲り、

大木さんも、自分の意見を強烈に主張する。

止む終えず、私も途中から、いつもの調子になって激論モード。

人数は、大阪から沢山来てくださったこともあって30人を越えて、

小さなARTEがいっぱいになりました。

翌日の今朝は、東京から「時のわすれもの」の建築ツアーの方々22人が

来てくださって、これも画廊がいっぱいになって、

小さな地方画廊の企画展としては成功なのだろうと思います。


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